第2日 夢の解釈


 無意識を研究するのに、うってつけの身近な題材があります。それは、わた
したちが寝ているときにみる夢です。フロイトは、夢はそれまで多くの人が考
えていたように無意味でばらばらなものではなく、細かい細部のひとつひとつ
にまで意味があるのだと考えました。彼は患者の夢と自分自身の夢を数多く分
析し、夢ができるしくみについて考えをめぐらし、ついには夢の心理学を作り
上げました。
 こうしてできたのが、彼のもっとも重要な著作のひとつである、『夢判断』
(1900年、著作集第2巻あるいは新潮文庫などに収録)です。今回は、この本
の論旨にそってフロイトの夢理論の概要について学びます。
 まずは、実例から入った方がわかりやすいでしょう。『夢判断』の中では、フ
ロイト自身が見た夢の実例もたくさん載っていますが、中でもいちばん有名な
のは「イルマの注射の夢」と呼ばれるもので、彼が最初に詳しく自己分析し、
この著作をしるすきっかけにもなった記念碑的な夢です。

イルマの注射の夢(詳しくは新潮文庫版『夢判断』上 138ページを参照)
(1)前置き
 私は1895年、イルマという名の若い女性患者を治療した。彼はこの患者の家
族とは、もともとごく親しい知り合いであり、だからもし治療に失敗したとき
には非常に気まずいことになると感じていた。イルマの病気はヒステリーで、
私は精神分析療法を行ったが、症状はあまり改善されぬままに夏になった。治
療は途中で中断され、イルマはしばらくの間田舎の避暑地で過ごすことになっ
た。
 ある日、私のもとにオットーという友人が訪れてきた。オットーは避暑地で
イルマに会い、その時の彼女の様子を私に話した。「前よりはましだが、すっか
り良いというわけではないようだ。」そう言うオットーの口調は、いかにも私を
非難しているかのようだった。
 その晩私は、別の友人であるドクター・Mに見せるためにイルマの病歴(病
気とその治療の経過)を書き記した。Mというのは、当時われわれの仲間のう
ちで指導的な位置にいた人である。そしてその夜、私はひとつの夢を見た。

(2)1895年7月23日から24日にかけての夢
 〈大きなホール――われわれはたくさんの客を迎えつつある――中にイルマ
がいるので、私は彼女をわきの方へつれていく。治療のことで彼女を非難する
ためだ。私はこう言う。「まだ痛むといっても、それは君自身のせいなんだ。」
――イルマが答える。「わたしがどんなに痛がっているか、首、胃、おなかなん
かがどんなに痛いか、おわかりかしら。まるでしめつけられるようなんです。」
びっくりしてイルマを見ると、青白く、むくんでいる。なるほど、もしかした
ら内臓の病気を見落としていたかな、と思う。
 窓際に連れて行って、喉を診る。イルマは入れ歯をしている婦人たちがよく
やるようにちょっといやがる。嫌がることはないのに、と私は思う。――やが
て大きく口を開いた。右側に大きな白い斑点が見える。別の場所には、奇妙な
形をした灰色のかさぶたがある。――急いでドクター・Mを呼んでくる。Mも
診察して、間違いないという。……ドクター・Mはいつもと様子が全然ちがう。
真っ青な顔をして、びっこをひいて、顎にひげがない。……友人のオットーも
イルマのそばに立っている。それから同じく友人のレーオポルトがイルマの小
さな身体を打診して、左下の方に濁音(肺炎などで聴かれる)があるという。
また彼は、左肩の皮下にも浸潤を指摘した。
 ……Mが言う。「これは伝染病だが、しかし全然問題にならない。そのうえ、
赤痢になると思うが、毒物は排泄されるだろう。」……どこから伝染病が来たの
かもわかっている。オットーが、イルマが病気になって間もないころにプロピ
ール製剤の注射をしたのだ……プロピレン……プロピオン酸……トリメチラミ
ン(この化学式が私の前に見えた)……この注射はそう簡単にはやらないもの
なのだが……おそらく注射器の消毒も不完全だったのだろう。〉

