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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年01月31日(水)
トルストイ「戦争と平和」メモ
 序盤の主要登場人物についての自分用メモ。

アンナ・パーヴロヴナ・シューレル:皇太后マリヤ・フェードルヴナの女官。

キーリル・ウラジーミロヴィチ・ベズウーホフ伯爵:莫大な財産を持つ。
カテリーナ・セミョーノヴナ令嬢:伯爵の直系の相続人であったが。他に妹2人。
ピョートル・キリーロヴィチ・ベズウーホフ(ピエール)伯爵 :ベズーホフ伯爵の庶子であったが、遺言にて嫡子となり財産を相続。

<ボルコンスキイ家>
ニコライ・アンドレーエヴィッチ・ボルコンスキイ公爵:領地の禿山にこもる。
アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキイ公爵:ニコライの長男。クトゥーゾフ将軍の副官として軍務につく。
リザヴェータ・カルローヴナ公爵夫人(リーザ):アンドレイの妻。
マリヤ・ニコラーエヴナ・ボルコンスカヤ公爵令嬢:アンドレイの妹。老公爵と共に禿山の屋敷にいる。ジュリイの親友。アナトーリと結婚話あり。

マドモアゼル・ブリエンヌ:禿山の屋敷にいるフランス娘。
チホン:白髪の侍僕。
ミハイル・イワーノヴィッチ:建築技師。
アルパートゥイチ:支配人。
マーシャ:小間使。
カーシャ:小間使。

<ロストフ家>
イリヤ・アンドレーエヴィチ・ロストフ伯爵
ナタリイ・シンシナ伯爵夫人
ニコライ・イリーイチ・ロストフ伯爵
ヴェーラ:ベルグ中尉に恋心。
ナターシャ・ロストワ:ボリスに恋心。
ピョートル・イリーイチ・ロストフ(ペトルーシャ)

ソーニャ:ロストフの姪。ニコライに恋心。ジュリイに嫉妬。

アンナ・ミハイロヴナ・ドルベツカーヤ公爵夫人:ナタリイ伯爵夫人の親友。息子のために奔走。
ボリス:アンナの息子。ロストフ家に暮らす。

<クラーギン家>
ワシーリイ・セルゲーヴィッチ・クラーギン公爵:ベズウーホフ伯爵の相続人であった。
アリーヌ公爵夫人
イッポリット・ワシーリエヴィチ・クラーギン公爵:長男。
アナトーリ・ワシーリエヴィチ・クラーギン公爵:次男。マリヤとの結婚話。
エレン・ワシーリエヴナ・クラーギナ公爵令嬢:ピエールとの結婚話がもちあがる。

<アンナ・パーヴロヴナのパーティーの客>
モルテマール子爵
モリオ僧正

<ロストフ家のパーティーの客>
マーリヤ・ドミートリエヴナ・アフローシモワ
ベルグ中尉(アルフォンス・カルルイチ)
ピョートル・ニコラーエヴィッチ(シンシン)
ジュリイ・カラーギナ:ジュリイに思いを寄せる。

マーリヤ・イワーノヴナ・ドーロホワ
ドーロホフ:息子。ピエール、アナトーリと遊蕩。

ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ :実在の将軍。
2007-01-31 13:45 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月30日(火)
ニュース
 Windows Vistaが本日発売、ということで本日のブログはVistaのことでもちきりかと思いきや、私がチェックした範囲ではそれほどでもなかった。別に買ったわけではないので、報告することもないのだが一言。

 某公共放送の朝のニュースを見ていたら、3番目か4番目くらいに発売のニュースをしていた。列を作ってカウントダウンと共に購入したマニアへのインタビュー。それはいいのだが、アナウンサーが新しいOSの機能を妙に念入りに説明するのだ。これって、宣伝じゃあないのかい。買わないと決意していたのに、欲しくなっちゃったじゃないか。
2007-01-30 21:57 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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ランキングその後
 「人気blogランキング」というランキングに登録したという記事を書いた。1ヶ月以上たって、2007年1月30日現在の状況は以下のとおり。

本・読書 (60%) - 491位
メンタルヘルス (10%) - 458位
哲学・思想 (10%) - 304位
エッセイ (10%) - 301位
社会科学 (10%) - 106位

 登録した当初は、ランキングを上げようと思って、自分でせっせとリンクをクリックしていた。それで、一番よい時で、メインの読書カテゴリで100番そこそこまで上がったのであった。ただ、計算してみると、得たポイントのほとんどは自分でクリックした分だということがわかった。(もちろん何回クリックしても24時間に1回しかカウントされないが、3台のパソコンからこまめにクリックすればけっこうポイントになる。)これでは本当の人気がどうなのかはわからないので、自分でクリックはやめてみた。そうしたら、どんどん下がっていって上のような結果だ。

 ランキングに参加している大半のブログでは、本人か数人の友人がクリックするくらいの投票しかないということになる。もっとも、自分では決して投票しないというストイックな人がかなりいるのなら話は別だが。ともかく、不特定多数の閲覧者によるクリックでランキングが左右されるようになるには、もう一段上に突き抜けないとだめなようだ。

 アクセスカウンタで見る当ブログへの1日あたりの来訪者はだいたい20人くらい。同じブロガリに登録している人どうしは、誰が(どのブログの人が)来てくれたかわかるようになっており、それを見ると繰り返し来てくれている方もおられるようだ。半分負け惜しみのようなことだが、ランキングもはげみにはなるが、今くらいの状態でゆるゆるやるのもまあよいだろう。

 と、考えていたのだが、この数日の動きを見ると、その1日あたりの来訪者数も1桁まで落ちてきた。ランキングのデータには、「週間IN」すなわち1週間にリンクをクリックしてランキングサイトに来た人の数と、「週間OUT」すなわちランキングのリンクからブログを見に行った人の数が載る。ランキングは、週間INのポイントで決まるのだが、当然のことながらこれが下がると週間OUTのポイントも減ってくる。下の方のランクではクリックして来てくれる人も少なくなるのだ。
 そんなわけで、しばらく様子を見た後は、また自分での投票を再開しようかどうしようか。
2007-01-30 18:41 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月29日(月)
Xp最後の日
 いよいよ明日がWindows Vistaの発売日というこの日、いつもの大型電機店に視察に行った。パソコンコーナーでは、すでに店頭展示用のVistaマシンがずらりと並んで予約販売をしている。コンパニオンがビデオを使ってVistaの説明をし、別の店員が拡声器で明日午前0時に開かれるカウントダウンイベントの案内をしていた。

 先日来た時には、店員がダンボール入りのXpパソコンを店頭に次々と運び込んでは、「はい、次は○△社製のあのノートパソコンが、なんとXX万円です!」と、叩き売りのようなことをしていて、これがけっこうおもしろかったのだが。本日は、店頭展示品やアウトレット品がひっそりと売られているだけであった。あれらのダンボールは、みんな売れてしまったのかな。
2007-01-29 21:50 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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中年の読書
 一昨年くらいから、海外の古典を中心に小説を読むようになった。それ以前はといえば、10年以上にわたって小説というジャンルの読書をほとんどしていない時期があった。ひとつには、本を読むのは知識を得るためで、作り話を読んでも仕方がない、といった考え方があった。また、自分の人生のことに忙しくて、いちいち他の人の、しかも架空のことなどには関わっていはいられないといった気持ちもあった。
 それが再び読むようになったきっかけは、たまたまある人に薦められて読んだヘッセの小説であった。

 中年になってからの読書というのは、若い頃のそれとはまた違うものだということがわかった。若いうちは、感受性が強いけれども人生経験は乏しい。主人公に強く感情移入して、自分の知らないことを疑似体験するような読書をした。最近の読書は、その頃と比べると感情移入の度合いが弱く、少し引いた位置から登場人物たちのやりとりを眺めているような感じだ。その代わりに、自分自身の経験や感情と、登場人物のそれを重ね合わせながら、共感したり考えさせられたりという趣がある。

 これまで海外の有名な作品をあまり読んでいなかったので、これからたくさん楽しめるのは幸いなことだ。トルストイなんかは、今だからこそ味わえるおもしろさがあるような気がする。もちろん、若い時分に読んで、年を経てからまた読むというのもよいであろう。ただ、以前に読んで感動した本でも、もう一度読むということは意外にしていない。さらに年をとったらまた別かもしれないが。
2007-01-29 08:53 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月28日(日)
その日暮らし
 この記事は、本当は携帯で入力して投稿するはずであった。慣れない手つきで、かなり苦労して本文を入力。添付ファイルの操作がわからず、いろいろしているうちに、誤ってメール全体を廃棄してしまった。
 この手のミスは、新しい道具を使い際にはどうも避けられないようだな。このブログでは、さすがに入力した本文を消してしまうようなことはなくなったが。
 ま、今回は携帯での文字入力の練習をしたと思ってあきらめよう。

