現在読解中
フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年05月31日(木)
「第一章 固有名詞の度忘れ」を読む
 第一章は、フロイト自身が体験した事例の紹介とその分析。オルヴィエトの大聖堂に「最後の審判」のフレスコ画を描いた巨匠の名前がどうしても思い出せなかったという。正解はシニョレッリなのだが、それが思い浮かばずに代わりにボティチェッリとボルトラッフィオの名がしつこく浮かんできたという。

 私自身にとっては、この手の度忘れは日常茶飯事で、別に不思議にも思わず、ますます老化する頭のせいにして過ぎ去ってしまう。フロイトは、若い頃には一回読んだだけで本の内容をすらすらと覚えてしまい、試験勉強も苦労しなかったような記憶力の持ち主だったそうだ(注)。だからこそ、自分が度忘れをすることが許されなかったのだろう。その原因を徹底的に追求して理論化しようとしたのではないか。

 確かに、人間の記憶というものは意外に自分の自由にならないものである。覚えたいことはなかなか覚えられず、忘れたいことはなかなか頭を去らない。
 特にこの「忘れたいけど忘れられない」というところがポイントだ。不快な観念を抑圧しようとする心の動きと、その観念自体の意識に上ろうとする傾向との葛藤が、音の類似によってつながった別の言葉の度忘れや、代わりの言葉の出現を招く。

 「抑圧」は精神分析理論の重要な概念だが、ここでは単に現在の思考から締め出すというくらいの緩い意味で使われているようだ。

注)これを書いている時には、このことをフロイト自身がどこかで述べていたことは覚えていたが、どこかは忘れていた。読み進めて、それが本書第七章のものとわかった。「学童時代には、読んだばかりの本のページを諳んじるというのは朝飯前だったし、大学に入学する直前には、学問的な内容を一般向きに説く講演を聴くと、その後でほぼ一字一句忠実にそれを書き記すことができた。 (中略) 私は、(医学の博士号の口頭試問で)試験官に対して、自分がたった一度、大急ぎで目を通した教科書とまるっきり同じ文言を答えとして機械的に読み上げたからである。(7-166)」(H19.6.9追記)
2007-05-31 08:47 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
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2007年05月30日(水)
「日常生活の精神病理学」を読む
 初版は1901年すなわち「夢解釈」の翌年の出版であった。(正確に言うと「夢解釈」の真の出版は1899年だから翌々年。)初版から1924年の第10版までに増補改定を繰り返し、三倍ほどの分量に膨れ上がったという。そのいきさつについては解題に詳しく書かれている。

 この本では、さまざまな度忘れ、言い違い、勘違いなど、日常的な失策行為の例をたくさん集め、その成立のメカニズムについて分析している。「夢解釈」と同様、フロイト自身の体験した事例も多く、いろいろと想像させてくれておもしろい。こういった形での自己開示をすることは、大変勇気のあることであろう。当然のことながら、そこには個人的な事柄を伏せるための改変や省略が加えられてようであり、分析が不徹底であるといった批判もあるようだが、そこまで求めるのは酷というものだ。

 私もこのブログで自分の失策行為を披露したいような誘惑にもかられるが、やはりそれは非常に個人的な問題にからんできて、ちょっとできないなあとも思う。それでも、あまりさしさわりのないところで少しはやってみようかな。
2007-05-30 08:50 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月29日(火)
フロイト全集収録著作一覧
●既読の著作はデータベース記事にリンクします。読解の進行にしたがって更新していく予定です。「目次」カテゴリの唯一の記事となりますので、そこから参照できます。