(3)フロイト自身による分析
〈大きなホール――われわれはたくさんの客を迎えつつある〉 このホールは夢
を見たときに私が住んでいた屋敷である。この夢の2,3日後に、この屋敷で妻の
誕生パーティーをする予定になっており、その会にイルマも招待していた。つ
まり、夢はその時のことをさきどりしている。
〈私はこう言う。「まだ痛むと言っても、それは君自身のせいなんだ。」〉 この部
分は、もしイルマがまだ痛みを持っているとしても、それについては私は責任
を持ちたくないということをあらわしている。
〈もしかしたら内臓の病気を見落としたかな、と思う〉 このような不安は、神
経症の患者ばかり診ている医者がつねに抱いているものである。しかし一方で
は、もしイルマの病気が内臓のものだとすると、私その病気が治るかどうかに
責任を持たなくてよいということになる。そして、治療に失敗したという非難
から逃れることができる。
〈急いでドクター・Mを呼んでくる〉 これに関して、ひとつの記憶が連想され
た。私は当時は無害と信じられていた薬を、ある患者に連続投与して重い中毒
症にしてしまったことがある。その時は急いで先輩の医者に救いを求めたので
あった。
〈イルマは入れ歯をしている婦人たちがよくやるようにちょっといやがる〉 こ
のようにイルマの口の中を診察したことはなかった。この夢の中のイルマのそ
ぶりは、むしろ別のはずかしがりやの女性を思い出させる。その女性は頭のよ
い女性で、やはりヒステリー性の妄想に悩んでいたそうだ。私の言うことを聞
かないイルマよりも、この女性の方を治療したかったという願望の現れか。
〈右側に大きな白い斑点が見える。別の場所には、奇妙な形をした灰色のかさ
ぶたがある。〉
 「白い斑点」は明らかにジフテリアを思わせる。2年前に娘がジ
フテリアになっていろいろといやな思いをした。「かさぶた」の方は、以前に私
が鼻粘膜の腫脹に悩まされた時にその治療にコカインを使っていたことを思い
出させる。同じようなことをして鼻粘膜に壊死をおこした患者がいた。1885年
に私が推賞したコカインは、その後世間からごうごうたる非難をあびた。
〈ドクター・Mはいつもと様子が全然ちがう。真っ青な顔をして、びっこをひ
いて、顎にひげがない。〉
 「びっこ」と「ひげがない」は、別の人間のことに違
いない。外国で暮らしている兄のことを思い出した。ひげがないし、最近、股
関節炎でびっこをひいているらしい。ドクター・Mと兄に対して、私は同じよ
うな理由からちょっと怒っていた。私がこの二人にした、ある頼みごとを断ら
れたのである。
〈友人のオットーもイルマのそばに立っている。それから同じく友人のレーオ
ポルトがイルマの小さな身体を打診して、左下の方に濁音を指摘した。〉
 レーオ
ポルトは、オットーの親戚でやはり医者である。以前は、私とこの二人とで一
人の患者を診察して論じ合うというような機会がよくあった。そのような機会
に、レーオポルトがその緻密な診察によって肺の左下に濁音を指摘して私を驚
かせたことがある。あきらかに、私は夢の中ですばしこいオットーとゆっくり
だが慎重なレーオポルトと、この対象的な二人を比較して、レーオポルトの方
を賞賛しようとしている。
〈左肩の皮下にも浸潤〉 「左肩」は、私自身の方のリウマチの痛みからきている。
「浸潤」という言葉は、このようには使わない。これは、肺の病変、特に結核
病変の描写をするときに用いる言葉だ。
〈Mが言う。「これは伝染病だが、しかし全然問題にならない。そのうえ、赤痢
になると思うが、毒物は排泄されるだろう。」〉
 「伝染病」が「全然問題にならな
い」という言葉は矛盾している。これは、ドクター・Mの私に対するなぐさめ
の言葉であろう。イルマの病気は身体の疾患でそれを治療できなくても私には
責任がなく、しかもその病気は、全然問題にならないものだと。「赤痢」はどこ
からきたのか。喉の白い斑点はむしろジフテリアという病気を示唆するが。ひ
とつは赤痢(Dysenterie)とジフテリア(Diphtherie)の発音が似ていること。
また、以前に私がヒステリーと診断した患者が後に赤痢であると判明したこと
があった。「毒物は排泄されるだろう」――ドクター・M自身が語っていたひど
い医者のことを思い出す。その医者は、Mに患者の尿蛋白を指摘されると、「全
然問題ないです。蛋白は排泄されますから。」と答えた。このばかな医者の言葉
をドクター・M自身に言わせることによってMをもばかにしようというのか。
しかし、なぜ?実は、ドクター・Mはイルマの治療のことで私に対して批判的
だったのだ。そのMに私は夢の中で復讐をしたことになる。
〈プロピール製剤の注射〉 「注射」はかつて私がコカインの内服を勧めたところ、
これを注射して死んでしまった友人を思い出す。「プロピール」――夢を診た前
日にオットーから贈られたリキュールがフーゼル油臭くて、その臭いから、プ
ロピール、メチールなどの一連の言葉を思い出した。
〈トリメチラミン〉 私の非常に親しい友人との会話を思い出す。その友人は、
トリメチラミンという物質が、人間の性の機能に密接に関係しているのだ、と
主張していた。私自身は、性が、神経的疾患の発生にとって重要な意味を持っ
ていると感じていた。性といえば、イルマは未亡人であった。彼女の治療が失
敗したときには、このことを言えばいいじゃないか。イルマの病気の原因は、
彼女が未亡人で性的に満たされていないことが原因なのだと。
〈この注射はそう簡単にはやらないものなのだが〉 オットーに対する非難。
〈おそらく注射器の消毒も不完全だったのだろう〉 これもオットーに対する非
難。また、私自身は、注射器の消毒はいつも慎重に行っていたから、消毒不完
全による感染は一度もおこしたことがないのが自慢であった。