 ネタが切れてきたので、街の風景を携帯のカメラで撮ったもの。都会でこんな鳥(カモメかな?)を見るのは、ちょっとめずらしく感じたので。慣れているのか、近寄っても逃げないのだね。

 ブログを毎日更新すると宣言してから、なんとか続けている。予想していたことではあるが、けっこう大変だ。記事ごとのアドレスの番号が日にち順になっていないことに気づいた方もおられるかも知れないが、実はあらかじめ「下書き」として登録した記事の中から毎日1つずつ公開することにしている。ただ、書きためるのもせいぜい3日くらいが限度で、うっかりしているとすぐになくなってしまう。その日にあわてて書くことも多いのだ。
2007-01-28 00:52 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月27日(土)
第IV節要約(快原理8)
 「快原理の彼岸」第IV節についての重元流の要約と解釈。どこまでがフロイトの言説でどこまでが私の勝手な解釈かは明記していないのでご注意を。

 心の装置(≒脳)は、快原理に従ってその成り行きを決める。これはおおむね正しいが、快原理がきちんと働くためには前提条件がある。それは、心の装置に流れ込んだ興奮が、それぞれのニューロンによって一旦拘束され、定められた回路にしたがってその興奮を伝え、最終的に行動や意識作用によって興奮を消滅させることである。これは、われわれに外界からふりかかる出来事が、われわれの記憶に刻まれた過去の諸体験から想定される範囲内にあり、したがって定式的に適切な判断ができる場合である。

 外傷体験においては、この前提が成り立たなくなる。心の装置は突然想定外の出来事にみまわれる。準備の出来ていないところに、過剰の興奮が押し寄せるために、心の回路は興奮を適切に拘束できず、快原理は破綻する。

 快原理が働かない時にも、より根本的な原理である反復強迫は働いている。反復強迫は、生物が生きる上での原動力たる欲動の、基本的な性質である。快原理が働いている時でも、反復強迫は働いているが外からは見えにくくなっている。これは、外見的には異なるが意味的連想によって結合したものを反復しているからである。快原理は最終的には反復強迫に奉仕する。

 外傷体験の記憶は、快原理が破綻した状況で刻まれた、特殊な記憶である。この記憶は、外傷の状況を再体験することを反復強迫的に求める。これは、元の体験において拘束しきれなかった興奮を、再体験の中で拘束して適切に処理しようとする試みである。

 快原理をより高度なレベルで達成するために、記憶のシステムがある。記憶とは、心の装置に残される痕跡であり、ニューロン回路の編成が変化することである。有機体が、入力aに対して常にbという出力していたのに、ある出来事以降は、入力aに対してb'を出力をするように変化したということ、これが記憶の事実である。

 記憶の積み重ねによって、ニューロン回路はより込み入った編成になり、そこに流れ込んだ興奮はより複雑な経路を経て放出されるようになる。心の装置全体としては、より高度の判断に基づいて振る舞いを決めるようになる。

重元の推測:外傷体験の記憶が特殊なものであるとのことだが、通常の記憶もより小規模ではあるがやはり外傷的であり、だからこそ痕跡を残すことになるのではないか。完全に想定内の出来事に対してはそれまでと同じ対応をするだけでよく、記憶痕跡を残す必要がない。記憶の蓄積とは、小さな外傷体験(おおむね想定内だが少しだけ違う体験)の積み重ねであり、その結果、興奮は紆余曲折の後にしか放出されなくなるということなのではないか。

 有機体は、外界からの圧倒的に大きな刺激から身を守るための外殻をそなえている。これは、もっとも単純な生物から極めて高度に発達した動物まで共通した構造である。
 有機体がホメオスタシスを保つためには、内と外とを完全に遮断してはだめなので、外からの刺激をほんの少しだけ受け入れ、それによって適切な振る舞いを決める必要がある。これが感覚器官の役割である。

 中枢神経系を持ち高度に発達した動物では、感覚器官で捉えられた興奮は神経を伝って脳の知覚システムにもたらされる。知覚システムは意識のシステムでもある。そこでは、興奮は痕跡を残すことをせず、一部は意識化によって消滅し、一部は記憶システムに伝えられる。記憶システムでは、興奮はそれぞれのニューロンによって拘束されつつ遅延しながら伝達され、行動への通路に向けて放出される。その過程で、あらたな記憶痕跡が残される。

重元の推測:感覚器官も知覚システムも、流入する刺激や興奮に対して選択性をもつ。感覚器官においてはこの選択は主に構造的なしくみによるが(例えば眼は、光を捉えるような構造になっている)、知覚システムにおいては、もちろんそれ自体のニューロン回路の編成にもよるが、さらに記憶システムからの要請によって決まるところもあるのではないか。例えば、物を見るときに、過去の記憶からある種の物を期待しつつ見るからこそ、その認識が成立するというような。知覚における、内から外への能動性ということ。この件については、フロイトの論文「『不思議のメモ帳』についての覚え書き」でさらに考察される。
2007-01-27 10:42 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月26日(金)
大作に挑戦
 「クロイツェル・ソナタ」のところで予告したように、トルストイの大作「戦争と平和」に挑むことにした。文庫本では岩波と新潮があるが、印刷がきれいで読みやすいという理由から新潮文庫を選ぶ。工藤精一郎訳。
 途中で挫折するということは考えずに、全4巻を一度に購入。レ・ミゼラブルに匹敵するボリュームだ。

 最初の発行が昭和47年で、購入したものは、第1巻が53刷、第2巻が42刷、第3巻が38刷、第4巻が37刷となっていた。第1巻を買って第2巻まで行かない人が5分の1程いて、さらに1割弱が2巻の途中で挫折しているということか。もっとも私のように最初に全巻購入しながらも、最後まで読まない人もいるだろうから、全巻制覇した人は37/53(およそ70%)よりもさらに少ないということになるか。(途中の巻からは図書館等で借りたという人もいるかもしれないが、まれであろう。)

 時は1805年、ペテルブルグの社交界で開かれたパーティーの場面から物語は始まる。これが登場人物の紹介のようになっているので、それぞれの関係をしっかりと頭に入れながら読まなくてはならない。帯広告には「全登場人物559人が奏でる大シンフォニー」とある。名前を覚えるだけで苦労しそうだな。

 この時代のロシアの貴族は、社交の場ではフランス語で会話をしていた。へー。へー。へー。(ちと古いか)
2007-01-26 12:13 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月25日(木)
触れられたくない過去(快原理7)
 第IV節以降は、絶望的に難しい。途方に暮れてしまう。
 この難しさを読んでいない人に説明すること自体むずかしいのだが、フロイトの示す仮定的モデルがどういう事実と合致するのか、どういうレベルの話しなのか、すぐについて行けなくなってしまう、という感じかな。荒唐無稽で筋違いと思えるところもある。しかしなにか意味ありげで真実をついているように感じられるところもある。

 解説等でも触れられていることであるが、第IV節で提示される仮説は、かつてフリースへの手紙で展開された心理学モデル(全集第3巻収録予定の「心理学草案」)と重なりあうところが大きい。このモデルは、ニューロンネットワークによって心理学を構築しようとする壮大な試みであるが、フロイト自身によって公にされなかったばかりか、後にその原稿が残存していることを知った彼は必死になってそれを廃棄させようとしたという。その草案をわれわれが読むことが出来るということは、フロイトの意図には反するものの、いやだからこそ、大層意義深いことである。

 心理学草案自体非常に難解なのだが、とりあえずひとつは大きなヒントが得られる。草案では、ニューロンによって心の働きを説明しようとする。これは文字通りの局所論なのである。5年後の「夢解釈」で展開される局所論は、あくまでも比喩的なものであって、脳神経の局所とはとりあえずなんの関係もないものとされる。つまり、ここでフロイトは脳と心理をつなぐ理論の構築を一旦あきらめたわけだ。しかし、そのために後の理論では却ってわかりにくくなってしまったところもある。
 「快原理の彼岸」は、直接的には「夢解釈」の理論を継承しており、したがって心理学的な意味での局所論という前提も受け継がれているはずである。しかし、解剖学との関連をほのめかす以下のような記述がみられる。

