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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年04月30日(月)
精神分析とテレパシー(DB)
1941[1921]
Psychoanlyse und Telepathie (GW17-25)
Psycho-analysis and telepathy (SE18-173)
精神分析とテレパシー(全集17-289 須藤訓任訳 2006)

キーワード:オカルト主義、思念転移、テレパシー

要約:テレパシー(思念の転移)の証拠となるかもしれない3つの事例。被分析者が占い師から受けた予言は、被分析者の潜在的欲望を言い当てていた。

関連論文:「夢とテレパシー」、「続・精神分析入門講義」

記事「精神分析とテレパシー」を読む
三つの陣営
どこがすごいのか
買って出ましょう
分母はいかに
記憶がつく嘘
すばらしい能力
2007-04-30 00:07 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月29日(日)
神戸の休日
黄金週間の前半は神戸で過ごしている。
というわけで、フロイト全集を読むのも一休み。

ゴールデンウィークとはよく言ったもので、毎年この時期になると日差しも気候も急に夏めいて本当に気持ちのよい季節になる。
写真は28日の夕方のもの。午前中は小雨が降ったり日がさしたりの妙な天気だったが、夕刻に近づくにつれて晴れてきた。風がやや強いのが水面の様子からわかる。
かつては震災で大きな被害を受けた神戸港だが、今はすっかりきれいになり、家族連れやカップルがのんびりした午後のひと時を楽しんでいた。
2007-04-29 00:01 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月28日(土)
すばらしい能力(精神分析とテレパシー7)
 フロイトへの反論の第三は、占い師はすばらしい「通常の能力」を持っているというものである。つまりそれは、相談者の表情や身振りなどの非言語的情報を通じて、その心を読む能力のことだ。相談者から見ると、誕生日や手相などの情報からずばり結論を言い当てられるようだが、実はその表情を読まれ探りを入れられて結論を引き出されているのかもしれない。
 「その人物は‥‥ふむ、死相が表れていますな。(驚きの表情で確信)そう、彼は‥‥事故か(違う)‥‥病気‥でもなく‥‥中毒(図星だ)、そう蟹か牡蠣の中毒で‥‥といば夏の頃ですね、7月か8月に亡くなるでしょう。」とまあ、そんな感じだったのかもしれない。

 フロイトは占い師のこうした能力を過小評価していたのではないか。そして、その背景にはもしかしたら次のような事情があったのかもしれない。
 精神分析と占いは、悩める人が助けを求めて訪れるという点では似ているところがある。前者は言葉によって過去を再構築していく地道な作業であり、後者は怪しげな道具立てと直感によってなされる。分析家にとって、被分析者が過去あるいは分析中に占い師のもとを訪れたということは、なにか競争心のようなものを掻き立てるところがあるのではないか。しかも、分析において苦労して到達した内面の真実が、占いによっていとも簡単に言い当てられたとしたら。それを占い師のすばらしい能力によるものとは認めがたく、そこに思念の転移といった未知の現象を仮定したくなるのかもしれない。
2007-04-28 00:04 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月27日(金)
記憶がつく嘘(精神分析とテレパシー6)
 テレパシー説への第二の反論は、われわれの記憶というものが実に当てにならない代物であるということである。この点については、フロイト自身が自らの体験もあげながら解説している。

わたしは自分の教授任命後、大臣に謝恩謁見を許されたときのことを想い出します。謁見からの帰り道、わたしは自分が大臣との間で交わされた話を偽造しようとしていることにはたと気がつきました。それ以降、実際になされた談話を正しく想い出すことはできませんでした。(17-305)

 記憶というものは、当事者も気づかないうちに、本人の欲するように形を変えていくことがある。第一の事例であれば、占い師の言った言葉は単に彼の義弟が死ぬということだけだったのかもしれない。潜在的に義弟の死を願っていた彼は、占い師の言葉に感銘を受けるあまり、「蟹か牡蠣の中毒で」という言葉を付け加えて、より劇的で実現しそうな予言に変えてしまったのかもしれない。
2007-04-27 08:45 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月26日(木)
分母はいかに(精神分析とテレパシー5)
 フロイトのあげた事例について、思念の転移がなかったという仮定に基づく説明を試みてみよう。

 まず、偶然の一致であったという可能性がある。これは、こういった事柄について考える際にまず検討しなければならないことだろう。
 ただ一回起こった出来事については、それが偶然であったか、なんらかの要因が働いてそうなったのかは判断できない。例えば通常の経路で意思伝達できないよう厳重に配置された2人の人間が思い浮かべた三桁の数が一致したのを見たら、あなたはテレパシーを信じたくなるかもしれない。しかしそのくらいのことはテレパシーなしでも1000回に一回くらい起こることである。あなたの目撃したのがその一回でなく、まさにテレパシーの証拠だったことを示すには、同じ実験を繰り返し行う必要がある。
 現実の出来事の場合には完全に同じことの繰り返しはできないが、同じような条件の事象を結果の如何にかかわらず集めて検証する必要がある。「結果の如何にかかわらず」というところが重要だ。われわれは「あたり」の方には目がいきやすいが、「はずれ」の方はたくさん目にしていても見過ごしてしまいがちなものだから。

