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ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
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2007年02月28日(水)
デジタル心霊写真
 デジタルカメラが普及してから、いわゆる「心霊写真」というものが少なくなった、という気がする。
 一時期はテレビでも心霊写真の特集といったものをしきりにやっていたのが、最近はあまりはやらないようだ。毎度のことながら、統計をとったわけではないので、印象の話だが。

 心霊がデジカメに映りにくいということでなければ(信奉者はマジでこんな主張をしそうだが)、もともと「心霊写真」の大半はなんらかの人工産物であり、デジタル化に伴う性能向上によってそういったものが生じにくくなったということだろう。

 カメラの性能が悪かった時代には、わけのわからぬ物が写っていてもあんまり気にならなかったに違いない。
 「心霊写真」がはやるのは、写真というものがかなり信頼されるようになり、にもかかわらず実はいろいろな不正確さを伴っているという状況においてであろう。
 そして、性能のよいデジカメが普及するにつれて、オカルト的解釈の入り込む余地は少なくなってしまった。
2007-02-28 09:01 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月27日(火)
音楽
 音楽に向かい合わなくなって久しい。つまり、何かをしながらというのではなく、音楽だけを聴くということをしなくなっている。

 最近は例の携帯についた音楽プレイヤーのお陰で、歩きながら音楽を聴く習慣が少し戻った。何を聞いているのかというと、クラシックのCDで、バッハ、モーツァルト、ベートーベン、マーラーといったところだ。今から10年以上前に買ったCDを引っぱり出して聴いているだけで、新しい物を買うということがない。向き合って聴いているわけではないので、それで充分という感じだ。

 クラシックに興味を持って聴きはじめたのは中学の頃で、一番真剣に向き合っていたのは高校から大学の頃。社会人になってからは、忙しさのためか、「ながら鑑賞」ばかりになった。

 一番真剣に聞いていた時期のクラシック界というのは、指揮者でいえば、ベーム、カラヤン、バーンスタインといったところが長老で、つづく若手として、アバド、クライバー、小澤、マゼール、メータなどが活躍していた。

 最近の状況には疎いのだが、久しぶりにCDショップのクラシックコーナーなどをぶらついてみると、当時の若手の多くは長老級になりながらもなお活躍しており、かつての長老のCDも名演奏のシリーズとして販売されている。知らない新進の演奏家ばかりが大活躍しているという状況ではないようだ。ほっとするような、残念なような。

 ステレオ(これも死語となったか?)に向かい合って音楽を楽しんだり、音楽会に出掛けたりする余裕ができるのはいつの日か。
2007-02-27 12:48 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月26日(月)
「集団心理学と自我分析」を読む
 長いこと停滞していたが、「快原理の彼岸」はいつまでこだわっても完全に理解できるものでもないので、後ろ髪を引かれる思いを残しつつ次に進む。もちろん、今後も折に触れ立ち返ることがあるであろう。

 「集団心理学と自我分析」もまた、極めて重要な論文である。「快原理の彼岸」のようにわれわれの理解を拒むほどの難解さはないので、その点はむしろありがたい。

 全集の解題で、須藤訓任氏は「本書とその少し前に上梓された『快原理の彼岸』とのあいだには直接的なつながりはほとんどない(17-416)」と記している。(ちなみに、これに続く一連の文章は、英訳標準版のストレイチーによる解説のほぼ引き写しである。北山修編「フロイト全著作解説」p354を参照。)
 確かに表面的にはそうなのだが、内容的には「快原理の彼岸」を補完しているという意味があるのではないか。

 本論文のすごいところは、個人心理学によって集団心理を分析するようにみせながら、実は逆に集団心理学によって、個人心理を相対化しようという試みをしている点であろう。この件については、「フロイト研究会」のセミナーで少し考察しているので、興味のある方は参考になさっていただきたい。

進化論からみた集団心理

 それにしても、「快原理の彼岸」の直後にこういう論文を書けるフロイトって、本当にスケールの大きな視野をもった人だ。
2007-02-26 08:47 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月25日(日)
階層的なモデル(快原理13)
 フロイトの構築したモデルは、二元論であるということの他に、階層的あるいは重層的な構造をなしているという特徴がある。あるレベルにおける2つの力の対立が要因となって、それより上位の別のレベルでの葛藤をもたらすという構造である。

 とりわけ「快原理の彼岸」では、欲動やリビードの概念が、最初の生命や、多細胞生物における細胞間の関係といった、人間心理とはかけ離れたものにまで適用されているので、しばしば面食らう。

 この論文は、フロイトがその時点での知力を尽くし、不確実であったり最終的には見当はずれになることをも恐れずに、真実のぎりぎりのところまでを追究したものだ。

 心は脳の働きからなり、脳は神経細胞からなり、神経細胞の起源をたどっていけば最初の生命にいきつく。これは、今となっては確実な知識だ。
 だからといって、その間のつながりについては、途方に暮れるほど膨大で複雑な連関があることが想定されるだけで、ほとんど何もわかっていない。このことに関してはフロイトの時代も現代も、さして変わりがないのかもしれない。

 ただ、人間心理の本質について理解しようと思えば、その途方に暮れるほどの長いつながりをも視野に入れ、仮説を作っていく必要があるのだろう。

 そこで役に立つのが、二元論というモデルである。2つの力の葛藤は、そのレベルでは完全な解決には至らないために、より上位のレベルでの幾つかの対立しあう流れを生み出し、それらの流れがまたさらに別のレベルでの動きを生み出し‥‥というようなパターンとして全体を捉えるということである。

 さらに、個体というものが、進化によってつくられ、長い時間の中で反復されてきたことをさらに反復すべく、歴史を刻印された存在であるということ。つまり、欲動が歴史を反復しようとする力であるということ。

 生の欲動と死の欲動は、お互いにするどく対立するにもかかわらず、あるいはそうだからこそ、逆説的にも双方を高めあう結果をもたらしてしまう。最初の生命の誕生と同時にこのパターンが始まり、その繰り返しの果てにわれわれの存在があるということ。

 例えば多細胞生物においては、それぞれの細胞が死への傾向を内在しており、ある条件下で自ら死んでいく。しかし、そのことは他の細胞をより長く生きながらえさせ、さらに別の生命を生み出すつながりを創造する。

 ラグビーの試合では、ボールを持った選手が前に突進していくことで、相手選手の強い抵抗を受ける。それらの抵抗を精一杯一身に受けつつ、最後のぎりぎりの所で自らが犠牲になってボールを味方にわたすことによって、ボールは前に進んでいく。(唐突な比喩だが、たまたま今試合の中継をやっているようなので。)生の欲動と死の欲動が織りなすドラマも、このようなものかも知れない。
2007-02-25 15:37 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月24日(土)
雪の効用
 短い期間だったが、北海道旅行で雪国というものを体験した。ここに暮らす人々にとっては、雪は苦労の種であろうしその為のコストも大変なものだろう。ちょっとばかり旅行をした者が「雪っていいね」などというのもお気楽な発言にも思われるかもしれないが、それでもあえて一言二言感想を。

