本ブログでは初の症例研究だ。 フロイトの症例論文としては、「ドーラ」、「ハンス」、「鼠男」、「狼男」といったところが有名である。それらに比べると本論文は短いものであるが、それでも多くの興味深い要素を含んでいる。
思春期の女性症例ということで、ドーラのことを思い出させる。親が子供を治療に連れてきたという、動機づけの問題が、最終的に治療継続を困難したという点も共通している。さらに、その治療中断に至る経過の中でフロイトが彼女らにとった態度が、例えば鼠男に対するそれに比べてどうも私には冷たく感じられるのだ。フロイトは思春期の女性が苦手だったのだろうか。そこには、彼自身の個人的な問題が潜んでいるのではあるまいか。 といった風に、フロイトを分析してみたくなる。恐れ多いことのようだが、別に治療をするわけではいから誰にも迷惑はかけないし、私ごときが何かを言ったところで彼の名誉を傷つけるわけもなかろう。
フロイトは精神分析における治療者の中立性を強調した。しかし、人間である以上完全に中立であることはできない。症例報告には、分析者自身の姿も映し出されている可能性がある。そのあたりを考えながら読んでみるとまたおもしろい。
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2007-03-31 00:18 |
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1920 Ergänzungen zur Traumlehre (GW
Nb-622) 夢学説への補遺(全集17-235 須藤訓任訳 2006)
キーワード:夢、欲望成就、懲罰夢、批判的審級、外傷夢、自閉的思考、前意識、潜在的夢思考、夢工作
要約:懲罰夢は、自己に対峙する批判的審級の欲望を成就する。外傷夢は、夢は欲望成就であるという規則のより重要な例外となる。夢の予兆性向がみせかけのものであることは、白昼夢の研究からも支持される。
関連論文:「快原理の彼岸」、「J・ヴァーレドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき」
記事:「夢学説への補遺」を読む |
2007-03-30 12:36 |
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第6回国際精神分析学会(ハーグ,1920)でフロイトが行った講演の要旨として、国際精神分析雑誌に掲載された文章。フロイト自身が作成した要約かどうかは不明とのこと。(全集解題より。)
挙げられている3つの要点のうち、前二者は「快原理の彼岸」で述べられた「懲罰夢」と「外傷」夢のこと。とくに後者が、夢は欲望成就であるという規則に対して重大な例外になるという指摘をしている。 第3の要点は、ヴァーレドンク博士の白昼夢についての研究に関するもの。これについては、後に博士の著作によせられたフロイトの「はしがき」でも述べられる。
フロイトの用いる「前意識」という語は、使用される文脈によって意味合いが異なるような曖昧さを孕んでいるようだ。 「夢解釈」では、いつでも意識されうる観念として、無意識より意識に近い意味で用いられていた。 「夢学説への補遺」および「J・ヴァーレドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき」では、白昼夢を前意識的思考として論じており、「夢解釈」の時とは少しニュアンスが異なるように感じられる。
ひとつには、後期理論では以前ほど意識的か無意識的かという観点に重きがおかれず、思考活動そのものの様態の違いに注目が払われるようになったということがあるのだろう。
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2007-03-29 08:46 |
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1955[1920] Gutachten über die
electrische Behandlung der Kriegsneurotiker (GW
Nb-706) Memolundum on the electrical treatment of war
neurotics
(SE17-211) 戦争神経症者の電気治療についての所見(全集17-229 須藤訓任訳 2006)
キーワード:戦争神経症、電気治療
要約:戦争神経症は心理的原因からなる。それに対する電気治療は、患者の治癒よりも戦闘への復帰を目的としたために、不完全なものにしかならなかった。
関連論文:「『戦争神経症の精神分析にむけて』への緒言」
記事:「戦争神経症者の電気治療についての所見」を読む |
2007-03-28 08:57 |
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第一次大戦中に行われた戦争神経症の電気治療について、戦後オーストリア国防省は実態を調べるための調査委員会を組織した。委員会の求めに応じて、フロイトが1920年に提出したのがこの文書である。(全集解題より。ただし、ほぼ英訳標準版の引き写しの情報。そもそもこの文書をフロイトの著作として採用したのは、英訳標準版が最初。)
