第7日 心の構造


 前回は、人間の行動や心の動きの原動力となるもの、欲動について勉強し
ました。われわれの心を揺り動かすさまざまな願望や欲望は、もとをただせば
2つの基本的な欲動(生の欲動と死の欲動)からくる、とフロイトは考えまし
た。欲動の動きは大部分無意識的ですから、それがどのように働くのか知るた
めに、私たちはもう一度無意識というものについて考えることになりました。
そして、無意識の中で行われる「思考」が私たちがふだん意識的にしている思
考とはだいぶ違うものであると分かりました。前者(無意識的な思考)を「一
次過程」、後者を「二次過程」とよびます。一次過程の方は、非言語的、非論理
的な思考であり、より原始的で根元的な心の働きであると思われます。
 例えば小さい赤ん坊の心の動きは、大部分が一次過程によって支配されてい
るといえます。「おなかがすいた」とか「おしっこがしたい」などという欲求を
すぐにその場で満足させようとします。そして、いつも母親が世話をしてくれ
るような環境ではそれでもかまわないのです。おなかがすいたらお母さんがお
っぱいをくれるし、おしっこをしたければその場ですればよいのです。しかし、
だんだん大きくなって母親の手を離れることが多くなると、欲求をすぐに満足
させるというのが困難な場合も多くなってきます。おなかがすいてもお母さん
がそばにいなければどうにもなりません。したいときに小便や大便をしたらし
かられるようになります。このような状況のなかで、子供は自分の欲求がいつ
もすぐに満足されるとは限らないことを知り、欲求の満足を一時的に延期する、
つまり我慢をすることを学びます。また、どのようにしたら自分の欲求が満足
されるのか考えて行動するようになります。こうして、小児の心の中でも二次
過程によって働く部分が多くなります。

意識と無意識、自我とエス
 これまで、人間の心をとらえるのにそれが意識的か無意識的かということに
重点をおいて話を進めてきました。そして、意識的(あるいは前意識的)な心
の働きと、無意識的な心の働きとでは、その働き方が質的に異なるということ
が分かりました。つまり、無意識とは意識とは質的に異なるものであるといっ
てよいでしょう(組織としての無意識)。
 ここまで考察を進めてくるといろいろな疑問も生じてきます。まず、意識的
か無意識的かというのは、自分がそれを知っているかどうかということだった
訳ですが、ではその「自分」というのはいったい何なのかという問題が生じま
す。つまり、あることがらを意識したりしなかったりする主体の、「私」とはな
にかということです。
 また、無意識は意識と質的に異なると言いましたが、実は無意識の中にも心
の働き方や性質の面からみるとむしろ意識の方に近い(つまり二次過程的な働
き方をする)部分があることもわかりました。例えば、意識的な心にとって不
愉快な考えを抑圧する過程は、それ自体は無意識的な過程です。抑圧する「心」
は無意識の一部と言えましょう。しかし、この抑圧する心は、ある観念を見た
くない、知りたくない、つまり意識したくないという「私」の意向から生じま
す。つまり、抑圧という過程は無意識ではあるけれども、抑圧されたものより
もむしろ意識的な「私」の方に近いのです。
 そこで、今までのように心を意識的か無意識的かという観点からとらえる考
え方とは別の考え方が必要になりました。それは、「私」(意識的な私と+抑圧
する無意識な私)と抑圧されたものという、新しい心の分類です。「私」の方を
「自我」(ドイツ語でIch=私)、抑圧されたものを「エス」(ドイツ語でes=そ
れ)と呼びます。


自我
 自我は、ふだん私たちが「これこそが私だ」と思っている部分であり、心の
中心であり、ともするとばらばらになりがちな精神をまとめようとする主体で
す。私たちが周囲のものを見たり聞いたりして(知覚)、喜怒哀楽など様々な感
情を感じ、いろいろなことを考え(思考)、実際に体を動かしたり発言したりし
て思ったことを実行に移す(運動の制御)、という一連の意識的な過程はすべて
自我に属します。自我に属する心理過程は、大部分二次過程によって支配され、
したがって論理的で首尾一貫しています。ただ、人間の心というものは、なか
なかそのすみずみまで論理的で首尾一貫しているというわけにはいかないもの
です。いろいろと矛盾する考え、認められない欲求、不愉快な記憶なども生じ
てきます。このような、自我にとって不都合なものは意識から追い出される、
つまり抑圧されます。抑圧の過程は自我に属するけれども無意識的です。抑圧
やその他の方法によって自我を守る無意識的な心の働きを、防衛機制とよび、
重要な自我の機能のひとつです。(防衛機制については後述)