第1巻 失語論
●失語症の理解にむけて●大学記念留学奨学金によるパリおよびベルリンへの研究旅行(1885年10月−1886年3月末)に関する報告書●J.M.シャルコー著『神経系の疾病をめぐるサルペトリエール講義』への訳者まえがき●あるヒステリー男性における重度片側感覚脱失の観察●アーヴァーベック著『急性神経衰弱』書評●ウィアー・ミッチェル著『ある種の形態の神経衰弱とヒステリーの治療』書評●ベルカン著「聾の改善の試みとその成果」書評●H.ベルネーム著『暗示とその治療効果』への訳者序文●H.ベルネーム著『暗示とその治療効果』ドイツ語訳第二版への序言●オーバーシュタイナー著『催眠法―その臨床的および司法的意義』書評●ヒステリー,ヒステロエピレプシー(事典項目)●オーギュスト・フォレル著『催眠法』についての論評●心的治療(心の治療)●催眠(事典項目)●J.M.シャルコー著『サルペトリエール火曜講義(1887−88年)』翻訳への序言と注解●J.M.シャルコー著『サルペトリエール火曜講義(1887−88年)』翻訳への注解抜粋●講演「催眠と暗示について」についての報告●『ヒステリー研究』に関連す3篇 1,ヨーゼフ・ブロイアー宛書簡 2,ヒステリー発作の理論にむけて(ヨーゼフ・ブロイアーとの共著) 3,覚え書き●症例「ニーナ・R」についての4つの記録文書●ヒステリー諸現象の心的機制について―暫定報告(ヨーゼフ・ブロイアーとの共著)●催眠による治癒の一例―「対抗意志」によるヒステリー症状の発生についての見解●器質性運動麻痺とヒステリー性運動麻痺の比較研究のための2,3の考察●シャルコー●防衛−神経精神症●ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について●強迫と恐怖症,その心的機制と病因

第2巻 ヒステリー研究
●ヒステリー研究

第3巻 心理学草案・遮蔽想起
●心理学草案●「不安神経症」に対する批判について●三部講演「ヒステリー」についての報告●講演「強迫表象と恐怖症の機制」についての報告●P.J.メービウス著『偏頭痛』についての論評●A.ヘーガル著『性欲動―社会医学的研究』についての論評●神経症の遺伝と病因●防衛−神経精神症再論●ヒステリーの病因論のために●私講師ジークムント・フロイトの学問的業績一覧●神経症の病因論における性●健忘の心的機制について●遮蔽想起について●ある正夢●自伝的覚え書き

第4巻 夢解釈T
●夢解釈(前半)

第5巻 夢解釈U
●夢解釈(後半)

第6巻 症例「ドーラ」・性理論三篇
●あるヒステリー分析の断片〔ドーラ〕●性理論のための3篇●夢について●フロイトの精神分析の方法●ゲオルク・ビーデンカップ著『脳桿菌との闘い』についての論評●ジョン・ビジェロウ著『睡眠の神秘』についての論評●アルフレート・バウムガルテン著『神経衰弱―本性・治癒・予防』についての論評●レーオポルト・レーヴェンフェルト著『心的強迫現象』についての論評●追悼文「S.ハンマーシュラーク教授」●精神療法について●神経症病因論における性の役割についての私見●『性理論のための3篇』第2版へのまえがき●R.ヴィーヒマン著『神経衰弱患者のための生活規律』についての論評●『神経症小論文集成 1893−1906年』初版へのまえがき

第7巻 日常生活の精神病理学
日常生活の精神病理学にむけて

第8巻 機知
機知―その無意識との関係

第9巻 グラディーヴァ論・精神分析について
W.イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢精神分析について舞台上の精神病質的人物事実状況診断と精神分析アンケート「読書と良書について」への回答強迫行為と宗教儀礼『応用心理学叢書』の告知子供の性教育にむけて詩人と空想ヒステリー性空想,ならびに両性性に対するその関係「文化的」性道徳と現代の神経質症性格と肛門性愛幼児の性理論についてヒステリー発作についての概略神経症者たちの家族ロマンヴィルヘルム・シュテーケル博士著『神経質性の不安状態とその治療』への序言フェレンツィ・シャーンドル博士著『心の分析―精神分析関連論文集』への序言

第10巻 症例「ハンス」・症例「鼠男」
●ある5歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕●ハンス少年分析後日談●強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕●強迫神経症の一例(「鼠男」)のための原覚え書き

第11巻 ダ・ヴィンチの想い出・症例「シュレイバー」
●レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出●自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察〔シュレーバー〕●精神分析療法の将来の見通し●原始語のもつ逆の意味について●『アントロポピュティア』に関するフリードリヒ・S.クラウス博士宛書簡●自殺についての討論のための緒言・閉会の辞●精神分析的観点から見た心因性視覚障害●神経症者たちの病因的空想の露見例●「横暴な」精神分析について●男性における対象選択のある特殊な類型について(『性愛生活の心理学への寄与』 I )●ヴィルヘルム・ノイトラ博士著『神経症の女性たちへの手紙』についての論評●心的生起の二原理に関する定式●精神分析の基本原理ともくろみについて●精神分析における夢解釈の取り扱い●母音列の意義●「偉大なるかな,エペソ人のディアナ」●夢解釈への補遺●G.グレーフェの講演「ある不安状態の心理とその治療」についての論評●ヴィルヘルム・シュテーケル著「露出症の心理学にむけて」へのコメント●ジェームズ・J.パットナム著「精神神経症の病因と治療について」へのコメント●民話の中の夢付 ダーフィト・エルンスト・オッペンハイム宛書簡