 まずは見た目が美しい。街にあっても、山にあっても、白い部分の多い景色というのはなんとも心が洗われるようだ。

 それと、空気がおいしい。雪が、空気中の埃を取り除き、適度の湿度を与えてくれるためなのか。冷たい空気が実にすがすがしい。

 今回の北海道行きの数日前から少し風邪気味であったのだが、旅行中は気が張っていたこともあるのか、かなり無茶なことをしていたにもかかわらず、さほどひどいことにはならずにすんでいた。
 それが、帰ったとたんに、疲れが出たということもあろうが、ぐっと風邪がひどくなってしまった。喉の風邪に、冬の乾燥した空気というのは、本当につらい。息を吸うごとに、ひりひりと刺激される。

 そんなわけで、北海道の空気を懐かしく思う今日この頃である。
2007-02-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月23日(金)
意外な難点
 今回の北海道旅行では、最近買ったモバイルコンピューターと携帯電話がどちらも大活躍した。携帯の方は、カメラとしても音楽プレイヤーとしても使用して便利さを堪能した。しかし、帰ってからどうも部品がひとつ見当たらない。平型変換コードというやつで、ヘッドフォンのステレオミニジャックを携帯本体の平型の端子につなぐためのものだ。どうやら、飛行機の中で機内の音楽を聴くためにヘッドフォンだけを使用した際に落としてきたらしい。(機内にもプラスチックのパイプ式のヘッドフォンは付属していたが、電気式のほうが音がいいので自分のをジャックにつないで使用したのだ。)

 仕方がないので、いつもの家電店に行く。ここで悪い癖がでた。580円で平型変換コードを買って、自分の失敗を反省すればよかったのだが、どうもそれではおさまらない。隣に陳列されていた、平型変換コードつきインナーイヤー型ヘッドフォン(2480円)を購入して、つまりこれはより高音質のヘッドフォンを手に入れる為に必要な経費だったのだと自分を納得させようとしたのであった。

 で、使用しての感想であるが。うーむ、こういう物は実際に購入して自分のやり方で使ってみないとわからないことがあるものだな、と妙に感心。そして、早速ここに報告する。

 これは最近けっこうはやっているタイプのヘッドフォンで、昔からあるイヤホンに似ており、耳に差し込む部分がやわらかい材質でぴったりフィットするようになっている。つまりは、ヘッドフォンの内部と外耳道がひとつの密閉した空間になり、音源から鼓膜まで少ないロスで音が伝わり、より効率的に高音質が得られるようになっているものと思われる。

 実際に聴いてみたら、確かに付属の耳に挟むタイプのヘッドフォンより高音質であった。
 しかし、音楽を聴きながら歩き出すと、「モコ、モコ、ポコ、ポコ」と、歩調に合わせて妙な雑音が聞こえるのだ。最初は一体なんであろうかと不思議に思った。調べてみると、ヘッドフォンのコードと洋服がこすれるなどして生じる音が、コードを伝わって聞こえてきているのであった。そのような音が、そんなに大きな音で聞こえるか、と思われるでしょう。それが聞こえるんです。

 ここで実験です。皆さんの両手の中指を両方の耳の穴に軽くさしこんで、しかし少し隙間をあけた状態で、肘で机の上などをトントンと軽く叩いてみてください。そうしながら、指をぐっとつっこんで隙間をなくして密着させると‥‥。どうです、密着させたとたんに、机を叩く音が直接響いて大きく聞こえるようになったでしょう。

 耳との間に隙間がある従来のヘッドフォンと、密着型のヘッドフォンの違いはこんなようなものだろう。
 密着型は確かに高音質で、動かないで聞いているぶんにはいいと思うが、歩いている時には物理的伝導による雑音がかなり気になる。そして、私は電車の中など動かない時には本を読むなどして音楽は聴かないので、携帯で音楽を聴くのはもっぱら歩いている時なのであった。

追記:その後、いろいろ試してみて、「雑音」をかなりの程度まで減らす方法があることがわかった。いちばん雑音がよく聞こえるのは、耳につけたヘッドフォンから出たコードがそのままだらりと下にぶら下がった状態。コードの上のほうを服の襟などにクリップなどで固定すると、雑音は減る。さらに簡便な方法は、耳にさしたヘッドフォンのコードを一旦上方向に持ち上げて耳たぶの後ろに巻きつけるようにしてから下にたらす方法。実はこれ、自分で発見したのではなく、電車中でこのようにヘッドフォンをつけている人をみつけたのだ。もしかしたら、これって密着型をつける時の常識なのか?それにしても電車の中でヘッドフォンをしている人って、多いものだな。
2007-02-23 12:28 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月22日(木)
生命の起源(快原理12)
かつて生命なき物質の中に、いまのところまったく想像不可能な力の作用によって、生命体の特質が目覚めさせられた。
(中略)
そのときには、これまで生命なきものであった材質の中に緊張が発生したが、その緊張は解消されようと努めた。最初の欲動が、無生命へ回帰しようとする欲動として、こうしてもたらされた。
(中略)
長い期間にわたって、生命ある基質は、そのように何度も新たに作られては簡単に死んでいったのかもしれない。しかし、とうとう外的影響に決定的な変化が起こり、そのため、それでも生き延びている基質はもともとの生命の道からますます外れてゆき、死の目標に到達するに当たってますます込み入った回り道をせざるをえなくなった。こうした死への回り道が、守旧的な欲動によって忠実に堅持され、今日では生命現象の姿を呈しているという次第なのかもしれない。(全集17-92)


 生の欲動と死の欲動は、対立しつつも相互依存的なものである。死の欲動の正体を根本までさぐっていくと、それは物質界全体を支配する均質化への傾向、すなわちエントロピーの法則(フロイトはこの言葉は使っていないが)ということになる。
 そういう意味では死の欲動は、生命の誕生以前からあった、とも言えるかもしれないが、光のない世界では闇が何の意味もなさないように、生命のないところでの死は意味をもたない。

 生命の起源についての上記の引用を、現代的視点から補充しつつ考察してみよう。
 最初の生命は、少なくとも2つの特性を持っていたと想定される。

1.自らの複製を作る能力。
2.複製を作る際に、時々小さな誤りがおこり、わずかに違った個体が生み出されること。すなわち個体間に変異を生じること。

 これらは自然淘汰をひきおこすための条件となる。
 そして、簡単に死んでいた最初の生命が、回り道をするようになった経緯というのも、自然淘汰によるものであったろう。
 すなわち、複製が作られては破壊され、ということの繰り返しのうちに、たまたま外的力によく耐える変異が生み出され、それが生き残り広まって定着したということに違いない。

 このように、生命がよりよく生きる術を獲得していく過程というのは、まさに生の欲動の表現と言えるであろうが、その過程そのものに死の欲動が深く関与している。なぜなら、生命が次々に死んでいくということと、複製の誤りという本来破壊的な作用が、自然淘汰において欠くことのできない要素だからだ。
2007-02-22 12:33 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月21日(水)
二元論というモデル(快原理11)
 第VI節以降は難解で、もうよくわからん。生の欲動がどんなもので、死の欲動がどんなもので、従来の自我欲動と性欲動とはどういう関係があるのか。読む程に混乱してしまう。

 しかし、よく考えてみると、欲動という概念そのものが実体のあるものではなく、人間の心や、さらに広くは生物の営みを考えるための、ひとつのモデルを構成する仮定的な概念にすぎないのである。であるから、死の欲動そのものをつきつめて考えていってもわからない話で、モデル全体としてどうかということを考えなくてはならない。