 フロイトの事例であれば、彼が分析治療を施したすべてのケースに対して過去になされた占い師への相談のことを、はずれたものも含めて全部調べ上げることが望ましい。そこまでやらないと、「都合のよい事例ばかり集めたのだろう」と言われてしまう。
 また、「あたり」が一通りだけではないということも重要である。「牡蠣か蟹の中毒」ということを言い当てられた第一事例で、予言の対象となった人物は過去に山で転落しかけたことがある。占い師が「山で事故にあう」と予言したとしても「あたり」になっていたに違いない。
2007-04-26 08:49 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月25日(水)
買って出ましょう(精神分析とテレパシー4)
 本論文では、3つの事例があげられ、それらが思念の転移という現象の証拠となるであろうことが論議されている。これらの事例は、同じパターンをなしている。それぞれの症例は自分の大きな関心ごとについて職業占い師に相談をしており、その占い師の予言が相談者の潜在的な欲望を表現していたのみならず、具体的な細部までをも言い当てていた。また、予言のなされた時点では両当事者はその思念転移に気づいておらず、分析をほどこされてはじめて明らかになったということも、これらの事例の証拠性を高めているとフロイトは考えた。

 この予言の説明を買って出ようという方、またその証拠能力には疑念があるという方、大いに歓迎します。この資料に対するわたし個人の態度はぐずぐずとし、両価的なままです。(17−294)
2007-04-25 08:48 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月24日(火)
どこがすごいのか(精神分析とテレパシー3)
 テレパシーを含む超能力ということを議論するためには、まずはその定義をはっきりさせておかなくてはならない。それらは、その時点での科学的知識では説明の出来ないか、あるいはそれと矛盾する事象の存在を主張しているのであろう。科学で説明できないこと自体はいつでも無限に存在する。フロイトの時代よりも科学的知識の蓄積された現代においても、いまだ解明されていない人間の能力が存在することについて誰しも異論はないだろう。しかし、超能力というものはそれ以上のことを主張しようとしているように見える。
 問題は、それが既存の科学的知識のどの部分と矛盾し、どのレベルでの書き換えをせまる事象なのかということである。科学的追求においていまだ確定しない研究途中の部分についてひとつの仮説を提示するものなのか、あるいはすでに確実となった根本的原理をも覆すようなものなのか。
 例えば、テレパシーを、言語を中心とした既知の意思伝達を超えた思念の伝達であると考えれば、以下のようなことはすべてテレパシーに含まれるだろう。しかし、それぞれが科学の知識体系にもたらすであろうインパクトは異なる。

(1)表情や身振りなど、既知の非言語的伝達手段によって、これまで知られていた以上の情報を伝達する潜在能力を人間は有しており、それついて驚くほど高い能力を持った個人が存在する。
(2)嗅覚など、人間がすでに退化させてしまったとされる意思伝達手段が、素質と訓練によって再開発可能であり、それによって驚くべきコミュニケーションを実現できる。
(3)可視光外の電磁波や超音波など、生物学的知識では利用できないとされる媒体を使ったコミュニケーションが可能である。
(4)物理学的にも未知の媒体を用いて、あるいはいかなる媒体も使わすにコミュニケーションが可能である。

 また、このような能力がどのように獲得されたかについての仮説も大事である。

(a)他の能力と同様に自然淘汰による進化によって獲得された。
(b)神や宇宙人など、別の知的存在によってもたらされた。

 例えば(1)と(a)の組み合わといったつつましやかな主張であれば、「テレパシー」と呼ぶ程のものではないかもしれない。ある人が、自分は他人の表情を見て、当事者が真実を語っているか嘘をついているか70%以上の確率であてることができると主張したとしても、それはすごい能力というくらいのものだろう。同じように表情を読むということでも、相手が思い浮かべた電話番号を読み取ることができるといったことになれば、これは超能力といってもいいかもしれないが、既存の科学知識を根本から覆すというものでもない。

 フロイトがどのようなテレパシーを想定して追及していたかはさほど明確ではない。ただ、彼はそれらの事象がいずれ科学的に解明され既知の知識となるだろうと予想している。彼の想定している思念の感応は、ごく普通の人どうしの間でおこるが、通常は目立たず、精神分析の施行によってはじめて明らかになるような性質のもののようだ。
 多くの人が潜在的に持っている能力であるということは、科学知識との親和性という点で重要な性質である。それは、(a)の自然淘汰によって獲得された能力のひとつの特徴であるからだ。(多くの人が顕在的に持っている能力でもいいのだが、それでは超能力にはならない。)
2007-04-24 08:45 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月23日(月)
三つの陣営(精神分析とテレパシー2)
 フロイトは幾つもの顔を持っていた。分析治療の実践者としての、心の真実を追究する研究者としての、そして精神分析を広める政治家としての。これらの一般には両立しにくい分野のすべてにおいて高い能力を発揮して大きな結果を残した彼は、まさにスーパーマンであったといってよいだろう。

