――フロイトセミナー応用編――

第3回 進化論からみた欲動理論

 

重元寛人

前回はフロイトが提示した「記憶と意識の相互排他性」という命題について、『モーセと一神教』(1938)にある「太古の遺産」という概念を用いて進化論的観点からの考察を試みました。フロイトの欲動理論は、単なる心理学を超えて全生物の進化をも視野に入れています。欲動が進化過程によってつくりあげられたとすると、自己保存欲動はチャールス・ダーウィンのいう狭義の自然淘汰によって、性欲動は性淘汰によって、それぞれ進化してきたという対応関係が成り立つのではないでしょうか。今回のセミナーでは、前回簡単に触れたこの対応関係についてさらに追求し、欲動理論を新たな視点から眺めてみたいと思います。

 

『種の起源』で変異と自然淘汰によって生物が進化するという画期的な説を提示したダーウィンは、人類が進化してきた過程についても慎重に考察をすすめ、その集大成として1871年に『人間の進化と性淘汰』を記しました[1]。この本は二部構成になっています。第一部の「人間の進化」では、人類に際立った特徴とされる知性や道徳性が他の動物の社会性本能と根本的に異なるわけではないことを指摘し、ヒトが猿人類と共通の祖先から、さらにはより下等とされる生物から進化したことを論証しています。

第二部のテーマとなる性淘汰とは、ダーウィン自身の定義によれば、「繁殖との関連のみにおいて、ある個体が、同種に属する同性の他個体よりも有利に立つことから生じる淘汰」のことです。彼はこの著作の中で、昆虫、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類から性淘汰についての豊富な例をあげ、そこにみられる共通の傾向を指摘しました。それは、通常雄どうしが雌との繁殖機会をめぐって熾烈な争いをすることであり、そのための武器や強靭で大きな身体をそなえていることです。争いは直接的なものにとどまらず、体に付属した装飾物や鮮やかな色彩、美しい鳴き声、複雑な踊り、独特の臭い、きれいに作られた巣などによって、いかに効果的に雌を魅了するかということでもあります。このようにダーウィンは、生殖をめぐる雄の闘争と雌の選り好みによって、性淘汰が働き、多くの生物に華々しい形質を与えると考えました。

 

性淘汰の仮説は当時ほとんど評価されませんでしたが、20世紀になってようやく注目を浴びるようになり、その数学的なモデルが提唱されたり、ダーウィンが予想した「雌による雄の選り好み」という現象が実証されたりするようになりました。ここでは、長谷川らのサマリー[2]に基づいてそれらの理論を簡単に紹介しましょう。

 

性淘汰をもたらす根本要因については親の投資理論や実効性比の理論がありますが、平たく言えば、限られた数の子孫を比較的確実に残せる雌は相手を慎重に選ぶという戦略をとり、不確実ながら成功すればより多くの子孫を残すことができる雄はリスクを背負って闘争する傾向があるいうことです。

性淘汰の理論的モデルについては、まず統計学者フィッシャーが提唱したランナウェイ仮説があります。仮に、一定の割合の雌に、尾が長いといった特定の形質をもつ雄に対する選り好みが生じたとすると、この集団の中で尾の長い雄はそうでない雄より生殖に関して有利になります。一方、尾の長い雄を好む雌は、選り好みをしない雌よりもより尾の長い雄の子どもを産むことになり、多くの子孫を残していくことに関してやはり有利になります。このような状況が一旦生じると、ポジティブ・フィードバックが働いて雄の尾はますます長くなり、雌の選り好みはますます極端になっていくわけです。理論的には変異と遺伝性があればどんな形質についてもランナウェイ過程は働きうるのであり、そのことは自然界に見られる多彩な装飾的形質の予測不能性をよく説明します。一方、実際には雌の選り好みは何の役にも立たない形質よりも、一般的な生存への有利さを示すような形質に対して向けられる方がより効果的でしょう。雄の装飾的形質は、雌に対して自らの身体的健全さや強靭さを宣伝する適応度の指標であり、その宣伝をより効果的に行うために雄は多くのコストとハンディキャップを負うというのが、ザハヴィの理論です[3]

性淘汰を左右する要因として重要なのが、それぞれの種に特有の配偶システムです。ランナウェイ過程をはじめ最も力強く性淘汰が働くのは一夫多妻制ですが一夫一妻制においても性淘汰ということは起こりえます。

 

『人間の進化と性淘汰』に戻りましょう。ダーウィンは、「人種の分化には性淘汰が重要な役割を果たしてきた」という仮説を提示するため、性淘汰について細部にいたるまで論じる必要が生じ、結果として第2部が異様な長さになってしまった、と述べています。これについて、日本語版著作集の解説で巌佐は、「2冊に分けた方がすっきりしたのかもしれない」と書いています。リチャード・ドーキンスは、2002年に出版された版の序文で同様の指摘をした上で、それにもかかわらず1冊の本にしたダーウィンは正しかったように見える、と結んでいます[4]。性淘汰が人類にもたらしたものとしてダーウィンが本文中で仮定したのは、人種による形態上の差異、裸の皮膚、頭髪や髭といった特徴にすぎませんが、この本はそれ以上のことを暗示しているように見えます。性淘汰は人類のより根本的な特徴である、知性、言語、道徳、芸術、文化といたものにも関連しているのではないかというインスピレーションをかきたてるのです。