 そう考えると、これは二元論である。二元論であるということに意味があるのであって、2つのうちどちらかを単独に取り出しても意味をなさない。

われわれの見解ははじめから二元論的であり、しかもいまでは、対立する二者をもはや自我欲動と性欲動ではなく、生の欲動と死の欲動として命名するようになっており、それ以来、かつて以上に鋭く二元論的になっている。それに対し、ユングのリビード理論は一元論的である。彼が自分の唯一的欲動力をリビードと呼んだために、混乱が生じずにはおかなかったが、われわれとしてはこれ以上、そのことに引きずりまわされるべきではない。(全集17-110)

 この時期のフロイトはすでに、ユングとの蜜月時代を過ぎ、可愛さあまってにくさ百倍といおうか、この部分でも痛烈に批判しているのがわかる。ユングに対する意地から無理に二元論を固持したのではないか、とも思えるほどだが、それはさておき。

 ともかく、生の欲動と死の欲動は、それらが二元論のモデルを構成するというところにこそ根本的な意味がある。生の欲動と死の欲動は、光と影のように、相互に対照的でありかつ依存的である。一方が存在してはじめて他方が存在し、一方が強まれば他方も強まるのである。
2007-02-21 08:47 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月20日(火)
アウグスト・ヴァイスマン(快原理10)
 フロイトの生物学への指向性についてはすでに述べたが、「快原理の彼岸」の第VI節では特にそういった引用や言及が多い。

生物学はまことに限りない可能性を秘めた領域であって、まったく思いもよらないような解明が期待できるし、またあと数十年もすれば、われわれが提示した問いに対しどのような答えを寄せてくるか、予見することなどできたものではないだろう。(全集17-120)

 このような言及自体が、今となってみると予言的にも思える。フロイトが知らなかった、そして彼に教えてあげたかった生物学の知識と言えば、DNAの発見を中心とした遺伝の分子生物学の進歩が第一に挙げられるであろう。
 「思いもよらないような解明」と言いながらも、アウグスト・ヴァイスマンについてかなりのページを割いて言及している辺りは、DNAの発見といった未来の知識に肉薄している。

 アウグスト・ヴァイスマン(1834-1914)は、ドイツの動物学者である。多細胞生物が、その世代だけで死滅する体細胞と、次世代へと受け継がれる胚細胞とに最初から分かれているという主張により、獲得形質の遺伝を否定し、また生物学に新たな生と死についての概念を導入したという。彼の理論は、DNA発見によって打ち立てられたいわゆる「セントラル・ドグマ」の先駆けとも言えよう。

 もちろんフロイトはヴァイスマンの理論をそのまま受け入れているわけではないが、かなり大きな関心を持っていたことは読み取れる。

 フロイトが現代に生きていたとしたら、遺伝の分子生物学に関心をよせ、その意味を彼流に解釈し、自らの理論に取り入れて発展させたのではないか。そんな想像をしてしまう。
 それは空想に過ぎないにしても、彼の思考の歩みを読み取り、現代的知識と統合しつつ再解釈することは、残されたわれわれの課題なのではないかと思うのである。

 蛇足であるが、ヴァイスマンの著作が日本語で読めるかアマゾンで調べてみたが、1件もヒットしなかった。おそらく訳書は存在しないのであろう。原書では、フロイトが引用した"Die Dauer des Lebens"など、現在でも新刊書として手に入る。また、英訳もいくつか出ている。
 ドイツ語では歯が立たないので(情けない、とこういう時にしみじみ感じる‥‥)、英訳の中からペーパーバックで安価な"Essays upon Heredity and Kindred Biological Problems V2"という本を購入してみた。古書を復刊させたシリーズのようだが、表題の書の第2巻だけが復刊されたようで1巻の方はリストにも載っていない。論文集のようなので、それでもあまり問題ないのかも知れないが、どうなっているのだろう。
2007-02-20 12:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月19日(月)
キーボード
 資本主義経済においては、自由競争によって製品はどんどん安くて良い物に改良されていく。特にその時代において進歩の著しい分野というのがあって、現代においてはパーソナルコンピューターがそのひとつであろう。

 パソコンの進歩には目を見張るものがあり、ついていくのが大変なくらいだ。一方ではその改良の重点は複雑な処理をいかに高速に行うかということにおかれており、意外に大事なことがおざなりになっているようにも見える。
 ひとつの例がキーボードだ。現代においてキーボードは物を書くための主要な手段となっているのだから、かつて万年筆の書き味に人々がこだわったように、キーボードの入力味にももっとこだわっていいのではないか。

 ところが最近のパソコンに付属しているキーボードは、かなりちゃちな物が多い。この点に関しては、10年前の方がよかったのではなかろうか。おそらくパソコン自体が今よりも高価だったので、物としての部分にもしっかりとお金がかけられていたのであろう。

 デスクトップ型は自由にキーボードを取り替えられるのでまだいいのだが、問題はノートブック型である。最近主流の薄っぺらいボタンでできているキーボードはどうにも打ちにくい。その上ボタンが取れてなくなったり、壊れたりもし易い。モバイル性を重視した製品ではやむを得ないだろうが、重量級で通常据え置いて使うであろう製品でも薄っぺらなキーボードがほとんどのようだ。
 ノートブック型という分野のパソコンが出始めたころの製品のキーボードは、デスクトップ型と同じような山が高くてストロークの深いボタンで構成されていた。この方が断然打ちやすかったと思う。

 デスクトップ用の取替え式キーボードに関しては、一時期人間工学に基づいたとかで、特殊なキー配置をしたような製品がいろいろ売り出されたことがあったが、あまり定着はしていないようだ。実は、某OSメーカーのナチュラルなんとかというのを購入して使ったことがあるのだが、ばかでかい割にはすごく使いやすいという程でもなく、またそれに慣れてしまうと一般的な物が使いにくく感じるようになってしまうという難点があった。

 好みの問題であろうが、私はある程度深いストロークがありながら軽い力で押せて音もなくさらさらと入力できるようなキーボードが好きだ。
 チルト機構がついている物があるが、どういうわけかキーボード面を水平より操作者側に傾けるようになっているのが多い。これだとキーボード上に書かれた文字は見えやすくなるが、手首が背屈するのでより打ちにくくなる。人間の手首関節は背屈よりも掌屈(幽霊のような手)の方が自然な形なので、傾けるなら手前を高くして面を向こう側に向ける方がよいだろう。

 ついでに言うと、キー配列についてはコントロールキーが「A」の横の方がよかった。98パソコンが主流だった頃はこの配列がメジャーだったのだが、DOS/Vに変わった時から左下の方に移ってしまった。フリーソフトを使って以前の配置に戻したりという工夫をしたこともあるが、自分用以外のパソコンでは使えないので間違いの元になる。さらに某主流オフィスソフトでダイヤモンドカーソル(注1)が使えないとか、漢字変換にすぐれた某IME(注2)がインストールされていない場合が多くなったとかで、コントロールキー自体も使うことが少なくなり、今となってはどうでもよくなった。

注1)Ctrl+文字キーによって、カーソルの移動やEnter(=Ctrl+M)、BackSpace(=Ctrl+H)などのキーと同等の役割をするキー設定。手をホームポジションから離さずに操作が出来るので、連続した文字入力に便利である。某英語ワープロソフトが採用して、他のソフトでもオプション設定できるものが多かったが、現在主流のオフィスソフトでは使えない。これに抵抗するために、マクロを作ってキーに割り当てるまでしたこともあったが、やはり外のパソコンで使えないのでまずい。
 EnterとBackSpaceについては、MS-DOSのコマンドプロンプトでさえ採用していたので、手が覚えてしまっていて、これを使わないようにするのに苦労したものだ。

