第8日 フロイト以後の精神分析学


 フロイトは、1939に亡命先のイギリスで死亡する直前まで(彼はユダヤ系の
出身だったので当時オーストラリアに勢力を伸ばしていたナチズムに追われ、
晩年はイギリスで過ごしたのです)、活発に著作活動を続けました。そして、彼
の死後も精神分析の灯はとだえることなく、多くの弟子たちによって継承され
新たな発展をすることになるのです。本日のセミナーでは、そのごく一部を紹
介いたしましょう。


自我心理学
 フロイトの精神分析学をもとにして、特に自我の構造と機能についてより詳
しく研究したのが「自我心理学」です。
 自我は、心の中心にあって(もちろん比喩的な意味で)エス、超自我、外界
からのさまざまな要求を調節します。これらの要求はしばしば互いに対立し、
心の中に葛藤を生じさせます。心に葛藤があると、それは「不安」として感じ
られます。この不安をとりのぞき、精神の緊張状態を解消するのには、心の中
にある葛藤をうまい具合に処理しなくてはなりません。それをするのは、自我
の仕事です。葛藤を無意識的に処理する自我の機能を、自我防衛機制といいま
す。
 フロイトの娘のアンナ・フロイト(1895〜1982)は、その著書『自我と防衛』
のなかでS.フロイトの防衛についての理論を整理、分類しました。彼女が記
述した10種類の自我防衛機制は、抑圧、退行、反動形成、打ち消し、取り込み、
同一化、投影、自分自身への向けかえ、対立物への逆転、昇華です。これらの
防衛機制は、うまく機能すれば現実への適応に役立ちますが、現実からのスト
レスがあまりに強かったり、葛藤があまりに深刻だったり、防衛の働き方に柔
軟性がなかったりすると現実への不適応をまねきます。多くの神経症の症状は、
このようなうまく働かなかった防衛の表れととらえられます。
 一方、アンナ・フロイトとともに自我心理学を代表する心理学者であるハイ
ンツ・ハルトマン(1894〜1970)は、防衛とは別の自我の機能に注目しました。
知覚、思考、運動の制御、そのほか多くの自我機能は、葛藤とは無関係に発達
した自我の機能です。このような、自我の中で葛藤とは無縁の自律的な部分が
十分に成熟している人は、「強い自我」をもった人であり、現実に柔軟に適応で
きる人であるといえます。


欲動と対象関係
 フロイトの死後も、彼の理論は、彼に共感する多くの精神分析学者や心理学
者によって受け継がれて発展し、さまざまな心理学を生み出しました。非常に
おおざっぱな話をすると、これらの心理学の発展は大きくふたつの流れに分け
られます。ひとつは、いま述べた自我心理学であり、もうひとつは「対象関係
論」です。
 このふたつの流れは、どちらもフロイトの精神分析学という共通の出発点を
もちながら、お互いにとても仲が悪いのです。例えば、自我心理学のアンナ・
フロイトと、対象関係論の創始者ともいえるメラニー・クライン(1882〜1960)
は、1941年から1945年の間、精神分析学の歴史上でも有名な大論争を展開し
ています。後にはクラインの実の娘までがA.フロイトの側についてクライン
を攻撃するありさまでした。
 このような仲の悪さは、ふたつの心理学が根本的な仮定の部分で違う考え方
をしているからです。それは、簡単にいえば「欲動と対象関係」の問題です。
 私たちは、周囲の人たちとのいろいろな人間関係の中で生きています。人を
好きになったり嫌いになったり、恋をしたりやきもちを焼いたりします。この
ような他人との対人関係のあり方を、心理学では「対象関係」といいます。
 対象関係のさまざまなあり方は、どの様にして生じるのか。私たちはなぜ人
を愛し、人を憎むのか。自我心理学では、対象関係の起源は欲動にあると考え
ます。これに対して、対象関係こそ一番根本的なものであり、欲動は対象との
関係のなかで生じるものであると考えるのが対象関係論です。
 対象関係論を発達させた人としては、フェアーバーン、ウィニコット、ガン
トリップといった分析家たちがいます。


対象関係の発達
 自我心理学では、欲動の発達を重要視しますが、対象関係論では、対象関係
の発達について詳しく研究しました。
 幼い小児にとっての最初の対象は、母親(あるいはかわりの養育者)であり、
母親との関わりのなかで対象関係がはぐくまれます。
 生まれたばかりの赤ん坊は、自分と他人の区別がつきません。母親と自分が
一体であるかのようにとらえられています。生後数カ月の間に、小児はだんだ
んと母親の存在に気づき始めます。そして、母親とのいろいろな関係を認識す
るようになります。例えば、母親がおなかがすいた小児におっぱいをあげてい
るとき、母親は小児にとって「自分の世話を焼いてくれる良い母親」であり、
そんなときの小児自身は「満足している良い自分」であり、そしてふたりの関
係は「愛情と幸せに満ちた良い関係」です。しかし、母親との関係がこのよう
に100パーセント良いものであり続けるというのは現実には不可能です。おな
かがすいても母親がすぐに来てくれない、すぐにおっぱいをくれない、という
ときだってあります。そのようなとき、母親は小児にとって「自分のために何
もしてくれない悪い母親」であり、自分は「欲求が満たされない不満足な自分」
であり、ふたりの関係は「憎しみと恐怖にみちた悪い関係」ととらえられます。
この、2種類の対象関係、つまり「世話を焼いてくれる母親と満足した自分の、
良い関係」と「助けてくれない母親と欲求不満の自分の、悪い関係」とは、人
間関係の基本として小児の心の中にきざみつけられ、その後の複雑な人間関係
の原型となります。