 本著作の最初の部分では、政治家フロイトの顔がうかがえる。彼の状況分析によれば、当時精神分析は「公認の科学」にはいまだ含まれないばかりか排斥されることさえあり、同じような立場のオカルト主義者から同盟の誘いを受けていた。ただ、精神分析とオカルト主義との類似点はそこまでで、真実を追究する姿勢はまるで異なる。

大多数のオカルト主義者を突き動かしているのは知識欲でもなければ、羞恥心――否定しようもない問題に向き合うことを科学はこんなにも長く忽せにしてきたという羞恥心――でもなければ、新たな現象領域を科学の配下に置こうという欲求でもないのです。オカルト主義者はむしろすでに確信し終えているのであって、それにお墨つきをもらって、あからさまに自分の信仰に帰依するための正当化を求めているだけなのです。(17-291)

 フロイトは、神秘現象についても頭から否定することはなく、むしろこれに科学的光をあてて真実を明らかにしようという態度をとった。オカルト主義者が主張する事柄の大部分は彼らの欲望成就によって作られた幻影であろうが、中に少しは真実が含まれているかもしれない。そのひとつがテレパシーと呼ばれる思念の感応であると考え、この事柄を追求したのであった。
2007-04-23 08:51 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月22日(日)
「精神分析とテレパシー」を読む
 フロイト全集17巻に収録されている論文が書かれた1919年から1922年は実に創造的な時期であった。そして、「快原理の彼岸」や「集団心理学と自我分析」といった重要な著作をなすかたわらで、彼は精神分析を通じてテレパシーの研究にとりくんでいた。こう言うと、「へー」という声が聞こえてきそうだ。フロイト嫌いの人なら、「ほら見ろ、やっぱり彼は食わせ物だ」と揚げ足とりの材料にするかもしれない。

 本原稿は、1921年の8月に作成され、精神分析の内輪の会合である「秘密委員会」(アブラハム、アイティンゴン、フェレンツィ、ランク、ザックス、ジョーズらによる)で読み上げられたという。「まえがき」にも、その時点で一般に公開するものではないことが書かれている。話題が話題だけに安易に発表しては精神分析の評判を失墜しかねないということで、まずは仲間内でひっそりと発表したわけだ。実際、テレパシーに懐疑的であったE・ジョーンズは公刊に反対であったという。
 そんなわけで、本原稿は生前には公開されなかった。しかし、フロイトは1922年には「夢とテレパシー」を発表しているし、本原稿の内容も焼きなおして「続・精神分析入門講義」に収められた。つまり、この件に関して彼自身は慎重でありながらも積極的だったということになる。
2007-04-22 00:36 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月21日(土)
クラパレード宛書簡抜粋(DB)
1921[1920]
Auszug eines Briefs an Claprède (GW Nb-750)
クラパレード宛書簡抜粋(全集17-287 須藤訓任訳 2006)

キーワード:リビード、汎性欲主義、性欲動、自我欲動

要約:フロイト著「精神分析について」の仏訳に付されたクラパレードの解説「フロイトの精神分析」には、「性欲動は心的活動のあらゆある発現の駆動力である」という重大な誤解がある。フロイトは、転移神経症との関連で性欲動と自我欲動の間に区別をもうけていた。

関連論文:「精神分析について」

記事「クラパレード宛書簡抜粋」を読む
2007-04-21 00:45 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月20日(金)
「クラパレード宛書簡抜粋」を読む
 フロイトがアメリカのクラーク大学で1909年に行った講義「精神分析について」が仏訳されてはじめて紹介された際に、エドゥアール・クラパレードの解説「フロイトと精神分析」が付されていた。これを見たフロイトが、重大な誤解を指摘するためにクラパレードに送った書簡の抜粋である。(解題より)
 「性欲動は心的活動のあらゆある発現の駆動力である」というところが間違いであり、こうしたよくある誤解が精神分析理論が「汎性欲説」であるという観念を生じさせているという。
 たしかに、すべてが性欲であるということなら、それが性欲であるという意味は失われる。単にひとつの根源的欲動と呼べばいいわけだ。性欲が性欲である意味は、そうでないものと対立するところにこそ生じるのであろう。

 それにしても、フロイトは外国語に翻訳された著作への解説にも目を光らせていたのだな。フロイトは無神論者だから天国にはいないだろうが、現代の膨大なフロイト解説書を見たらどう思うのだろうか。
2007-04-20 08:44 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月19日(木)
J・J・パットナム著『精神分析論集』への序言(DB)
1921
Preface to J. J. Putnam's addresses on psycho-analysis (GW13-437)
Preface to J. J. Putnam's addresses on psycho-analysis (SE18-269)
J・J・パットナム著『精神分析論集』への序言(全集17-283 須藤訓任訳 2006)
プトナム『精神分析講話』への序文(著作11-377 生松敬三訳 1984)

