第5日 症例の研究


 フロイトは40年余りにわたって精神分析についての研究活動を行い、膨大な
著作を残していますが、その知識の源泉はと言えば、もっぱら精神分析医とし
ての臨床の実践です。彼は治療したケースのいくつかを症例報告として発表し、
その考察から分析理論における重要な鍵概念を導き出しています。どの症例も
非常に興味深いものだったので、後の研究者らによって様々な角度から検討さ
れ、その後の精神分析の発展に役立ってきました。今回は、フロイトの主な症
例についてごく簡単に紹介します。といっても、簡潔にまとめるのは困難です
し、是非ともみなさんに実際に読んでいただきたいものですから、そのための
「読書案内」のようなものにしたいと思います。
 でははじめましょう。



『ヒステリー研究』の症例1895年、著作集7に収録)
 初日にも説明しましたこの著作には、以下の5症例が掲載されています。
 1.アンナ・O.嬢(ブロイアー)
 2.エミー・フォン・N.夫人(フロイト)
 3.ミス・ルーシー・R(フロイト)
 4.カタリーナ(フロイト)
 5.エリザベス・フォン・R(フロイト)
 もっとも有名な「アンナ・O」(もっともこれはブロイアーが治療した症例で
すが)については初日に紹介しました。これらの症例はどれも比較的簡潔にま
とまっていて、最初に読むにはよいでしょう。疾患の原因となった外傷体験を
さぐっていくところには、推理小説のようなおもしろさがあります。例えば症
例4では、名探偵ポワロが休暇先で殺人事件に巻き込まれるように、フロイト
も避暑地で神経症症状に悩む少女に出会います。短い精神分析的対話によって
彼女の症状の原因をつきとめていくくだりは圧巻といえましょう。これらのケ
ース・レポートは症例自体が興味深いだけでなく、精神分析誕生のいきさつに
ついて知ることができるという点でも大変勉強になります。



ドラ(『あるヒステリー患者の分析の断片』1905年、著作集5に収録)
 さまざまな身体症状や自殺企図などの症状を呈した、18歳の娘をフロイトが
治療した経過についての論文です。ドラの見た2つの夢について、詳細な分析
がなされ、それを通じて真実が明らかにされていきます。推理小説というより
は、「昼ドラ」のようなどろどろした話です。フロイトによる治療はクライマッ
クスにさしかかったあたりで、患者によって中断されてしまいました。このこ
とについては、後の研究者から「治療における失敗だったのではないか」とい
う批判もあります。思春期・青年期症例の特性、転移を扱うことの難しさとい
ったことを教えてくれる症例です。


ハンス(『ある五歳男児の恐怖症分析』1909年、著作集5)
 前回「少年ハンス」として少し紹介しました。フロイトのアドバイスのもと
(こういうことを分析治療では「スーパービジョン」といいます)、ハンスの父
親が「馬恐怖症」になった5歳の息子を分析した経過についての記載と考察で
す。ここでは、小さな男の子がお母さんに愛着を抱き、その結果父親を邪魔者
と感じているということが恐怖症の中心的な原因とされます。少年がこのよう
な気持ちを抱くのは、かなり一般的にみられる現象であるとして、後に「エデ
ィプス・コンプレックス」と呼ばれ定式化されることになります。また、この
症例は子供の神経症の詳細な分析例としてはおそらく初めてのものあり、アン
ナ・フロイトやメラニー・メラニークラインらが、児童を対象とした精神分析
を発展させる際にお手本となりました。



鼠男(『強迫神経症の一症例に関する考察』1909年、著作集9)
 フロイトの分析を受けた、29歳男性の強迫神経症の症例です。強迫神経症と
は、自分でもばからしいと思いながらどうしても気になる考え(強迫観念)が
浮かんだり、その考えから身を守るために儀式的な行為(強迫行為)を繰り返
したりしてしまう病気です。この症例の場合には、「自分の父親と恋人の何か悪
いことがおこるのではないか」という考えが繰り返し沸きあがり、その「悪い
こと」を防ぐために、勝手に思いついた命令を自分に課して苦しむのでした。
彼は、軍事訓練に参加しているときに、ある大尉から東洋で行われる残酷な刑
罰のことを聞きました。それは、罪人の肛門に鼠をもぐりこませるというもの
でしたが、それを聞いたとたん彼の頭からそのことが離れなくなりました。こ
の症例が「鼠男」というニックネームで呼ばれるのはこのためです。鼠男は、
ある人物に金を返さないと鼠の刑が父親と恋人に執行される、という強迫観念
に悩まされました。彼には、そのことがくだらない思いつきだと判断する理性
も持っていながら、そういった考えを振り払うためにはいつもやっている「儀
式的行為」に頼らざるを得ませんでした。分析によれば、病気の原因は、彼が
強く愛していた父親に対して、無意識においては強い憎しみが向けられていた
というところにありました。また、強迫神経症一般にみられる特徴として、「思
考の万能」、「思考の性愛化」といった概念についての説明があります。
鼠男は、フロイトにとって特別な症例だったようで、彼にしては例外的に、
分析治療の直接的診察記録(カルテのようなもの)が残っています。