第12巻 トーテムとタブー
●トーテムとタブー●転移の力動論にむけて●神経症の発症類型について●性愛生活が誰からも貶められることについて(『性愛生活の心理学への寄与』II)●精神分析治療に際して医師が注意すべきことども●自慰についての討論のための緒言・閉会の辞●精神分析における無意識概念についての若干の見解●幼年期の夢の実例求む―編集者より●「未開人の心の生活と神経症者の心の生活における若干の一致点」への導入の文章●アーネスト・ジョーンズ著「ローズヴェルトを精神分析する」へのコメント●小箱選びのモティーフ

第13巻 ナルシシズム・モーセ像・精神分析運動の歴史
●ミケランジェロのモーセ像●ミケランジェロのモーセ像 補遺●精神分析運動の歴史のために●ナルシシズムの導入にむけて●証拠手段としての夢●オスカル・プフィスター博士著『精神分析的方法』へのはしがき●夢における童話の素材●マクシミリアン・シュタイナー博士著『男性能力の心的障害』への序言●子供のついた2つの嘘●強迫神経症の素因●精神分析への関心●ジョン・グレゴリー・バーク著『諸民族の風俗,慣行,信仰ならびに慣習法における汚物』へのはしがき●治療の開始のために●特殊な意味をもった幼年期の夢●分析実践の経験と事例●分析作業中の誤った再認識(「すでに話した」)について●ギムナジウム生徒の心理学のために●想起,反復,反芻処理●夢における「偉業」の叙述●転移性恋愛についての見解●フレデリク・ヴァン・エーデン宛書簡

第14巻 症例「狼男」・メタサイコロジー諸篇
●ある幼児期神経症の病歴より〔狼男〕●戦争と死についての時評●欲動と欲動運命●抑圧●無意識●夢学説へのメタサイコロジー的補遺●喪とメランコリー●精神分析理論にそぐわないパラノイアの一例の報告●転移神経症展望●無常●欲動変転,特に肛門性愛の欲動変転について●ヘルミーネ・フォン・フーク=ヘルムート博士宛 1915年4月27日付書簡

第15巻 精神分析入門講義
●精神分析入門講義

第16巻 処女性のタブー・子供がぶたれる
●精神分析作業で現れる若干の性格類型●ある可塑的な強迫表象の神話的並行現象●ある象徴と症状の関係●アーネスト・ジョーンズ著「ジャネ教授と精神分析」へのコメント●精神分析のある難しさ●『詩と真実』の中の幼年期の想い出●処女性のタブー(『性愛生活の心理学への寄与』III)●精神分析療法の道●精神分析は大学で教えるべきか?●『戦争神経症の精神分析にむけて』への緒言●ジェームズ・J.パットナム追悼●国際精神分析出版社と精神分析に関する業績への賞授与●「子供がぶたれる」●ヴィクトール・タウスク追悼●テーオドール・ライク博士著『宗教心理学の諸問題』第一部「儀礼」への序文

第17巻 不気味なもの・快原理の彼岸・集団心理学
不気味なもの快原理の彼岸集団心理学と自我分析意識の機能に関するE.T.A.ホフマンの見解戦争神経症者の電気治療についての所見夢学説への補遺女性同性愛の一事例の心的成因について分析技法の前史にむけてアントン・フォン・フロイント博士追悼ある4歳児の連想J.J.パットナム著『精神分析論集』への序言クラパレード宛書簡抜粋精神分析とテレパシー夢とテレパシー嫉妬,パラノイア,同性愛に見られる若干の神経症的機制についてヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと夢の理論J.ヴァーレンドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき賞授与懸賞論文募集無意識についてひとことレーモン・ド・ソシュール著『精神分析の方法』へのはしがきメドゥーサの首