キーワード:J・J・パットナム著『精神分析論集』

要約:J・J・パットナム著『精神分析論集』に寄せられたフロイトの序文。(独語全集に掲載されているものはE・ジョーンズによる英訳。)著者はアメリカにおける精神分析の断固たる支持者であり、精神分析は特定の哲学体系や倫理学説と手を結ぶべきであると考えていた。

関連論文

記事「J・J・パットナム著『精神分析論集』への序言」を読む
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2007年04月18日(水)
「J・J・パットナム著『精神分析論集』への序言」を読む
 J・J・パットナムは1918年に72歳で亡くなったアメリカ人で、精神分析に興味を持ちその断固たる支持者であったという。その彼の論文集にフロイトから与えられた序言である。
 パットナムは精神分析に心酔し、さらに「科学として精神分析はある特定の哲学体系と手を結び、分析の実践はある特定の倫理学説と公に繋げられるべきだと要求する」に至ったという。

 この意見に対してフェレンツィらが反対したのは、今にしてみればしごく妥当なことに思われる。では、フロイトの考えはどうだったかというと、はっきりとはしないがパットナムの考えにまんざらでもなかったような書きっぷりである。
 ここのところは、微妙にして重要な問題をはらんでいる。治療体系としての精神分析が、人がどう生きるべきかという問題について特定の方向を示すことになれば、それはひとつの主義になり中立性を失うことになる。そうはいうものの、精神分析が悩める人に対してある種の人間観や世界観を提示しているのも事実であって、そこまでしておいて「どう生きるかは自分で決めなさい」というのもなんだかそっけないという感じがする。
2007-04-18 09:02 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月17日(火)
ある四歳児の連想(DB)
1920
Gedankenassoziation eines vierjährigen Kindes (GW13-435)
Associations of a four-year-old child (SE18-266)
ある四歳児の連想(全集17-281 藤野寛訳 2006)

キーワード:連想、象徴的表現

要約:幼児は性的知識に関して大人が想像する以上のことを知っており、それを象徴的に表現する術も心得ている。

関連論文:「性理論のための3篇」、「子供の性教育にむけて」

記事「ある四歳児の連想」を読む
2007-04-17 08:46 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月16日(月)
「ある四歳児の連想」を読む
 四歳になる少女が母に語ったこと。「誰かが結婚すると、いつも赤ちゃんがやってくる」、「木が土の中で成長していく」、「愛する神様が世界をお創りになった」。
 これらが象徴的表現の意味することについての、フロイトの解釈。「木が‥‥」→「赤ちゃんはお母さんの中で成長する」、「愛する神様が‥‥」→「それはパパの仕業だ」。

 小さな子どもは、大人が想像する以上のことを知っている。これを語ったのが女の子であるということもおもしろい。

 ここからは私自身の観察による印象の話しで、エビデンスに基づくわけではないことはいつもどおり。
 子どもは旺盛な知識欲をもって周囲から物事を吸収していくものだが、男の子と女の子とでは少しその姿勢が異なるように思う。男の子は、「なに?」とか「なんで?」とか大人にしつこく尋ねる。女の子は周囲の大人の話をだまって聞いていて、後で「わたし知ってるわ」と言う。もちろん個人差もあるだろうが、全体としてはそんな傾向があるように思う。
2007-04-16 09:00 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月15日(日)
アントン・フォン・フロイント博士追悼(DB)
1920
Dr. Anton v. Freund (GW13-435)
Dr. Anton von Freund (SE18-267)
アントン・フォン・フロイント博士追悼(全集17-277 須藤訓任訳 2006)
アントン・フォン・フロイント博士(著作10-383 生松敬三訳 1983)

キーワード:アントン・フォン・フロイント、国際精神分析協会

要約:国際精神分析協会の事務総長も務めたアントン・フォン・フロイント博士は、国際精神分析出版社の設立に貢献し、ブタペストに精神分析の施設を作るために尽力したが、この博愛的計画が実現せぬまま夭折した。

関連論文

記事「アントン・フォン・フロイント博士追悼」を読む
2007-04-15 00:42 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月14日(土)
「アントン・フォン・フロイント博士追悼」を読む
 国際精神分析雑誌第6巻第1号に編集者の著名で掲載された文章で、オットー・ランクとの共同執筆かもしれないとのこと(解題より)。同じ巻には、「女性同性愛の一事例の心的成因について」と匿名の「分析技法の前史にむけて」も収められていた。フロイトが影に日向に関与して作られていた雑誌なのだな。

 アントン・フォン・フロイント博士については解題の伝記事項という項目に詳しく解説されており、フロイト個人にも精神分析学会にも多大な理解と経済的貢献をした人物だそうだ。

人間、このはかなきものが立てる、
希望とは、企てとは、いかばかりのものであろうか。
(17-278)