このような仮定によってわれわれはなにも新たなことを企てているわけではなく、意識の「座」を脳皮質、つまり、中枢器官のもっとも外側をなす被覆層に置く脳解剖学の局在説に準拠しているにすぎない。(17-76)

 このような記述はやや行き過ぎであったり、我田引水的に見えるところもある。ただ、第IV節の記述は、純粋に心理学的なものと考えるより、脳のニューロンをイメージしながら読み解いていく方がわかりやすいだろうと思う。
2007-01-25 08:48 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月24日(水)
物の値段
 物の値段が高いか安いかというのは、結局は主観的な判断になる。高ければ買わないし、安ければ買うというだけのことだ。
 高いか安いかを判断するのに、どうしても値段そのものに気がいってしまうが、それをどのくらいの期間、どのくらいの頻度で使用するかということをなるべく考えるようにしている。

 例えば、先日購入したモバイルパソコンである。これまでのパソコンの使用状況からすると、おそらく実質的に使用するのはせいぜい5年くらいであろうか。そうなると、1ヶ月あたりのこのパソコン自体の使用料はおよそ3000円くらいということになる。
 これをどう考えるか。価値観の問題だが、やはりちょっと高いと思う。この特定の機種がどうこうというのでなく、まだパソコンは商品として熟してない高価な物なのだろう。

 昨年末に10年以上使っていたビデオデッキが壊れたので買い換えた。以前のものは、結局1ヶ月あたり800円で使用したことになる。
 新しいものは、ビデオだけでなくハードディスクとDVDがついて前の機種の半額くらいの値段であった。5年しか使わないとしても、1ヶ月あたり800円ということになる。パソコンよりは安いなと思う。

 同じ時期にやはり10年以上使用した電気炊飯器を買い換えた。こちらは壊れたわけでもないが、釜のテフロンがはげてご飯が焦げやすくなっていた。釜だけ変えるという手もあったが、新機種につられて購入。10年の進歩は大きくて、大変おいしいご飯が食べられるようになった。
 前の炊飯器は、計算すると1ヶ月あたり300円くらい。1日に2回以上使用することもあったので、1回の炊飯あたり10円未満ということになる。これは安い。使わなくなった炊飯器がもったいない、ということを考えなければ、常においしいご飯が食べられるようにもっと頻繁に買い換えた方がよいのかとも思う。

 このように1ヶ月あたりの使用料で考えると、電化製品に関しては、

家庭電化製品 < AV機器 < コンピュータ関係

という順に、高くなっているように思える。やはり移り変わりが激しい物ほど、使用料としては高くなってしまう。逆に言うとそういった物は、それだけ魅力的だから高くても買ってしまうわけで、それで商品として成立している以上決して高すぎるわけではないのだろう。
2007-01-24 09:08 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月23日(火)
プレヴォー「マノン・レスコー」
 この小説のことは、他の海外小説で頻繁に名前があがるのでどんなものか気になっていた。読む前の想像としては、魔性の女に魅了されて悩む主人公といったところだったが、‥‥‥。

「マノン・レスコー」 アベ・プレヴォー著 青柳瑞穂訳 新潮文庫
★★☆

 実際に読んで見ると、美しいが我侭で思慮の浅い女に、ぞっこん惚れ込んで振り回され堕落していく男の話であった。マノンの行動には悪気がなく、あっけらかんとして憎めないが、それにしても彼女に恋焦がれて身を持ち崩すグリュウには共感できなかった。このグリュウがマノンのことで困窮すると、彼の人柄によるものだろうか、いろいろな人が親身になって助けてくれる。特に友人チベルジュは、常に心配し、節目節目で困ったグリュウをまっとうな道に引き戻そうと語りかけ、貧しい中から金を貸してやり、しかし結局それも誘惑の道への追及に使われてしまうのであった。グリュウもだらしないが、周りの者が助けなければ却って害は少なくすんだのではないか。それも含めてマノンが引き起こしたことなのだろうか。そこまで言うと深読みし過ぎか。
2007-01-23 08:51 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月22日(月)
携帯で投稿
携帯電話を新しくした。前のは電池のもちがいいだけでメールも出来ないごく旧式のだったので、大きな進歩だ。
携帯からブログの投稿が出来るように設定して、早速投稿してみる。
写真の添付も簡単。真ん中が今読んでいるフロイト全集17巻、右がGesammelte Werke、左がStandard Edition。

 ここまでは、実際に携帯電話で入力して投稿した。今はパソコン画面から追加記入している。まだまだ携帯での入力作業に慣れていないので、どっと疲れてしまった。

 だいたい電話は嫌いなので、旧式の携帯をずっと使い続けてきたが、さすがにメールも出来ないのでは不便なので、ついに買い換えたのであった。多くの機能が必要なわけではないが、次の買い替えはだいぶ先になるだろうから現時点での最新機種にしておいた。
 カメラは300万画素、携帯音楽プレイヤーやゲームもつき、契約していないがお財布携帯にもなるという。これひとつで何でもできそうだな。とりあえずこれまで使っていたコンパクトデジカメと音楽プレイヤーは出番がなくなりそうだ。

 使ってみてまずびっくりしたのは、電話の受信音(というのかな?電話がかかってきた時に鳴る音のことです)。ポケットに入れていたのだが、館内放送の音楽かなにかかと思い、しばらく自分の携帯が鳴っているとは気づかなかった。音が大きいとかクリアだとかいうだけでなく、別の場所から聞こえてくるように感じるのだな。なぜだろう。
2007-01-22 08:49 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月21日(日)
言い訳
 新しいパソコンを購入したので、その言い訳を書く。もちろんその新しいパソコンで。

 ひとつは、先日報告したように、使っていたノートパソコンが起動しなくなってしまったこと。セットアップディスクで購入時の状態に戻せるかやってみようと思ったのだが、これがみつからない。一昨年に引越しをした時にどこかにもぐりこんだかな。
 それで買い換えた、というほど贅沢なことをしているわけではないのだが、少々不便であったのも事実。

 それにしても、もうすぐWindows Vistaが出る(1月30日の予定)というこの時期になぜ?と、疑問に思われる方もおられるだろう。説明しよう。
 新しいOSが出る直前というのは、実はパソコンを買うにはけっこうねらい目なのではないかと思う。OSは最高に安定したバージョンになっている。そしてハードは、安価なものであってもその機能を引き出すのに十分なほど進歩している。
 これが、新しいOSが出てからだと、たぶん目新しい外観や機能は得られるだろうが、それを十分に引き出すためにはより高性能のハードをそろえなければならない。しばらくは、いろいろな不具合や周辺機器の対応の問題なども生じるだろう。
 というわけで、コストパーフォーマンスの良い安定したパソコンを購入しようと思ったら、新OSの出る前というのも意外によいのだ。

 さて、私が今回購入したものは、モバイルタイプのパソコン。このタイプは初めてだ。
 こういうのは確かに便利そうなので、ずっと欲しかった。しかし、携帯性を高めるためにコストがかけれているためか、パソコンとしての性能の割りにはかなり高価なのである。まあ実際にはそれほどパソコンを持ち歩く必要はなかろうなあ、などと考えてこれまでは普通のノートで済ませてきた。

 そんなおり、Vistaが出る前の電機店パソコンコーナーに行ってみると、Xpパソコンの大安売りをしているではないか。そして、以前から欲しかったが二の足を踏んでいたあの機種が、おお、だいぶ安くなっている。
 ということで、購入。

 使用しての感想は、大変満足。1kgを切る軽さと、電池切れをまったく気にせずにすむ持ちのよさは、未体験のものであった。とにかくどこにでも持ち込んでネットにつなげるのがすばらしい。鞄に入れて持ち運ぶのもまったく苦痛にならない。

 ただ、使ってみて気がついたことがある。外出先に携帯するのは便利であるが、置き忘れとか盗難に気をつけないといけない。当たり前だと言われそうだが、買う前は便利なことばかり想像してしまって、そんなことにはあまり頭がいかなかった。実際に携帯してみて、その辺に無造作に放り出しておけず、けっこう気を使うものだとわかった。

