Widows3.1の時代になった。話題のDOS-Vパソコンを手に入れ、Widowsの環境設定に明け暮れていた頃は楽しくもあり苦労も多かった。 早速Turbo
Pascal for
Windowsを手に入れる。しかし、Windowsプログラミングの壁は想像以上に大きいのであった。
Widowsのような高度なグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)を持つシステム用にプログラムをするには、プログラム言語に習熟するだけではだめなのである。そのGUIを操作するために開発されたライブラリを使いこなせなくてはならないのだ。
Turbo
Pascal for Windowsには、Object
Windowsというライブラリが付属していた。これは、当時Microsoft
CでWidowsプログラミングをするために提供されていたライブラリよりは、ずっと簡便なものであるとの歌い文句であったが、それでもかなりややこしかった。 教則本に日夜取り組んで見本のプログラムを打ち込むのであるが、例えばダイアログボックスにリストボックスを組み込んでそこにアイテムを表示させるといったような事柄をするにもけっこう面倒な手続きがいる。なかなか実質的なプログラムの部分にたどりつけずに、いらだつ日々が続いた。
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2006-12-31 10:08 |
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この記事の題は、「不気味な女性器」にしようかと思った。しかし、記事の題はいろいろな検索等でひっかかってくるので、公序良俗に反するサイトと誤解されても困る。
別の方面からの反発も予想される。「『女性器が不気味だ』などとは、女性蔑視でありけしからん」といった声である。
フロイトは、男女の心理学的違いといったことにもしばしば考察をめぐらし、その際に女性蔑視ともとれなくはない発言をして、いろいろと批判されている。 ただ、ここでは男女というファクターと、個人ごとに多様性を示す心理学的特徴との相関について、学問的に検討しているのである。社会において、男女が同等の権利と機会を持つべきであるという主張とは直接関係はないのである。
という前置きの後に引用。
神経症の男性が、女性の性器は自分にとって何かしら不気味だと断言するということがしばしば起こる。この不気味なものは、しかし、人の子にとっての古の故郷への入口、誰もがかつて最初に滞在した場所への入口なのだ。(p41)
そこから出てきたのだから「出口」であるようにも思うが、「入口」ということで近親相姦的欲望を暗示しているのだろうか。 女性器の不気味さは、去勢との関連から(つまり女性器=ペニスを切り取られた状態)論じられるのかと思いきや、そうきたか。まあ、近親相姦と結びつけると同じところにたどりつくのだが。
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2006-12-31 10:06 |
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いろいろやっているうちに日本語環境でもプログラミングがしたくなり、デスクトップMS-DOSパソコン用に、Turbo
Pascal6.0を購入。こちらのソフトも使いやすい、というかこちらが本家だったのかも。教則本もいくつか買ったが、やはり洋書の方がよくできている。"Turbo
Pascal7.0"という電話帳のように分厚い本を購入して、大体最後までやり遂げた。
Turbo
Pascalのウリは、簡単でありながら本格的なオブジェクト指向プログラミング(OOP)を実現していること。上記の教則本でも、OOPとはなんぞやという解説に多くの紙数をついやしていた。 なんでも、OOPというのはこれまでの構造化プログラミングと違い、人間の思考法に近い革新的な技法なのだとか。変数と関数をまとめて完結したオブジェクトをつくり、それらを有機的に階層化されたまとまりにしていくことで、複雑になってもわかりやすいプログラムができるのだという。 理屈としてはわかった様な気もするが、実際にどう使いこなすのかはよくわからない。というか、日曜プログラマーのレベルでそこまでする必要はないのであろう。ただ、後にDelphiを使うようになって、そのしくみを理解するのに役に立ったような気はする。
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2006-12-30 13:08 |
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死や死体の不気味さについて考察がなされる(p36-37)。
ここは次の「快原理の彼岸」でもたっぷり論じられるところなのでさらりと行こう。死とはもともと積極的な概念ではなく、生との対比において初めてでてきたものであるというのがフロイトの持論のようだ。つまり、人間は死を、勝手に大層なものとみなしている。そこに独特の意味を創り出している。
おそらく人だけが、死体を不気味に思う動物であろう。不気味に思うのは、そこに霊を感じるからであろう。霊は、喜ばしく、かつ怖ろしい。喜ばしいのはその人とまた会えるからであり、自分が死んだ後にも存続できるからである。怖ろしいのは復讐されるからである。 死体が帯びる不気味さには、そういった両価性がある。
死は、「殺す」ということとも結びついている。死体を前にした人間は、その者を自分が殺したのではないかと、実際には殺してなくても、そう思う。それは、自らの中に殺したいという欲望があったからである。心理学的には、自分が彼を殺したのであるから、彼からの復讐を怖れるのは当然なのである。
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2006-12-30 08:52 |
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現在趣味といえるようなものはない、と述べた。過去のことはどうかというと、今から10年以上前になるが、プログラミングの真似事みたいなことに熱中していたことがある。 出始めのノートパソコンを購入したところだった。CPUはIntel386SXを積み、640×480ドットの白黒液晶画面。出始めた頃のWindowsは3.0を走らせても、一応動くというだけで実用的ではなかった。日本語MS-DOSだけでなく英語MS-DOSを動かせる機種だったので、なにか面白そうなソフトはないかと探すと、"Quick
Pascal"というものが1万円程で売っていた。Pascalなら大学の情報科学とかで少しだけ学んだことがある。プログラミングとはどんなものか興味があったので購入してみた。
ここで、少し詳しい方なら、「Quick
Pascal?"Turbo Pascal"か"Quick
Basic"の間違いじゃないの?」と尋ねてくるかもしれない。 当時、プログラミング・ソフト(コンパイラ)の分野では、Microsoft社とBorland社が競争しており、初心者向け言語としては、前者がBasic、後者がPascalに力を入れていた。 "Quick"というのは、Microsoftが一般向けのコンパイラ製品のシリーズにつけている名称で、"Quick
C"と"Quick Basic"が有名だったが、欧米では"Quick
Pascal"という製品もだされていたのだ。
私が購入したQuick
Pascal3.0は、エディタとコンパイラの統合環境が使いやすいよくできたソフトであったが、それ以上に感心したのは付属している初心者向けのPascalの教則本("Pascal
by
Example")がすばらしかったことである。 まったくの初心者が、構造化プログラミングの基礎を、ローカル変数のスコープ、メモリのしくみやポインタの概念、ファイルやグラッフィックの扱い方など習得できるように、簡潔でわかりやすいプログラム例とともに解説されている。 主観的評価としては、星4つほど与えたいぐらいだ。
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2006-12-29 11:11 |