 

ヒトの進化については近年になって考古学的な発見の集積とDNA解析の進歩等によって多くのことがわかってきましたが、古代の人類がいかなる淘汰圧のもとで大きな脳と知性を進化させたかという根本的な問いに対してはいまだ確たる答えはでていません。脳が多くの酸素や栄養を消費するきわめてコストのかかる器官であることを考えると、それを増大させることのメリットを一般的な生活条件の中に見出すのは以外にむずかしいのです。

ダーウィンの示唆をヒントに「ヒトの脳の増大は性淘汰によってもたらされた」という仮説を採用してみると、いろいろな疑問にうまく答えられるように思われます。性淘汰は一般的な環境への適応という面からはかなり不利になるほど極端な形質を進化させることがあり、人間の肥大化した脳もその一例とみなされましょう。20万年前頃の古代型サピエンスがすでに大きな脳を発達させながら従来と大差ない道具を使用していたということも、脳の増大分がもっぱら生殖を有利にするための思考や言語に奉仕していたのだと考えれば納得がいきます。そして一旦大きな脳が獲得された後に、一般的環境への適応のためにも使用できるように改良されたということはありえるでしょう。文明を生み出した人間の知性は、性淘汰によって進化した脳の生殖行動についてのプログラムを書き換えることによって達成されたということなのかもしれません。

 

以上のような議論は最近の進化心理学においてもなされています。ジェフリー・ミラーは“The Mating Mind”(邦題『恋人選びの心』[5])の中で、ヒトにおける言語・芸術・道徳といった特徴が、いかにして性淘汰によって進化しえたかということを大胆に描写しています。言語は雄が雌を魅了する「愛の言葉」として発達した。握斧(ハンドアクス)などの石器は、実用品としてではなく装飾品として作られた。初期の狩猟は、食物を得るための労働としては効率が悪く、雄の勇敢さや気前のよさを雌に示すためのものであった、などなど。ミラーの説を読んでいると、文化を性欲の昇華として解釈したフロイト理論との類似性を感じてしまうのですが、多くの進化心理学者と同様彼もフロイトに対しては批判的で、この類似性はみせかけに過ぎないことを強調しています。本セミナーでは、この類似性が本質的なものであることをこれから示していくことにしましょう。

 

前回にも述べましたが、フロイトはダーウィンを尊敬し、その著書を愛読していました。彼の理論の中には、進化論的な視点が反映されています。その一例として、ここに示したのは性欲論三篇の1915年版の序にある一節です。

 

系統発生的な要因が新たな経験によって修正されない限り、個体発生的な要因は系統発生的な要因を辿り直したものである。系統発生的な要因は、個体発生的なプロセスの背後で働いている要因と考えることができる。さらに素質は最終的には、人間という種がこれまで蓄積してきた経験が沈殿したものである。個人の最近の経験は、体験に基づく要因の総体として、この種の経験の上に積み重ねられるのである。

『性欲論三篇』第3版(1915)の序

 

フロイトといえば、「氏か育ちか」という議論においては、育ちすなわち個人の経験を重視した代表格のように思われているところがありますが[6]、それは大きな誤解です。彼は、個人の経験のみが分析治療で扱いうる題材だから重視したのであって、その目はむしろ背後にある「種としての経験」に向けられていたと言ってもよいでしょう。

 

先に進む前に、ここで欲動の定義について確認しておきます。『欲動とその運命』では、欲動のような抽象的な概念の定義の難しさを指摘した上で、暫定的なものとして次のような定義を試みています。

 

次に心的な生を生物学的な観点から考察してみると、欲動は精神的なものと身体的なものの境界概念と考えられる。これは体内から発して精神に到達する刺激の心的代表であり、精神的なものが身体的なものと結びついているために、精神的なものに要求される仕事の大きさの尺度とみられる。

『欲動とその運命(1915)』

 

性欲動およびリビドーについては、『性欲論三篇(1905)』に次の記載があります。

 

人間にも動物にも性的な欲求が存在するが、生物学ではこの事実を『性欲動』という用語で表現している。この欲動は、栄養摂取の欲動である空腹との類比で考えられたものである。空腹に相当するような『性欲動』の口語的表現は存在しないが、学問的にはリビドーという用語が使われている。

『性欲論三篇(1905)』

 

このように、フロイトは、欲動を生物学的な基盤の上に定義づけようとしました。

 