 というわけで、今は家の中であちこち持ち歩いてはネットをすることを楽しんでいるのであった。とくにコタツでパソコンはいいね。

 ところで、このパソコンでインターネットエクスプローラを立ち上げると、最初にメーカーのホームページが出る。そこでは次に出る機種の宣伝が大々的にされているのだ。
 ふん、これも想定内だ。発売されたら真っ先に店頭にかけつけて、新機種の価格と性能を見てやろう。やはりよい買い物をしたと納得することであろう。
2007-01-21 09:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月20日(土)
アフィリエイトでGo!
 ブログなんかでアフィリエイトがはやっているようだ。これで、ずいぶん儲けている人もいると聞く。
 かくいう私も、「アマゾン・アソシエイト」というアフィリエイトをひっそりとやっているのだ。
 ご存知の方も多いと思うが、これはリンクによって紹介した商品が購入されると、紹介者に何パーセントかのマージンが入るというものだ。

 例えば、下のようなリンクを作る。

フロイト全集〈17〉1919‐1922

 これらリンクをたどって皆様が商品を購入すると、私に代金の3パーセント程のアマゾンギフト券が贈られることになるのだ。

 このブログでは、テキストのリンクしかはれないようになっているようだが、普通のホームページでは、画像つきのリンクやバナーやサーチボックスなども作れる。

 興味のある方は、「フロイト研究会」の「フロイト関連書籍」のコーナーを見てほしい。

 これは、随分うまいこと考えられたしくみだなあ。アフィリエイトに参加している人は、せっせと商品を紹介する。それで儲かった、と喜んでいるが、もちろん一番儲けているのはアフィリエイトを運営している会社であろう。参加者が自発的に工夫をこらした宣伝をしてくれて、その広告代は売れた分だけしか払わなくていいのだから。

 私のやっているアフィリエイトなどでは、とても「儲け」などといえるものはない。フロイト関連本なんて、そんなに売れるものでもないからね。
 やっていておもしろいのは、どんな物が購入されたか、購入されなくてもどのリンクがどれだけクリックされたか、といったことがわかるしくみになっていること。(誰が購入したかはわかりません)
 自分が紹介したフロイトの本が売れるのをみると素直にうれしいし、また一緒に購入した商品がどんなものか見るのも楽しい。サーチボックスからだと、ぜんぜん関係のない物を買っていく人もいる。

 そんなわけで、このブログでも読書カテゴリの記事などでリンクをはっていくので、よろしければ購入してください!
2007-01-20 09:14 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月19日(金)
フロイトの「くせ」(快原理6)
 第II節と続く第III節では、快原理と矛盾するかもしれない4つの事例について述べられる。

第II節
外傷性神経症
子供の遊び

第III節
神経症患者の精神分析的治療における反復
人間関係がいつでも同じ結末に終わる人々

 難解な論文の中で、この部分は比較的具体的で理解しやすい。
 そうは言っても、フロイト独特の論述における「くせ」のようなものに慣れていないと少しわかりにくい。
 「くせ」というのは、最終的に述べたい結論の前に、それに対する反論や別の可能性について、かなり念入りに議論するということだ。これは彼の誠実で慎重な学問的姿勢によるものであり、物事はそんなに単純ではないということを反映しているのだろうが、別の可能性として挙げられる説の方が説得力を持ってしまい、結論の方がかすんでしまうことさえある。

 4つの事例は、反復強迫が快原理よりも根本的な原理であるということを証拠づけるために挙げられているのであるが、まずはこれらの例を従来どおりの理論の枠内でなんとか説明しようという試みがなされる。特に、2番目の子供の遊びの例では、ほとんど従来の理論で説明できそうな勢いだ。

 ま、確かに、そんなに明瞭に反復強迫の根本性を示す例があるのなら、フロイトたるもの、最初からそのことに気づくようなものだろう。反復強迫とは、根本的な原理でありながら、いろいろな修飾によって覆い隠され、表面からは見えにくくなるのだろう。

 反復強迫が根本的なもので、快原理よりも優先されるということは、3番目の、分析的治療における反復の考察において、はじめてはっきりと打ち出される。ここはフロイトが治療的実践の中で直接経験したことに基づいており、論拠としてはもっとも重要なものであろう。
 これに比べると他の3例は、分析に関わらない一般の人々をも説得するために持ち出されたような風にも思える。最後の、人生における反復強迫の例などは、「日常生活の精神病理学」のノリだ。

 こうして、「快原理の彼岸」についての、とりあえずの結論が出る。

 反復強迫の過程を正当化するものは十二分に残されているし、反復強迫はわれわれには、それによって脇に押しやられる快原理以上に、根源的で、基本的で、欲動的なものとして、現れてくる。(17-74)
2007-01-19 12:09 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月18日(木)
デジタルはつまらない
 デジタルカメラ通称デジカメがすっかり普及した。行楽地などで写真を撮影している人を見ても、ほとんどがデジカメを使っている。最近は携帯電話に付属しているカメラもけっこうな精度なので、それだけで済ませている人も多いようだ。
 私自身、マニアまではいかないが、おそらく平均よりは多くの写真機を所有しており、フィルムカメラ(こんな言い方をしなければならないとは)にはけっこう思い入れがあった。そんな私でも、今ではほとんどフィルムカメラを使わなくなった。

 デジカメは確かに便利だ。もう戻れないなと感じる。ほんの少し前なのだが、フィルムが懐かしいと思える。

 まず、写真自体の質感。デジタルの方がシャープに写るのだが、なんとなく精巧なCGみたいでなじめない。フィルム写真の方が自然だったように感じる。ボケの問題は、デジタルでも一眼レフで単焦点レンズを使用すれば同じような効果はだせるはずだが、それだけでもないような。やはり、光を捉える部分(フィルムorセンサー)の違いが大きいのだろうか。

 写真屋に現像を出すということもほとんどなくなった。かといって、自分でプリントアウトしているわけでもなく、パソコンで見て貯めておくだけ。
 こういう人が多いようで、まわりで写真屋がずいぶんつぶれている。
 現像しあがった写真を受け取って見る時のわくわく感はよかったがなあ。

 フィルムからデジタルへの移行は、レコードからCDへの移行を思い出させる。と、言うと世代が判ってしまう程、今では昔のことになってしまった。レコードに比べるとCDは本当に便利で、誰でも簡単に高音質を得られ、音楽を身近にしてくれた。でも、レコードやそのプレイヤーはモノとしての魅力があった。音楽も大事に聴いていた。

 デジカメの普及はCDに比べると早かった。技術進歩の速度も、それについていく人々の対応の早さも加速しているということか。
2007-01-18 09:15 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2007年01月17日(水)
自由意志と現実原理(快原理5)
 前回、フロイトの経済論的観点には「自由意志」の入り込む余地はない、と述べた。もっとも、この箇所では自由意志について、あるともないとも言及されていないので、単にそういう概念を使わずに話しをすすめているというに過ぎない。
 ただ、論文「不気味なもの」には「自由意志という錯覚を結果的に生み出す抑え込まれた意思決定(17-29)」という言葉があることは以前の記事で指摘した。やはり、フロイト自身「自由意志」のことは否定的にとらえていたのだろう。

 そこで、もしこのことをフロイトに尋ねてみたら、ということを想像してみる。

重元「フロイト先生、先生のメタサイコロジイ論文を読んでいると、『人間には自由意志がない』とおっしゃっているように思えるのですが、そこのところはどうなのでしょう。」
フロイト「君の言う、『自由意志』とはどんなものかね。」
重元「確かに、先生のおっしゃるとおり、人間も他の動物と同じように快原理の影響を受けていると言わざるを得ません。でも、我々はただ単に欲望に身をまかせるだけではなく、たとえ不快なことであっても自分で正しいと考える道を選んだりする自由意志があるではないですか。そこが他の動物と違うところでしょう。」
フロイト「おっしゃることを私の言葉で言い換えれば、人間において快原理は部分的に現実原理によって修正されるということすぎません。あなたの言う意思決定は、快原理だけでなく現実原理にも配慮してなされるということでしょう。しかし、なぜあなたはそのことを『自由意志』と呼ぶのでしょう。」
重元「だって、我々の自由意志というのは、なにか『原理』といったものに規定されるものではなく、我々が自由に選択するものだからです。」
フロイト「原理によって規定されるのでなく、あるいは気まぐれや偶然で決まるのでもない、『自由な決定』とはどんなものでしょうか。あなたはなにかそれを、ナルシス的に過大評価していませんか。」