公式文書としての抑えられた表現の中に、フロイトの心情が表れている。 戦争神経症に対してなされた電気治療が「痛ましい治療」であったと、患者のことを慮っている。 一方、それを施行した医者もまた苦しい立場に立たされていたことを指摘している。
しかし、この治療法ははじめからある汚点に付きまとわれていた。(中略)医学はまさにこの場合、医学とは本質的に異質な意図に奉仕していた。医者自身が戦争の官吏であり、自分に割り当てられた指令以外に意を払うなら、降格や役務怠慢の非難という危険がわが身にふりかかってくることを恐れなければならなかった。常ならば医者にとって主導的なものである人道上の要求と、国民戦争上の要求との解きがたい葛藤が医者の活動をも混乱させずにはおかなかったのである。(17-232)
戦争と医療という問題について、考えさせられる一文である。
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2007-03-27 21:28 |
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携帯の音楽プレーヤーで、ベートーベンの交響曲第五番を聴く。カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団。 第三楽章から第四楽章に切れ目なく移る山場のところで、一瞬切れ目ができてしまう。 これは音楽プレーヤーでトラックごとにファイルを分割するためにおこる現象のようだ。クラシック音楽では切れ目ない楽章移行が結構よくあり、またそういうところこそ聴きどころである場合が多いのだ。技術的になんとかならないものか。
第五の四楽章の話に戻ると、カラヤンの演奏は簡略化した版であった。このスタイルの方が一般的なのでそういうものと思っていたところ、ベートーベンの指示どおりに繰り返す演奏(バーンスタイン指揮のものだったと記憶している)を聴いてびっくり。しつこくて好きになった。
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2007-03-26 06:13 |
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沖縄に来た。 初夏のような気候で快適。のんびり。
街の風景は、異国のような、懐かしいような独特の趣き。 看板に日本語が多い。「〇×写真館」とか「△□理容室」とか。 普段見る看板に、カタカナ横文字が多すぎなのかも。 つかの間の休暇を楽しむ。
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2007-03-25 07:31 |
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かつて、「知ってるつもり?!」という番組(1989-2002)で、フロイトのことを取り上げたことがあった。今回はそのお話。
といっても、残念ながらその回の放送のVTRが手元にあるわけではなく、直接見た時の記憶をたどってのことなので、かなり不正確なところがあるかもしれない。 どなたか、より詳細な記録をお持ちの方があれば、お知らせいただけるとありがたいです。
今ではこの番組そのもののことを知らない人もいるかと思うが、一時はかなりの人気を誇った伝記番組である。主に歴史上の人物(時に存命中の人も)をとりあげて、その生涯を紹介するというもの。司会の関口宏が、内容にまで深く関与して製作されていたとのことで、全体としてはかなりよく出来たものが多かったと記憶している。
フロイトの回がいつだったのかは、調べてみたがはっきりしない。2000年以降はホームページ上にタイトルが残っているがそこにはなかった。 解説者としてのゲストとしてなんと、日本精神分析界の大家であられた小此木啓吾氏が出演していた!内容の方は、さすがに50分番組でフロイトの生涯と理論を一般向けに紹介すること自体に無理があるわけだが、やや物足りなさの残るものであった。
その後、たまたま小此木先生の講演を聞く機会があり、その時に番組のVTRを一部紹介されていたのを視聴することができた。 小此木先生は笑いながら、番組制作にあたって関口宏氏と意見の食い違うところがあったが最終的には関口氏の意向どおりのものとなったという逸話を話されていた。 フロイトの番組を作るのに小此木啓吾大先生に楯突くとは、関口氏もなんたる大胆不敵。それを許す小此木先生も心が広いというのかなんというのか。普通なら番組への出演を辞退するぐらいのことだと思うのだが。
講演で先生は「食い違い」がどこの部分だったのかははっきりおっしゃらなかったが、最初に番組を見た時には気づかなかったある点に目がいった。 番組は、フロイト晩年の映像と感動的な音楽と共に、ある言葉を紹介して終わる。これは、おそらく「文化への不満(全集では「文化の中の居心地悪さ」)」(1930)からの次の引用であったのではないかと思う。
そして事実、おそらくこの方法こそは、積極的な幸福を手に入れるというこの目標に、他のあらゆる方法にもまして近づくことができるのだ。いうまでもなくそれは、愛を中心に据え、愛することおよび愛されることによって一切の満足を獲得しようとするあの人生態度に他ならない。(著作集3-446)