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フロイトは、ホフマンの「砂男」の他にもたくさんの「創作された不気味さ」の例をあげて分析している。 現実の不気味さと、創作された不気味さとは区別して考える必要がある。創作された不気味さの方が、はるかに豊かな感情を含んでおり、抑圧された幼児期のコンプレクスと関連したものが多い。同じような題材、例えば無生物が動きだす、ということが作者の設定如何によって不気味になったり楽しく滑稽なものになったりする。
フロイトは明確には述べていないが、ここには「そもそも人はなぜ創作された不気味さを求めるのか」という問題と、その答えが両方含まれている。 芸術の中に不気味さをひきおこす素材が豊富に存在するということは、とりもなおさずそれを求める人がいるからだ。そして、われわれが不気味さを求めるのは、それがかつての親密なものであり、抑圧の後に両価性を帯びるようになったからであろう。現実の不気味さは嫌でも、フィクションという安全保障のある条件では、不気味さを楽しむことができるのである。
今日においても、「ホラー」と呼ばれる分野の小説、漫画、テレビや映画などがひっきりなしに創作され、多くの人がそれを見たがっている。
こういうと、創作においては不気味以外にも不快な要素が存在するではないか、例えば「悲劇」はどうだ、と反論されるかも知れない。 悲劇すなわち創作された悲しみは、不気味さの場合とは違う。それは大抵、「喜び」ということと対になってあらわれるのであって、人が求めているのはむしろその喜びの方なのであろう。一番多いのは、禁じられ不幸な結末に終わった恋愛の話だが、この例では悲しみによって恋愛感情がより高まり強い余韻を残す効果をあげるのである。
創作された不気味さは、悲劇とは違い、それ自体が欲求の対象となるのである。
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2006-12-29 00:35 |
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論文「不気味なもの」にはいろいろな引用があるが、そのひとつにエルンスト・マッハの「感覚の分析」がある(p47の原注)。
マッハというのは、音速「マッハ」の語源ともなった物理学者(1838-1916)で、「マッハの原理」という考え方によって、相対性理論の構築の道をひらいた人だそうだ。 「マッハ哲学」と呼ばれる独特の哲学でも有名で、その代表的な著作が「感覚の分析」である。
そのマッハをフロイトが読んでいた、ということだが、どういう影響を受けたのか受けなかったのかはわからない。上の引用は、鏡に映った自分の姿を他人と勘違いして不快に思ったという日常的体験をマッハとフロイトが共有したということで、あまり本質的なところではない。
マッハ哲学については私は何も知らないので、二人の思想の共通点を論じることはできない。「感覚の分析」も手に入れてみたが、難解でわからない。
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2006-12-28 12:10 |
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「レ・ミゼラブル」の次に読んだのは結局この本。たまたま立ち寄った、さほど大きくはない本屋の棚で見つけたというだけで、選択に深い意味はない。
「ジーキル博士とハイド氏」 スティーヴンスン著 海保眞夫訳 岩波文庫 ★★★
注:幸いにしてこの本の筋をまったく知らず、これから楽しみたいという方は、これ以上読まれないことをお勧めします。
この本については、実際に読む前にあまりにも多くの引用や言及に触れていたので、すっかりある種のイメージを抱いてしまっていた。実際に読んでみると、話に聞いていたのとは違う。多重人格の例として引かれることが多いが、厳密な意味でのそれとは違い、むしろサイエンス・フィクションといってもよいのではないか。それなりにはおもしろかったが、やはり先入観が興味を半減してしまう。誰もが結末を知っている推理小説を読むようなものかな。
作者スティーヴンスンは1850年生まれで、この作品を書いたのが1886年。フロイトが1856年生まれで「夢解釈」が1900年だから、彼がフロイト理論の影響をうけたということはない。こんなことをいうのも、この小説で描写されている、意識的精神生活に押さえつけられた危険な衝動というところが、とてもフロイト的に思えたからだ。 フロイト自身も無意識や精神の多層性についての考えについて、自分が最初に発見したと主張しているわけではないと述べ、文学や哲学にすでに多く同様の洞察があることを強調している。
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2006-12-28 00:17 |
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「不気味なもの」では、反復強迫の説明のところでマーク・トウェインの著作にちらりと触れられている(17-31)。 フロイトがこの作家のことを引用するのはここだけではない。良書についてのアンケートに答えて挙げた10冊にもトウェインの著作が含まれている(全集第9巻に収録予定の「アンケート『読書と良書について』への回答」)。他に、「日常生活の精神病理学」、「機知」、「精神分析運動の歴史」および「文化の中の居心地の悪さ」に言及がある。(標準版の索引にて調査)
フロイトがマーク・トウェインを好んでいたとしたら少し意外な気もするが、よく考えると納得できるところもある。 誰もが忘れかけていた少年時代の心情を活き活きと蘇らせるのが、彼の小説の魅力であり(といっても私自身「トム・ソーヤ」と「ハック」くらいしか知らないが)、この失われ忘れ去られた幼少期というのはフロイト理論の重要なテーマだからだ。
で、マーク・トウェインの代表作「ハックルベリー・フィン」の主観的評価。
「ハックルベリー・フィンの冒険」マーク・トウェイン著 西田実訳 岩波文庫(上・下) ★★★★
これは理屈抜きでおもしろい。少年向けという体裁をとっているが、むしろ大人が少年時代の気持ちにかえって楽しむための本ではないか。ハックとジムがミシシッピー川を下る冒険談だが、途中2人のペテン師と出会ってからの騒動がめちゃくちゃおもしろかった。電車の中で読みながら「ヒヒヒヒ」と笑いだしてしまい、必死にこらえようとすると顔がゆがみ涙が出てきて、周りから見たら変な人だったろうな。
フロイトもこの本を読んでにやにやしていたのだろうか。
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2006-12-27 08:52 |
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不気味さをひきおこす要因としての反復強迫についての言及(p30-p32)。
反復強迫とは、欲動の最も根源的な性質として後期理論に導入された概念であり、次の「快原理の彼岸」で詳しく論述される。「不気味なもの」のこの部分は、その先駆けである。 フロイト自身の体験談も交えて、同じ道に何度も戻ってしまうことの不気味さや、同じ番号が繰り返しあらわれる偶然の不気味さなどの例があげられている。 誰もが経験したことのあるような例でわかりやすい。しかし、それがどうして不気味なのかというところはよくわからない。
ここで私流の解釈を述べる。おそらくは不正確なものなので、フロイトの言葉を理解する上で訳に立つなら参考にしてください。
反復を求めることが人間心理の根本的性質であることは、幼児が好んで反復的な遊びをすることなどから推察される。後に、成熟した心理はこの根本的性質を否定しようとする。すなわち、心は創造的で独創的で新奇なものを求めるのであって、反復的なものは退屈で無意味であると。このような常識的理性的観念によって普段は否定されているところの反復への根源的欲求が、運命のごとく外から押しつけられるように体験される際にわれわれは不気味さを感じる。 かつてわれわれは、反復を欲していた。また、かつてわれわれは自らの思考や欲望が直接現実になることを信じていた(思考の万能)。 成熟した心はそれらのことを否定している。だからこそ、それが目の前に現れるとぞっとするのである。
不気味さとは、われわれが現在目の前にしている現実の隙間から、かつて慣れ親しんだ根源的な世界がもれ出てくる時に体験される感情であろう。