エス
 エスは、抑圧されたものの集まりです。抑圧されたものといっても、単に自
我にとって不愉快であるために意識から追い出されたものというだけでなく、
もともと意識には昇りえなかったさまざまな観念や願望(原抑圧ともいいます)
も含めた、非常に広範な概念です。エスは無意識的なもので、一次過程に支配
されています。非論理的、非言語的であり、時間の流れはなく、さまざまな観
念や欲望が混沌として存在しています。
 前に、生まれたばかりの赤ん坊の心は、大部分一次過程によって支配される
と述べましたが、これを新しい言い方でいうと次のようになります。生まれた
ての赤ん坊の心は、ほとんどエスのみからできている。自我は後になって(6ー
8ヶ月頃から)エスから分化し、高度に発達する。このような自我の高度な発達
こそ、人間の心理を特徴づけるものです。本能に基づくワンパターンな行動に
よって現実に適応する動物と違い、人間はさまざまな欲望を我慢し、二次過程
によって考える自我がないと現実に適応できなくなってしまっているのです。


同一視(同一化)
 エスから自我が後になって分化すると述べましたが、ここのところをもうす
こし詳しく見ると重要な心的過程が営まれているのがわかります。それが、同
一視(同一化)です。小さな子供を見ていると、しきりに大人の真似をしてい
るのに気付くことがあるでしょう。最初は、いかにも「物真似」という感じで
滑稽なくらいですが、やがてそれがさまになってきて、その子自身の特徴と思
えてくるものです。このように、他人の特長を取り入れ、それを自分のものに
していく過程を同一視あるいは同一化と呼びます。
 フロイトは、メランコリー(うつ病)で憂鬱な気分になっている人や、大切
な人物を失って悲しみにくれている人を観察し、分析するうちに「同一視は、
失った対象(大切な人)を自分の心の中に再現しようとする営みである。」とい
う結論に達しました。小さな子供が育っていく過程でも、ちょっとした対象喪
失を体験します。例えば、いつも一緒と思っていたお母さんがそばにいないと
いった場面は、小児にとってはお母さん(=対象)を失う体験に相当します。
こういったつらいことを乗り越えていく過程で、子供は親に同一視して、つま
り親の物真似をしながら親に似ていくというわけです。
 エスから自我が分化し発達していくのに、とても重要な要素がこの同一視な
のです。


超自我
 心を意識と無意識とふたつに分けて考える考え方から、自我とエスとの対立
ととらえる新しいとらえ方を学びました。これでおしまい、だったらよいので
すがまだあります。フロイトは自我、エスにもうひとつ、「超自我」を加え、心
を3つに分けて考えました。
 超自我とは、ひとことで言えばわれわれの心の内なる良心です。超自我には、
私たち自身に意識されている部分と、無意識的な部分があります。前者は、自
我理想とも呼ばれ、道徳的な規範でありめざすべき理想です。それだけならわ
ざわざ「超自我」などと特別な名前をつけなくてもよさそうに思えます。しか
し、超自我の重要な部分ははっきり意識されていない部分であり、それは想像
を絶するほどの厳格さと過酷さでもって、「〜してはならぬ」とか「〜をしたお
まえは罪人だ」などと自我を責め立てるのです。そして気づかぬ所で自我の振
る舞いを規制しているのです。
 超自我は、特別な同一視によって形成されるといいます。それに深く関連し
ているのが、第4章で学んだエディプス・コンプレックスなのです。フロイト
によれば、母親に対するエディプス願望を抱いた子供は、父親からの去勢威嚇
(去勢されるというおどし)を恐れて、その願望をあきらめざるをえなくなり
ます。これは、彼にとって大きな対象喪失であり、その代償としての父親への
同一視がおこるのです。その結果が超自我となるということです。
 超自我については少々むずかしかったですね。最後に、自我・エス・超自我
についてフロイトがまとめた図を『続精神分析入門』という本の中から引用し
ておきます。


              心の構造の図




参考文献
『続精神分析入門』 著作集1、新潮文庫(新潮文庫では『精神分析入門』の中
に含まれています)前にあげた『精神分析入門』の続編です。もっとも、『入門』
はフロイトが大学で講義をしたときの内容を出版したものですが、『続』の方は
講義の形式をとってはいても実際には純粋に執筆したものです。そのせいか
『続』の方が読みやすく、後期理論をわかり易くまとめたものとしてお勧めで
す。

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