この引用だけだと、フロイトは最終的にキリスト教的な愛を至高とする境地に達したのかという印象を与えてしまう。ところが、この文章がどのような文脈におかれているか調べれば、そうではないことがわかる。 この論文は、文化の発展という人間の歴史的営みに対する、どちらかというとペシミスティックな視点からの評論である。幸福を得るために人々がとる方法が列挙され、そのひとつが上述の愛を中心に据える人生態度なのであるが、それも含めてすべてが一時的ではかない満足しかもたらさないということが述べられている。 そうはいっても、これは「すべてが無意味だ」といった愚痴っぽい虚無論でもない。人類が破滅的な道を歩まず、中道的な選択をしていけるよう、フロイトから後世に残された貴重な遺言ともとれるのである。
波乱万丈の人生を送った人が、死に際に安らかな悟りの境地に達したといった逸話は美しい。しかし、厳しい言い方をすれば、もはや生の苦痛を耐え抜く必要のない人が、死を前に「悟り」に達するというのは、安直な辻褄あわせともとれる。 死の直前まで生きることの苦悩から目を背けないことこそが、真に偉大な態度であろう。
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2007-03-24 00:00 |
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フロイト関連 |
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モーツァルトのレクイエムを聴きながら考えた。この最高の傑作が未完に終わったことも、モーツァルトが作曲家として脂の乗りきった時に亡くなってしまったことも、残念でならない。しかし、死を予感しながら最後の力をふりしぼりつつ書いたからこその傑作であり、われわれもそこに限りない余韻を感じるのかもしれない。 ベートーベンは、第九交響曲という金字塔を残し、後期弦楽四重奏曲という傑作も書き上げてから去ったということで、何か完成された生涯という感じがする。 バッハは、作品の質、量ともに膨大なものを残したけれども、それでも最後に「フーガの技法」という未完の大作があるために余韻を感じる。
で、フロイトの話だが。って、ちょっと強引かな。 フロイトは、上の3人の中ではバッハ型に近い。83歳まで生きて、膨大な著作を残した。後期の重要な理論的著作(「快原理の彼岸」(1920)、「自我とエス」(1923)、「制止、症状、不安(1926)」)を記した後には、もう重要なものは皆書いてしまったといったような趣旨のことも述べていた。 それでも、「文化の中の居心地悪さ」(1930)を記し、「モーセという男と一神教」(1934-1938)を残し、さらには未完となった「精神分析概説」(1938)がある。
フロイトが現代まで生き延びて、さらなる理論展開をしていたらどうなっていたのか。そんな空想を掻き立てられる。
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2007-03-23 08:38 |
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趣味など
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1919 E.T.A. Hoffmann über die
Bewußtseinsfunktion (GW
Nb769) 意識の機能に関するE・T・A・ホフマンの見解(全集17-227)
キーワード:E・T・Aホフマン『悪魔の霊薬』、意識
要約:E・T・Aホフマン『悪魔の霊薬』からのフロイトによる引用。
関連論文:「不気味なもの」
記事:「意識の機能に関するE・T・A・ホフマンの見解」を読む
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2007-03-22 11:46 |
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病理的な精神状態のみごとな描写に富む小説『悪魔の霊薬』(第二部、ヘッセ版全集、二一〇頁)の中で、シェーンフェルトは、一時的に意識が錯乱した主人公を以下のような言葉で慰める。「それにしても、あんたは一体、それを何だと思ってるんだい!私が言っているのは、意識と呼ばれている特別な精神の機能のことだよ。そんなもの、門の所に立っているいまいましい徴税官――関税を徴収する下級役人――上級監督助手がやっている呪うべき仕事以外の何ものでもないのさ。頭の中のカウンターをうっかり開けてしまい、外に出ようとする商品のどれにもこれにも「ヘイ、ヘイ、輸出は禁止だ。国内に国内にとどまるんだ」とさけんでいるんだ」。(17-227)
あまりに短い「著作」なので全文を引用してしまった。反則だったかな。 1919年に国際精神分析雑誌の雑録という項目にS・Fというイニシャルつきで掲載された文章。 同じ年に出版された「不気味なもの」ではホフマンの「砂男」を題材に不気味さについての検討がなされたし、その論文中で「悪魔の霊薬」についても触れられていた。 精神についてのホフマンの考えが、フロイトの意識・無意識と抑圧のモデルに似ていたということの一例であろう。 フロイトは、自分の考えが一番最初のものだとは主張しないという趣旨のことをいろいろなところで述べている。彼が精神分析によってえた知識と同様の洞察に、直感によって到達していた芸術家や哲学者もいたのである。