 フォン・フロイントの夭折を悲しむ気持ちを表現するために引用された句は、シラーの「メッシーナの花嫁」からの引用とのこと。本文には引用元が記されていないのは、当時の人には常識であったということか。フロイトによるシラーの引用は多い。
2007-04-14 08:46 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月13日(金)
分析技法の前史にむけて(DB)
1920
Zur Vorgeschichte der analytischen Technik (GW12-307)
A note on the prehistory of the techique of analysis (SE18-263)
分析技法の前史にむけて(全集17-273 須藤訓任訳 2006)
分析技法前史について(著作9-136 小此木啓吾訳 1983)

キーワード:ハヴロック・エリス「性との関連における精神分析」、J・J・ガース・ウィルキンソン「着想」、シラー、ルートヴィヒ・ベルネ、記憶隠匿

要約:ルートヴィヒ・ベルネの記した「三日間で独創的著作家になる技術」という文章には、精神分析技法の先駆けともとれる方法が記されている。フロイト教授は若い頃に彼の文章にのめりこんだことがあり、分析技法の選択に影響を及ぼした可能性がある。

関連論文:「遮蔽想起について」

記事「分析技法の前史にむけて」を読む
2007-04-13 08:46 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月12日(木)
ますます楽しみ
 注文していたDVD「戦争と平和」が届いた。1965〜1967年モスフィルム製作、監督はセルゲイ・ボンダルチェク。
 パッケージを開けてみる。原作の4巻に合わせてか4枚組みのDVDになっており、それに特典映像の付録DVDがついている。小説を読み終わってからのつもりだったが、たまらずにこの付録の方を少し見てみた。

 思った以上にすごい映画のようだ。
 原作を読んでから映画を見る際に気になるのは、まずキャスティングである。俳優の演じる登場人物が、頭の中で描いていたイメージと異なるとどうも入り込めない。今回、パッケージの写真や特典映像で見たところでは、主要登場人物は私がイメージしていたのとかなり近いようでうれしい。特にナターシャ役のリュドミラ・サヴェーリエワという女優は写真で見ただけだが、すばらしく魅力的だ。
 さらに、当時のソ連軍が全面協力して一大ロケを敢行したという、戦闘シーンのメイキング。SFXなどはない時代だから、広大な戦場で戦う兵士はすべて本物の人間が演じている。無人カメラで高い位置から撮影するなど、当時の技術の粋をつくして撮られたという。
 チャイコフスキーの序曲1812年をバックにした完成映像が少し流れたが、いやすごいなこれは。いろいろな意味で空前絶後の映画であるというのは誇張ではなさそうだ。
2007-04-12 22:50 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 趣味など |
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「分析技法の前史にむけて」を読む
 これはちょっと変わった文章である。解題によると、初出は国際分析雑誌第6巻第1号(1920年)で「F」というイニシャルつきで掲載されたとのこと。文章の中では、「教授(フロイトのこと)の語ったところによると」などと、第三者による報告のような体裁をとっている。イニシャルや内容からフロイト自身が書いていることは見え見えであり、現代なら「自作自演」などと非難されそうだが、当時はこのような表現のしかたがあったのだろうか。あるいは、他にも匿名で発表された文章があるのでこれがフロイト流なのか。

 内容は、ハヴロック・エリスの論文に表明された見解への反論である。しかし、最初の段落で「こうした見解には断固として反論しておきたい」と述べている割には、実はたいしたことはない。

 エリスの指摘は、J・J・ガース・ウィルキンソン博士の著作中に、フロイトの自由連想類似した技法についての叙述がみられるというものだ。
 この叙述が精神分析の技法の選択にあたって影響を及ぼしたことはない、と断言した上で、むしろその選択に個人的に影響を及ぼしたかもしれない別の作家を挙げている。
 それはルートヴィッヒ・ベルネのことで、フロイト教授は精神分析技法を先取りしたかのような彼の文章を以前に読んだ覚えはなかったが、同じ作家の別の文章は若い頃に愛読して長く記憶に残っているのだという。

したがって、多くの場合外見上の独創性の背後に推測されてよい、あの記憶隠匿の一つが、この指摘によってもひょっとして暴かれた可能性がなしとしない。(17-276)

 自分では独創的な考えと思っていることが実は誰かからの受け売りであって、そのことをすっかり忘れてしまっているということはありがちなことだ。
 フロイトがベルネの影響で自由連想を思いついたとしても、それをきちんと体系化して広めたのはやはりフロイトの功績だし、ベルネにしてもまた何かの影響を受けているに違いない。
2007-04-12 12:04 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2007年04月11日(水)
女性同性愛の一事例の心的成因について(DB)
1920
Über die Psychogenese eines Falles von weiblicher Homosexualität (GW12-269)
The psyhogenesis of a case of homosexuality in a woman (SE18-145)
女性同性愛の一事例の心的成因について(全集17-237 藤野寛訳 2006)
女性同性愛の一ケースの発生史について(著作11-30 高橋義孝訳 1984)

キーワード:女性同性愛、両性具有、エディプスコンプレクス、ペニス羨望

要約:年長の婦人に同性愛的な態度をしめした18歳女子事例の分析。幼少期の母への強い固着とペニス羨望が、同性愛的態度の基盤を作った。前思春期まで外見上普通の性的発達をとげたが、16歳の頃に母が妊娠し弟を出産したことを契機に同性愛が顕在化し、両親への復讐的意図が疾病利得的に強化因子として働いた。

