第6日 欲動理論


 これまで、神経症の話、夢の話、しくじり行為、性の話としてきました。こ
の章からはいよいよフロイトの心理学の核心に入ります。ようやくその準備が
できました。人間の心のしくみについてのフロイトの理論を学びます。


快感原則と現実原則
 わたしたち人間は、毎日いろいろなことを思い、考え、時には悩んだりもし
ながら、生き生きと暮らしています。私たちをいろいろな活動にかりたてるも
ののひとつは、私たちの心の中に生じる願望あるいは欲望です。みなさんも、
例えば「あのすてきな男の子とデートしたい」とか「どこどこのケーキをおな
かいっぱい食べたい」とか「あの店のかわいい洋服がほしい」など、それぞれ
いろいろな願望を持っていることでしょう。いっぽう、人間はやりたいことだ
けをしていればよいのではありません。社会のルールを守り、義務や責任をは
たすことが要求されます。
 つまり、私たちは「〜をしたい」という気持ちと、「〜をしなくてはいけない」
あるいは「〜をしてはいけない」という考えとの間で、迷い悩みながら生活し
ているわけです。このことを、フロイトの使った言葉でいいなおしてみますと
次のようになります。
 人間の心は、2つの原理にもとづいて動いている。1つは、「〜をしたい」と
いう気持ちのおもむくままに生きようとするやり方で、これを快感原則と呼び
ます。もう1つは、現実を見て「〜しなくてはならない」ということに従って
生きようとすることで、これを現実原則と呼びます。
 私たちは、この2つの原則に従って生きています。もし、快感原則だけで生
きられたらそれは楽しいかもしれませんが、実際の現実生活でそれをやったら
どうなるでしょうか。皆が自分の欲望だけを追求するような自己中心的な生き
方をしようとしたら、「万人の万人に対する闘争」といった状態になり、かえっ
て暮らしにくい世の中になるでしょう。そういうわけで、人間は長い歴史の中
で「やりたいことを我慢する」ことを学んできました。そのための、社会的な
ルール、すなわち法律や道徳が作られました。


欲動――人間をかりたてるもの
 次に、「〜をしたい」という気持ち、つまり願望や欲望について考えてみまし
ょう。このような気持ちは、いったいどこからやってくるのでしょうか。フロ
イトは、そのような気持ちは身体の中からやってくるある種の刺激から生じる
と考えました。このように、身体の内側からやってきて心に達し、様々な願望
や欲望を生じさせる刺激を「欲動(Trieb,drive)」とよびます。
 欲動は、動物でいえば本能に相当するものです。しかし、動物の本能と人間
の欲動とは似ているけれども違うものであり、この違いが動物と人間の違いの
本質ともいえます。それは、たとえば前の章で勉強した、動物の性行動と人間
の性生活の違いにの中にも表れています。動物の交尾は、生殖本能にもとづき
必要な時だけ必要な行動だけをしますが、人間の性生活は性欲(性欲動のひと
つの表れかた)にもとづき生殖という本来の目的を離れていろいろな行為がな
されます。
 欲動は、私たちの心にさまざまな願望、感情、思考などを生じさせ、それら
がお互いに作用し、また心の中の他の要素とも複雑にぶつかり合い、それが最
終的にはその人の言葉や行動につながります。人間の心の中で展開される、そ
の複雑なドラマを研究するのが心理学の仕事といってもよいでしょう。


基本的な欲動
 さて、以上の説明だけではいまひとつ抽象的でわかりにくいと思いますので
もう少し具体的な話をしましょう。欲動にはどんな種類の欲動があるか、とい
うことです。
 フロイトは、いくつかの基本的な欲動を想定して、そこからあらゆる種類の
欲望、願望、思考、感情が生じると考えようとしました。そのような基本的な
欲動としてまずあげられるのが、性についての欲動、性欲動です。彼は、性欲
動を非常に重要な基本的欲動とみなしており、その点では生涯一貫していまし
た。このために、彼のことを「人間の心の働きをなんでも性欲のせいにする」
などと非難する人も多かったのです。もっとも、性欲と性欲動とは同じもので
はありません。確かに性欲は性欲動のひとつの表れ方ですが、それは性欲動の
たどるいろいろな可能性のうちのほんの一部に過ぎません。例えば、性欲動の
一部は昇華(欲動を社会的に役に立つ欲求に変える防衛機制)という過程を経
て、友情や人類愛や科学的探求心といった、性欲とは一見何の関係もなさそう
なものにも変身します。また、神経症では性欲動がさまざまなヒステリー症状
や強迫観念を作り出します。
 性欲動以外にどんな欲動があるのでしょうか。この点については、フロイト
は何度か考えを変えています。性欲動に対立するもう一つの欲動として、最初
に想定されたのが自己保存欲動(自我欲動)です。これは、自己の生命を守る
ための欲動で、ここから生じるのが食欲や自分の安全を守るための欲求や考え
です。自己保存欲動は後には自我欲動とも呼ばれるようになりました。性欲動
が主に快感原則に従って欲求を満たそうとするのに対して、自己保存欲動は現
実原則にも配慮して、自らを守ろうとする傾向があります。
 フロイトは、1920年に書いた『快感原則の彼岸』という論文の頃から、上記
のような性欲動対自己保存欲動(自我欲動)という図式をあらため、新たな欲
動理論を展開するようになりました。性欲動も自我欲動もより大きな視点から
見れば「生きようとする欲動」という点では一致しており、これらをまとめて
「生の欲動」と呼ぶことにします。これに対して、全く反対の傾向が人間の心
には存在する。それは、自らを死へと導こうとする傾向、すなわち「死の欲動」
です。これが、最終的にフロイトが達した結論なのです。
 死の欲動というのはたいへん難しい概念で、フロイトの仲間たちの間でも賛
否両論をひきおこしました。死の欲動はそのままの形で表出されることはあり
ませんが、その一部は攻撃的傾向あるいはサディズムとして表現されます。ま
た、フロイトは人間の心に「たとえそれが苦痛なことでも何度も繰り返さずに
はおれない」という不思議な傾向があることを発見しました。(例:何度も何度
も同じ様な不幸な顛末に終わる恋愛をする人。)このような傾向を、反復強迫と
呼びます。反復強迫も、死の欲動の表れのひとつとされています。