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2007-03-21 00:08 |
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1921 Massenpsychologie und
Ich-Analyse (GW13-71) Group psychology and the analysis of
the ego (SE18-65) 集団心理学と自我分析(全集17-127 藤野寛訳
2006) 集団心理学と自我の分析(著作6-195 小此木啓吾訳
1970)
キーワード:個人心理学、集団心理学、心理学的集団、群棲本能、指導者、恋着、同一化、暗示、催眠、原始群族、原父、超人、ナルシシズム、自我理想
要約:心理学的集団とは、一人の指導者をもち、リビードによって拘束された個人の群れである。集団中の個人は、指導者に恋着して自らの自我理想の替りにし、同一化によって相互に結びつく。個人における自我と自我理想の分離は、原始群族において原父(首領)と他の個人の二種類の心理が存在していたことに由来する。
関連論文:「性理論のための三篇」、「トーテムとタブー」、「ナルシシズムの導入にむけて」
記事:「集団心理学と自我分析」を読む 循環論法 憎しみの源 救いはいずこに? 集団のこわさ 第VIII節までの要点 個人という幻想 超人とその他大勢 指導者の資質 躁と鬱 お山の大将 |
2007-03-20 12:12 |
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まずスーパーに行って適当なカレー・ルウと材料を買ってくる。そして、カレー・ルウの箱の裏に書かれているとおりに作る。その際、以下の点に注意すること。
1.水の量をきちんと量る。これが一番大事。 2.肉や野菜の量も書かれているとおりにする。多すぎないように。 3.煮込む時間も書かれているとおりに。普通15分。
このようにして作られたカレーは、かなりおいしい。 ところが、たまの休日に子どものためにカレーでも作ろうかというお父さんは、これではあまりに簡単で物足りず、ついもう一工夫したくなってしまうのだね。
例えば、たまねぎをたっぷりきざんでフライパンでキツネ色になるまでじっくり炒めるとか。 シチュー用の塊肉を買ってきて長々と煮込んだり。 いろいろな香辛料をさらに付け加えたり。ワインを入れたり。とにかくいろいろ入れてみたくなる。
これらの方法のすべてというわけではないが、悪い結果をまねきがちである。 なぜかというと、最近のカレー・ルウというのはとてもよく出来ていて、15分煮るだけでコクが出るようになっているのだ。お父さんが加えようとした「隠し味」も、すでに絶妙のバランスで配合されているわけですね。だから、箱の裏に書いてあること以外はしない方がよい。
ただ、肉に関しては、スーパーで「カレー・シチュー用」と書かれているものは、塊の大きいものだと15分ではちょっと硬いかもしれない。「牛バラ切り落とし」なんかがいいと思う。好みの問題だが。
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2007-03-19 08:44 |
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ウィザードリィ・リルガミンサーガの話しであるが。その後、夜更かしで生活を破壊するようなことにはならずにすんでいる。 マニュアルをなくしてしまったので、ウェブの攻略ページを見ながらやっている。シナリオ1とシナリオ3を、毎日少しずつ。
以前に途中までで挫折した時は、かなりのレベルまで育てたキャラクターたちが次々に全滅したり、死から復活しそこねて永遠に失われたり、悲惨な目にあってやる気をなくしたという記憶がある。こういう厳しいところがこのゲームの魅力にもなっていると聞くが、あまりにひどい目に遭うと立ち直れない。
今回は、攻略ページの諸注意に従って、慎重に進めているので今の所は順調。しかし、こんなやり方で面白いのかという疑問もある。なんだか毎日やるように決められた宿題をやっているような気分だ。
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2007-03-18 09:13 |
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何度も言うようだが、本論文のすばらしさは、個人という存在を集団から二次的に切り出されたものとして相対化する視点を与えてくれたことである。
集団の中の個人は支配され自由を奪われているが、本当を言えば首領のように思いのままに振舞いたい気持ちはやまやまである。大きな集団の長になるのが無理であれば、自分の周りにある小さな集団において「一国一城の主」となるという手もある。そして、それをつきつめていけば、自分ひとりという集団の首領に自らがなるという考え方ができる。これが個人主義というものだろう。
集団の統率を重んじるか、個人の自由を主張するか、それぞれの社会がはらんでいるこの葛藤は、さまざまな歴史的動きの原動力となってきた。 ごく大雑把に言えば、イデオロギー論争において、「右」が集団の統率を重んじる立場であり、「左」が個人の自由を主張する立場であるということになろう。