 フロイトの言葉を勝手に想像するのは気がひけるのでこのくらいにしておこう。ただ、我々が「自由意志」ということを持ち込みたいと思うのであれば、それが何なのかということをきちんと定義してからでないといけない。
2007-01-17 09:03 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月16日(火)
犯人は誰だ?
 パソコン自作話のつづき。新しいタワー型の筐体にPentiumプロセッサで組んだマシンで、Windows95は快適に動作していた。ハードディスクを大きな容量のものに変えたり、MOドライブを組み込んだりといった、小さな改造を楽しんでいた。
 ところで、MOドライブって最近ではとんと使わなくなってしまったなあ。当時は、フロッピーディスクに代わるより容量の大きな外部記憶媒体の新しい規格がたくさんできて競争していた。あれらはみんなどこへ行ってしまったのだろう。メディアは売っているのかな。

 Windows98へのバアージョンアップも問題なく、しかし起動画面の雲が変わったくらいだったのであまり感動しなかったが、ともかく順風満帆なパソコン生活を送っていた。
 ところが、ある日Windows98がフリーズ。まあ、こういうことは時どきある。数日後にまたフリーズ。なんだか最近多いかな。翌日もフリーズ、再起動してもしばらくしてフリーズ。おかしいな、ソフトウェア的な原因による不安定か。ディスクを完全にフォーマットして、最初からインストールだ。なにしろ、Windows95からのバージョンアップだと、いろいろと複雑なことになっている。
 しばらくはそれでいけてたが、またフリーズ。なんかこう、徐々にWindowsが崩壊していくような感じなのだ。
 これは、真剣に考えないといけない。ハードウェア的な問題だろうか。

 CPUが過熱でやられたのか、と交換するも同じ。ハードディスクの交換、だめ。ついにマザーボードを交換、それでもだめ。えー?どうしてー?その間、何度となくWindowsをインストールしてはうまくいかないということを繰り返す。Windowsはずっとアップグレード版を購入していたのでインストールごとにWindows3.1まで遡ってFDを入れなくてはならない。
 この時は、パソコンで仕事をするということがほとんどできなかった。だいぶ旧いノートパソコンで必要最低限のことをしていたような。
 突然壊れたというのでないので、余計に原因が同定しにくかった。

 あらゆるものを取り替えて、もう他にないではないか、と思った時に、ふとボード上のメモリに目がいった。そういえば、この不調がおこる少し前に増設したのだった。もしや、と取り外し、インストールと起動。完全に動作。犯人はこのメモリーだったのだ。
 メモリー自体の不良なのか、相性の問題なのかもわからない。購入してだいぶ経過していたので店に持って行く気もおこらない。
 こんなことがあるんだなあ。その後は快適なパソコンライフが戻ってきたが、このことをきっかけに自作の熱はだいぶ醒めてしまった。

 最後の自作パソコンは、安売りのベアポーン(筐体とマザーボードがセットになったもの)を使って組んだWindows2000マシン。これは安定していて、今もサブとして使用している。ネットにつなげず、Office2000からバージョンアップせずに書類作成だけに使用しているのがよいのだろう。
2007-01-16 08:41 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月15日(月)
快原理の此岸(快原理4)
心の出来事は快原理によってその経過が自動的に制御される、とわれわれは精神分析の理論において無頓着に仮定している。(17-55)

 「快原理の彼岸」の冒頭部分である。快原理の彼岸(向こう側)に行くためには、まずは快原理そのものをしっかり理解しておかなくてはいけない。論文の第I節は快原理について、特にそれを経済論的観点(心をその量的な側面から見る視点)から説明することに費やされている。

 フロイトが敬遠されるひとつの理由は、なんでも性欲に結びつけるといったことよりも、むしろここに挙げた引用にも示されるような決定論的な考え方による方が大きいのではないかという気がする。
 ここにはわれわれが常識的に仮定しているような「自由意志」といったもの入り込む余地はない。心的装置は、快や不快をもたらす様々な要因を計算して総合的に最も快が多くなるように自動的に制御されるのだ。

 その際に決定的な要因となるのが「量」である。経済論的視点は質よりも量を重視する。質の違うものどうしをも量で比べて決着をつけようとする、といった方がよいか。
 資本主義経済では、貨幣によって物の価値が一元的に決まるので、質の違う物を比べることができる。すべては値段に換算して計算することができる。商品の価格をいくらにしたら店の利潤が最も上がるかとか、限られた収入をどう振り分けて消費すれば一番効率的に家計がやりくりできるか、といったことが計算できる。
 そんなようなもので、心の成り立ちも、快と不快の損得勘定。
 その損得勘定をするための原理が、恒常性原理である。一つひとつの心的出来事について、それにまつわる興奮の量を加減していって、総量が最も少ないようにする。心はそんな風に働いているよ、というのが恒常性原理である。

 ここで興奮の量と、快・不快とは単純な関係にあるわけではない。量が減ると快がもたらされ、量が増えると不快が感じられる。量の時間あたりの増減(興奮量の微分)が快・不快と比例するのかも知れない。
 すなわち、快 = ーk × d興奮量/dt という式が成り立つ。(kは定数、tは時間)
 と、いうことをフロイトはいわんとしているのだと思うが、きわめて曖昧な記述である。同様な趣旨は「夢解釈」第7章の論理的記述部分にみられるし、さらにそのベースとなったフリースへの手紙(「心理学草案」)にもある。

 このような見方に、我々の常識的観念は異を唱えたくなる。「私たちはそんなことで自分の行動を決めているのではない。私たちにも自由意志がある。」と。
2007-01-15 08:58 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月14日(日)
トルストイ「クロイツェル・ソナタ/悪魔」
クロイツェル・ソナタ/悪魔」 トルストイ 原卓也訳 新潮文庫
★★★★

 文庫本に表題の中編2つが収録されている。どちらの冒頭にも、新約聖書のマタイによる福音書から厳しい禁欲を説くイエスの言葉(注)が引用されている。性欲というものが、どれほど恐ろしい、破滅的な結果をもたらすものかという話であるが、いろいろな読み方ができる。

 「クロイツェル・ソナタ」は、嫉妬にかられて妻を殺す男の話。「悪霊」は、過去に関係をもった女性への欲望によって幸せな結婚生活が破壊される話。こう書くとありきたりのスキャンダルのようだが、実に恐るべき小説であった。時代も場所もへだった作品が、これ程のリアリティーをもって自分自身の現実的感情を揺さぶってくるとは意外であった。「クロイツェル・ソナタ」で主人公の男が語る話の前半部分は身につまさた、と言えば読んだ人は察しがつくと思う。これ以上書くと私の個人生活を暴露することにもなりかねないのでやめておくが、とにかくすごかった。

 トルストイの作品は、大学時代に「イワン・イリイチの死」などいくつかの小品を読んで以来。「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」、「復活」といった大作はまだ読んでいない。今年はいよいよ挑戦しようか。

注)「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。(マタイによる福音書第5章28)」
2007-01-14 01:03 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月13日(土)
月報
 フロイト全集には、「月報」という小冊子がはさまってくる。同じようなものは、人文書院の著作集にもはさまっていた。日本の出版業界では、全集にこのような月報をはさむことが慣習となっているのだろうか。

 今度の全集の月報は、全16ページで本体と同じ上質の紙を使っており、内容も著名人のフロイト論で構成され、おまけとはいえないような充実したものになっている。このまま毎回16ページで続くとすると、全23巻がそろった時には、月報だけ集めて368ページの堂々たる書物ができあがる計算だ。

 それはうれしいのだが、この本体の表紙にはさまってくるというところが、私のようにだらしのない者にとってはちょっと扱いに困る。今のところ、最初のままの状態で使っている。つまり、月報をはさんだまま全集を読んだり、読む際は取り外して閉じる時にまたはさんだり、しおりの代わりにしたりしているが、なんだか無くしそうで気になる。

 全巻予約の方には月報を綴じるための特製バインダーをプレゼントとか。あるいは、全集完成の暁には月報を集めた特別別冊をお送りいたしますので、今はさまっているものはなくしちゃってもいいですよとか。そんなサービスをしてほしかったなあ。
 まあ、自分で適当なバインダーを用意してファイルしていけばいいんですけどね。どうもめんどうくさい。

 現在のところ、月報1と月報2の内容は以下の通り。

月報1(17巻)
フロイトが現代を見たら なだいなだ
私の反復脅迫――『快感原則の彼岸』 小林敏明
フロイトと「脱ユダヤ化」 徳永恂

月報2(7巻)
フロイトとヴァイツゼカー 木村敏
フロイト断章 アメリカにおけるフロイト像の変遷 上山安敏
異形の同形性――フロイト・ジャンケレヴィッチ・レヴィナス