第18巻 自我とエス・みずからを語る
自我とエスみずからを語る『みずからを語る』補筆『みずからを語る』その後―1935年「精神分析」と「リビード理論」夢解釈の理論と実践についての見解17世紀のある悪魔神経症幼児期の性器的編成神経症と精神病精神分析梗概ルイス・ロペス=バイェステロス・イ・デ・トッレス宛書簡フリッツ・ヴィッテルス宛書簡M.アイティンゴン著『ベルリン精神分析診療所に関する報告』への序言フェレンツィ・シャーンドル博士(50歳の誕生日に)雑誌『ル・ディスク・ヴェール』への寄稿マゾヒズムの経済論的問題エディプスコンプレクスの没落神経症および精神病における現実喪失「不思議のメモ帳」についての覚え書き精神分析への抵抗『国際精神分析雑誌』編者のことば

第19巻 否定・制止、症状、不安・素人分析の問題
●否定●制止,症状,不安●素人分析の問題●解剖学的な性差の若干の心的帰結●精神分析●『ユダヤ・プレスセンター・チューリヒ』編集人宛書簡●ヘブライ大学開校式に際して●アウグスト・アイヒホルン著『不良少年たち』へのはしがき●夢解釈の全体への若干の補遺●ヨーゼフ・ブロイアー追悼●ライク博士ともぐり診療の問題●ブナイ・ブリース協会会員への挨拶●ロマン・ロランに宛てて●カール・アブラハム追悼●E.ピックワース・ファロウ著「生後6カ月の幼年期の想い出」についての見解●エーヴァルト・ヘーリングについてのコメント●フモール●フェティシズム●ある宗教体験●ドストエフスキーと父親殺し●リットン・ストレイチ宛書簡

第20巻 ある錯覚の未来・文化の中の居心地の悪さ
●ある錯覚の未来●文化の中の居心地悪さ●テーオドール・ライク宛書簡抜粋●アーネスト・ジョーンズ50歳の誕生日に寄せて●マクシム・ルロワ宛書簡―デカルトの夢について●「1930年ゲーテ賞」1,アルフォンス・パケ博士宛書簡 2,フランクフルトのゲーテハウスにおける挨拶●ジュリエット・ブトニエ宛書簡●S.フロイト/W.C.ブリット共著『トーマス・ウッドロー・ウィルソン』への緒言●エドアルド・ヴァイス著『精神分析要綱』へのはしがき●ハルスマン裁判における責任能力鑑定●ヘブライ語版『精神分析入門講義』への序文●ヘブライ語版『トーテムとタブー』への序文●冊子『ベルリン精神分析研究所の10年』への序言●『メディカル・レヴュー・オヴ・レヴューズ』第36巻へのはしがき●リビードの類型について●女性の性について●火の獲得について●英語版『夢解釈』第3版(改訂版)へのまえがき●ヘルマン・ヌンベルク著『精神分析的な基盤に基づく神経症総論』へのはしがき●プシーボル市長宛書簡抜粋●タンドラー教授宛書簡抜粋●ゲオルク・フックス宛書簡抜粋●戦争はなぜに?●リヒャルト・シュテルバ著『精神分析事典』への序言●ジークフリート・ヘッシング宛書簡●ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと私の接点

第21巻 続・精神分析入門講義・終わりのある分析とない分析
●続・精神分析入門講義●終わりのある分析と終わりのない分析●シャーンドル・フェレンツィ追悼●マリー・ボナパルト著『エドガー・ポー―精神分析的研究』への序言●ある微妙な失錯行為●チェコ語版『精神分析入門講義』へのまえがき●トーマス・マン60歳の誕生日に寄せて●ロマン・ロラン宛書簡―アクロポリスでのある想起障害●ゲオルク・ヘルマン宛書簡3通●トーマス・マン宛書簡●ブラウン教授死去に際して●ルー・アンドレアス=ザローメ追悼●分析における構築

第22巻 モーセという男と一神教・精神分析概説
モーセという男と一神教「精神分析概説」へのまえがき精神分析概説精神分析初歩教程防衛過程における自我分裂反ユダヤ主義にひとこと『タイム・アンド・タイド』女性編集者宛書簡イスラエル・コーエン宛書簡イスラエル・ドリュオン著『リュンコイスの新国家』への緒言イスラエル・ドリュオン宛書簡2通抜粋成果,着想,問題