関連論文:「あるヒステリー分析の断片」、「性理論のための3篇」、「男性における対象選択のある特殊な類型について」

記事「女性同性愛の一事例の心的成因について」を読む
都合のよい要求
同性を愛せますか
愛のかたち
恋愛と友情
精神分析は予言できるか
Nature vs. Nurture
ロシア流はいかが?
2007-04-11 08:49 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月10日(火)
ロシア流はいかが?(女性同性愛8)
強迫神経症のケースでは、抵抗は、非常にしばしばこのロシア流の――と呼べるだろう――戦術に従おうとするのであって、その結果、しばらくの間は、この上なく明快な成果が得られ、また症状の原因に対する深い洞察が得られる。(17-260)

 瑣末なことなので記事にしようかどうか迷ったが、一応。
 上の引用の「ロシア流」とは、どんな意味なのか。文脈からは、途中までは抵抗なく進ませておいてある箇所からはテコでも動かないという戦術のようだが。
 ちょうど「戦争と平和」(トルストイ)を読んでいるところなので、ナポレオンによるロシア遠征(1812)の際のロシア側の戦術がモデルになっているのかとも推測した。

 ネット検索で「ロシア流」とひいてみると、「ロシア流交渉術」、「ロシア流民主主義」、「ロシア流暗殺」、「ロシア流ウォッカの飲み方」など、いろいろ出てくる。調べようとした内容にぴったりくるものはなかったが、なかなか興味深かった。総じて、あまりよろしくない意味あいのものが多いようだ。

 さらに「国名+流」という言葉で、いろいろ検索してみる。そもそも「国名+流」という言い方自体が、「別の国の奇妙な流儀」というニュアンスを含んでいるようだが、それでも国ごとに一定の傾向がありそうだ。日本人が抱いている各国への感情が反映されているようでおもしろかった。興味のある方はどうぞ。
2007-04-10 08:42 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
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2007年04月09日(月)
Nature via Nurture
やわらかな遺伝子」 マット・リドレー著 中村桂子・斉藤隆央訳 紀伊國屋書店
★★★★

 原題は"Nature via Nurture"(生まれは育ちを通して)であり、"Nature vs. Nurture"(氏か育ちか)という句をもとにした語呂合わせになっている。「利己的な遺伝子」(R・ドーキンス)以来、「〜な遺伝子」といった題名の本をよく見かける。原題は違うのに「愛となんとかのなんとか」という邦題をつけられた映画が多いのと同じようなものか。

 それはともかく、本書は大変興味深く内容もしっかりした本だ。ドーキンス氏も絶賛している。
 近年の分子遺伝学の発展を受け、人間が遺伝によって、あるいは環境によって、いかに作られるのかということについての重要な論者を12名あげてそれぞれの考え方を紹介している。
 その12名は以下のとおり。チャールズ・ダーウィン、フランシス・ゴールトン、ウィリアム・ジェームス、ヒューゴ・ド・フリース、イヴァン・パヴロフ、ジョン・ブローダス・ワトソン、エーミール・クレペリン、ジグムント・フロイト、エミール・デュルケーム、フランツ・ボアズ、ジャン・ピアジェ、コンラート・ロレンツ。
 最終的に著者の考えは、対立するものと捉えられがちな12人の主張はすべて正しいのであって、氏か育ちかという問い自体が一面的であるということのようだ。

 今回この本をとりあげたのは、もちろんリドレーのあげた12人の中にフロイトが入っているからである。本書はこのようなジャンルのものとしてはフロイトを好意的にあつかってはいるのだが、氏か育ちか論争という座標軸において彼を育ち論者として捉えている点はやはり誤解と言わざると得ないであろう。前の記事(Nature vs. Nurture)で述べたとおりで、フロイトの考え方というのは、実はリドレー氏にとても近いものである。

 フロイトは精神分析の臨床を通して心を捉えようとしたから、自ずと幼少期の体験といったことを重視せざるを得ないのであった。しかし、経験を積むほどに、それらの幼児体験の普遍性に気づくようになり、その体験の背後にある太古からの遺産というものに注目するようになった。これは、人間を個人という枠を超えた歴史的存在として捉えることであり、遺伝によって伝えられたものを重視する見方でもある。
2007-04-09 00:17 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月08日(日)
Nature vs. Nurture(女性同性愛7)
 本事例が先天的な同性愛(というものがそもそも存在するのかということにも議論がありそうであるが)なのか、獲得されたそれなのかということは、論文の重要なテーマとなっている。
 この件についてフロイトは最初に問題提起をしておきながら、なかなか読者に自分の考えを示さずに思わせぶりに論を運んでいる。そして、「この事例は後天的に獲得された対象倒錯に分類するのがもっともだ、とわれわれには思われた(17-226)」などと述べたかと思うと、「今題材を再検討してみると、むしろ、ここに見られるのは先天的な同性愛である、‥‥という結論が否応なく浮上してくる(17-269)」と、ひっくり返す。
 「どっちなんじゃ?!」と、詰め寄りたくなるが、結局のところ「氏か育ちか」というこの問い自体が、われわれが思っている程意味深いものではない、というのがフロイトの言いたいことのようだ。