(4)まとめ
 以上をまとめるとこうなる。イルマの病気の治療がうまくいかないのは、私
のせいではない。そもそもイルマは私の指示に従わない愚かな患者であり、こ
んなことなら代わりにあの賢い女性患者を治療すればよかった。イルマの病気
は内臓の病気と分かったから、これが治療できなくても私の責任ではない。オ
ットーは私のことを非難したけれど、レーオポルトの方が医者として優れてい
るじゃないか。私の治療に批判的だったドクター・Mにしても「毒物は排泄さ
れる」などと、とんちんかんなことを言っている。イルマの病気の原因は、注
射器の消毒が不十分だったこと、つまりオットーの責任だ。
 また、この夢にはイルマのこと以外にも、以前にした医者としての失敗(コ
カインについての世間からの非難、患者を薬物中毒にしたこと、赤痢の患者を
ヒステリーと誤診したこと)とそれについての良心の呵責という題材が表現さ
れている。そういった、医師としての失敗をすべてひっくるめて、自分には責
任がないのだ、というのがこの夢のテーマである。

 このように、フロイトは、この夢が「イルマの治療がうまくいかないのが、
私の責任ではないといいのに」という願望をあらわしていると分析しました。
さらに彼は、多くの夢を分析して、「すべての夢は願望充足である」という結論
に到達したのです。この命題こそが、『夢判断』のメインテーマであり、フロイ
トの夢理論の真髄であるといってよいでしょう。
こう言われると、「そうだとすると、夢は楽しいものばかりということになる。
でも、実際には恐い夢や悲しい夢もあるじゃないか。」と反論したくなります。
この疑問については後でまた検討するとして、今はまず「願いごとがかなう夢」
について考えてみましょう。

 私たちは、毎日の生活の中でいろいろな願いを持ちながら暮らしています。
例えば、「すてきな彼氏ができたらいいな」とか「テストでいい成績をとれたら
いいな」とか「お金持ちになって高い洋服を着たりおいしいものを食べられる
ようになったらいいな」といったものです。このような願望は実現するものも
ありますが、すべてがかなうとは限りません。むしろ、人生は思い通りになら
ないことばかり多いように思えることもあります。
 ところでみなさんは、「かなわなかった願いが夢の中で実現した!」という経
験はありませんか?1つや2つは思い当たることがあるのではないでしょうか。
フロイトによると、このような「願いごとがかなう夢」は、小さい子供の夢に
多いのだそうです。以下にフロイトがあげた例をひとつ紹介しましょう。