欲動理論を進化的観点からみるにあたって、まず考えねばならないことは、そもそも欲動に進化を適用できるかという問題です。ごく単純化すれば、欲動は、脳において、脳の活動として生じ、行動を促すものといってよいでしょう。行動は生存と生殖という淘汰の決定要因となります。その結果受け継がれた遺伝子は、次の世代の脳を作ります。生物学においては、脳についても行動についてもその進化について言及することは当然のこととされます。ですから、われわれがその中間に位置づけた欲動に関しても進化論から論じることはできるはずです。少なくとも「欲動の性質やそれを支配する法則は、進化的過程によって規定される」という言い方はしてもよいのでしょう。これに対して、脳と行動について論じるだけで十分であり、その間に曖昧な概念を仮定する必要性を認めないという主張もありえるかもしれません。それも正論でしょうが、脳についての知見が飛躍的に進んだといわれる現在においても、脳と行動の間にある気の遠くなる程複雑な関係についてはほとんど謎につつまれていることを考えると、人間の精神を全体的なものとして説明するための暫定的なモデルとして、欲動理論というものはまだ捨て去れないものだろうと思うのです。

 

教義的な議論はこのくらいにして、具体的な話しに移りましょう。ヒトの進化過程において獲得された、欲動のあり方の特徴は何か。それは、欲動の、とりわけ性欲動の流動性ということであり、この性質は主に性淘汰の過程によって獲得されたという仮説を提示しましょう。

 

欲動にとってもっとも変動しやすいファクターはその対象です。『欲動とその運命』から引用します。

 

欲動の対象とは、欲動がその目標を達成することができる対象または手段である。これは欲動にとっては非常に変動しやすいものであり、本来は欲動と結びついているものではなく、満足をもたらす上で適切なものであるために利用されるにすぎない。欲動の対象は必ずしも外的な事物ではなく、自己の身体の一部である場合もある。欲動が存在している間に経験する運命において、対象は任意に、かつ頻繁に取り替えられることがある。この欲動の対象の置き換えは非常に重要な役割を果たす。(中略)欲動が対象と特別な内容的な結びつきを備えている場合は、欲動の固着と呼ぶ。この固着は欲動の発展のごく早い時期に発生する場合が多く、分離に強く抵抗することによって、欲動の可動性に終止符を打つのである。

『欲動とその運命(1915)』

 

フロイトは、『性欲論三篇』において、性倒錯と小児性愛の分析を通じて、性欲動が根本的に流動的であることを示しました。別の言葉で言えば、リビドーはあらゆるものに備給されうるということです。リビドーが自我あるいは自己に備給されるのがナルシシズムです。物質に備給されるのがフェティシズムです。思考に備給されるのが思考の性愛化です。この3つは、人類の進化にとってとりわけ重要だったに違いありません。なぜなら、ナルシシズムは人間に独特の自己認識をもたらしただろうし、フェティシズムは知的好奇心を高め、思考の性愛化は言語的思考を発達させただろうから。そして、これら3つに関連して重要な事柄が、多形倒錯的な小児の性愛と、両性具有性であります。

 

ヒトにおいて性欲動がこれほどに流動的になった理由を、性淘汰の面から考察してみましょう。生物学においてしばしば問題となる、固定化された本能と、学習に基づいた行動の対比という点から見ると、人間の性欲は学習されて方向づけられる余地が非常に大きいという言い方ができるでしょう。素因と学習の両方が関係するような形質に対して性淘汰が働くとどうなるのか。例えば愛の言葉を上手にささやく雄が、雌に選ばれるような状況があるとすると、なるべく言葉たくみな雄とペアになった雌が有利になるだけでなく、そうして生まれた息子に対して効果的に言葉を教育する雌が子孫を多く持つことに関して有利になるでしょう。また、複数の息子が生まれた場合には、母による愛の手ほどきにうまく答えられるような息子ほど有利になるでしょう。このような母子間の恋愛レッスンが、親子の愛着関係と融合して小児の性愛の基盤になり、愛情関係をより流動的に、多形倒錯的にしていったのではないでしょうか。ここにもう一つ、雄と雌の相互的選り好みということが加わります。ダーウィンは人間の進化においては雌だけでなく雄の方も選り好みをしたという推測をしています。相互的な選り好みは、相手の視点の取り入れを促し、人間の両性的な素質を形成したのではないでしょうか。そしてそれは、単に選り好みをするだけでなく、一心不乱に行動するだけでもない、自己を認知しつつ行動する主体を生み出したのではないでしょうか。

 

 



[1] ダーウィン著作集1・2『人間の進化と性淘汰』文一総合出版

[2]長谷川寿一/長谷川真理子著『進化と人間行動』東京大学出版会

[3] アモツ・ザハヴィ/アヴィシャグ・ザハヴィ著『生物進化とハンディキャップ原理―性選択と利地行動の謎を解く』白揚社

[4] リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』早川書房

[5] ジェフェリー・ミラー著『恋人選びの心――性淘汰と人間性の進化』岩波書店

[6] マット・リドレー著『やわらかな遺伝子(nature via nurture) 紀伊国屋書店。この本はこの手のものの中ではフロイトを好意的に扱っているし、全体としては、「氏か育ちか」論争について「氏は育ちを通じて(素因は環境を通じて発現する)」という妥当な主張をしている本である。

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