 どうです。なかなかゴージャスでしょう。まだ買っていない人は、欲しくなったかな。
2007-01-13 00:07 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月12日(金)
Windows95の災難
 前回ふれた、パソコン自作にまつわる苦労のひとつめは、実はWindows95へのバージョンアップに際しておこったことだ。ということは、これは実際はハードの問題ではなくってハードとソフトの相性の問題だった。

 あの時は、Windows3.1が革命的なバージョンアップをとげるというので、それはもう、すごいお祭り騒ぎだった。
 雑誌やなんかでも何ヶ月も前から特集を組み、発売何日か前にはパソコンショップの前に行列ができたことがニュースにもなった。

 私は徹夜で並んだりはしなかったものの、比較的早い時期にアップグレード用パッケージを手に入れて、Windows3.1を使っていた自作パソコン(メーカー製が壊れて自作を決意した時のものがいろいろ改造されたもの)にわくわくしながらインストールした。
 しかし、Windows95は、まったく動作しないというわけではないが、きわめて不完全にしか動かなかった。期待が大きかっただけに、失望もまた大きい。Windows3.1に戻って使い続ければよかったのだが、やはり不完全ではあっても新しいOSの画面を見てしまうと、もう、「これをなんとかきちんと動作させなくては」とやっきになってしまうのであった。

 今から思うと、当時のIntel486をベースにしたマシンではWindows95には非力すぎたというだけのことだ。しかし、これをPentiumのマシンにするためには、マザーボードも含めて根本的に改良しなくてはいけない。ということは、ほとんど新しいパソコンを作るに等しいことであった。そこまでは踏み切れずに、486用のソケットに対応した比較的高速なCPUに差し替えるといった姑息的な改良でお茶を濁そうとしたが、あまり効果はなかった。

 当時、同じようなバージョンアップにまつわる苦労は、多くの人が経験したようだ。Windows3.1から95への敷居は、それほど大きなものだった。そして、486マシンとPentiumマシンとの能力差が歴然たるものだということも、後にようやく後者を組み上げることができた時にしみじみ実感した。

 教訓としては、古いハードは古いOSのままで使えということ。その後も性懲りもなく、95から98へ、98からMeへとバージョンアップを経験することになったのであるが。
2007-01-12 12:21 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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フロイト全集7巻到着
 フロイト全集の第2回配本である第7巻が届いたので、とりあえず報告。予定通りに刊行が進んでいるようだ。

 第7巻は「日常生活の精神病理学にむけて」をおさめており、翻訳と解説を高田珠樹が担当している。

 すでに当ブログの読解ペースは大幅に遅れており、この本についての記事にとりかかれるのはいつのことか。まあ、あせらずにじっくりすすめていこう。
2007-01-12 12:19 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月11日(木)
パソコン自作の苦しみ
 パソコンを自作する楽しみは、なんといっても自分でパーツを取り替えるなどして気軽にグレードアップができることである。CPU、メモリー、グラッフィックボード、ハードディスク、それにマザーボード自体を取り替えてしまうことさえできる。自作用パソコン雑誌には、それらのパーツの評価が載っており、パーツショップに行けばそれらの品の価格がどんどん変わっており、「ついこの間まで高嶺の花だったあのパーツが、もうこんな値段か」などと購買欲をあおるのである。

 実際にはひとつのパーツを取り替えても思ったほどの効果が得られないことも多い。パソコンは全体のバランスが大事なので、どこかに律速段階があると、他の部品が良くなってもだめなのだ。そこでその律速段階と思われるパーツも取り替える、などのように次々に部品を取り替えているうちに、無限の迷宮にはまり込んでしまうこともある。

 さらにやっかいなのが「相性問題」。一応、PC/AT互換機の規格というのは、どの組み合わせでも動作するように考慮されているはずなのだが、実際には相性の悪いものも多々あり、最悪購入して組上げたら動作しないということもありえる。その辺は、完全な自己責任だ。この相性問題によって、それぞれの部品の不良品というものが非常にわかりにくいという現状もある。

 このような状況の中で、楽しくも悩ましいパソコン自作の道にはまり込んでしまうと、それはもう、パソコンを使って仕事をすることそっちのけで、ハードウェアの改造とソフトウェアの環境設定を延々くりかえすことになる。一度どつぼにはまると、幾度となく最後まで立ち上がらない起動画面を見つめてため息をつき、悶々としてブルーな毎日を送るはめになる。

 あまり高価なものには手を出さなかったし、情報を集めて慎重にことを運んできたつもりなので、ひどい災難にはあわなかった方だとは思う。それでも、2回ほど、かなりやっかいなことになって苦しんだ経験がある。その話しはまた次回に。
2007-01-11 12:13 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月10日(水)
想い出の痕跡(快原理3)
 フロイトが到達していたのではないかと想像される真理に、意識の本質ということがある。フロイトといえば無意識の発見者のように思われているけれど、精神に無意識の部分があることはそれ以前から多くの人が指摘しており、別に目新しいことではない。そんなことより、意識の本質ということの方がはるかに重要でありながら不可解な事柄であろう。

 フロイトはいくつかの著作で「記憶と意識の相互排他性」という命題について述べている。非公式にはフリースに宛てた手紙の中で、さらに夢判断の論理的部分で、そしてこの「快原理の彼岸」で再びこのことに言及している。

 意識の出現について、ほかの典拠からはいかにわずかのことしか知られないかを考えてみるならば、意識は想い出−痕跡の代わりに出現するという命題には、少なくともまだしも判明な主張としての意義が認められるべきであろう。(全集17-77。太字部分は全集では傍点、原文ではイタリック体。)

 この命題については、「フロイト研究会」の中で、私なりの考察を試みたので、興味のある方は以下を参照して欲しい。

http://www21.ocn.ne.jp/~sfreud/sem/oyo/oyo1.htm

 さて、今回の全集をみて、「おや?」と思ったのは、「想い出−痕跡」という言葉である。
 ちくま学芸文庫の中山元氏の訳では、「記憶の痕跡」となっていた。原文での語は、"Erinnerungsspur"であり、「記憶の痕跡」の方が自然な訳に思われるが。

 今回の全集がこの妙な訳語を採用した理由は、すぐにわかった。上記引用の同じ段落、少し前のところに、"Gedächtnisspur"という語があり、こちらの方が「記憶−痕跡」と訳されているのである。ちなみに、中山氏の訳ではこちらも「記憶の痕跡」となっているので両者が原文で異なる語になっていることはわからない。

 ドイツ語にErinnerungとGedächtnisという、記憶を意味する2つの語があることから、これらを訳し分けるという困難が生じたようだ。「想い出」というのは、かなり苦しまぎれのような気もするが、原文が2つの「記憶」という語を使用しているということを気づかせてくれたという点は勉強になった。この2つの語のニュアンスの違いといったことについては、今後の課題としよう。

 もうひとつ翻訳のことで気づいた点は、同じ「想い出−痕跡」にみられる「−(ハイフン)」のこと。ドイツ語では、"Erinnerungsspur"のように、2つの単語をくっつけて1つの単語が形成されることがあり、これを著者が独自に作ってしまうこともけっこうあるようだ。こういう場合に全集の訳ではハイフンを使ってあらわしていることがあるようだ。

 今回の全集では、なるべく逐語的に正確な訳をするということを重要な方針としているようである。そのために日本語としての自然さが犠牲になることがあるかもしれないが、しかたがない。頭の中で補ったり変換したりしながら読んでいこう。

追記(2007.1.13):ErinnerungとGedächtnisの違いについて、標準版英訳全集ではどうなっているか調べてみると、双方を"memory"と訳しており、特に別の単語を使ってはいないことがわかった。
2007-01-10 08:54 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月09日(火)
パソコン自作の楽しみ
 自作したパソコンをメインに使用していた時期がある。OSで言えば、Windows3.1の後半からWindows2000までの頃。