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2006-12-26 08:40 |
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ヘルマン・ヘッセの小説は、文庫本になっているものはおおむね読んだ。どの作品もとても丁寧に作られていると感じる。著者自身が大きな精神的悩みを乗り越えてきた、その人生観が反映されているのだが、それでいて重苦しいわけでも恨みっぽいわけでもなく、最後には明るい気持ちにさせてくれる。(ただし「車輪の下」は別。)
ここでまとめて主観的評価。どれも新潮文庫で高橋健二訳。ヘッセの作品は主人公の名前を題名にしているものが多いが、訳者が別の題名をつけているのもあるので、カッコ内にもとの題名を示した。
「デミアン」★★★★☆ 「知と愛(ナルチスとゴルトムント)」★★★★☆ 「郷愁(ペーター・カーメチント)」★★★★ 「春の嵐(ゲルトルート)」★★★★ 「クヌルプ」★★★★ 「青春は美わし」★★★★ 「荒野のおおかみ」★★★☆ 「メルヘェン」★★★☆ 「車輪の下」★★★
「車輪の下」が星3つになっているのを不思議に思う方があるかもしれない。これは、日本では一番売れているヘッセの作品だそうだ。 この星3つは複雑な思いでつけた。もう二度と読みたくないという意味では星1つかもしれないし、大きな感情を掻き立てたという点では星4つと言えるかもしれない。とにかく、これほど救いようのない悲しさに満ちた本ははじめてだ。これはヘッセの自伝的意味合いの強い作品とのことで、過去の苦しみを乗り越えるために書く必要があったのかもしれない。 「車輪の下」が一番売れているということは、ヘッセはこれしか読んだことないという人も多いということか。だとしたら残念である。私だったら、初めて読む人には上の星4つの作品をすすめたい。 「デミアン」はちょっと不思議な作品だ。主人公のシンクレールがデミアンに抱く感情はまるで恋愛感情のようである。ヘッセが描く男同士の友情には、どこか同性愛的な雰囲気があるように思うが、この小説では特にそれが顕著であった。だから気持ち悪いというのではなくて、私は好ましいと感じた。 「知と愛」は、ヘッセ作品の集大成という趣で、放浪、欲望と禁欲、男の友情、芸術と宗教といったテーマがつめこまれている。結末もなかなかよかった。 「荒野のおおかみ」は、病的精神をテーマにした意欲作。作者自身かなり重要な作品と位置づけているようだ。いろいろおもしろい要素を含んでいるが、意味不明のところも多くて理解しづらかった。
ヘッセの重要な作品でまだ読んでいないものとしては、ノーベル文学賞に輝いた晩年の大作「ガラス球演技」がある。これもかなり特殊で賛否両論の小説のようだ。現在新刊書としては出ておらず、古書では角川文庫版と高橋健二訳全集のものがあるようだが、いずれも手に入りにくい。進行中の新しいヘッセ全集を待つことかな。高橋健二訳のものが新潮文庫に入ってくれると一番いいのだが。
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2006-12-25 08:50 |
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読書 |
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このブログの記事を書くのに使っている3つのパソコンの1台が、起動しなくなった。WindowsXpパソコンなのだが、起動したところブルーのスクリーンに白文字の英語で、「この画面をはじめて見る場合は再ブートしてください。2度目の場合は‥‥」などとあり、「新しくインストールしたハードウェアのドライバに問題がある」とか、BIOSがどうとか、あとは意味不明の符号の羅列が書かれている。 新しいハードウェアを組み込んだわけでもなく、ソフトウェアをインストールした覚えもない。 不吉な予感の中、電源落として再起動。すると問題なく立ち上がった。ただ、「Windowsは、致命的なエラーから回復しました。このエラーをMicrosoftに報告しますか」というダイアログ。報告送信。なんだか問題なさそうなので、普通にネットをはじめる。すると、すぐに先ほどのブルーの画面が。しかも今度は、文字がぶれたりして画面自体もきれいに表示されてない。内容は1度目と同じようだ。電源落として、再度投入。しかし、パソコンはウーンとうなるがもはや起動しなかった。
こういうことが突然おこるから困る。まだまだパソコンは不完全な代物と思う。これまで数々の困難に遭遇してきたおかげで、今回はわりと冷静に対応できた。 今この記事はMacで書いている。いくつかのパソコンを普段から併用しておく、これが一番の防衛策だろう。 クラッシュしたパソコンは、ファイルのレベルでの壊れ方であれば救いようがあるだろう。CDから臨時に起動してCドライブを見て必要なファイルを救い出してから、購入時の状態に戻すことができるかもしれない。でも、今はめんどうくさくてやる気がしない。 大事なファイルは外づけハードディスクに保存してある。デスクトップにあるいくつかのファイル、これはどうということはない。一番困るのは今までに来たメールが見れないことかな。こういう時は、ブラウザ上で見れるメールが便利だ。
今年はすでに一つパソコンを壊している。こちらはWidowsMeのノートパソコンで、かなり古くてネットさえ十分にできなかったからさほど惜しくはなかった。しかしやはり突然うんともすんともいわなくなったので、いくつかのファイルは外部に保存されていない状態だった。この時は、パソコンを分解してハードディスクを取り出し、市販の内蔵ハードディスクを外付けにするキットに組み込んでみたら見事に認識され、ファイルを救い出せてめでたし。(このことを真似される場合には自己の責任において行ってください。メーカー製のパソコンを自分で分解などすると、保証や修理が受けられなくなることもあるでしょう。)
あとは、USBメモリーがひとつ突然壊れた。これはどうにもならなかった。有料でファイルを救い出してくれるサービスもあるようだが、値段に見合うほど重要なものでもなかったのであきらめた。
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2006-12-24 10:20 |
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趣味など
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「人気blogランキング」というのに登録をしてみた。 この手のものはけっこう多くあるようだが、いくつかのブログを見てここに登録しているところが多そうかと選んだ。十分に吟味してここにしたというわけでもない。 どういうしくみになっているのか、まだよくわかっていないが、みなさまの投票によって順位が変わるようだ。 応援してくださる方は、左のカウンタ下のリンクをクリックしてください。
あるいは、
この記事を評価して人気blogランキングに投票
と、毎回記事にリンクをはることも可能だが、それもめんどうくさい。
リンクをバナーにする方法がよくわからない。下のように記事ごとに画像を貼付けても当然バナーにはならない。まあ、ゆっくり検討しよう。
ブログを登録するカテゴリを5つまで選べるようになっている。複数のカテゴリに登録する際はそれぞれに振り分けられる投票のパーセンテージを決めて合計100%になるようにする。だから、この設定をどうするかが大きなポイントになりそうだ。 一応、「本・読書」をメインにして60%割り振り、他は「メンタルヘルス」、「哲学・思想」、「エッセイ」、「社会科学」に、それぞれ10%をあてた。 で、現在の順位は以下のようになっている。
本・読書
(60%) - 499位 メンタルヘルス (10%) - 445位 哲学・思想 (10%) -
309位 エッセイ (10%) - 291位 社会科学 (10%) -
116位
これからどうなっていくのか。ひとつのはげみにしよう。
フロイト全集を読むはずであったが、毎日更新をめざしているうちに、関係ない記事の方が多くなってきた。これもブログのおもしろさかな。
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2006-12-23 01:43 |