子供の夢の例(『夢判断』より)
 22ヶ月になるヘルマンという名の男の子(実はフロイトの甥)の話。夢を見
た前の日は伯父さん(フロイトのこと)の誕生日で、ヘルマンは、さくらんぼ
うの入ったかごをプレゼントとしてさしだすように言われました。彼はそのさ
くらんぼうを食べたかったけれどもほんの少ししか食べさせてもらえませんで
した。翌日、目をさました男の子はうれしそうに「ヘルマン、さくらんぼう、
ぜんぶ食べちゃった。」と言いました。彼は、かごの中のさくらんぼうを食べる
夢を見たのです。

 上の例では、「かごに入ったさくらんぼうを食べたかった」というヘルマンの
かなわなかった願いが、夢のなかで実現されたわけです。
 「願いごとがかなう夢」とは少し違いますが、もうひとつ、分かりやすい夢
があります。それは、寝ている時の生理的欲求(喉が渇いたとか、おしっこが
したいとかいう欲求)を満たそうとする夢です。例えば喉が渇いているときに
水を飲む夢を見るとか、おなかがすいているときにご馳走を食べる夢をみるこ
とがあります。
 「願いごとがかなう夢」や「生理的欲求を満たそうとする夢」について、フ
ロイトは次のように説明しました。眠るということは、昼間の生活のいろいろ
な刺激から身を遠ざけて、体と心を休める行為です。ですから、外からの刺激
(強い光・大きな音・寒さや暑さなど)や身体の不快感(喉の渇き・体の痛み
など)が強く残っていると眠れません。また、「あのさくらんぼうを食べたかっ
た」というような、実現されなかった願いごとも眠りを妨げる心への刺激にな
ります。夢は、それらの眠りを妨害する刺激から睡眠を守るためのものと考え
られます。つまり、実際には満たされていない欲求があたかも満たされたかの
ような体験(例えば食べたかったさくらんぼうを食べるという体験)を作り出
して、眠ろうとする心が安心して眠り続けられるようにするわけです。
 このように夢は眠りを守り、安心して眠り続けるためにあるということです
が、そう考えるとうまく説明できるおもしろい夢があります。朝、目覚まし時
計を止めてからまた眠ってしまっているのに、夢の中では起きて歯を磨いてい
るというものです。この場合には「まだ眠っていたい」という欲求が、このよ
うな便利な(?)夢を見せてくれるようです。

夢の顕在内容と潜在思想
 私たちが実際に見る夢の多くは、子供の夢のように単純で簡単に説明できる
ものではなく、不可解で意味不明なものです。例えば前回紹介した「イルマの
注射の夢」もこういった夢のひとつです。このような夢は一見意味不明ですが、
詳しく分析してみると、その裏にはっきりと意味を持った内容が隠されている
ことがわかります。「イルマの注射の夢」では「イルマの病気の治療がうまくい
かないのが、私の責任でないといいのに」という願望が隠された内容でした。
このように夢の分析によってはじめて明らかになる隠された内容を、夢の「潜
在思想」と呼び、表面的な内容(夢の「顕在内容」)とは区別します。そして、
分析によって潜在思想まで明らかにすれば、不可解な夢も確かに願望充足であ
るとわかるのです。
 夢の顕在内容から潜在思想を知る方法が夢分析です。これは、「イルマの注射
の夢」でフロイト自身がしたように、夢の顕在内容の細部ひとつひとつについ
て夢を見た人が連想を働かせていき、それらをつなぎ合わせて潜在思想を構成
していく作業です。精神分析と似ていて、非常に根気のいる仕事であり、解釈
のための技法も必要です。また、分析の過程でさまざまな抵抗(分析を妨害し
ようという気持ち)と戦わなくてはならない点も同じです。なぜ抵抗が生じる
かといえば、夢の潜在思想というやつは、夢を見た当人にとって不愉快でそれ
が自分の気持ちだとは認めたくないようなものだからです。これについては、
またあとで説明することにしましょう。とにかくここで強調しておきたいのは、
夢分析というのは、夢の内容を話せば占い師がぴたりとそのメッセージを言い
当てくれる夢占いのようなものではなく、夢を見た人も分析に参加して苦労の
すえにその潜在思想をさぐりあてる作業であるということです。