別巻
●総索引(人名,書名,専門用語)●総目次●著作年表●年譜●主要用語対照表
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2007年05月28日(月)
メドゥーサの首(DB)
1940[1922]
Das Medusenhaupt (GW17-45)
Medusa's head (SE18-273)
メドゥーサの首(全集 17-371 須藤訓任訳 2006)
メドゥーサの首―草稿(ちくま「エロス論集」 中山元訳 1997)

キーワード:メドゥーサの首、ギリシャ神話、女性器、去勢コンプレクス

要約:ギリシャ神話に出てくるメドゥーサの恐怖を惹き起こす切り首は、去勢の恐怖を喚起する女性器を象徴するものと解釈される。

関連論文:「幼児期の性器的編成」

記事「メドゥーサの首」を読む 
2007-05-28 09:00 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月27日(日)
「メドゥーサの首」を読む
 没後に発表された小文で、原稿には「1922年5月14日」と日付が打たれているが、もっと本格的な論文のためのスケッチのように思われるとのこと(解題より)。

 フロイトには芸術作品や小説を題材にして精神分析学的に解釈した論文が多くあるが、ギリシャ神話を題材にした独立した論文はありそうで実はなかった。「エディプスコンプレクス」や「ナルシシズム」という言葉は、ギリシャ神話からとっているし、短い挿話や比喩としてはしばしば言及されているから、この分野に興味がなかったはずはないだろう。このスケッチを基にした論文が実現していたら、さぞかし興味深いものになったであろうにと悔やまれる。

こうした解釈を本気で主張しようとするなら、ギリシャ神話においてこの独立した恐怖の象徴がいかに生成したかについて、また他の神話においてそれと平行現象をなすものについて、追跡する必要があるだろう。(17-372)

 これはあくまでも想像だが、いつかはまとまった著作にしようとアイデアをあたためていたが、他の仕事や著作に追われ、実現のために必要となる膨大な文献研究をすることが最後までできなかったのではなかろうか。
2007-05-27 07:53 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月26日(土)
フロイト全集第22巻到着
 フロイト全集の第4回配本が届いた。最終巻の第22巻である。「モーセという男と一神教」と「精神分析概説」およびいくつかの小論を掲載する。
 内容はわかっていたので、興味があったのは次の第5回配本が何かということ。それは、第18巻「自我とエス みずからを語る」であった。2007年7月末ごろに刊行予定とのこと。

 これで今後の読解の予定が見えてきた。第17巻が終わったら、第7巻「日常生活の精神病理学」を読む。これは比較的軽い著作なのでさくさくと進めていきたい。1ヶ月くらいでいけるのではないか。その次は、「夢解釈II」がいつ出るかわからないので、今回配本の第22巻に進む。これは重要な著作で時間がかかりそう。それが終わった時点でもし「夢解釈II」が届いていなければ、第18巻に進もう。
 ただ、この計画だと後期の重要論文から先に読んでいくようになってしまう。「夢解釈II」よ、早く出てくれー。
2007-05-26 22:04 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
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レーモン・ド・ソシュール著『精神分析の方法』へのはしがき(DB)
1922
Geleitwort zu Raymond de Saussure, La méthode psychoanalytique (GW-Nb752)
Preface to Raymond de Saussure's The Psycho-Analytic Methode (SE19-283)
レーモン・ド・ソシュール著『精神分析の方法』へのはしがき(全集17-369 須藤訓任訳 2006)

キーワード:レーモン・ド・ソシュール『精神分析の方法』

要約:レーモン・ド・ソシュール著『精神分析の方法』は、精神分析の本質、内容、技法について、きわめて的確に解説している。

関連論文

記事「レーモン・ド・ソシュール著『精神分析の方法』へのはしがき」を読む 
2007-05-26 00:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月25日(金)
「レーモン・ド・ソシュール著『精神分析の方法』へのはしがき」を読む
 フロイトは同時代の他者による分析関連の著作のために序言やはしがきをずいぶん書いている。彼自らすすんで書いたのか、著者からの求めがあちこちからあったのか。いずれであったにせよ、当時こういった著作を書いて、大フロイトがそれを推奨する一文を寄せてくれるということになれば、それはもう太鼓判を押されたようなものであったろう。
 レーモン・ド・ソシュール(1894-1971)はスイス人の分析家で、フロイトの著作を丹念に研究したのみならず、彼から数ヶ月間の教育分析をほどこされたという。本著作などによって精神分析をフランスに紹介するのに大きな功績のあった人物であり、その後も長きにわたって精神分析学会で活躍した(以下のリンク参照)。
 「はしがき」では、本著作が精神分析について解説している内容がフロイトの意にそったものであることにつき、最大級の賞賛が述べられている。もっとも、二、三ヶ所の訂正を助言したことと、「わたしならこう書いた」みたいなことも付け加えられている。