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今年読んだ本のベスト・ワン、いやこの数年の読書でもこれ程のものはちょっとなかった。ということで、これを星5つとする。次に星5つがでるのはいつかな。
「シッダールタ」 ヘルマン・ヘッセ作 高橋健二訳 新潮文庫 ★★★★★
シッダールタという題名から、釈迦についての伝記小説かと思ったらそうではなかった。釈迦とは別のやり方で悟りに達した男の話だ。仏教的思想を少し裏技的な形で、おもしろい物語として読ませてくれる。東洋を舞台とした作品ということもあるのか、訳文も簡潔で格調高く、まるで原文であるかのようにしっくりくる。文庫本でも薄い一冊なので、朝から読みはじめて夢中になり、夕方には読み終えてしまった。 ちょうどこの頃少々悩みをかかえていた私は、この本で救われたというか、一瞬自分自身が悟りの境地に達したような錯覚におちいった。そういう意味では、さきに述べたように非常にタイミングのよい出会いであったということは言えるだろう。
読んだ当時は、会う人にずいぶんこの本を薦めたものだ。このブログをみているみなさんにも薦めておこう。まだの人は、是非とも読んで下さい。
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2006-12-22 12:15 |
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星の基準をさだめたところで、早速読み終わったばかりの「レ・ミゼラブル」の評価を。
「レ・ミゼラブル」 ヴィクトル・ユーゴー作 豊島与志雄訳 岩波文庫 評価:★★★★
不朽の名作として知れ渡るこの本は、期待を裏切らない感動をもたらしてくれた。アマゾンなどではずらりと星5つ評価が並んでいるのに、4つは物足りない? 私などがどう評価しようと偉大な作品の価値はびくともしないだろうし、満点でなかったのはむしろ充分にこの小説を消化できなかったということも含んでいる。「レ・ミゼラブル」を私ごときが褒めるのもおこがましいというか、まあそんな感じ。 前にも書いたように、これはもう小説というジャンルに収まりきらないすごいものである。ジャン・ヴァルジャンというひとつの人格、そして物語の合間に散りばめられた社会・歴史・思想の論述の数々、これらがいまだ整理されない形で私の頭の中をぐるぐるうずまいている。2400ページにおよぶ長大な読書を終えて、茫然自失の状態だ。
さて、次は何を読んだらいいものか。
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2006-12-21 08:54 |
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読書 |
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カテゴリの「読書」では、いろいろな本の感想などを書いていく予定だが、その際に私が読んだ時点で感じた主観的評価を、星の数であらわすことにする。 アマゾンなどにならって星の数5つを満点とする。
★★★★★(星5つ):数年に1度出会えるかというすばらしい感動をもたらした本。 ★★★★☆(星4つ半) ★★★★(星4つ):とても感動した。いつかもう一度読みたい。 ★★★☆(星3つ半) ★★★(星3つ):普通によかった。 ★★☆(星2つ半) ★★(星2つ):よいところもあったが、読まなくてもよかったかも。 ★☆(星1つ半) ★(星1つ):読んで損した。
くりかえすが、これはあくまでも私の主観的な、それも読んだ時点での評価である。良い本というのは、良い出会いともいえるだろう。相手が素晴らしくても、タイミングが悪いと感動できないこともある。年齢を重ねないと理解できない事柄もあるし、若い感性によってよく共感できるものもある。
読書関係のホームページやブログで、他人の評価を見るのはとても参考になる。自分の評価と比べて、一致するのはうれしいし、違いもまたおもしろい。
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2006-12-20 08:54 |
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読書 |
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「趣味は?」と聞かれたら、このブログを作っていることが今は趣味かもしれない。しかしそれを別にすると、現在趣味としてはげんでいることは特にない。 ここでいう「趣味」とは、以下の基準をみたすものとする。
1.誰もがやっている、あるいはできることではない。 2.その道のプロというものが存在する。 3.現在、過去、未来の仕事とは直接関係ない。
たとえば、読書というのは、ほとんどの人が多かれ少なかれするだろうし、ただ読むだけのプロというのはいない。だからこの基準によれば読書は趣味ではない。同様に、映画鑑賞、音楽鑑賞、テレビ・ゲーム、旅行などは趣味には含めないことにする。(もちろん、だからといってこれらの活動の価値を低く考えているわけではない。) 芸術であれば、鑑賞するだけでなく作成にかかわることが趣味の条件だ。例えば、絵を描く、音楽を演奏する、小説を書くなど。写真を撮るというのは微妙なところだが、通常のスナップを超えて芸術的作品を作っていくのであれば趣味といっていいだろう。あとは、スポーツを自分でするということはもちろん趣味といえる。また、仕事とは関係ない事柄を勉強するというのも趣味と考えていいだろう。 芸術にしてもスポーツにしても、それを将来の仕事にしようと励んでいるとしたら、はたからみてその希望が非現実的であったとしても、それは趣味とはいえない。
つまり、趣味とは、本業にすることをあきらめたか、または最初から目的としていないような事柄を、それでもかなりの熱意をもって励んでいくということといえよう。 そう考えると、このブログも趣味かどうか、また別の意味であいまいになってくる。私自身、趣味がこうじて本物のフロイト研究家になることを多少とも夢想しているところがある。そういいだすと、趣味としてなにかをやっている本人が実はそれを本業にすることを完全にはあきらめていないということはけっこう多いかもしれない。また、現代は仕事と趣味、プロとアマの境界があいまいになっている時代ともいえるだろう。
若いころというのは、本業以外のことに大きな精力をさくという気になれなかったり、趣味のようなことでも本気で仕事にしようと努力したりしがちであろう。その後、仕事をばりばりやる年代になると、今度は忙しくて趣味どころではない。趣味をもつことを楽しめるのは、時間と心の余裕ができて人生のいろいろなことに適度にあきらめもついた年頃ということなのかもしれない。 私自身も、もう少ししたらなにか1つか2つ趣味をもってみたいと考えている。絵を描くとか、楽器を習うとかいったことがいいかな。
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2006-12-19 12:20 |
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趣味など
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カテゴリを変更した。
全集を読む:「フロイト全集」の本文を読んでの感想・連想など。本ブログのメイン記事。 フロイト関連:全集の内容とは直接関係ない記事。フロイトの本についての購入情報はこちらに含める。 読書:フロイト以外の読書についての記事。 つぶやく:趣味・雑感・その他。 ブログ関連:ブログを書く上での苦労、工夫や、皆様へのお知らせ。
とりあえず、以上のようなことでやってみる。なかなかカテゴリにぴたりと当てはまらない記事も多いと思うが。
毎日更新というのを目標にしてなんとか10日続けた。けっこう大変だ。 入力フォームに直接記事を書いていて、また1つ記事を消失。不用意に確定キーを押してしまうだけで画面が変わってしまうことがあるようだ。エディタに下書きする方法に戻す。
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2006-12-18 09:09 |
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注意:この記事は小説「レ・ミゼラブル」の内容にふれています。