個人の自由といってもその中身はなんのことはない、性愛的欲求の追及のことである。それを束縛されるか、自由にするか。
直接的な性的追求は、個体がその他の点では集団に埋没していても、その個体のために部分的に個人的活動を維持し続ける。それは、強くなりすぎると、いずれの集団形成をも破壊することになる。(17-220)
個人の自由を主張するようなイデオロギー的立場が、自由恋愛の許容ということと相性がよいように見えるのは、そのためだったのか、と納得した。
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2007-03-17 09:08 |
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自我と自我理想の分離の具合には個人差があるということだが、一個人の中でも両者の関係に変動が見られる。
自我の内にある何ものかが自我理想と一致する場合には常に、勝利の喜びの感覚が得られる。自我と理想の間の緊張の表現としては、罪責感(や劣等感)もまたそれとして理解可能だろう。(17-207)
前者が躁の状態で後者が鬱の状態といえる。この気分の変動が大きい病的状態が、躁鬱病(双極性障害)である。
周期的な、あるいは外界の出来事に反応しての気分の変動ということは、多くの人が経験するところであろう。 振り子が揺れ続けるのは、左に揺れた状態も右に揺れた状態も力学的に安定していないからである。同様に、躁状態も鬱状態も、安定した状態でないから揺れ動く。 自我と自我理想が一致している状態というのは、非現実的でいろいろ不都合なことに目をつぶっているわけで、これをどこまでも押し通すのには無理がある。 自我理想によって自我が責め苛まれる状態は、自我にとって大変しんどいことであり、そこから開放されたいという気持ちが働く。
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2007-03-16 08:55 |
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原始時代において首領と他の個人という二種類の心理が存在したことが、現代の個人における自我と自我理想の分離をまねいた。ただ、この分離の具合には個人差がある、ということをフロイトは述べている。
自我と自我理想の分離は、多くの個人にあってはさほど進捗しておらず、両者はなお容易に合流し、自我は往々にして以前のナルシス的自己満足を保持し続けていた。(中略)指導者は多くの場合、そういう個人がそなえる典型的な性質をそなえていることを殊のほか鋭くまた純粋に表に現していさえすればよく、より大きな力とリビード的自由をそなえている人だという印象を与えさえすればよい。
自我と自我理想があまり分離しておらず、一般に「自己愛的」といわれるような人物こそが、指導者に向いているということだ。たしかにこれは、あたっていると思う。
現代においても、「指導者に求められる資質」といったテーマは人々の関心を集めるらしく、ベストセラーの一大分野になっている。作者の多くは指導者として成功したと自認している人物であり、そういう著作をなすこと自体が自己愛的な性格の表現ともいえそうだ。
これらの本は、実際にはどれほど役に立つのだろうか。フロイトの言うような指導者の資質とは、生まれつきの素質がごく幼少期からの体験によって磨かれて形成されるもののような気がする。書物の役割は、もともと素質のある人の方向性を強化したり、具体的なノウハウを伝授したりするくらいで、資質を根本から変えることはむずかしいのではないか。あるいは、部下型の人物が憧れとして読むということもあるのかもしれないが。
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2007-03-15 08:45 |
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個人心理はむしろ、集団心理と同じほど古いに違いないのだ。というのも、そもそもの始めから、二種類の心理が存在したのだから。集団の中の個人の心理と、父親、首領、指導者の心理である。(17-196)
群族の原父(父親、首領、指導者)は、ナルシス的であり、絶対的権力によって集団を支配し、全ての女性を独占し、好き勝手に行動することができた。フロイトはこれを、ニーチェの言う「超人」に例えている。
原父が死ぬと、その替りが現れた。それはおそらく一番年下の息子だったろう、とフロイトは述べているが、なぜなのかはよくわからない。 ポイントは、集団中の個人はそれぞれ原父になる潜在的可能性を秘めているということのようだ。蜜蜂が一匹の幼虫を女王蜂に育て上げることができるように、任意の個人を原父にすることができる。そのためには、齢の若い息子の方が適しているということか。
原父による愛は、支配であり強制でもある。後になって、原父は不死のトーテムに置き換えられ、神の起源となった。個人の心理には、原父によって暴力的に支配されたいという渇望が刻印された。
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2007-03-14 08:43 |
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ボーランド社が無償で提供しているTurbo