注2)某日本純正のワープロに付属したIMEで、コントロールキーを使ったショートカットで変換範囲の変更や無変換、カタカナ変換などいろいろな動作ができた。

追記)キーボードに比べると、マウスの方はびっくりする程多くのバリエーションがあり、機能や形態が進歩し続けている。この違いはどこから来るのかな。
 いずれにせよ、キーボードにせよマウスにせよ、自分専用を持ち歩くことが現実的でないという点が、愛着をこめてこだわることのしにくい最大要因であろう。
2007-02-19 09:01 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月18日(日)
関西と関東
 人と比べて特によく旅行をする方でもなく、グルメを食べ歩いているわけではない。また、各地方の食事について客観的な調査をしているわけでもない。ので、以下はもっぱら個人的な印象の話なのだが、今回の旅行でもまたあらためて感じたので。

 関西の味と関東の味の話。
 一般に、関西の料理は甘口で関東は辛口(塩辛い)と言われる。その通りと思う。
 さらにこれは近畿地方と関東地方の比較というだけでなく、箱根の関所の西か東かという、最も広い意味での関西と関東に適用できるのではないか。
 つまり今回旅行した北海道の料理は、関東の味というように。もちろん、その土地その土地の特徴があるので、あまりに大雑把な話ではあるのだが。

 このような感想を持つということは、おそらく私自身の生まれ育ちということと関係しているのだろう。実は私、生まれ育ちは関東で現在は関西で暮らしている。現時点で人生の半分以上は関西で過ごしていることになる。

 関西の味にはすっかり慣れ親しんでいる私であるが、時々旅行などで関東圏に行って食事をすると、舌のリトマス試験紙がびびっと反応するのである。おそらく決定要因となるのは、砂糖と醤油の配分の具合なのだろう。

 しかも、西に行くほど関西の味、東に行くほど関東の味、真ん中へんは中間の味、という風に徐々に変化していくのではなく、ある場所を境に急に変わるような気がする。
 と、言っておきながら、その境界がどこかというのはあまり自信がないのだが。一応、都道府県で言うと、日本海側は富山までが関西で新潟から関東。中部は岐阜までが関西で長野と山梨から関東。太平洋側は静岡をどちらに入れるか難しいが箱根の関所が神奈川にあるのを尊重して関西とし(浜松は関西で伊豆は関東という気もするが)、神奈川から関東。

 味付け以外にももうひとつ、ご飯の炊き方が関西ではやわらかめで、関東では硬めという傾向があるようだ。さらに言えば、惣菜(とくに魚)が中心の関西と、米飯をおいしく食べることが食事の中心にある関東という違いがあるような気がする。
2007-02-18 13:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月17日(土)
氷濤まつり
北海道の3日目。用事が終わって、支笏湖に移動し、観光と温泉。

支笏湖はカルデラ湖(火山の火口に水が溜まった湖)なので、水際ぎりぎりまで山が迫ってとり囲み、独特の景観を作り出している。その湖畔に温泉宿がある。上手に文学的表現ができないのが悔しいが、とにかくその景色がすばらしかった。それに尽きる。
絶景を眺めながら入る露天風呂がまたなんとも。外気の寒さと湯のぬくもり。夕暮れは美しく、朝の姿もすがすがしかった。

湖畔で開かれていた「氷濤(ひょうとう)まつり」というのを見物。湖の水をつらら状に凍らせて作られた氷のオブジェが色とりどりにライトアップされ、幻想的な雰囲気をかもしだす。雪まつりに行けなかった残念感がかなり解消。こちらの方が小ぢんまりとしていて、むしろよかったかも。

他の季節でもそれぞれによさそうだが、今回冬に訪れて、雪深い秘境にわけいったような趣を楽しめた。実際には千歳空港にも札幌にも近く、宿からの送迎バスもあって、アクセスは結構便利だった。

冬の支笏湖、おすすめです。
2007-02-17 01:39 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月16日(金)
夜の時計台
暖冬の札幌、昼間はさほど寒くないが夜はこたえる。

昨晩は夜の札幌の街にくりだして、雪の降る中時計台を観光してきた。
大通公園は雪祭りが終わったところで、その残骸と思われる大きな雪の山があちこちにできていた。

時計台を見るのは20年ぶりくらい、2度目である。最初の時は昼間で、意外に小さくて「なんだ」と思った記憶がある。
今回はその先入観が幸いしてか、逆に思ったよりよかった。雪の降る夜というシチュエーションが、いい雰囲気出していたのかも。

小さく感じたのは、街中にあるせいかもしれない。周りは現代的なビルディングで、その一角だけがなにか異質な感じなのだ。

それにしても寒かった。同行者たちはきちんと防寒の備えをしている中、私だけががたがた震えていた。風邪を引いたかな。
2007-02-16 08:21 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月15日(木)
小室直樹「硫黄島栗林忠道大将の教訓」
 フロイトとトルストイを一時中断して読んだ。

 「硫黄島栗林忠道大将の教訓」 小室直樹著 ワック出版
★★★★

 実は、カッパブックス以来の小室ファン(哲哉の方ではありません)である。ひさびさの書き下ろし新刊。アマゾンで注文して届いたのを札幌への荷物に入れて、飛行機とホテルで読んだ。

 小室直樹氏の著作に最初に触れたのは大学時代で、「韓国の悲劇」という本だった。それまで、中学・高校で習ってきたこととまったく違ったことが書かれており、奇想天外、愉快痛快、目からうろこ落ちまくり。とにかく、たちまち虜になってしまった。
 それから、当時すでに出版されていた著作を読みあさり、およそ半年ごとに出版されていたカッパブックスの新刊を心待ちにしながら過ごした。書店で新刊を見つけると心躍るような気持ちで購入し、むさぼるように読んだのを思い出す。

 カッパブックスのシリーズが途切れて一般単行本で出るようになってからも、氏の著作にはだいたい目を通してきた。ただ、最も脂がのっていたのは、やはりあのカッパの頃ではなかったかと思う。時々刻々と変化する世界情勢や日本の政治経済社会の状況について、小室氏のリアルタイムな分析を読むことができたのは幸いなことであった。

 最近は、時々出版される新刊書もすでに以前の著作で述べられたことの焼き直しが多く、ファンの間で「小室節」として知られる独特の語り口も、あくが抜けて普通になってきていたのは少しさびしいところであった。

 そんな中で、今回の「硫黄島栗林忠道大将の教訓」は、まず久しぶりの純粋な新刊ということだけでもうれしい。もう読めないかとも思っていた。
 内容も、硫黄島(「いおうとう」というのが当時の読み方とのこと)での激戦がアメリカに与えた心理的影響、それにより敗戦後の日本の状況がわれわれにとって大変有利な形に進んだ、という分析で、新鮮かつ興味深いものであった。大東亜戦争について、詳細な知識に基づいて「こうすれば勝てた」といった言及は、これまでの著作にも見られたことだが、改めて面白く読めた。