ドッペルゲンガーからの連想で、今読んでいる「レ・ミゼラブル」のことを書く。
主人公のジャン・ヴァルジャンは、きわめて厳格な良心をもっている。あるいは、彼の心は良心の命ずるところに、完全に従おうとする。これはキリスト教的人間観においてはひとつの理想をしめしているのかもしれないが、私にはちょっと異様に思われる程であった。
物語の終盤で、ジャン・ヴァルジャンが育ててきたコゼットは恋人マリユスとめでたく結婚する。普通に考えると、ここでみんなが幸せに暮らしてめでたしめでたしとなる。しかし、ジャン・ヴァルジャンは自分が徒刑囚であったことを隠して他の人と共に幸福になることをよしとしない。そこで身を引くことを考えるが、愛するコゼットと別れることも忍びない。結婚式の披露宴から抜け出した彼は、ひとり部屋で悩み続けるのであった。
それを見ていた者は、だれであるか、だれであるか?ジャン・ヴァルジャンはただひとりであって、そこにはだれもいなかったではないか。 否、闇の中にある「あの人」が。 岩波文庫「レ・ミゼラブル」より
これ以上本文になんの説明もないのであるが、あきらかに「あの人」とはジャン・ヴァルジャン自身の良心に他ならない。 良心が、幽体離脱のように、外からおのれを見ているのである。
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2006-12-17 00:06 |
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不気味さをもたらすモティーフとして、ドッペルゲンガーについての考察がなされる(p27-p30)。 ここの部分は難解で、正直よく理解できない。しかし、後の論文「自我とエス」などで超自我の概念に発展するような内容の萌芽を含んでいるようだ。重要なところだろうから、じっくり読んでいこう。一方では、こういう難しいところは何度も読んだからわかるというわけでもないので、疑問を残しておいて他の論文を読んでから繰り返し立ち返るということも大事である。
ドッペルゲンガーとは、通常自分自身の生き写しの姿を見るような体験のことをいうが、フロイトは「自我の二重化、自我の分割、自我の交換」などをも含んだ、幅広い概念として取り扱っている。
「ドッペルゲンガーとは、もともと、自我の没落に掛けられた保険だった」という。自我の没落とは、一次ナルシシズムにおけるすばらしい私(自我)が、現実的な私(自我)に落ちぶれることであろう。落ちぶれるといっても、実際に落ちぶれるのではなく、より正しい認識になるだけなのだけれど。 「保険をかける」ということは、一次ナルシシズムの時点で、自我の没落は予感されているのだろうか。それとも結果として保険となったということなのか。 いずれにしても、一次ナルシシズムの段階では自我は万能すなわちなんでもOKだから、二重化であろうが分割であろうがお手の物であろう。しかもそれは、この時点では不気味でもなんでもない。 自我が没落して現実的な姿になっていっても、ドッペルゲンガーの表象は生き残り、そこには「克服された古いナルシシズムに属していると見えるものの一切合財」およびその他もろもろの、後の自我からは切り離されたものが割りふられるのだという。 これが、自我の中に形成された「別の審級」であり、自我理想あるいは後に超自我として定式化されるものである。
で、超自我がドッペルゲンガーからできるということと、ドッペルゲンガーの不気味さはどう関係があるのか。 ヒントとなるのは、「観察妄想という病理的事例にあたっては、この審級は、孤立化されて自我から分裂」するということである。 だいたい、超自我というものは自我にとっては目の上のたんこぶのような、うっとうしい存在だから、外界からの脅威という形に投影されやすい。それがドッペルゲンガーの不気味さと関連があるのか。 あるいは、自我がやすやすと分裂するといった、一次ナルシシズムの時代のふるまいが、成熟した自我にとっては異様に思えるということなのか。
あまりよくわからないので、推測ばかりの話になってしまった。 この3ページ程の中には、「自由意志という錯覚を結果的に生み出す抑え込まれた意思決定」とか、なかなか意味深長そうないいまわしがいくつかある。またいつかふりかえってみることにしよう。
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2006-12-16 01:15 |
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アマゾンマーケットプレイスで、Gesammelte
Welkeの12巻と13巻を注文した。 今回はワールド・ブックスからの購入としたが、同じものが同じ値段でuk
books and
musicからも出ており、特にワールドの方を選んだ理由はない。航空便ということであったが、思っていたよりも早く、9日目に商品が届いた。
わくわくしながら包みをとく。おーっ、たしかに新品だ。ブルーの布製装丁に黄土色の紙表紙で、これもしぶい。ページは黄色っぽくてけっこう薄いので、英訳標準版に比べるとコンパクトに収まる。印刷はかすれや汚れなどもあって、現代の基準からするときれいとはいえないが、読みにくいほどではない。古いけど新品というところがよい。題字などの大きな活字が、「きれいに手書きで書いたのか?」と思うような微妙にふぞろいであったりするのはなぜかな。
「不気味なもの」が収録されている12巻の方は、初版が1947年で購入したものが1986年の第6版、なんと20年も前のものであった。「快原理の彼岸」などが収録されている13巻は、初版が1940年で購入したものが1998年の第10版であった。巻ごとに買う人が多く、人気のある巻は版を多く重ねているということなのだろうか。中古市場にでているというのも、なにか事情があるのかな。
ともかくも、なかなか満足のいく購入だった。これを機会に、ドイツ語にも親しんでいくようにしよう。
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2006-12-15 12:14 |
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フロイトは、ホフマンの「砂男」において不気味さを作り出している最も中心的なものは、「子供の目をえぐり取る砂男のモティーフなのである(p18)」と論じている。 次に彼は、「目をめぐるこの不安、盲目になるかもしれないという不安が、かなりの場合、去勢不安の代替物である(p23)」という主張をする。
こういったところが、フロイトに心酔するか、嫌いになるかの分かれ道になるのかもしれない。
「目をめぐる不安というのはよく理解できるが、それが去勢不安だなんて、ぜんぜん納得できない。著者の思い込み、きめつけ、でたらめではないのか。」と、フロイト・アレルギーになってしまう人も多いのではないか。 そんな人にこそ言いたい。「ちょっと、待ってください。あきらめないで、もう少し読み進めてください。」
ここで、ちょっと姑息なフロイト・アレルギー克服法を提案したい。 「姑息な」というのは、性的な意味合いを薄めた表現によって一般的に受け入れやすい論述をすることを、フロイトは嫌ったからだ。それを承知の上で、あえてここではひとつの「おきかえ」をするが、あくまでも暫定的な理解のためと心得ていただきたい。
去勢不安とは、親による去勢(ペニスの切り取り)に対する子供の不安である。通常、男の子が母親に抱く近親相姦的欲望(エディプス的欲望)は、父親による去勢威嚇によって妨げられ、これによって男の子はその欲望を断念し、エディプスコンプレクスは没落する。(今回の全集での訳語統一になるべく合わせた言葉づかいをこころがけている。)
ここで言葉のおきかえをする。
去勢威嚇 → 大人が子供の欲望を禁止するためになす、おどし 去勢不安 → 上記に対する子供のおそれ
このように考えると、われわれの感じる不気味さのある部分が、幼児期の大人からのおどしから発している、ということは比較的すんなりと納得できるのではないか。
大人というものは、子供の教育のためとか保護のためとか称して、子供をおどすものである。それは実は大人の都合による場合も多いのであるが。 そして、一昔前にはそのために便利な「怖い話」というものがたくさん語り継がれていた。砂男は、そんな話のひとつである。「不気味なもの」にもフロイトによる要約として描写されているが(p18)、岩波文庫のホフマン短篇集(池内紀訳)の方が文学的な表現なのでそちらを引用する。