Delphiをインストールした。ボーランドの公式サイトからはなぜかうまくダウンロードできなかったが、以下のサイトからだとうまくいった。
窓の杜
インストールにあたっては、ボーランドへの登録が必要なことや、プログラム本体の前に各種ランタイムをインストールするなど少々煩雑であったが、なんとか終了。
以前の記事でも述べたが、ボーランドのプログラミングツールとはTurbo
Pascalの頃からのつきあいで、Delphiは初代からバージョン5.0まで愛用していた。 その間にボーランドの社名が変わったりいろいろあったようだが、昨年の秋にTurboブランドが復活し、他の言語との統合的プログラミング環境として、プロ用以外は無償で提供されることになった。
インストール中に現れる画面では、Turbo
Pascal時代のパッケージにあったパスカルの顔の絵がでたりして懐かしかったが、最終的な起動画面はギリシャ風の新しいもの。 プログラムの外観も、パステル調のものに一新された。よく見ると中身は以前のものを継承しているが、より多くの要素を取り入れて大掛かりになっているようだ。
新規プロジェクトを開くと、いくつかのテンプレートがでてくる。例えば「Win2000ロゴアプリケーション」というのを選択すると、エディターのプロジェクトが立ち上がる。これは、何も加えなくてもすでにリッチテキストの作成・編集・保存およびメールにしての送信といった基本機能をそなえている。少しの改造で、自分用に定型文書を自動作成するのに便利なエディターができそうだ。Wordのマクロでも同じようなことができるだろうが、マクロというのは以外に扱いがむずかしかったりもするので、自分でプログラムできたら便利だし楽しい。
というわけで、ひさしぶりにPascalをやってみたくなった今日この頃である。
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2007-03-13 00:00 |
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第X節では、チャールズ・ダーウィンの仮説をヒントにフロイトが「トーテムとタブー(1913)」で構築した、いわゆる原始群族仮説をさらに発展させている。本論文においても要の部分といってよいだろう。
集団の心理とは最古の人間心理である、われわれはそう結論つけねばならない。集団の残渣をすべて軽視し、その上で個人心理としてわれわれが孤立させたものとは、もともとの集団心理から、後になってようやく徐々に、いわば依然として一部だけその輪郭を浮かび上がらせたものなのだ。(17-166)
個人というものがそれぞれに固有の心理をもつひとつの単位であるという基本前提が、根底から覆されてしまった。 自由な意思をもった個人というものは最初からあったわけではなく、人々は集団の中に生き、集団によって拘束されていた。 現代のわれわれは、個人の人格、意思、自由を信じているが、それは集団の中から部分的に抽出されものに過ぎないのかもしれない。
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2007-03-12 08:59 |
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そのような一次的な集団(注)は、同じ一つの対象を自我理想の代わりに置き、その結果、自我が互いに同一化してしまった、相当数の個人からなる。この関係は、上のように図で描き出すことができる。 (全集17-188より。図は全集に掲載されているものをもとに作成。注:一人の指導者をもち、過度の「組織化」によって二次的に一個体の性質を獲得できるに至ったのではない集団のこと。)
第VIII節末尾からの引用であり、ここまでの結論となっている。リビード理論によって心理学的集団のメカニズムを解き明かした、すばらしいモデルである。
ここで終わったら、さぞかしすっきりしたものになるだろうが、フロイト理論はそう一筋縄にはいかない。続く第IX節は、次のようにはじまるのだ。
この定式化によってわれわれが集団の謎をもう解いてしまったという錯覚に耽ろうとしても、それができるのは束の間にすぎない。(全集17-188)
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2007-03-11 11:12 |
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フロイト全集第4巻が届いた。
フロイト全集
4 1900年 (4)
本全集の編集責任者である新宮一成氏による「夢解釈」、その前半部分である。いよいよ登場か。 第2回配本が届いた時には、「あせらずいこう」などと言っていたが、さすがに読んでいない巻が2冊になったのでちょっと急ごう。17巻の半分くらいまで読むのに3ヶ月かかったから、このペースでいくと全集を読み終わるのに11年もかかってしまうではないか。
月報3の内容は以下のとおり。
「フロイトと象徴的親殺し」 今村仁司 「『苦』から『無』の『明かり』へ」 小林康夫 「超自我と文化=文明化の問題」 柄谷行人
そして、月報末尾の「編集部だより」に次回配本の予告がある。
次回第四回配本は、第二十二巻『モーセという男と一神教 精神分析概説』をお届けいたします。二〇〇七年五月二十五日の刊行予定です。