 小室氏がいつも強調するように、われわれ日本人はまだまだ歴史に学ぶ姿勢が不足しているのであろう。氏がいつまでもお元気で、若い人たちの学びを導くような、独創的なメッセージを続けていかれることを今後も期待したい。
2007-02-15 10:53 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月14日(水)
暖冬の札幌
所要で札幌に来ている。
昼に着いた時には暖冬のためか、思ったほど寒くないなぁーなどと言っていたのだが、夕方から雪になってだんだん吹雪いてきた。
ホテルまでその中を歩いて、冬の北海道を満喫。

ここからは、パソコンで加筆。
ホテルの部屋でLANにつないで、ネットやり放題とわかったので。そして、今回は例のモバイルパソコン持参で来ているのであった。

いや、すごい吹雪でした。
現地のタクシーの運転手さんに聞いたら、札幌も雪祭りの頃まで暖冬だったが、ここに来て例年通りの寒さと雪になってきたとのこと。そして、本日ほどの吹雪はこちらでもちょっと珍しいと。
普段は雪など珍しいところで暮らしているので、路上にさらさらの雪がどっさり積もっているというのは新鮮で楽しかった。

写真は、まだ吹雪になる前の札幌駅前の風景。
2007-02-14 18:18 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月13日(火)
完全なるパーソナル・コンピューター
 購入したモバイルパソコンの話。フロイトは‥‥もうしばらくお待ちを。

 初めてのモバイルタイプのパソコンで、想像していたのとは違った楽しみ方をしているという報告をした(1月21の記事)。

 その後の状況であるが、いまだに家の中をうろちょろしているだけで、あまり外にとび出して活躍はしていない。しかし、購入前には考えていなかったよさというものもひしひしと感じられるようになった。

 そのよさとは、完全にパーソナルなコンピューターとして使えるということ。
 据え置き型であろうがノートブック型であろうが、パソコンを一箇所に設置すると、それはもう自分だけが使用する物にはならない。他の者が、といっても家であれば家族だが、皆利用する公共の物になる。もちろん、アカウントを分けたり工夫はするが、使いたい時に気兼ねなく使えるとは限らない。これは、けっこうお互いのストレスになるものだ。

 大きなパソコンの方が画面も見やすく入力もしやすく圧倒的に使い勝手がよいのだが、このようなモバイルのよさを知ってしまってから、いろいろなことをこの自分専用のコンピューターでやってしまいたくなった。

 というわけで、まずは外付けDVD/CDドライブの購入を検討中。小さな筐体にどこまで多くのものを詰め込めるか。
2007-02-13 02:16 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月12日(月)
互換性問題
 新しくなった携帯電話の話。
 まだまだ多機能のほんの一部しか把握できていないが、とりあえずかっこいい外観と、いつでも300万画素クラスのデジカメを使えることに満足している。

 携帯音楽プレイヤーの機能を使ってみた。カメラと違って使用する前にいろいろと準備が必要であり、このごろは電車の中や歩きながら音楽を聴くということをしていなかったこともあり、これまで使わずにいたのであった。

 付属の各種ソフトウェアをパソコンにインストールする。ちなみに、これらのソフトウェアはWindowsパソコンにしか対応していないのでMac派は困るだろうな。他の携帯の対応がどうなっているか知らないが、Appleが携帯電話を出したのはこういった事情への対応ということもあるのかも。

 インストールした音楽ソフトを起動して、適当な音楽CDを何枚か取り込む。携帯電話とパソコンを付属ケーブルでつなぎ、携帯を通信モードにして転送する。

 携帯を音楽プレイヤーとして使うためには、ここまでの作業が必要であった。慣れている人にはどうということもないだろうが、けっこうな手間であった。(これに比べると、私の持っているデジカメはソフトをインストールしないでもケーブルでつなげば即認識してくれたので便利だった。)

 試しに使ってみると、なかなかよさそうだ。この一つの小さな機械が電話にもカメラにも音楽プレイヤーにもなるというだけで、なにか未来の世界に来たようでうれしくなる。実際どのくらい使うかは別としても。

 気がついたことのひとつは、音楽プレイヤーについての「互換性」の問題。私の購入した携帯はS社(どこの会社かはすぐわかると思いますが、このブログでは特定の製品の賞賛や批判をするのが目的ではないので、電化製品等についてはこのような表記にいたします)の最新機種であった。実は私、P社製の、CDをハードディスクに取り込んで再生するタイプのミニコンポを持っている。このミニコンポにはSDカードスロットがついていて、メモリに音楽を転送しP社製の携帯音楽プレイヤーで聴くことができるのだ。当然のことながら、P社製の携帯電話にすればこの機能を利用できたのであった。そしてこれも当然のことなのか、S社製の私の携帯ではこの機能は利用できないのであった。

 このことに気づいたのは、購入後のことであった。もし購入前にわかっていたらどうしたか。微妙なところだなあ。音楽プレイヤーの互換性の点からはP社製携帯がよいが、全体のデザインや機能からはS社製がよさそう、ということになったら悩みは深かったであろう。だから、気がつかずに買ってしまってよかった、ということにしておこう。ブログのネタもできたし。

 互換性の問題だが、これは同じ会社の製品を買わせようとするメーカーの戦略のような気もするが、考えてみると得をするのはすでに大きなシェアを持っている大手だけである。これからシェアを伸ばそうとする多くのメーカーと、大多数のユーザーにとっては共通の企画があった方がよいであろう。
 音楽プレイヤーについては、ファイル形式そのものは共通規格のようだが、著作権問題からくる転送の制限ということが、互換性問題のひとつの要因になっているようだ。

 実際、P社製のミニコンポにしても、技術的には可能であろうファイルの転送がかなり制限されているために利便性が損なわれていることが、使ってみてはじめてわかった。基本的にはCDから取り込んだ音楽をそのコンポで聴いたり、一部の同社製品と連携して楽しむだけのものであり、取り込んだ音楽を幅広く活用したり再利用したりすることはできない。ファイルが壊れた時のためにパソコンにつないでバックアップをとることが推奨されているが、これが結構面倒くさく、バックアップファイルはミニコンポへの復元のためだけのもので、他に利用できるわけではない。だから、将来このコンポが壊れたり古くなったりして買い換える時には、ハードディスクにせっせと溜め込んだ音楽を放棄することになるのであろう。(同じ会社の製品に転送できる可能性はあるが)そう考えたら、手持ちのCDを全部コンポに整理して取り込んでおこうという当初の気持ちはなくなってしまった。
2007-02-12 12:58 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月11日(日)
停滞
 ネタ切れと、その日暮らしが続いている。
 原因は明らかだ。このブログのテーマであるフロイト全集が読めていないこと。

 少々忙しいということもあるし、「快原理の彼岸」がやはり難しくて進めないということもある。あんまりこだわっても仕方がないので、適当なところで切り上げて次に進みたいとは思っているが。まあ、もう少し。

 というわけで、本日も関係ない話題でつなぐ。ランキングの第3報である。
 自分でクリックしない方針を続けてきて、週間のクリック数が2から3という状況であったが、ついに2日程前にゼロになってしまった。ゼロになったらどうなるか、少し興味があったのだが、まあ予想通り。カテゴリごとの順位が表示されなくなり(下のリンクをクリックすればまだその状態が見られるかも)、ランキングのどこにも載らなくなってしまった。