「ぼっちゃまはご存知なかったのですか?悪い男でございますよ、子供たちがベッドにいきたがらないとやってきて、お目めにどっさり砂を投げこむのでございますよ。すると目玉が血まみれになってとび出しますね。砂男は目玉を袋に投げこみまして半分かけたお月さまにもち帰り、自分の子供に食べさせるのでございますよ。砂男の子供たちは半月の巣の中におりましてね。ふくろうみたいに先のまがった嘴をもっていて、その嘴で夜ふかしの子供の目玉をつつくのでございますよ」
子供は夜なかなかベッドに入りたがらないし、親はそれを寝かしつけるのに苦労する。このあたりは、古今東西共通しているようだ。砂男の話がホフマンによる創作なのか、実際に伝承されたものなのかは知らないが、いずれにせよありがちなお話しで、日本の民話にも似たようなものはありそうだ。 なぜ子供は夜寝たがらないのか、なぜ大人は躍起になって寝かしつけようとするのか。その答えは、子供の寝た後に禁じられた大人たちだけの時間があり、そのことを子供のほうでもうすうす感じているからであろう。
砂男のような話しを子供は本気で信じてしまうものだから、教育効果は抜群で大人にとって都合がよい。しかし、子供の心に残される禍根はいかばかりのものであろうか。大きくなって、そんな妖怪は架空のものだとわかってからでも、これらの禍根は潜在し、不気味さをひきおこす源になっているのかもしれない。
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2006-12-14 08:45 |
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日本語版全集のもとになっているドイツ語版全集Gesammelte
Welkeについては、何度か購入を検討しつつもなかなか踏み切れなずにいた。ドイツ語はほとんど読めいないわけであるが、やはり原文を手元においておきたい。これまでは、ペーパーバックで代表的な著作をそろえ、重要な単語の原語を調べたり、ときどき眺めて読んだ気になったりしていた。(いつかは本当に読めるようになりたいね。)
今回17巻の最初の論文「不気味なもの」を読んでいて、独語版を持っていないことに気づいた。ペーパーバック版で買おうかとアマゾンで検索していると、マーケットプレイスでGesammelte
Werkeがばら売りされているのに気づいた。
"Fischer
Freud"で検索
各巻ごとに値段が違うが、安いものは5000円台から高いものは2万円以上の巻もあるが、平均すると1万円前後というところか。ほとんどが新品のようで、海外の書店、特に「ワールド・ブックス」というところと「uk
books and
music」からの出品が多い。
邦訳全集を読み進めるのに合わせて、独語全集をそろえていくのもよいかな。今回の全集ではGesammelte
Werkeの対応ページがふってあるので便利だろう。と、購入するための理由(とゆうより言い訳?って誰への?)が浮かんでくる。 邦訳17巻に対応するのは、12巻(¥9042)と13巻(¥12488)。後者の方が少し高いがページ数も多く、なにより「快原理の彼岸」、「集団心理学と自我分析」および「自我とエス」という後期の超有名論文を収録している。
で、クリックした。
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2006-12-13 00:05 |
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ブログをはじめて10日ほどたち、どういうものだか少しずつわかってきた。
最初のうちは、エディタで下書きをして、それをペーストして仕上げていた。気楽そうに書いていたけど、けっこう時間をかけて推敲もしていた。
しかし、これでは続かない。もっと、短く書いて、頻繁に更新できるようにしなくては。
エディタに書いたりするのはめんどうなので、ブログの投稿画面に直接入力するようにした。これをやると投稿するまできちんと保存されないので、画面をもどったり、投稿しないでキャンセルすると文書が消えてしまう。これで2つほど記事を失ってしまった。
だんだんコツはわかってきたが、まだ模索中。
とにかく、忙しいときでも、一行でも二行でもつぶやき、毎日更新することをめざしたい。
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2006-12-12 12:35 |
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現在フロイト以外で読んでいる本といえば、ユーゴーのレ・ミゼラブルである。あまりにも有名な長編小説だが今回がはじめての挑戦。岩波文庫全4巻の最終巻半ばすぎまできた。年末ごろに感動のクライマックスをむかえられるよう、やや速度をゆるめてじっくり読み進めているところ。年の瀬のこの時期というのは、なぜか気持ちのボルテージが上がって、芸術作品に感動しやすい状態になっている気がするのだ。
読んでいる途中ではあるが、一言感想。 あらすじをきいて想像していたものとはずいぶん違った。小説というジャンルにはおさまらないようなスケールの大きい作品だ。 19世紀前半のフランスにおける革命の歴史について、社会の上から下、表と裏を、そこでのさまざまな人々の動きを精密に描写しつつ、確固たる思想的立場から論じていく。その歴史的・思想的書物に、ジャン・バルジャンについての物語が添えられた、とまで言うと誇張になるかもしれないが、とにかくそんな感じなのだ。作者のゆるぎない思想から語られる情熱的な言葉には、ただ圧倒されるばかりである。
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2006-12-11 09:00 |
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「不気味なもの」では、E・T・A・ホフマンの短篇小説「砂男」を、不気味さを考察するための題材としてとりあげている。現在この小説を読もうと思ったら、岩波文庫の「ホフマン短篇集」がよいだろう。書店には並んでいないが、下記のようにアマゾン・マーケットプレイスなどで中古で手に入れることができる。
ホフマン短篇集
この短篇集に収録されているのは、以下の6作品である。
クレスペル顧問官 G町のジェズイット教会 ファールンの鉱山 砂男 廃屋 隅の窓
どの話にも、愛と狂気と死といった共通するテーマがあり、独特の世界観、人生観がある。私が特にいいと思ったのは「クレスペル顧問官」と「G町のジェズイット教会」で、この2作品では上記のテーマに加えて、究極の芸術というモティーフが感動的であった。 ただ、これらの作品は、こと「不気味さ」という点になると、同時代の読者にはおそらくかなり怖ろしい印象を与えたであろうが、今となっては気の抜けたビールのように思える。素材は良いので気が抜けてもおいしいが、新鮮な時にはもっとよかったのだろうなと。
思うに、芸術作品における不気味さというのは比較的賞味期限が短いものなのではなかろうか。それは、不気味さを引き起こす前提条件に、それを感じる人の世界観という、時代に左右されやすい要因があるからだろう。 ホフマンの作品が、今となってはそれほど不気味に感じられないひとつの理由は、それをかもしだすための重要なモティーフであるはずの「狂気」が、現代においては精神疾患として科学的視点から解釈されるようになっているからだろう。 しかし、狂気を疾患ととらえる現代的な理解は、その本質を正しくとらえているのであろうか。ホフマンの作品は、そんなことをも考えさせてくれた。
蛇足 フロイトの論文でも言及されているが、オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」は、ホフマンの作品をもとに作られており、そこに自動人形のオリンピアも登場している。「ホフマンの舟歌」という有名なメロディーは、名前を知らない人でもどこかで聞いたことがあるだろう。不気味さとは無縁の美しい曲だ。
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2006-12-10 08:31 |