夢の作業
 夢の顕在内容から潜在思想を知る方法が夢分析ですが、私たちの頭の中で夢
が作られるときには、まず潜在思想(隠された本当の意味)の方が先にあって、
それが変形されて顕在内容(私たちが実際に見る夢)が作られるものと思われ
ます。この、潜在思想から顕在内容を作り出す過程を「夢の作業」といいます。
それにしても、なぜ潜在思想がそのまま夢にはならずに「夢の作業」という歪
曲(形を歪めること)を受けなくてはならないのでしょうか。その理由は、夢
分析に対して抵抗が生じた理由と同じで、夢の潜在思想が、夢を見た人にとっ
て不愉快なものだからです。夢の潜在思想は当人にとって、不本意なもの、自
分の気持ちであるとは認めたくないようなものだからです。しかし、これこそ
は夢の本当の意味であり、願望充足(願いごとがかなうこと)であるはずなの
ですが……。
 この問題にはここではこれ以上立ち入らないことにして、まずは夢の作業が
どのようなものか、「イルマの注射の夢」を例に考えてみましょう。

4つの作業
 夢の作業には4つの過程があります。それは、(1)圧縮の作業、(2)移動の作業、
(3)戯曲化、(4)理解可能にするための整理ないしは解釈、の4つです。
(1)圧縮の作業
 夢の分析をしてまず分かることは、短い夢であってもその潜在思想は非常に
豊かで多くの考え・願望から成り立っているということです。逆に言えば、潜
在思想から顕在内容ができる過程で多くの内容が短い夢に圧縮されるというこ
とです。「イルマの注射の夢」でも、その潜在思想は「イルマの病気が治らない
のが私の責任ではないといいのに」というテーマを中心にして、ジフテリアや
赤痢という内臓の病気のせいにしたり、イルマを他の女性患者と比較したり、
イルマのことでフロイトに批判的だったオットーやドクター・Mをばかにした
り、最後にはイルマが未婚で性的に満たされてないことを病気の原因として持
ち出したりしています。また、フロイトの過去の医者としての失敗(コカイン
についての世間からの非難、患者を薬物中毒にしたこと、赤痢の患者を誤診し
たこと)についてもとりあげて、夢の中で弁解しています。
 このような豊かな潜在思想が圧縮されて顕在内容が作られたのですが、長い
ものを短くする過程では、いろいろなおかしなことや分かりにくいことが生じ
てきます。例えばイルマと他の女性患者が合成されて口を開けるのを嫌がるイ
ルマになり、ドクター・Mとフロイトの兄が合成されて髭のないびっこをひい
たドクター・Mになる。こういった「混合人間」は、夢の圧縮作業の中でしば
しば作り出されるものです。
(2)移動の作業
 潜在思想の中で一番重要なところは、顕在内容では些細でどうでもよさそう
な細部に表現されます。このように力点を移して、夢の本当の意味をわかりに
くくするのが移動の作業です。「イルマの注射の夢」でも、「口の中の白い斑点
と灰色のかさぶた」「トリメチラミン」といったものが実はとても重要な意味を
もっています。
(3)戯曲化
 夢の潜在思想は、例えば「イルマの病気の責任はオットーにある」のように
言葉で表現できる観念(考え)の集まりですが、これが顕在内容になるとある
一連の映像として体験されるようになります。私たちは夢を考えるのではなく、
文字どおり夢を「見る」のです。このように考えを映像に変えることを、夢作
業による戯曲化あるいは退行といいます。この、考えが映像として体験される
ということは、夢の最大の特徴のひとつであり、昼間の生活ではおこりえない
ことです。この特徴にこそ夢の秘密が隠されているといってもいいのですが、
これについてもまた後で説明しましょう。
(4)整理ないしは解釈
 夢のさまざまな潜在思想が、圧縮され、移動され、戯曲化されただけでは、
夢の顕在内容は、ばらばらでちぐはぐで理解不可能なものになってしまうでし
ょう。実際、そういうまったく意味不明の夢もあります。しかし多くの夢は、
いろいろと矛盾や奇妙な点はありながらも一応ひとつのストーリーをもってい
ます。「イルマの注射の夢」にしても、変な夢ではあるけれど、なんとか体裁は
整えています。このように、顕在内容がそれだけである程度理解可能なように
体裁を整える作業を、整理ないしは解釈の作業といいます。