不安定な対象関係
 小児にとっては、同じひとりの人間――母親が、ある時は「やさしい、良い
母親」であり、また別の時には「意地悪な、悪い母親」ととらえられます。そ
ういう意味で、小児の対象関係は非常に不安定な、移ろいやすいものです。こ
のような不安定さは、小児が心理的に成長するにしたがってなくなり、母親と
の関係も安定したものになります。
 成人でも、心理的に未熟な人や、あるいは大きなストレスにさらされて心理
的に退行(子供っぽい状態に戻ること)した場合には、子供にみられるような
不安定な対象関係が現れます。このような人間には、周囲の人々は、「完全に良
い人間」と「完全に悪い人間」の2種類に分類され中間がありません。また、
同じ人物がある時は「すばらしい人」、別の時には「意地悪な人」ととらえられ
ます。このような、独特の不安定な対象関係のありかたを「スプリッティング」
とよびます。スプリッティングは、未熟な防衛機制ともいえます。
 このような防衛機制が如実にみられる疾患として近年注目されているものに、
「境界性人格障害」と呼ばれる疾患があります。O・F・カーンバーグ(1928〜)
は、この疾患と特徴的な防衛機制について研究し、自我心理学と対象関係論を
統合した理論の構築をめざしました。


投影と投影性同一視
 私たちは、周囲の人との人間関係のなかで、「あのひとは親切な人だ」とか「あ
のひとは意地悪な人だ」などのように人を評価します。このような他人の評価
が生じるのは、実際にその人が親切であったり意地悪であったりするせいでも
ありますが、もうひとつ重要なのは、自分の中にある「良い母親」や「悪い母
親」のイメージが投影されているという面です。人間には、その心に幼いとき
からきざまれた基本的な対象関係(「良い関係」と「悪い関係」)を、周囲の人
たちにさまざまな形で投影しようとする傾向があるようです。その傾向こそが、
私たちの心の中に愛や憎しみをおこさせる原動力になっているということがで
きます。
 私たちはみな自分の心の中にある対象関係を他人との人間関係の中に投影す
る傾向をもっているわけですが、そのような人間どうしが出会ったときにはど
のようなことがおこるでしょうか。例えば、AさんがBさんに「親切な人」と
いうイメージを投影したとします。Bさんは自分が「親切な人」と思われて悪
い気はしませんから、実際にAさんに親切にするようになります。そうすると
Aさんの中の「Bさんは親切な人だ」という考えはますます強められることに
なるのです。また、AさんはCさんに「意地悪な人」というイメージを投影し
ます。Cさんは勝手に「意地悪な人」と思われていい気はしません。どうして
もAさんに悪い感情を抱き、Aさんに不親切な態度をとるようになります。こ
うしてAさんのCさんに対する感情はますます悪くなります。このようにして、
投影によって愛や憎しみの感情が相互に強められあう過程を、「投影性同一視」
と呼びます。(ただし、投影性同一視は難しい概念であり、その定義や使い方が
人によって異なることがあるので注意してください。)
 投影や投影性同一視も一種の防衛機制であり、ある程度はだれでもやってい
るのですが、これが極端な形ででる場合には現実への不適応をまねきます。


これからなにを学ぶべきか
 ここにあげた以外にも、フロイトの精神分析学から派生した学派や心理学は
数多くあり、そのすべてを精通するのは実際上不可能といってもいいでしょう。
その中からなにを学ぶかは皆さんが決めることですが、あまり先走らずにまず
フロイトをじっくりと勉強することをお勧めいたします。その理由の第一は、
後の分析家の理論を学ぶにしても、その基礎としてフロイトについての知識は
不可欠であるということ。第二は、新しい概念を導入したり精密で明確な説明
したりすることで一見新しく見える理論も、よく見るとフロイトの述べていた
大事なことを失っている場合があるのです。第三に、今日はとにかく多くの心
理学が乱立して混沌としていますから、こんな時はあまり流行にとらわれずに
原点に戻ることが道に迷わない良策なのです。
 というわけで、フロイト・セミナー・初級コースを終了します。次回は期末
試験で、合格した人は次の「中級コース・理論篇」に進んでください。


参考文献
『自我と防衛』アンナ・フロイト著、外林大作訳、誠信書房
『メラニー・クライン入門』ハンナ・スィーガル著、岩崎徹也訳、岩崎学術出
版社

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