 きっかけは、やむにやまれぬものだった。使用していたメーカー製のDOD/Vマシンを壊してしまったのだ。
 当時は、まだUSBケーブルなどという便利なものはなく、パソコン動作中にケーブル類を抜きさしするのはご法度とされていた。
 そのことはもちろん知っていたのだが、Windowsを起動してからマウスがはずれていることに気づいて、つい電源をおとさずにそのまま挿してしまった。こうして、愛機はいとも簡単に壊れてしまったであった。
 保障期間は過ぎており、メーカーのサポートに電話すると、マザーボードが壊れているだろうから、取り替えると15万円ほどかかるとのこと。
 愕然とした。もう、メーカーなどに頼るものか。と、自分が招いた災いなのであるが、恨みつらみの末、ついに禁断の道へと歩を進めることになったのである(おおげさか)。

 当時、PC/AT互換機を自作することはかなり一般的なことになりつつあり、そのための情報を集めた雑誌がいくつか出ていた。だから、なんとなく自作してみたいなあとは思っていたところもある。そういう意味では、愛機の故障はよいきっかけを与えてくれたとも言える。無意識的には自分から望んで壊したのであって、心理学的な失策行為の一例であるとも自己分析できるが、「フロイトかぶれ」と非難されそうなのでやめておこう。

 ともかくも、自作についての基本的な知識を仕入れ、もし故障がマザーボードだけなのであれば、新しいマザーボードと筐体を購入し、そこに愛機から取り出した、CPU、メモリー、ハードディスク、グラッフィックボードおよびマウスとキーボードを挿せば、パソコンとして機能するはずであるという結論になった。

 自作用のパソコンショップに行き、なるべく安価な筐体とマザーボードを購入。しめて3万5千円程であった。これでちゃんと機能すればラッキー。しかし自作はすべて自己責任であり、うまくいかなくてもその部品が不良であることが証明できなくては一切の保障は受けられない。
 結論から言うと、この最初の試みは見事に成功した。組み立てはけっこう簡単で、スイッチを入れると呆気ないほど簡単に動いた。OSの再インストールなども必要なかったかと記憶している。しかも、マザーボードの進歩したせいか他は変わっていないのに少し早くなった気がする。

 「ばんざーい!」ということで、この成功ですっかりパソコン自作に目覚めてしまった。それが、長い茨の道のはじまりであったことは、この時には知る由もなかった私である。
2007-01-09 12:12 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月08日(月)
後ろから読む「快原理」(快原理2)
 「快原理の彼岸」は難解なので、何回読んでも途中でわけがわからなくなってしまう。発想を転換して後ろから読んでみるのはどうだろう。

 この論文は、ある詩人(「ハリーリーのマカーメン」におけるリュッケッルト)の句の引用で終わっている。

"Was man nicht erfliegen kann, muß man erhinken.
................................................................................................
Die Schrift sagt, es ist keine Sünde zu hinken."
GW,XIII-69


「飛翔によって成し遂げられぬものは、跛行しながら成し遂げなければならない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
跛行はなんら罪ではない、と聖なる書も言う」。
全集17巻p125


 注釈によると、アル・ハリーリー(1054-1121)とは、アラビア人文法家で作家であり、マカーマートとは韻律を伴った短い散文のこと。フロイトが引用したのは、リュッケルトがが翻案した本におさめられた「2つのグルデン」というマカーマートの最後の数行だそうだ。

 この句にこめられたフロイトの思いとは、いかなるものなのか。
 「本来なら飛んで行きたいところだが、それができない以上、不本意ではあるが這ってでも行かねばなるまい。」と、そんなところであろうか。

 彼自身はこの言葉を、科学的認識の進展の遅さについての慰みであると記している。しかし、この引用はもっと多くのものを、「快原理の彼岸」という論文全体によって示される彼の決意といったものをも暗示しているように思われる。

 科学的認識の進展が「速い」と感じるか「遅い」と感じるかは、個人の価値観によるところもあるだろう。フロイトにとっては、遅かったのだ。
 なぜなら、彼は天才だからわかってしまった。心についての真理にかなりせまるところまで、直感によって到達してしまったのだ、と私は想像する。
 その真理を、科学的に実証して、皆にわかるように説明する。フロイトはそれを精神分析という方法論によってこつこつと続けてきた。ただ、その歩みはまことにゆっくりとしたものであった。

 この時期、晩年にさしかかろうとしている彼にとって、これまでの方法で成し遂げることはもはや無理だと思えてきたのではないか。
 心についての真理をなんとか皆にわかるように説明したいが、この際もうなりふりかまっている場合ではない。不本意だが、いろいろとかっこわるいことをしてでも、自分が得たものを表明しておきたい。
 それが、この「快原理の彼岸」という論文なのではなかろうか。

 例えば、第IV節は次のようにはじまっている。

 以下は思弁である。往々にして度の過ぎた思弁であって、各人はそれぞれの立場からそれについて評価したり、無視したりすることであろう。(17-75)

 思弁とか哲学的思考とは、フロイトが若い頃しきりにふけったものであるが、学問の世界に入ってからはそれを表明することに関してはかなり慎重な態度をとってきたのである。
 その思弁をあえてする。科学的な根拠もしめされず、ただの空想的、抽象的観念と非難されればその通りかもしれない。

 また、この論文では他にみられない程、生物学や哲学など他の広範な学問からの引用がみられる。
 論理的にも飛躍が多い。人間の心理と単細胞生物といった、あまりにもかけ離れたものを一緒くたに扱っているように見えるところもある。

 以上のように「快原理の彼岸」は欠点だらけのようにも見える。フロイト自身そのことは百も承知だっただろう。にもかかわらず、これは出版しなくてはならないものだったのだ。そのような決意のほどが、ハリーリーの引用に込められているように私には思える。
2007-01-08 11:53 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月07日(日)
Delphi登場!
 というわけで、Visual Basicと蜜月状態にあった私であった。
 そんなおり、ついにDelphiがデルフィ(出る日)が来たのであった(苦しい、しかも正しい発音は”デルファイ”)!

 「まあ、Pascalさんたら、立派になって。でも‥‥。ごめんなさい、私、今ではもう、Basicさんに身も心も捧げてしまったの。今さらやってきて、私を悩ませないで。あなたのことを、どんなにかお待ちしたことか。でも、もう遅すぎるの。」

 てなことはないけれど、でもちょっと遅かったな。
 結局買いましたよ。確かにすばらしかった。
 Delphiは、最初のバージョンから完成されていたと、今から振り返っても思う。
 逆に言うと、不完全なものでよいからもっと早くに出していたら、VBとの競争も別の形になっていたのではと悔やまれるところがある。

 プログラムを作るしくみは、VBと似ているが、大きな違いはコードがひとまとまりになっていること。
 VBでは、ボタンを押したことに対応するコード、リストボックスのアイテムを選択したことに対応するコードといったものが、ぱらばらになっている。だからあんまりプログラムを書いているという気がしない。
 Delphiでは、フォームにコンポーネントを配置していくと、専用のエディタが自動的にObject Pascalのコードを生成していく。後は、例えばボタンを押した動作に対応するプロシージャにコードを記入していけばよい。これらがばらばらでなく、ひとつのユニットとしてまとまっているので、わかりやすく、プログラムを書いているという実感がもてる。また自動的に生成した部分も含めて自分で変更できるし、もちろん新たに関数やプロシージャを記述することも可能だ。

 そういうわけで、ふたたびPascalのもとへ帰っていった私である。が、すでにVBにも慣れてしまったし、しばらくは両方を行き来していた。
2007-01-07 11:54 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月06日(土)
「快原理の彼岸」を読む
 いよいよ、「快原理の彼岸」を読む。言うまでもなく、この論文はフロイトの著作の中でも最重要級のものである。
 どうしても力んでしまうのだが、まあリラックスしていこう。他人がどう評価しようと、自分で読んでどう思うかが大切である。「王様は裸だ!」と言う勇気も持とう。

 これまで私は、主にちくま学芸文庫の「ジークムント・フロイト自我論集」に収録された中山元氏の訳で読んできた。この本は、文庫本で手に入りやすく、フロイトの重要な理論的論文を収録している。しっかりした読みやすい翻訳で、竹田青嗣氏の解説もつき、実にお得である。

 フロイト研究会でもこの論文についてのレジメを掲載している。↓

http://www21.ocn.ne.jp/~sfreud/sem/tyukyu/tyukyu5.htm

 この文章を書いてからもう10年にもなる。あらためて読み返してみると、われながら、なかなかわかりやすくできている。10年たっても私のフロイト理解はあまり進んでいないということでもあるか。
2007-01-06 11:37 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月05日(金)
ヒルトン「チップス先生さようなら」
 「永遠の夫」を読み終えて、立ち寄った別の書店で3冊の文庫本を購入。そのうちの1冊がこれ。前の本とは対照的な、なにかすがすがしい気持ちになれるものをと思い、読んでみたらまさに期待通りであった。