 以上のような4つの夢作業は、順番におこるのではなく、同時進行的になさ
れます。また4つのうちどの作業が多くなされどの作業があまりなされないか、
といったことは個々の夢によって異なります。

夢作業の目的――夢の歪曲
 さて、ここでなぜ夢の作業がなされねばならなかったのかという問題につい
てもう一度考えてみましょう。夢の作業は、夢の潜在思想を圧縮し、移動し、
戯曲化することにより夢の持つ本来の意味をわかりにくくしようとしているよ
うに思えます。また、整理ないしは解釈という作業によって、できあがった顕
在内容はまったく別の意味を持つものになってしまいます。
 夢作業の目的のひとつは、夢の潜在思想を歪曲して、その意味を覆い隠そう
とすることのようです。ではなぜ潜在思想は隠されなければならないのでしょ
うか。それは、この潜在思想(それはある願望なのですが)が、私たちにとっ
て実に不愉快きわまりないものに思えるからなのです。しかし、その不愉快に
思う潜在思想というのも、当然のことながら私たち自身の心から生まれたもの
のはずです。いったいどうなっているのでしょうか。
このような心の不可解性を解明することにこそ、精神分析学の真骨頂が発揮
されます。フロイトはこう考えました。潜在思想は、ずっと昔、個人が幼児で
あったときに生じた願望である、と。それは、成人してからの意識的な心的生
活においては不愉快な内容と感じられるようになったために、抑圧されてしま
ったのです。しかし、それは消え去ってしまうわけではなく、むしろ無意識に
おいて存在し続けているのです。幼児的な願望が、成人になっても無意識にお
いて存在し続け、私たちの生活のいろいろなところに大きな影響をおよぼして
いる、こういった考え方は精神分析学の基本です。
無意識的・幼児的願望はただ静かに存在しているだけではありません。それ
は常に充足を求めて、そのために自らを意識的な生活の中に表現しようとしま
す。そのために、ここで対立が生じます。自らを表現しようとする無意識で幼
児的な願望と、それを阻止しようとする傾向(フロイトはこれを「検閲」と呼
びました)との対立です。もっとも、こういう対立を私たち自身が意識するこ
とは普通ありません。また、この対立は、昼夜を問わず行われていますが、通
常日中はほとんど検閲する側のほうが勝利をおさめ(といっても相手を消滅さ
せてしまうような完全な勝利ではありませんが)、幼児的願望は「しくじり行為」
(これについては後述)などを通して、控えめな形で自己主張できるだけです。
(幼児的願望の力があまりに強くて、昼間の生活を大きく妨害してしまうと、
先に述べた神経症などの精神疾患になってしまいます。)一方、夜間は人が眠り
につくと、精神活動自体が全体的に不活発になります。この際、特に検閲をす
る側は力を弱めますので、幼児的願望にとっては自己表現のチャンスがやって
きたことになります。幼児的願望は、夢によって自らを表現し、願望を充足さ
せることができますが、それでもやはりそのままの形で、というわけにはいき
ません。昼間よりは弱体化したといえどもなお目を光らせている検閲をかいく
ぐるために自らを歪曲し、偽装した形で自己表現をすることになります。