理論の中でわれわれが――遺伝と後天的獲得という――対立するもののペアに分解しがちなものは、観察の中では、常々そのように混ざり合い一体となって存在しているのだ。
(中略)
こういう問いの立て方の価値をそもそもあまり高く見積もらない場合に、われわれは正鵠を射ることになるのだろう。(17-269)
2007-04-08 00:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月07日(土)
開戦(戦争と平和)
 「戦争と平和」の第3巻は、いよいよナポレオンのロシア遠征(1812年)のはじまりである。冒頭にトルストイの歴史分析があり、これがなかなか興味深い。

りんごは熟すれば落ちる。なぜ落ちるのか?引力によって地面へ引かれるからか、軸がひからびるからか、日光で干されるからか、重くなるからか、風にゆすられるからか、下の子供が食べたいと思うからか?
どれも原因ではない。単にいっさいの生命の、有機体の、自然力に基づく出来事がおこなわれる場合のもろもろの条件にすぎない。だから、植物学者が、りんごの落ちる理由を、細胞の分裂やそれに類した現象に発見しても、下に立っていた子供が、食べたくなって神に祈ったから落ちたのだと言っても、どちらも同じように正しいのである。
「戦争と平和」第3巻 工藤精一訳 新潮文庫


 大きな歴史的事件については、それをもたらした原因がさまざまに詮索される。しかし、それは単純な原因によって起こったのではなく、さまざまなレベルにある無数の要因が絡み合ってひとつの結果を招いたものである。
 開戦の当事者であるナポレオンの意志でさえも、無数の要因によって規定されたものであり、彼の自由意志ではなかったのだ、というのがトルストイの考え方である。
2007-04-07 00:14 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月06日(金)
精神分析は予言できるか(女性同性愛6)
 本事例の分析は、まことに鮮やかにすすんでいく。まな板の上の活魚を、板前がばっさばっさとさばいていくように。その包丁さばきは転移解釈において頂点に達する。少女の父親コンプレクスが、分析者に対する、気を引いておいて拒絶するという態度を招いているという分析。そこで治療の打ち切りが宣言され、続けたければ女医の元に行くようにとの忠告が与えられる。
 「ちょっとフロイト先生、まだうら若き乙女なんだから、まあお手やわらかに。」と、言いたくなってしまう。

 それはともかく、こういう分析の説明を聞いていると、「そこまでわかるのなら、幼児期のコンプレクスを分析してこれから起こることを予想し、精神障害等を未然に防ぐということはできないのか」という疑問がわく。これに、対するフロイトの答えは以下のとおり。

こうして、何が原因かを分析という方向の中で認識することは確実に可能なのだが、総合という方向でそれを予言するのは不可能という話になる。(17-266)

 つまり、実際に何が起こるかということは、多くの要因のそれぞれが、最終結果に対してどれだけの比重をもって働くかという、量的因子によって決まるのであって、分析はそこまでのことは与り知らんということのようだ。
2007-04-06 08:43 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月05日(木)
DVDが楽しみだ(戦争と平和)
 「戦争と平和」第2巻を読み終わった。ちょうど折り返し地点だ。以下ネタバレあり。

 第2巻は平和の物語。ピエール、アンドレイ、ロストフ家の人々がからみながらストーリーが進行していく。第一部では少女だったナターシャが美しい娘となり、彼女を中心とした意外な三角関係が巻き起こる後半部が特におもしろい。恋愛感情とは、当人の理性にはいかんともしがたい形で人をとらえるものなのか。

 この作品を旧ソ連が国を挙げて映画化した7時間超の大作がある。小説を読み終わったら見ようと思って、DVDを注文してしまった。描かれた美しいシーンの数々がどのように映像化されているか、今から楽しみだ。

 第2巻では、ロストフ家が狩に繰り出した後変わり者の伯父を訪ねるところ、クリスマス晩に雪の中トロイカでメリュコーワの屋敷を訪ねるシーン、そして恋愛の悲しい結末に悲嘆にくれるナターシャをなぐさめて帰路につくピエールが夜空の彗星を眺める最後の場面が特に印象的であった。
2007-04-05 08:45 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月04日(水)
恋愛と友情(女性同性愛5)
 フロイトの考えによれば、すべての人間は女も男も、両方の性を愛する素質を持っている。通常は、同性への愛は、友情と呼ばれるが、これは本質的には異性への愛と変わらない。

われわれのリビードはすべて、普通は、生涯を通して男性的対象と女性的対象との間で揺れ続けている。独身の男性は結婚すると、男友達とのつき合いをやめてしまう。しかし、結婚生活が味気ないものになると、仲間同士のたまり場のテーブルに戻っていく。(17-252)