チップス先生さようなら」 ヒルトン著 菊池重三郎訳 新潮文庫
★★★★

 少々頑固で保守的な以外とりたてて特徴もないチップス先生が、教師としての人生を振り返る。断片的な回想をつなぎ合わせたような語りがいい味をだしている。妻キャサリンとの美しくも短い思い出、その悲しい顛末について簡潔にしか語られないところが逆にチップスの心情を表しているようで余韻をさそう。退職にあたっての先生の演説が感動的で、教師とは素敵な職業だなと思った。
2007-01-05 12:32 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月04日(木)
DOS/VパソコンでGo!
 Windows3.1の頃は、いわゆる「DOS/Vパソコン」を使用していた。正しくはDOS/VとはOSの呼称だそうで、DOS/VパソコンとはNEC98パソコンに対するPC/AT互換機にほぼ相当する。

 DOS/Vパソコンは、なかなかよかったなあ。
 パソコンのスイッチを入れると、まずは日本語表示のできるDOSが立ち上がる。この状態で英語環境と環境とを瞬時に切り替え、双方のDOS用ソフトを使うことができる。
 当時のWindowsを使えるマシンでDOS用ソフトを使うと、非常に早かった。Turbo Pascal7.0など瞬間的に立ち上がってさくさく動き、とても気持ちがよかった。

 Windowsは、今と違ってDOS上で動く基本ソフトであった。プログラムマネージャやファイルマネージャなど付属のアプリケーションは使いよいとはいえなかったが、フリーソフトなどでカスタマイズするのが楽しかった。
 MS-WordやExcelといったソフトはすでに私が使う上では必要十分の機能をもち実用的な速さで動いていた。その後のバージョンアップはなんだったのだろう。

 当時は、ワープロ、表計算、データベース、プレゼンテーションといった各分野に、特徴を持ったアプリケーションがしのぎを削っており、今のような一社独占といった様相ではなかった。
 今では、他人との互換性を保つために某OS会社のオフィスソフトを使うしかない。ダイヤモンドカーソルがワープロで使えないのは不便だな。
2007-01-04 08:53 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月03日(水)
ドストエーフスキイ「永遠の夫」
 今年はじめに読み終わった小説はこれであった。前の「ジーキル博士とハイド氏」と同じ書店で購入。岩波文庫のリクエスト復刊の1冊。

永遠の夫」 ドストエーフスキイ著 神西清訳 岩波文庫
★★★

 ドストエーフスキイの作品は、学生時代、ということは20年ほども前のことであるが、「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「白痴」といったところを読んで以来のことだ。ひさしぶりに読んで、独特のねばっこい文体を思い出した。

 主要登場人物は、ナレータ役のヴェリチャーニノフと、トルーソツキイの2人である。ヴェリチャーニノフも相当癖のある人物だが、トルーソツキイの醜悪で、執念深く、とらえどころのないキャラクターの前ではかすんでしまう。
 「永遠の夫」とはトルーソツキイのことであるが、この男の言動は支離滅裂のようでいて実は一貫している。フロイトが「快原理の彼岸」で反復強迫の例にあげた、「女との情愛関係がいつでも同じ経過段階を踏みながら同じ終わり方に至る男(17p73)」にぴったりくるのだ。しかも、その同じ経過段階を他ならぬ当人自身が招いていることを作者はみごとに描き出している。
 この醜悪な人物によって小説全体の雰囲気が決定づけられているので、読んでいて気分のよいものではなかったが、それも作者がねらっていたことだろう。ドストエーフスキイの小説では、醜悪なものと高貴なものとの驚くほどの対照が作品の持ち味になることが多いが、この小説は醜悪なもので終始していた。

 この小説単体としては星2つくらいかとも思ったが、他のドストエーフスキ作品をまた読んでみたいなという気にさせたということで星3つとする。
2007-01-03 10:41 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月02日(火)
Visual BasicでGo!
 Turbo Pascal for Windowsに悪戦苦闘していた頃、Visual Basicという簡便なWidows用プログラミング・ツールが話題になっているのを耳にしていた。いや、耳にしていただけではなく、パソコンショップでパッケージを手にしては戻すということを幾度となく繰り返していた。

 Basicなんて!
 素人臭い!
 って、私も素人なんですけどね。ともかく、PascalもBasicも共に入門者向けの言語なのだが、Pascalの方がはるかに素性正しく、本格的な言語である、とPascalプログラマーは思いがちである。
 とにかく、Basicを使うのは堕落である、という気がしていた。それともう一つ、当時のMicrosoftとBorlandの競争では、Borlandを応援していたのもある。だって、MicrosoftはOSを作っているんだから、ずるいよね。

 そんなこんなで、TP for Winにこだわり続けた私であるが、ついに、どういういきさつかは忘れたが、おそらく悪戦苦闘があまりにつらかったのだと思うが、ついにVisual Basic 2.0を購入してしまう日が来たのであった。

 で、使ってみて、これはすばらしい。TP for Winでのあんなに大変だったことが、こんなに簡単にできてしまうとは。
 とにかく、ウィンドウにいろいろなコンポーネントをぺたぺた貼付けて、そこにコードを書き込んで、それで走らせるとちゃんと動いてしまう。これは楽しい。

 Basicの文法もすぐに覚えた。おそらくPascalで基礎ができていたのであろう。
 いろいろいじっていると、限界も見えてきた。が、VBはすでにすごい人気だったので、機能拡張するためのツールや、Widows API(Windowsに直接命令を与えるためのコード)を使って限界を突破する方法など、情報がたくさんあった。

 くそ、負けたぜ、Microsoft‥‥‥って別に勝負してないか。
2007-01-02 15:48 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年01月01日(月)
不気味なもの(DB)
1919
Das Unheimliche (GW12-297)
The 'Uncanny' (SE17-217)
不気味なもの(全集17-3 藤野寛訳 2006)
不気味なもの(著作3-327 高橋義孝訳 1969)

キーワード:不気味、両価性、去勢不安、ドッペルゲンガー、反復強迫、思考の万能、アニミズム、死、霊、ホフマン「砂男」

要約:不気味さとは、抑圧された幼児期のコンプレクス(去勢不安など)が再活性化される場合か、克服されていた原始的確信(霊の存在、思考の万能)が裏付けれれたように見える場合に体験される。不気味なものは、かつては慣れ親しんだものであったという点で両価性を含んでいる。

関連論文:「トーテムとタブー」、「強迫神経症の一例についての見解(鼠男)」、「快原理の彼岸」

記事「不気味なもの」を読む
不気味の谷現象
「ホフマン短篇集」を読む
去勢不安
ドッペルゲンガー
反復強迫
人はなぜホラーを見たがるのか
死の不気味さ
露骨な表現
2007-01-01 18:20 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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新カテゴリのお知らせ
 あけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。

 早速ですが、新たに「データベース」というカテゴリを追加したというお知らせ。
 これは、全集の各著作ごとに短くまとめた記事を作り、最終的にはフロイト論文のデータベースとなることをめざすものである。

凡例

不気味なもの(DB)

1919 ← 出版年(著昨年が異なる場合はカッコ内に記す)
Das Unheimliche (GW12-297) ← 原題および独語版全集の収録巻とページ(12巻297ページ)
The 'Uncanny' (SE17-217) ← 英訳標準万全集の題名と収録巻とページ
不気味なもの(全集17-3 藤野寛訳 2006) ← 日本語版全集の題名と収録巻とページと訳者と出版年
不気味なもの(著作3-327 高橋義孝訳 1969) ← その他の日本語訳の収録先と訳者と出版年

キーワード:不気味、両価性、去勢不安、ドッペルゲンガー、反復強迫、思考の万能、アニミズム、死、霊、ホフマン「砂男」

要約:不気味さとは、抑圧された幼児期のコンプレクス(去勢不安など)が再活性化される場合か、克服されていた原始的確信(霊の存在、思考の万能)が裏付けれれたように見える場合に体験される。不気味なものは、かつては慣れ親しんだものであったという点で両価性を含んでいる。

関連論文:「トーテムとタブー」、「強迫神経症の一例についての見解(鼠男)」、「快原理の彼岸」

記事「不気味なもの」を読む ←記事へのリンク
不気味の谷現象

2007-01-01 18:19 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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