シュレイバー博士(『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に
関する精神分析的考察』1911年、著作集9)
 フロイトが精神分析治療の対象としてきた精神疾患は、ヒステリー、恐怖症、
強迫神経症など、主に「神経症」と呼ばれる範疇に属するものでした。会話を
その治療の中心におく精神分析においては、患者の側が自分のおかれている病
気という現実を理解した上で、治療に主体的にかかわっていく必要があります。
ですから、妄想や幻覚などによって現実の認識自体が大きく歪められてしまう
ような種類の精神疾患を精神分析で治療することは困難とされてきました。も
っとも、フロイト自身も偶発的にこれらの疾患と関わりをもつことが何度かあ
り、分析治療の継続は困難ながら、精神科医としてこのような重症の疾患に強
い関心をいだいていたようです。
 一方、ダニエル・パウル・シュレイバーは、知性の高い男性で法律学校を卒
業して裁判官として活躍していましたが、42歳の時に精神変調をきたしました。
「重症心気症」という診断のもと、医師フレヒジヒの治療を受け、一旦は回復
して社会復帰をはたします。ところが、51歳頃から再び誠心症状が悪化し、こ
んどは重症の幻覚妄想病状態となり、精神病院で長期療養をすることになりま
した。彼は、入院生活中に自分の病的な体験について手記を執筆し、後に退院
してからこれを『回想録』として出版します(邦訳:『ある神経病者の回想録』
ダニエル・パウル・シュレーバ著、筑摩書房)。この本は当時から、専門家の間
でずいぶん評判になったようですが、フロイトも興味をしめし、その妄想内容
に独自の分析を加え、1911年に発表しました。ですから、これは正確には「症
例報告」ではないのですが、一般的にはフロイトの症例のひとつと数えられて
います。
 フロイトは、シュレイバーがフレヒジッヒ医師に対して抱いた迫害的妄想を、
彼の同性愛的欲動興奮のあらわれであると分析し、これこそが彼の発病に決定
的な重要性をもつ要因であるとしました。フロイトは、この考えを一般化し、
妄想性の精神疾患(精神分裂病やパラノイア)において同性愛的欲動興奮が病
因として重要な役割を果たすという仮説を立てました。さらに、人間のリビド
ー発達の一段階として「ナルシシズム(自己愛)」の段階を想定し、そこから「同
性愛的な対象選択」の段階を経て、最終的に「異性愛的対象選択」にいたると
いう定式化を行いました。妄想性精神疾患においては、リビドーの退行が自己
愛の段階にまでさかのぼり、そのため対象に備給されたリビドーは撤回されて、
外界のすべてが崩壊するように感じられます。そこから回復し、世界を再構築
しようとする努力が妄想形成ですが、そこではリビドー発達の中間段階である
同性愛的対象選択への固着が妄想内容に反映されることになります。


狼男(『ある幼児期神経症の病歴より』1918年、著作集9)
 フロイトの分析した症例について、その幼児期の神経症にスポットを当てて
考察を加えたもの。有名な、「木にとまっている狼の夢」について詳細な分析が
なされることから、「狼男」と呼ばれます。この夢の分析から、その精神病理の
中心は、彼がほんの幼い頃に目撃した「原光景」(両親の性交の場面)にあると
いうことが明らかになります。「原光景」については、それが実際の目撃による
ものなのかあるいは幼児によるファンタジーなのかといった点や、その普遍性
(どんな子供もそういったファンタジーを抱くものなのか)についていろいろ
な議論が起こりました。また、この症例の治療は難航し、フロイトの手を離れ
た後も、有名な分析家の治療をいくつか受けています。狼男は後にそれらの体
験について回想録を執筆し、老後は自分がフロイトに分析された有名な症例で
あることをネタにして生活していたようです。(詳しくは著作集9に掲載され
ている小此木啓吾(日本の精神分析学界の大御所)の解説を読んでください。)

 最初にいったように、これらの症例報告は、是非とも実際に皆さんに読んで
いただきたいものです。はじめに読むには、最初の3つ、すなわちヒステリー
研究の症例、ドラ、ハンスが適当でしょう。一方、鼠男、シュレイバー、狼男
の3症例は、どれもフロイト理論を理解する上で極めて重要なものですが、最
初の3つに比べるとかなり難しいです。歯が立たなかったらあきらめて、もう
少し勉強してから再度挑戦するというのも良いでしょう。
 また、これらの症例については、いずれ別のコースのセミナーで取り扱う予
定もありますので、ご期待ください。
 では、本日はこれくらいで。




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