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論文「不気味なもの」では、冒頭で各国語の不気味に相当する言葉や、ドイツ語の不気味unheimlichの反対語である"heimlich"の意味について、辞典を長々と引用している。 これを真似して、日本語の「不気味」について辞書で起源を調べてみようと思ったが、あまりおもしろいのが出てこない。どなたか、この辺りのことをよく知っている方がいたら教えてください。
そこで気をとりなおして、現代の便利ツールであるGoogleで「不気味」を検索してみた。 すると、トップ2件に出てきたのが、「不気味の谷現象」という言葉。最近話題になっている概念なのだろうが知らなかった。
不気味の谷現象-Wikipedia
上記ウィキペディアの記事によれば、これはもともとロボット工学上の概念なんだそうな。ロボットの概観や動作を人間に近づけていくと、かえってそれが不気味な印象をいだかせるようになるのだという。さらに最近では、映画やゲームでコンピュータ・グラフィックで作られた人間が、リアルでありながら微妙に違うことで、あたかも死体が動いているかのような不気味さをかもしだすということが指摘されており、これも「不気味の谷現象」で説明されている。
フロイトの「不気味なもの」でも、これと似たことはが論じられている。以下は、全集より引用。
E・イェンチュは、「一見したところでは生きている存在が、本当に生命が吹き込まれているのか疑わしいケースと、逆に、生きていない事物がもしかして生命を吹き込まれているのではないと疑われるケース」をその(不気味なものの)顕著な事例として際立たせ、その際、蝋人形や精巧に作られた人形、自動人形が感じさせる印象をその拠り所にした。(p16)
うーむ、確かに蝋人形は不気味ですな。子供の頃に見た東京タワーの蝋人形館を思い出す。あれは今でもあるようだけど、昔とは変わってしまったのだろうな。
さて、フロイトは動く人形の不気味さを認めつつ、子供が人形が動くことを欲するという事実と対比させて考察していく。
誰もが覚えているように、遊び始める年頃にあっては、子供はおよそ生きているものと命のないものをはっきり区別したりはしない。ことの他好んで人形を生きている存在のように扱うものだ。(P26)
たしかに、子供はおもちゃや人形に魂を吹き込んで遊ぶ。そういうことができるから、子供は大人よりも遊ぶのが得意なのだともいえよう。
この、「魂を吹き込む」(これはフロイト表現ではないが)ということが、不気味さを考える上でポイントになるのではないかと思う。 子供は、いろいろなものに好んで魂を吹き込む。しかし、大人になると、魂を吹き込む対象は、生きている人間に限定される。
魂を吹き込むことについての迷いや誤りが、蝋人形やコンピュータ・グラフィックスで作られた人間の不気味さをかもしだすのではないか。さらには、死体や癲癇発作の不気味さも同じようなしくみで生じるのではなかろうか。 |
2006-12-09 00:07 |
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では、いよいよフロイト全集17巻の最初の論文、「不気味なもの」を読んでみよう。
「不気味さ」という、この独特の感情に注目したというところがすばらしい。この目のつけどころのよさが、この論文のすべてであるといっても過言ではなかろう。
不気味さというのは独特な心の動きである。単なる恐怖とは違う。ほとんどの人がそれを体験したことがあるだろうから、それがどんな感覚かよくわかるだろう。 一方では、誰もが同じように不気味さを感じるわけではない。不気味さを研究する上でのむずかしさのひとつは、「この感情の質に対する感受性が、各人の違いに応じて著しく異なって見出されるという事実である(p4)」という指摘がある。そして、フロイト自身はこのことについて「普通以上の鈍感さしか持ち合わせていない(p4)」のだそうだ。
不気味さに対する感受性の違いは、ひとつには各人の世界観にあると思われる。 例えば、「幽霊の証拠」というものがあったとして、それを次の各人が不気味に感じるかどうかを検討してみよう。
1.幽霊をまったく信じない人 2.幽霊を完全に信じている人 3.幽霊の存在に半信半疑の人
さて最初の人は、本当にみじんも信じていないのであれば不気味には思わないだろう。その一見幽霊の証拠と見えるものが、なにか別の形で合理的に説明できると考えるだろう。 2番目の人も、また別の理由から不気味とは感じないだろう。彼にとっては幽霊の存在は当然のことだから、それを危険な動物のように恐れることはあっても、不気味には思わないだろう。 不気味さを体験するのは3番目の人であろう。「幽霊なんていないと思っていたのに、まさか、そんな、怖ろしい」と、背筋がぞーっとする。(この辺の描写、へたくそで申し訳ない)そういうのが不気味さというものだ。
実は、上の分類で1や2に完全に該当する人というのはほとんどいないのではないか。現代においては1番目の、科学的合理的世界観をもった人というのは多いが、それでもオカルト的な疑惑を完全に払拭できている人というのはどれくらいいるだろうか。ホラー映画なんかでも、「幽霊なんか存在しない」と豪語する科学者タイプの登場人物が実は一番怖がったりする、というのはありがちな設定である。 また2番目のような人も、実際に幽霊の証拠をそんなに頻繁に見ているわけではないから、それを目前にしてはたして平然としておられるかどうか。
というわけで、ほとんどの人は霊的な存在について半信半疑な思いをいだいており、それがこういった物事に対して不気味さを感じるための前提条件になっているということがいえるだろう。
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2006-12-08 19:41 |
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まだこのブログの仕組みがよくわかっておらず模索中。とりあえず、「カテゴリー」というものを設定してみた。 「読む」というのは、もちろん「フロイト全集」を読むという、このブログのテーマにそった内容の記事。 「つぶやく」というのは、テーマに直接関係ない、趣味や日々の雑感についてのつぶやき、ということにしてみたい。 左の「カテゴリー」のメニューで、「読む」、「つぶやく」をクリックすると、それぞれに分類された記事だけが表示されることになる。記事そのものが色分けされて表示されとわかりやすいのだが、今のところそれはできないみたいだ。 はてさて、これでうまくいくかどうか。
実は以前に、「フロイト研究会」とは別に、重元寛人の個人的な趣味などを語るための「重元寛人のページ」というのを立ち上げたことがあるのだ。しかし、これはなんの記事も書かれないままに放置されて現在にいたる。今回のブログもこれと同じようなことにならないようにしたいものだ。 「つぶやく」のカテゴリーでは、その「重元寛人のページ」でつづろうとしていたような記事を書こうと思っている。 このブログ全体としては、フロイト関連の記事と関係ないエッセイ的なものを適当におりまぜつつ、気楽につづけていきたいと思っている。
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2006-12-08 18:39 |
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今回の全集でウリのひとつとなっているのが、訳語の統一だ。岩波サイトでの広告には「フロイトが提唱した理論の中核をなす約400の用語について訳語を統一」とある。全巻構成の論文リストをみても、従来のものと題名からして変わっているものがけっこうある。より正確な訳語を、という趣旨であろうが、すでに定着しつつあった術語が変わることには少々違和感を覚えた。とりあえず、気づいたものを挙げてみる。ドイツ語、英訳語、全集の訳語、従来の訳語の順に並べた。
Lustprinzips(独),
pleasure principle(英), 快原理(全集),
快感原則(従来) 有名な論文「快感原則の彼岸」は「快原理の彼岸」になった。四字の熟語の方が安定感があって現実原則ともバランスがいいように感じるが。
Libido(独),
libido(英), リビード(全集),
リビドーあるいはリビド(従来) リビードの方が原語の発音に近いということかもしれないが、すでに一般用語としても定着している言い方を変えるのはどうだろうか。
Wunsch(独),
wish(英), 欲望(全集),
願望(従来) Wunscherfüllung(独), wish