Raymond de Saussure
2007-05-25 11:56 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月24日(木)
無意識についてひとこと(DB)
1922
Etwas vom Unbewußten (GW-Nb730)
SEなし
無意識についてひとこと(全集17-367 須藤訓任訳 2006)

キーワード:無意識、前意識、抑圧、自我、抵抗、罪責感

要約:抑圧された無意識と同じ力動論的な振舞いをする無意識が、自我の中にも存在する。分析の際に自我から発する抵抗と、無意識的な罪責感である。

関連論文:「精神分析における無意識概念についての若干の見解」、「自我とエス」

記事「無意識についてひとこと」を読む
2007-05-24 12:13 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月23日(水)
「無意識についてひとこと」を読む
 国際精神分析学会の第7回ベルリン大会(1922)でフロイトが行った講演の要旨。翌年に出版される「自我とエス」のさわりの部分に触れる、いわば予告編のような講演であったことがうかがわれる。こういう講演によってフロイトの理論構築を同時代で目撃できた人は、さぞかしわくわくさせられたことだろうな。
2007-05-23 08:47 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月22日(火)
懸賞論文募集(DB)
1922
Preisausschreibung (GW-Nb712)
SE:なし
懸賞論文募集(全集17-365 須藤訓任訳 2006)

キーワード:国際精神分析学会、分析技法、分析理論

要約:、「分析技法と分析理論の関係」というテーマでの論文の募集。

関連論文:「賞授与」

記事:「懸賞論文募集」を読む
2007-05-22 12:38 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月21日(月)
「懸賞論文募集」を読む
 前の「賞授与」の翌年1922年に同じ「国際精神分析雑誌」に掲載された懸賞論文の募集記事。テーマは、「分析技法と分析理論の関係」であった。

探求されるべき内容は、技法は理論にどの程度影響してきたか、また技法と理論の両者は現在どの程度相互に促進し合っているか、あるいは妨害し合っているかというものである。(17-365)

 「あるいは妨害し合っているか」というところがおもしろい。ありきたりのことを書いたら、大変有意義に相互促進がみられるとかいった話になりそうだが。両者が妨害し合うということがあるとすれば、どういうことなのだろう。治療者が理論を追求する知的好奇心が、必ずしも患者の治癒を目指す方向とは一致せず、むしろ妨げる恐れすらあるといったことかな。

 この募集に対しては応募は一件もなかったという。残念。
2007-05-21 08:52 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月20日(日)
新しいブログ開設のお知らせ
 新しいブログを開設した。その名も「重元寛人のブログ」。ってそのままですね。しゃれた名前が思いつかなかったもので。

http://shigemoto.blog105.fc2.com/

 今後は、「読書」、「趣味など」、「携帯」のカテゴリに相当する記事は、新しいブログの方に書いていこうと思います。
 「フロイト全集を読む」の方は、ひきつづき、ますます地道に(地味に?)フロイト読解を続けていく所存です。

 ふたつのブログを運営していくということで、それぞれの内容は薄まるかもしれず、毎日更新というのも今後どうなるかわかりませんが、あまりこだわらずにマイペースでいきましょう。

 今後ともよろしくお願いいたします。
2007-05-20 13:09 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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賞授与(DB)
1921
Preiszuteilungen (GW-Nb711)
SE なし
賞授与(全集17-363 須藤訓任訳 2006)

キーワード:国際精神分析出版社

要約:精神分析の模範的な仕事に対する賞の発表。

関連論文:「国際精神分析出版社と精神分析に関する業績への賞授与」

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2007-05-20 10:10 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月19日(土)
「賞授与」を読む
 精神分析の模範的な仕事に対する賞の発表。医療としての精神分析に関する賞はA・シュテルケの「去勢コンプレクス(1921)」と「精神分析と精神医学(1921)」に、応用精神分析部門の賞はG・ローハイムの「自己(1921)」と「オーストラリアのトーテミズム(1920)」に与えられた。