夢作業のもう一つの(というより本当の)目的――願望充足
 「すべての夢は願望充足である」――わたしたちは、この仮説から出発して、
夢の潜在思想にまでたどりつきました。そして、この潜在思想とはずっと以前
に抑圧された幼児的な願望だとわかりました。
 残る問題は、潜在思想である抑圧された願望が、どのようにして夢の中で充
足されるかということです。先ほど、4つの夢作業について述べた際に、どの
作業が多くなされどの作業があまりなされないかといったことは個々の夢によ
って異なる、といいました。また、子供の夢のようにほとんど歪曲がなされな
い夢もあるということも述べました。しかし、どんな夢であってもほとんど必
ずうける変化があります。それは3番目夢作業、戯曲化(あるいは退行)です。
これによって、ある願望は、その願望が現在満たされている場面として体験さ
れるのです。もっとも単純な子供の夢についていえば、「さくらんぼうを食べた
かった」という潜在思想=願望は、「さくらんぼうを食べている場面」となって
夢の中で体験されるのです。


 そもそも「願望」とはなんでしょうか。そしてそれが「充足される」という
のはどういうことなのでしょうか。フロイトの定義によると、願望とは、ある
種の知覚の再出現を求める営みです。わかりにくいので、例として「ケーキを
食べたいという願望」について考えてみましょう。ケーキを食べるとき、私た
ちはその形を見て、そのにおいをかぎ、口に入れて味を感じ、噛んで飲み込む
時の舌や喉の感触を楽しみます。この場合、私たちが求めているのは、ケーキ
を食べるという行為そのものではなく、ケーキについての視覚、嗅覚、味覚、
触覚その他の知覚を体験することです。すなわち「ケーキを食べたいという願
望」の目的は、「ケーキにまつわる知覚を出現させる」ことであります。さらに、
考えてみれば、私たちがケーキというものをイメージして、それを食べたいと
思うのは、私たちがすでに何度もケーキを体験していて、それにまつわる良い
印象をもっているからでしょう。このように、すべての願望の目的は、ある種
の知覚(例えばケーキにまつわる知覚)を再出現させることであり、それが実
現されることが、願望の充足であるといえます。
 普段の生活において、私たちは実際にケーキを買ってきて、それを口に放り
込むという「行為」によって、願望を充足させています。しかし、例えば私た
ちがテレビや映画を見て楽しむ時にはどうでしょうか。この場合、私たちはた
いした行為をしていませんが、画面の中でくりひろげられる出来事を自分が体
験しているかのような気持ちになり、それを楽しんでいます。そこでは、例え
ば「正義の味方として悪漢をやっつけ、宝物を手に入れたい」といった願望が、
映像の中で充足されることになります。夢における願望充足は、今あげた例に
似ています。そこでは、行為によって現実を変革することなしに、直接的に望
む知覚が再出現します。それは、原始的で手っ取り早い願望充足ですが、現実
とのかかわりから解放された夢の中でこそできるやり方なのです。私たちは、
日中いろいろな制約の中で、苦労の割にはほんの少しの願望しか満たされない
状況に甘んじて生活を送っています。睡眠中、現実の制約から自由になった私
たちは、夢の中で存分に(といてもやはり制約はあり、だからこそ歪曲が必要
になるのですが)、幼児的な願望を充足させているのだともいえましょう。

 本日のセミナーはこのへんで終わりにします。次回は、「しくじり行為」につ
いて勉強しましょう。

参考文献
『夢判断』(1900)著作集2、新潮文庫()などに収録。フロイトの事実上の
「処女作」であり、彼が生涯愛着を持って改定を重ねた著作のひとつ。文庫版でも
出ているので、是非ともお手元にどうぞ。
『夢について』(1901)講談社学術文庫『夢と夢解釈』著作集10に収録。上記の
直後に著されたコンパクト版。こちらの方が読みやすいかも。
『精神分析入門』(1917)著作集1、新潮文庫()その他に収録。文庫版に
なっているしその題名からもフロイトの著作として最初に手にとる人が多いでしょう。
しかし、かなりの大作なのでいきなりここから入るのはつらいかも。夢については
第5章から第15章とかなりのページ数をさいて説明しています。

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