「重元寛人『フロイト全集』を読む」サイト情報

 そして2月9日づけの1日あたり訪問者も過去最低の「4」を記録した。(10日には13と少し回復したが。このような変動がどうして起こるのかはよくわからない。記事の面白さを反映しているというわけでもなかろうしなあ。)
 落ちるところまで落ちたのを目撃したので、本日より自己クリック禁止を解いてランキングの成り行きを見ていきたい。

 皆様もまた、応援をよろしく。↓↓(今後時々は、記事内にリンクを貼ることにしてみます。)

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2007-02-11 00:44 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月10日(土)
「戦争と平和」第2部
<総司令部>
クトゥーゾフ総司令官
アンドレイ副官
コズロフスキイ副官
ネスウィツキイ佐官
ヴィンツェンゲローデ幕僚侍従長
ジェルコフ軽騎兵少尉:ドーロホフと旧友。総司令部を追放され伝令将校となる。

バグラチオン公爵:前衛軍を指揮する。
<歩兵連隊>
連隊長
ミハイロ・ミートリチ大隊長
チモーヒン大尉:クトゥーゾフの戦友
ドーロホフ
<パヴログラード軽騎士連隊>
カルル・ボグダーヌイチ・シューベルト連隊長
ワシーリイ・デニーソフ中隊長大尉
ニコライ・ロストフ士官候補生
ラヴルーシカ
キルステン二等大尉
テリャーニン中尉
<砲兵中隊>
トゥーシン二等大尉
ザハルチェンコ曹長

<オーストリア軍>
ノースチッツ伯爵
フェルジナンド大公
カルル大公
マック将軍

<ブリュン>
ビリービン:外交官。アンドレイの友人。
イッポリット・クラーギン:外交官のサークル”われらの仲間”の一人。
2007-02-10 01:38 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月09日(金)
少子化問題
 どこかの厚生労働大臣の発言のこともあり、少子化問題についてしきりに議論されている。
 いろいろな意見がありそうだが、以下のような基本的なことに関しては右も左も大筋で共通した見解にあるように見える。

1.少子化問題は由々しきことであり、なんとか策を講じなければ非常にまずいことになる。
2.日本における少子化の一番の原因は産みたい人が子供を産みにくい社会状況のせいであり、育児等の社会保障を充実させることでこれを改善することができる。

 今の議論は、これらの前提に基づいて、いかなる施策によってそれを実現するかという方法論に焦点があてられているようだ。しかし、はたしてそうだろうか。これら2つの前提条件そのものにも、疑問を呈してみる必要があるのではないか。

 後の方の前提から考えてみる。確かに働く女性が子供を持ちにくいような職場の状況や、教育費が高くて多くの子供を持つことの負担が大きい状況がある。これらを社会保障の充実等で改善すれば、おそらく出生率は少し持ち直すかもしれない。ただ、私にはどうもこれらが少子化の根本的原因とは思えず、したがって社会保障等の充実だけでは完全な解決にはならない気がするのだ。
 さらに言えば、そもそも少子化というのは解決すべき問題なのだろうか。むしろ人口の縮小を受け入れて、なんとかそれでやっていけるように社会のしくみを変えて行く工夫をする方がよいのではないか。

 少子化とは文明が成熟して人々が自由に個人の利益を追求できるようになったことから生じる、必然的帰結のように思えてならない。もし人類が人口爆発に伴う環境破壊の危機といったことをうまく乗り切ったとしよう。その後文明の成熟がすみずみまで行き渡った時には、世界人口は縮小に向かうだろう。そして、人類は最終的には少子化によってひっそりとこの地球上から姿を消すことになるのではないか。
 このようなシナリオは、エコロジーの点から考えると望ましいことだ。なぜなら、地球環境を破壊している癌は人間そのものなのだから。
2007-02-09 00:01 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2007年02月08日(木)
去年読んだ本2(バルザック)
 去年読んだ本の感想をもうひとつ。

「ゴリオ爺さん」上・下 バルザック 高山鉄男訳 岩波文庫
★★★★

「谷間の百合」 バルザック 石井睛一訳 新潮文庫
★★☆

 海外の小説を読む時、岩波文庫と新潮文庫の両方から出ている作品だとどちらにしようか迷う。翻訳の問題が一番大きいのだが、これはちょっと見ただけではわからない。そうすると、印刷のきれいさとか挿絵の有無といった副次的なことで決めてしまうことが多い。

 「ゴリオ爺さん」も岩波と新潮から出ているのだが、岩波の方では上巻の最初に「『ゴリオ爺さん』関連のパリ」と称して当時の地図に物語で出てくる代表的な場所を示したものが掲載されていて、これがとても役に立った。当時描かれた挿絵がところどころに載っているのもよかった。
 「谷間の百合」は新潮文庫だけで選択の余地なしだが、やはり冒頭に地図が載っている。ヨーロッパの地理には不案内なので、こういうのは助かる。

 「レ・ミゼラブル」は、当時の挿絵が載っている岩波を選んだ。「ゴリオ爺さん」みたいな地図があったらさらによかったのだがなあ。
 今読んでいる「戦争と平和」は印刷のきれいさから新潮を選択。戦争の叙述になってから地図が欲しくなってきたので、帝国書院から出ている「地図で訪ねる歴史の舞台ー世界ー」という学習用地図を購入してみた。「ナポレオンの軌跡」という見開き2ページのシェーマがあり勉強になる。欲を言えばオーストリア・ドイツ出兵の所をもっと詳しく示したものがあればさらによかったが。

 さて、バルザックの作品では「ゴリオ爺さん」が最も有名であるが、やはりおもしろかった。パリの一角にあるヴォケ館という安下宿に暮らす個性豊かな住人たちが織りなすストーリー。ゴリオ爺さんは、かつて小麦の商売で当てて築いた財産を社交界に嫁いだ2人の娘にさんざん吸い取られ、極貧のうちに死んで行く。悲惨な話だが、どたばた喜劇のように仕立てられているのでさほどの悲壮感はなかった。親不孝娘たちを必死に説得しようとし、結局ひとりでゴリオの最期を看取るラスティニャック青年には共感を覚えた。
2007-02-08 12:27 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月07日(水)
去年読んだ本(スタンダール)
 「戦争と平和」を読み終わるには時間がかかりそうなので、その間に去年読んだ本の感想でも。と、取り出してみたのだが、読んだ当時は非常に感銘を受けた本の印象が、1年ほどの間に急速に薄れていることに気づいた。

「赤と黒」上・下 スタンダール 小林正訳 新潮文庫
★★★★

「パルムの僧院」上・下 スタンダール 大岡昇平訳 新潮文庫
★★★☆

 たしか、「赤と黒」はかなり熱中して読んだはずなのだが、今となってはどうもぴんとこない。星の数も、読んだ直後につけた場合とは変わってしまったかもしれない。
 考えてみれば、もしも過去に読んだ本の印象がいつまでも続いていたら、新しい本にのめり込むのには邪魔になるかもしれない。今、トルストイをおもしろく読めているのも、スタンダールを忘れてしまったおかげか。