恒常原則
 欲動という原動力によって、どのように心が働くのか、もう少しくわしく見
てみましょう。
 ここで、人間の心を自動車に例えてみます。自動車はガソリンで動きますが、
そのガソリンが燃えたときに発生する起動力(何馬力とかいうでしょう)にあ
たるのが人間の欲動です。馬力が大きいほど車は力強く走るように、欲動が大
きいほど人間は活動的になります。
 ガソリンが蓄えているエネルギーの量、人間の心の中でこれに相当するもの
を「精神エネルギー」と呼ぶことにします。特に、性欲動についての精神エネ
ルギーを「リビドー」と呼びます。気をつけないといけないのは、精神エネル
ギーという概念は、物理学の「エネルギー」の概念をモデルにしてできたもの
ですが、物理学のエネルギーとはまったく次元の違うものですから誤解のない
ようにしてください。
 以上のような定義をしたあとで、フロイトは心の働き方(車の動く仕組み)
について次のような法則を仮定しました。
 精神エネルギーの増加は、心の緊張を増し、不快感と感じられる。精神エネ
ルギーの減少は、心の緊張を解き、快感と感じられる。人間の心は、なるべく
不快感をさけ、快感を求めるように働く。つまり、精神エネルギーをなるべく
低い量におさえるように(自動的に)働く。(恒常原則)
 例えば、リビドーがたまってくると性的な緊張が高まり不快である。セック
スをすることによってその緊張は解消され、快感がえられる。それができない
場合には、性欲動を昇華によって他の目的(例えば勉強や仕事にうちこむこと)
に向け変えて、別の方法で解消することもできる。それもうまくいかないとき
には、性欲動がヒステリー症状や強迫観念になって現れ、神経症になってしま
うこともある。‥‥と、いうのはあまりにも単純化した例です。


再び、無意識について
 心の働き方について、もっと詳しく述べる前に、ここで以前にお話した「無
意識」という概念についてもう少しきちんと定義をしておきます。
 ある瞬間に、意識に昇っている考えや記憶を、そのときに「意識的である」
といいます。その時には意識に昇ってない考えや記憶を、「無意識的である」と
いいます(記述的な意味での無意識)。
 記述的な意味で無意識的なものには2種類あります。気持ちを集中させて意
識しようと思えば意識に昇らせられる考えや記憶と、意識しようと思ってもで
きない考えや記憶と。後者の方が、本当の意味での「無意識的な」ものです(力
動的な意味での無意識、以後ことわりのない場合は無意識といえばこちらを指
す)。これに対して、前者の方は別の瞬間には意識的であったわけで、無意識よ
り意識に近く、「前意識的である」といいます。力動的な意味で無意識的なもの
は、抑圧された記憶や願望であり、それらが意識に昇ろうとすると抵抗が生じ
るということはすでに述べました。


一次過程と二次過程
 フロイトは、精神分析と夢やしくじり行為の分析などの方法によって無意識
について研究してきました。そうするうちに分かってきたことは、無意識的な
心の働きは、ふだん意識されている心の働きとはだいぶ違ったものだというこ
とです。意識されている心の中でおこっているのと同じようなことが無意識の
中でも行われている、というのとはわけが違うのです。
 私たちは、いつも心の中でいろいろなことを考えています。これは、つねに
意識されている、いわば意識的な思考です。と、同時に私たちの心の中では自
分自身が気づかないうちに、つまり無意識的に、ある種の「思考」が行われて
いるのです。この無意識的な「思考」は、私たちがふつうに考える時の考え方
とは非常に異なった、奇妙なものです。この奇妙な「思考」を「一次過程」と
呼びます。これに対して、ふつうの意識的な思考を「二次過程」といいます。
 一次過程の特徴は、(1)「〜をしたい」という欲求をすぐにその場で満たそう
とすること、(2)「〜がしたい」という欲求が別の欲求に簡単に入れ替われるこ
と、の2つです。二次過程の特徴はこの裏返しで、(1)「〜をしたい」という欲
求の充足を延期すること(我慢)できる、(2)「〜がしたい」という考えは別の
ものには置き換えにくい、の2つです。
 一次過程では、ある考えと別の考えの間に論理的なつながりは存在せず、対
立するものや矛盾するものも仲よく共存し、 部分が全体を代表したりその逆で
あったりします。いろいろな考えは、言葉ではなく視覚的なイメージなどで代
表され、時間の概念は存在しません。ちょっと想像しにくい、不思議な「考え
方」ですが、私たちはすでに第2章の夢が作られる過程について勉強した時に、
このような考え方について学びました。フロイトは、一次過程こそ、個人の発
達過程においても人類の発展においても、最も原始的な心の働き方であると考
えたのです。それに比べると、私たちが意識的にやっている言葉を使った論理
的思考すなわち二次過程は、ずっと後になってからできてきた高度な「考え方」
なのです。


参考文献
『精神分析入門』
著作集1、新潮文庫・文春文庫など。第3部の「神経症総論」
に今回のような話ものっています。前にもいいましたが、この本「入門」とい
ってもかなり難しいんですよね。

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