fulfillment(英), 欲望成就(全集),
願望充足(従来) 論文「不気味なもの」では、終盤に有名な3つの願いごとの話し(1つ目の願いはソーセージの出現、2つ目でそれが女房の鼻にぶるさがり、3つ目はそれを元に戻すという例のお話し)がでてくる。訳者の藤野寛氏は、これを「三つの欲望についての童話」と訳した上で、編注にて「ここで『欲望』と訳された言葉の原語はWunschである。通常、『願望』、『願い』と訳される言葉だが、本全集では一貫して『欲望』と訳される。この個所も『三つの願い』と訳すほうが自然に感じられるかもしれないが、女房が欲するものがソーセージである点、象徴的であると見ることもできる。」と、やや苦しげなコメントを書いている。 フロイトの有名なテーゼ「夢は願望充足である」は、「夢は欲望成就である」となった。従来の日本語訳では、フロイトの論文に「欲望」という言葉はほとんどでてこなかったが、今回のこの措置によってたくさん出現することになるだろう。「欲動」とまぎらわしいし、意味の上でも「願望」の方がしっくりくる。
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2006-12-02 21:50 |
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岩波から新しいフロイト全集が刊行される、ということを聞いたのは今年(平成18年)の1月のことであった。その時にはなんだか半信半疑のまま聞き流してしまっていたが、秋になりふと思い出してウェブで調べてみると確かに岩波のサイトで広告をしている。予約出版で「全巻お申し込みの方にお頒ちいたします」とのことであった。税と送料込みで1冊5000円。ということは全巻そろえると11万5千円か。2日ほど考えたが、「仮にもフロイト研究会の会長である以上ここは買わねばなるまい」と、思い切ってクリックしたのであった。このセリフ、「フロイト最後の日記」12000円を購入するときにも自分に言い聞かせたっけな。
待つことしばし。予定の11月8日の翌日に、めでたく第1回配本の17巻が届いた。深緑色布製の渋い装丁、紙質も極上で線など引くのはちょっともったいないくらいだ。今後はおよそ2ヶ月ごとに配本予定であるという。とどこおりなく刊行されることを期待したい。(ピーター・ゲイ「フロイト」の邦訳は、1から2が出るまで7年かかった。ダーウィン著作集は、3巻が2000年に出版されてから途絶えている。)そして、このブログも滞りなく続いていくようがんばろう。
で、その記念すべき第17巻であるが、「不気味なもの」、「快原理の彼岸」、「集団心理学」という、重要な3論文をメインに構成された論文集となっている。ここからはじめるというのは、編集者の意気込みを感じる。
全巻が刊行された際には、日本ではじめてのフロイト全集ということになる。というと、意外に思われる方もいるだろうが実はそうなのだ。これまでスタンダードであった人文書院の「フロイト著作集」は、ドイツ語版全集(Gesammelte
Werke)の全てを訳しているわけではなかった。 もっとも、そのドイツ語版全集にしても、標準版とよばれる英訳全集(「the
complete psychological works of Sigmund
Freud」というように心理学的著作に限定している)にしても、フロイトの全ての執筆物を網羅しているわけではない。初期の神経内科医としての論文は含まれていないし、彼が多くの人に書いた膨大な手紙や近年になって発見された草稿も全ては含まれない。
ともあれ、今回の全集が高い水準のものとして完成することを願いつつ、じっくりと読み進めていくことにしよう。
文体をくだけた口語体にしてみた。ブログをどう書くか。慣れないのでしばらくは模索していくことになりそうだ。
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2006-12-02 17:41 |
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私自身の個人的プロフィールについては、このブログでも「フロイト研究会」にもほとんど公開していません。「重元寛人」という存在は、私自身の個人的生活とは一応きりはなしたものとしておきたいと思います。ただ、ブログとなるといろいろと気楽な発言をしていくことになりましょうから、当然私の人となりがにじみでてくることになるでしょう。そのあたりは、皆様のご想像におまかせいたします。 ただ、こうしてネットで発言する以上は、ひとつの責任があります。このページを見て、これからフロイトの勉強をしようと思う人もいるかもしれません。そこで、重元寛人のフロイト理解のレベルがどの程度であり、ここでの発言にどのくらいの信頼性があるか、ということについてお話ししておきましょう。
ここで便宜上、フロイト読解のレベルを初級・中級・上級とわけることにします。(もちろん、一般性はありませんが、このブログではこれからもこの分類を使って話をすることがあるかもしれません。)
初級:フロイトについての入門書などで、その思想の概要に触れ、いくつかの著作を読んで学びつつある状態。 中級:フロイトの重要な著作はひととおり読み、その理論の大まかなところは理解しているが、難解な論文に示される深遠な思考の意味はまだ理解できていない状態。 上級:フロイトの著作を原語で読みこなし、その全貌を理解している。より高度なレベルで、その思想の深遠を極めることを模索している。
この分類でいくと重元寛人は現時点では中級のレベルにあるといえます。将来は上級をめざしていきたいところですが、ネックになるのが語学力の低さですね。フロイトの著作は主に日本語訳で読み、わかりにくい箇所や誤訳が疑われるところは英訳をときどき参照し、重要な術語を調べたいときにドイツ語の原文をみる、といったところが私のこれまでの読み方です。いつかはドイツ語でフロイトを読みこなすようになりたいな、という夢をいだきつつ、当面は日本語で読んでいきましょう。 もうひとつ、フロイト理解と密接にかかわる要素として、精神分析の経験ということがあります。精神分析を理解するためには本を読むだけではだめで、実際に自分が分析を受けてみなくてはならない、ということはフロイト自身が述べています。実際に、治療として精神分析をほどこす資格を得るためには自らが教育分析を受けた上で多くの訓練をつまなくてはなりません。私自身は精神分析家ではもちろんなく、精神分析を受けたこともありません。
以上のような説明で、「フロイト研究会会長」と偉そうな肩書きをのわりに、ぜんぜんたいしたことない者であることがおわかりでしょう。ですから、このブログにある記事も、だいたいそういった者の発言であると認識していただければと思います。ただ、私なりにはなるべく良心的に、できる範囲で正確な情報を提供することで、皆様のお役にたてればと考えております。
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2006-12-02 13:12 |
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はじめまして、重元寛人と申します。「フロイト研究会」というウェブ・サイトで会長をいたしております。ご覧になった方はわかると思いますが、会の活動は細々としたもので、一時はこのまま朽ち果てるかというところでした。 そんな折、今年(平成18年)はビッグ・ニュースが。そう、あの岩波書店から新しいフロイト全集が刊行されるというのです。早速予約注文をし、11月、いよいよ第1回配本の17巻が届きました。 これを機会に会の活動を活発にしたく思い、かねてから考えていたブログをはじめることにいたしました。 このブログの目的は、なんといっても私自身がフロイト全集を読むはげみにすることです。フロイトの著作を読み、考えたこと、感じたこと、連想したことなどを自由に書き綴っていこうと思います。また、そのことについて皆様のご感想やご意見もいただき、有意義な交流ができればと期待しています。 はじめてのブログでいろいろと不安や戸惑いもありますが、まあはじめてみましょう。
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2006-12-02 11:28 |
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