 それでもなんとか記憶をたどって、一言ずつ。
 「赤と黒」は、息もつかせぬ展開で一気に読ませるおもしろさであった。主人公ジュリヤン・ソレルは、恋にも出世にも情熱的で、それでいて緻密な計算に基づいて行動する。(クライマックスでは激情によってその緻密さが崩れるが。)その生き様が新鮮に思えた。
 「パルムの僧院」のファブリスは、ジュリヤンに比べるとたいした取り柄もない人物だが、天性の性格のよさによって多くの人に愛され助けられる。その天真爛漫かつ情熱的な生き方には、ジュリヤンよりもむしろ共感を覚えた。ただしストーリーの展開はやや冗長である。
2007-02-07 08:47 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月06日(火)
ファインマンさんの「著作」
 もはや数年前のことになるが、リチャード・P・ファインマンの一般向け「著作」を読みあさったことがある。ユニークな人柄で今なお人気がある、アメリカのノーベル賞物理学者である。

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」上・下 R・P・ファインマン/R・レイトン著 大貫昌子訳 岩波現代文庫
★★★★☆

「困ります、ファインマンさん」 R・P・ファインマン/R・レイトン著 大貫昌子訳 岩波現代文庫
★★★★

 これら3冊は、まさに抱腹絶倒ものであった。著書ファインマン氏の、何事にも好奇心をもってチャレンジする姿勢、幅広い分野で発揮される非凡な才能、そして物理がおもしろくて仕方がないという気持ちがひしひしと伝わってきて、すっかりファンになってしまった。どなたが読んでも楽しめるだろうが、特に理系をめざしている高校生などにお勧めしたいものである。私自身、若いうちに読んでいたら運命が変わっていたかもと夢想したくらいだ。
 収録されている話はどれも興味深いが、いろいろ考えさせられることも含んでいる。「困ります」のはじめの「ひとがどう思おうとかまわない!(実は原書ではこれが本全体のタイトルにもなっている)」は、亡くなった最初の夫人との思い出を綴ったもので、最後の1行にじーんときた。
 
 カッコつきの「著作」としたのは、実はこれらの本を実際に書いたのは友人のR・レイトン氏であって、ファインマン氏の方はボンゴを叩きながらぺらぺらと語っただけらしい。氏の著作のほとんどは、「ファインマン物理学」でさえも自ら記したものではなく、またこれだけ偉大な物理学者の割には残した論文の数は少ないとも聞く。よっぽど、書くということが苦手な人なのかと思っていたが、最近「ファインマンの手紙」という本が出て、身近な人にはけっこう筆まめであったことがわかった。

 上記の本に魅了されて、ファインマン氏のエッセイや一般向けの力学や量子力学の解説書などをひととおり読んだ。最後に、大学の教科書になった「ファインマン物理学」に挑戦したが、日本語版全5巻のうち1巻の終わり位まで読んで止まってしまっている。数式などは他の物理学書に比べたら少ない説明になっているようだが、数学も物理も大学の教養以来10年以上触れていない頭で読むのはつらかった。またいつか取り組んでみたいものだ。フロイト全集が終わった後は「重元寛人『ファインマン物理学』を読む」でいくか。
2007-02-06 00:03 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月05日(月)
魔法の洗剤
 健康法の話と少し関連のある話だが、テレビショッピングを見るのがけっこう好きだ。それで買い物をするわけではない。ただ、これらの番組がどういうしくみになっているか、いか様に視聴者の心理に働きかけて購入を誘おうとしているか、それを考えるのが楽しい。

 日本で作られたものと、海外(主にアメリカ?)のものとがあるが、洋モノの方が文化の違いを反映していたりしておもしろい。

 よくある商品としては、掃除に関する道具や洗剤、エクササイズ関係、料理の道具などがある。これらの商品を俳優があざやかな手つきで使い、掃除や運動や料理といった通常は少々めんどうな作業が、いかに楽しく、簡単・完璧に片付いてしまうかということをプレゼンしてくれるのだ。
 あまりに見事な演出なので、見ているうちにそれが魔法の商品のように思えてくる。(それほど事がうまく運ぶのは、その商品のおかげというより俳優の手際がいいからかもしれないのに。)それらは、一般的な道具とは少し違う形をしていて、そのテレビショッピングでしか買えないようなのだ。(これも少し不思議なところで、そんなにすばらしい商品なら普通の店でも扱ってくれたらいいのにと思うのだが、TV限定というところがミソなのか。)

 このような宣伝のしくみは、ひとつには次のようなことではないかと思う。
 例えば、魔法のように汚れが落ちる洗剤という商品で考えてみる。これを買う人というのはどんな人なのか。

1.掃除が大好きで、通常の洗剤でかなり念入りに掃除をしているが、その効果に満足できず、よりよく落ちる洗剤を求めている人。
2.掃除がさほど好きではなく、簡単にきれいになる洗剤や用具があればいいのになと考えている人。

 実際に調べてみたわけではないので、ここからな単なる推測の話。私の読みでは、後者の、つまり掃除嫌いの人がけっこう多いのではないかと思うのだ。なぜなら、普通の洗剤を使ってこまめに掃除をしていれば、部屋や物は充分にきれいになるものであって、それ以上に強力な洗剤などはあまり必要ないからだ。
 宣伝では、「こういう汚れって普通の洗剤ではなかなか落ちないものなのよね。」などと言って魔法の洗剤のすばらしさを強調するけれども、いや普通の洗剤でもけっこう落ちるものですよ。あるいは、そこまで汚れた状態になるまで放っておくのは、やはり掃除嫌いな人でしょうと、つっこみたくもなる。
 つまり、2のタイプの人は、自分の不精で掃除をしないのにそれを洗剤や道具のせいにして、魔法の洗剤がそれを解決してくれると思いたいのだろう。もちろん購入をきっかけに、掃除をするようになればそれはそれですばらしいことだが。

 料理やエクササイズ、ダイエット関係の商品にも同様のことがあてはまる場合は多いと思う。普通のフライパンや鍋でも簡単でおいしい料理を作る方法はあるし、普通の包丁もよく研げばトマトをつぶれずに切れるし、道具を使わずに自宅でできるエクササイズはたくさんあるし、普通の食品を上手に摂りながらダイエットをすることもできる。
 そして、いくらすばらしい道具を使ったとしても、やはりそれなりの努力を続けなくては物事は達成できないものでもある。

 テレビショッピングは、紹介する商品の性能については、おそらく正しいことを言っているのであろう。しかし、同じ事をするための普通の道具について過小評価しがちである。また、それを使う人という実は一番大事なファクターから、おそらく意図的に焦点をそらそうとする傾向がある。このあたりが、ひとつの「からくり」なのではないかと思うのだ。
2007-02-05 08:54 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月04日(日)
私の健康法
 健康ブームとのことで、体によい食品のことなどが話題をよんでいる。
 私の実践している健康法はひとつ、日常生活の中で少し余分な運動をすることだ。
 これは、ほとんどの人にお勧めできる健康法である。お金もかからず、はっきりと効果を実感できる。ただ、はじめる時に少しの「気合い」がいるだけだ。

 もともとスポーツは苦手な方で、今後もたぶん特定の運動種目を趣味にすることはないだろうと思う。私の実践しているのは、日常的に少し意識して体を余分に動かすということである。

 きっかけは、3年程前のことであろうか。夏風邪を引いたらそれが長引いて、秋になっても冬になっても治らない。ずいぶん体が老化したのだろうか、このまま弱っていって病気がちな余生を送ることになるのか、などと鬱な気持ちになっていた。
 ようやく風邪が治ったところで、普段はエレベーターを使っていた5階まで階段で昇ってみた。すると、昇りきった時には、はあはあぜいぜい大変なことになっていた。いかに体が弱っていたか、身にしみた。