「おっ、モーセと精神分析概説か。楽しみだな。」と、思ってから一瞬おいて、「えー?!?」と。 「夢解釈II」は??? しかも、2ヶ月ごとの配本が微妙に遅くなっているし。
まあいいや。どうせブログも遅れていることだし。「日常生活」まで読み終わった頃には22巻も届いているだろうから、その時にどちらを読むか考えよう。 ということで、せっかく急ぐ気持ちになったのが、またゆったりと。
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2007-03-10 00:23 |
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集団に帰属することで、個人はナルシシズムからくる愛憎の苦悩から救われる可能性がある。
宗教への帰依は、その典型であろう。 しかし、それですべてがうまくいくのかというと、個人においてはそうかもしれないが、もっと広い視点で見るとそう単純なものでもない。
なにしろ根本的には、どの宗教も、それが包み込む人々には誰にとってもそのような愛の宗教なのだが、それに属さない人々に対しては残虐で非寛容であるといったものなのだ。(全集17-166)
宗教の外に向けられた非寛容がしばしば戦争の原因にもなるということは、歴史をひも解いても今日の世界情勢を見てもわかる。
集団の中で個人が救われるということは、往々にしてその個人が退行して無責任になるということでもあり、それを束ねた集団は全体として攻撃的な方向に走る危険をはらむ。
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2007-03-09 12:23 |
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緊密な人間関係は愛と憎しみの両価性をはらみ、その淵源はナルシシズムにある。では、この苦しみから解放されるにはどうしたらいいのか。
自己愛は唯一、他者への愛、対象への愛においてのみ限界を見出す。(全集17-171)
ここで言う「対象への愛」とは、それによって自己への関心や配慮が薄らいでしまうほど対象に没頭することである。例えば片思いの相手にぞっこん惚れ込んでしまった場合である。 もちろん熱烈に愛し合うカップルでもいいのだが、現実の関係が近くなると、お互いの欠点も見えてきて相手を完全に理想化するわけにもいかないことが多いだろう。 個人と個人との関係においては、対象を理想化するような愛(恋着)は、なかなか長続きしにくいのが現実である。
個人が心理学的集団に組み入れられる際には、集団の指導者が各個人からの理想化を伴う愛を引き受ける役割を担う。さらに、個人相互は同一化によって結びつき、この結びつきがさらに指導者への愛を高めるという相乗作用を示す。
集団に帰属することで、個人はナルシシズムからくる愛憎の苦悩から救われる可能性がある。
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2007-03-08 09:30 |
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身近な他者に対して反感や反発がむき出しになる場合、そこにわれわれは、自己愛の表現、ナルシシズムの表現を見出すことができる。ナルシシズムは自己主張をめざすもので、少しでも自らの個人的発達からの逸脱が起こると、まるでそれが自分に対する批判を、そして、自分を作り変えろという要請を伴っているとでもいわんばかりに振舞うのである。(中略)人間のこの振舞いの中には、憎悪への用意が、攻撃性が告知されているのであり、その由来は知られておらずとも、それが人間の基本的な性格であることは認めてよいだろう。(全集17-170)
ここでフロイトは、身近な者どうしの親密な関係に含まれる敵対的な感情について考察している。有名なショーペンハウアーによるヤマアラシの比喩(ヤマアラシの群が互いの温もりを求めて近づくと棘によって傷つけあってしまうという)をひいて、個人と個人の緊密な関係が、宿命的に愛と憎しみの両価性をはらむことを述べ、その根本要因を各個人のナルシシズムに求めている。
上司に不平を言う部下や、婚姻によって結ばれた家族が家柄を競いあうことなど、現代のわれわれから見てもとても現実的な例があげられている。こういった、さまざまな他者への不平不満、そこからくる人間の争いというものが、もとをただせば、個人のナルシシズムから発しているというのがフロイトの分析だ。
そして、そういった不和、憎しみといったものが、個人が心理学的集団にたばねられるにあたっては、きれいに解消してしまうか、すくなくとも一時的に棚上げされてしまうというのだ。
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2007-03-07 08:43 |
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クリストフはキリストを支えた、 キリストは全世界を支えた。 なら言ってくれ、クリストフは、 その時、どこに足を置いたのか。
Christophorus
Christum, sed Chiristus sustulit orbem: Constiterit pedibus
dic ubi
Christophorus?