 つまり、恋愛感情と友情というのはシーソーのように一方が高まれば他方が減じるという傾向がある。フロイトの挙げている例は男性のものだが、女性でも似たようなことは観察されるだろう。

 同性への愛が、友情を超えて同性愛と呼ばれるまでに高まるのは極端なケースである。そこに至る要因としては、生物学的素質なども含めてさまざまなものがあるだろうが、心理的にはなんらかの理由で異性への愛の道が閉ざされるということが大きな役割を果たす。
 本事例においても、同性愛の直接的契機としては、彼女が16歳の時に母が弟を出産したということが挙げられている。さらに、その母が自らの女性性をアピールし娘に対して競争的な態度をとったということがある。娘は母に敗北し、父および男性全体に幻滅し、女性を愛する道を選んだということだ。
2007-04-04 08:47 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
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2007年04月03日(火)
愛のかたち(女性同性愛4)
 本ケースが同性愛であるということは、彼女の愛の対象が女性であるということであるが、もうひとつ重要なのは彼女がどのような愛し方をしていたかということである。

 フロイトが「ナルシシズムの導入にむけて」(1914)などで述べているところによると、男性は対象を理想化するような愛し方をし、女性は愛されることにナルシス的な満足を求める傾向があるという。

つまり、彼女は、愛する男性に特有の謙虚さと見事な性的過大評価の姿勢を示し、ナルシス的な満足はことごとく断念し、愛されるより愛することを優先した。つまり彼女は、対象として女性を選択しただけでなく、男性的な姿勢でそれに対してもいたのである。(17-247)

 本事例は、男性的な姿勢で女性を愛していたということだ。
 ちょっと注意しないといけないのは、同性愛のペアで、よく「男役」とか「女役」という言い方をするが、これとフロイトの言う男性的姿勢・女性的姿勢とは一致しない。それどころか、逆のことが多いかもしれない。レズビアンのペアでの男役は、女役に慕われることにナルシス的な満足を覚えるという意味では、女性的な姿勢をとっている。女役の方がむしろ男性的な愛し方をしていると言えるであろう。
2007-04-03 12:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月02日(月)
同性を愛せますか(女性同性愛3)
一般に、発達しきった同性愛者を異性愛者に変えようとする企ては、その逆方向の企てより成功する見込みがずっと大きいというものではない。後者については、実際上の理由から、かつて試みられたためしがないだけの話である。(17-242)

 フロイトのこういうユーモアは、なんともおもしろいということで終わらず、実に含蓄が深いものである。
 確かに、異性愛の傾向を持つ人を同性愛に変えようなどということは、仮定してみたこともなかった。そのこと自体が、ある種の偏見だったのかもしれない。

 そこで、自分が異性愛者だと思う人は想像してみてください。精神分析療法によって、自分自身を同性愛者に矯正することができるかどうか。「とてもできそうにない」と、思うに違いない。また、そんな矯正をしようとは決して思わないという結論に達することだろう。仮に異性愛が社会的に禁じられており、発見されたら重い罰や人々からの軽蔑を科せられるとしても、あなたは自分の恋愛の自由を守りぬこうとするであろう。

 同性愛者を異性愛者に変えることのむずかしさということも、そう考えると随分納得しやすくなる。
2007-04-02 08:46 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年04月01日(日)
都合のよい要求(女性同性愛2)
自分の好みと要求に合った別荘を設計するよう建築家に注文する建築依頼者とか、あるいは、芸術家に聖人画を描かせる際、祈りを捧げる自分自身の肖像が描かれるスペースをその片隅に確保しようとする敬虔な寄進者といった人が身を置く状況は、精神分析の条件とは根本において相容れない。(17-241)

 フロイトは比喩の名人である。本論文でも、他の部分では分析治療の段階を汽車旅行の過程に例えたりもしている。

 事例は18歳の少女で、10歳程年長のふしだらな女性に惚れ込み、そのことを父親に責められて自殺の試みをした後に、両親の手によって治療にゆだねられた。
 この治療が最初からむずかしいものであった理由が2つ挙げられている。

 第一点は、少女が両親に連れてこられたということ。分析治療では、葛藤をかかえる個人が自ら治療を求めるという前提が重要である。苦悩から解放されたいという切実な思いが、困難な治療を乗り越えるための力になる。人に連れてこられたのでは、このような動機づけが充分でない。

 さらに、往々にしてその連れてくる人物自体が本人の葛藤に大きく関わっている。両親は、子供を自分の思いどおりのいい子に治してくださいなどと都合のよい要求をもって治療者の元を訪れるが、そういう親の身勝手な思いこそが当事者の悩みの原因であったりするのだ。
 本事例においても、不品行な振る舞いによって両親に恥をかかせて復讐することが、彼女の行動の無意識的な決定要因のひとつであった。これでは治るはずがない。治らないことで親に復讐を続け、親の協力者としての治療者の顔にも泥を塗ることが彼女の本望であろう。

 むずかしさの第二点は、同性愛というものがそもそも病気ではないということ。これについては、次の記事で。
2007-04-01 00:25 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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