 それからエレベーターを使わずに、階段を昇るようになった。しばらくすると、5階くらいではさほど息があがらなくなった。歩く距離も増やした。1駅遠い所で下車して家まで歩いたり。
 さらに、家で簡単にできる筋肉トレーニングをはじめた。2、3日に一度、腕立て伏せや腹筋、ダンベルを使った体操をする。

 これらのことで、体に目に見える変化がおこった。もともとやや太り気味の体重が4kg減った。上半身に筋肉が少しついた。ごはんがおいしくなった。これは筋トレのおかげかと思う。基礎代謝が増えたせいか、やたらとお腹が減るのだ。若い頃の感覚を思い出した。

 デスクワークを主な仕事とする人の一日の運動量というのは、健康を維持するのには少なすぎるのであろう。体は使わないと、最低限の体力にまで衰えてしまう。それで、いざという時のふんばりがきかなくなり、病気への抵抗力も低下するのであろう。

 運動が体によいことはわかっているが、特定のスポーツをするとなると、なかなか忙しくてできない。でも、ここで紹介したような日常的な運動は、その気になりさえすれば誰にでもできて、かなり効果的なのだ。是非ともお勧めしたい。

 と、ここまでのところを読み直してみると、なにか当たり前過ぎることを書いてしまったようだ。わかりきったことがなかなか出来ないのはなぜか、ということが問題なのかもしれない。
2007-02-04 00:03 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月03日(土)
生きることは死ぬこと(快原理9)
 第V節では、いよいよこの論文の中心となるテーゼが登場する。

欲動とは、より以前の状態を再興しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫である。(17-90)

あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。(17-92)

 これらの命題は一見ぎょっとさせられる、意外なものだ。しかし、よくよく噛み締めて吟味すると、確かにそういうものかも知れないと思えてくる。

 欲動とは何か。生命の営みの本質とは、その目指すところはなにか。
 フロイトは、その本質が守旧的であり、反復を目指すものであると結論している。それ以外にはあり得ないということだ。

 われわれの印象では、生命とは、活き活きとして、創造的で、新しいものをめざしているように見える。つまり、生命の目標は「いまだかつて達成されたことのない状態(17-92)」なのではないか、と考えたくなる。

 でも、そんなことはあり得るのか?自然界の動植物の営みを眺めると、それらは確かに反復によって成り立っているようだ。生まれては死に、生まれては死に、同じことの反復、反復、反復‥‥。

 では、人間はどうなのか。われわれのめざすところは、創造であり発展ではないのか。でも、その「創造」とか「発展」って、いったい何なの?と、尋ねられると意外に曖昧模糊としていることに気づく。
 そもそも、人間というものが他の動物と、さほど根本的に違っているとも思えない。他の動物とは違って、ヒトという種にだけ創造性という独特の性質があるとも考えにくい。

 われわれの目に新奇なものと見えるものも、実は幼児期に求めていたものの形を変えた反復である。それらを求める創造的欲求とは、一旦は禁止され抑圧された幼少期の欲動が後に別の形での表現を試みているということであり、それがゆえに一層執拗に満足を追求して止まないのであろう。

 例えば、芸術。これは、世界や母と一体になりたいという、幼児的な欲望の反復である。
 発明や発見、科学技術の進歩。これは、大人の交わしている言葉も理解できず、五里霧中の状況で知的探求を続けた子供時代の再演である。
 個人のライフ・サイクルにおいても、人類の歴史においても、一見創造的で進歩的に見える営みは、すべて反復であり、形を変えた再演である。

 回りまわって、巡りめぐって、戻っていく。より幼稚的なものへ、そして最終的には死の道へ。その迂回路が、創造的という誤った印象を与えるのである。
2007-02-03 00:59 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月02日(金)
おもしろい!
 トルストイ「戦争と平和」第1巻第1部まで読み終えたところだが、いやあおもしろい。これからの展開を思うと、期待に胸がふくらむ。

 まずは登場人物の紹介。それぞれの家庭で息子や夫が戦争に行く決意をし、それをめぐり夫婦や親子にさまざまな波紋が起こる。

 莫大な財産を持つキーリル・ウラジーミロヴィチ・ベズウーホフ伯爵の死去と、その財産相続をめぐるどたばた劇。
 伯爵は、庶子のピエールを嫡子に格上げしてほとんどの財産を相続させるための遺言を残すが、直系の相続人にあたるワシーリイ公爵とカテリーナは、この遺言状を闇に葬ろうとする。このたくらみを阻止するために、ピエールを伴って伯爵の臨終の床を訪れるアンナ・ミハイロヴナ夫人(ピエールとは何の縁もないおばちゃんなんですが)の迫力がすごい。

 妊娠した妻リーザを禿山にある父の屋敷に託し、別れを告げて戦地に赴くアンドレイ公爵。頑固でぶっきらぼうな父と息子の別離の場面がよかった。

父:「よいか、これを忘れんでくれ、アンドレイ公爵、おまえが死ぬようなことがあったら、この老人のわしは、悲しむぞ‥‥
だが、おまえがニコライ・ボルコンスキイの息子らしくない振舞いをしたと知ったら、わしは‥‥恥じるぞ!」
息子:「そんなことはぼくに言わなくてもよかったはずですよ、お父さん」
2007-02-02 12:24 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年02月01日(木)
冬の洗車
 冬の晴れた日は、洗車するのによい、と思う。夏はもちろん春や秋でも日中はけっこう車体が熱くなるので、水滴が早く乾きすぎてよくない。冬の曇った日でもいいのかもしれないが、雨が降るのが心配だし、やはり晴れた日のほうが洗い上がりが綺麗に見えてよい。(もちろんその地域の気候等の条件によるので一般的なことではありません)

 洗車は車への愛情表現である。愛撫である、といってもよい。などと言うと、また「フロイトかぶれが」と揶揄されそうだが。愛情表現とは、手間がかかることなのだ。

 その手の店に行くと、洗車用品は驚くほどたくさんある。かなり念入りに洗う人用のものから、お手軽路線のものまで、各種そろっている。

 頻繁にかつ念入りに洗えれば一番よいのだろうが、よほど熱心でないとむずかしい。念入りに時々しか洗わないよりは、簡単にでも頻繁に洗う方がいいと思う。頻繁に洗っていると、手順に慣れてくるので、こんどは少し手間をかけて綺麗な出来上がりにしたくなる。

 私は、少し前までは一番お手軽なワックス入りカーシャンプーで洗ってふき取るというやり方をしていた。これでもけっこうきれいになる。こまめに(乗り方や求める水準にもよるが私は2週間に1度くらい)洗えば、だいたいいつも車はよい状態を保っていられる。

 洗車後の拭き取り用に非常に吸水性の高いぞうきんが売っているのだが、これがなかなかのすぐれものである。糸くずや拭きあとが残らず、簡便かつしっかり拭き取れるので手放せないアイテムとなった。

 最近は、少し手間をかけて、塗りながら拭き取っていくタイプのワックスを使うようになった。通常のワックスの3分の1くらいの手間で塗れ、それでいてなかなかの仕上がりなので満足している。見た目だけでなく、さわるとしっとりと良い手触りで、すりすりとしたくなる。
2007-02-01 08:55 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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