(全集17-154より。原典はコンラート・リヒター『ドイツの聖クリストフ』1896)
個人が集団に入ることで退行するという事実を、「暗示」という曖昧な言葉で説明して満足することへの批判として引用された冗談である。
しかし、この論文全体も循環論法のような気がしてならない。前半は個人心理学によって集団を説明し、後半では個人心理を集団から抽出されたものという側面から論じている。 鶏が先か、卵が先か。個人が先か、集団が先か。
この場合、循環論法というのは必ずしも悪いものではないのかも知れない。複雑な事象を説明しようとする時には、どうしても循環論法的になりがちである。それは何も説明しないことではなく、循環しながら物事が形成されるということを言明しているのである。 鶏は卵を産み、卵は鶏を作り、その絶え間ない繰り返しによって現在の鶏という種ができた。個人が集団を作り、集団が個人を生み、そのような絶え間ない相互干渉によって、人間心理というものは歴史的に形成されたのだと。
われわれの常識的判断は、そのナルシス的な傾向のためか、個人が集団を作るというところには目を向けやすいが、集団が個人を作ることを過小評価しがちである。であるから、2つの相互的な流れの双方に注意を向けるということだけでも意義深いことであろう。
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2007-03-06 12:31 |
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モバイルパソコンに、ウィンドウズ版ウィザードリィ・リルガミンサーガをインストールした。1998年の発売当事に購入してプレイするも、半分もいかずに中断していたもの。
ウィザードリィはパソコンのロールプレイングゲームとしては古典的なシリーズで、リルガミンサーガはその最初の三部作をまとめたものだ。つまりは相当に古いゲーム(ウィキペディアによれば最初のゲームの発売は1981年)である。最近のRPGと比べると非常にシンプルな作りになっているのであるが、これがなかなか人を惹きつけてやまないものであることは、ネットで検索して出てくるファンのサイトの数々を見てもわかる。
ちょっとした暇つぶしのつもりが、はじめたら思いの他はまってしまった。この週末は、ひたすら洞窟に行って魔物と戦うような単調な作業に、相当な時間を費やしてしまったぞ。やばいな。
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2007-03-05 08:48 |
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今回のこの記事が100個目になる。ブログをはじめて3ヶ月。毎日更新を宣言してからも、なんとか続けてこられた。(実は少しズルもあったが。)
カテゴリーごとの記事の個数 趣味など 28 読書 25 全集を読む 24 フロイト関連 8 ブログ関連 8 携帯 5 データベース 2
人気blogランキング(あいかわらず、自己クリックがほとんど) 本・読書
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簡潔に言いたいことを表現することのむずかしさを痛感した。あまり負担にならずに、細く長く続けていけるようにしたい。今後ともよろしくお願いします。
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2007-03-04 00:54 |
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インターネットエスクプローラーをバージョン7にアップグレードしてみた。
マイクロソフトのページからダウンロードして、インストール。順調に終了。インストール後の起動でエラー表示がでたが、それを直すための追加プログラムのページが自動的に表示され、最終的には問題なし。
今回のバージョンアップでは、外観からがらりと変わった。しかも、単に目新しいというだけでなく、ぐっと使いやすくなった。 以前からあの大きなボタンを配置したツールバーはどうかと思っていたのだが、今回はコンパクトかつ合理的にまとまっている。 タブ表示というのも、使ってみると便利だ。リンクがタブで開くように設定しておくと、以前のようにやたらとウィンドウが開いてわかりにくくなることもない。終了するときも、一発でOK。 その上に、悪意あるサイトに対する防御機能が強化さえているそうだ。こちらの方は、まだ実感できていないが。
ウィンドウズ・ビスタはまだ当分おあずけなので、ちょっとうれしいアップグレードであった。
なんだかマイクロソフトの宣伝みたいな記事になってしまった。オチもなくてすみません。
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2007-03-03 01:25 |
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2007-03-02 08:48 |
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「戦争と平和」の第1巻を読み終わった。以下ネタバレあります。
戦争と平和の物語は男と女の物語であった、というと単純化しすぎだろうか。それぞれの思いを胸に戦地に赴く、アンドレイ公爵、ロストフ、ボリス、ドーロホフ。そして、それを待つ、妻、母、恋人たち。
これまでのところで私がもっとも感情移入したのは、アンドレイ公爵。 妻との生活や社交界から逃れるように戦場に行き、クトゥーゾフ総司令官の副官として水を得た魚のように働く。アウステルリッツの戦いでフランス軍の急襲にあって倒れ、見上げた無限の大空のうちに、すべての空虚さを悟るのであった。
昨年読んだフランスの小説では、良きにつけ悪しきにつけ、ナポレオンが大きな影響を及ぼしていることを知った。「赤と黒」や「レ・ミゼラブル」では、主人公の若い男性が恋するようにナポレオンに心酔する。 「戦争と平和」は、ロシアの側からナポレオン戦争を描いたものだが、登場するロシア人も、もののわかった人物はナポレオンに一目置いている。アンドレイなどは、英雄としてあこがれてさえいるのだ。
敵にまで尊敬されるとは、偉人とはかくあるものか。
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2007-03-01 08:42 |
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