 コメントすることもないので、ブログの進捗状況について。長らくかかったフロイト全集第17巻の読解であるが、この文章を含めて残すところあと5つとなった。いずれも2ページ以内の短い文章なので、このペースだと5月末までには読み終わるだろう。
2007-05-19 00:38 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月18日(金)
J・ヴァーレンドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき(DB)
Geleitwort zu J. Varendonck "Über das Vorbewußte phantasierende Denken" (GW13-439)
Introduction to J. Varendonck's "The Psychology of Day-Dreams" (SE18-271)
J・ヴァーレンドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき(全集17-361 須藤訓任訳 2006)
J・ファレンドンク『前意識的な空想的思考』への序言(著作11-379 生松敬三 1984)

キーワード:J・ヴァーレンドンク『白昼夢の心理学』、白昼夢、前意識的思考、自閉的思考(ブロイラー)

要約:J・ヴァーレンドンクの『白昼夢の心理学』は重要な著作であるが、この中で著者が白昼夢にみられる思考活動を「前意識的思考」と呼んでいるのは適切とは言いがたい。思考と意識との関係が本質的なのではなく、思考がとめどめなくさまようという様態が重要なのである。

関連論文:「夢学説への補遺」、「夢解釈」

記事「J・ヴァーレンドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき」を読む
2007-05-18 12:48 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月17日(木)
「J・ヴァーレンドンク著『白昼夢の心理学』へのはしがき」を読む
 J・ヴァーレンドンクの『白昼夢の心理学』(The Psychol.ogy of Day-Dreams, 1921)によせられたフロイトの前書き。もとが英語の著作であり、この文章もフロイトが英語で書いている。後にアンナ・フロイトによって翻訳された独語版につけられたバージョンもS・フロイトが書いたようだが、なぜかこちらは前半部分だけに切り詰められている。そんなわけで、日本語訳は前半は独語からの、後半は英語からの翻訳になっている。
 スタンダード・エディションに掲載された英語版をみてみたが、ややわかりにくい英語である。そのためか、日本語訳でも後半部分にわかりにくいところがある。"intentionally directed reflection"を「意図的に方向の定められた反省」とするなど、日本語訳にも無理がある。異なる原語には異なる日本語を対応させるという方針を貫いた結果であろうか。

 ここでは、英語版だけに存在する後半部分に重要な指摘がなされている。前意識的思考(注)という言葉が誤解を招きやすいもので、白昼夢の特異性はそれがなされる意識状態にあるのではなく、その思考の運び方の様式に注目して「とめどなくさまよう思考ないし空想的な思考」と表示する方がよい、と述べられている。

注:フロイトは"fore-conscious thinking"と書いており、スタンダード・エディションでの"preconscious"という訳語とは異なっている。

追記:この文章の前半はヴァーレンドンクの著作を推奨する内容になっているが、後半では本質的な部分への批判がなされており、著作の前書きとしてはどうかという気もする。独語版でカットされたのはそのためだろうか。
2007-05-17 08:52 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月16日(水)
ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと夢の理論(DB)
Josef Popper-Lynkeus und die Theorie des Traumes (GW13-355)
Josef Popper-Lynkeus and the theory of dreams (SE19-259)
ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと夢の理論(全集17-357 須藤訓任訳 2006)
ヨーゼフ・ポッパー−リュンコイスと夢の理論(著作10-380 生松敬三訳 1983)

キーワード:ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイス、独創性、夢の歪曲

要約:ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスの著作「ある現実主義者の空想」に収められた「目覚めているように夢見る」という物語は、フロイトの「夢解釈」を知らずに書かれたものであるが、夢の本質について同等のことを述べている。

関連論文:「夢解釈」、「ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスとわたしの接点」

記事「ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと夢の理論」を読む
2007-05-16 08:48 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月15日(火)
「ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと夢の理論」を読む
 人間というものは、自分の独創性を過大に評価しがちである。いろいろな経路で他者から影響を受けておきながら、そのことはさっぱり忘れて独自に考えたものだと主張しがちである。しかし、以前に誰も主張していないという意味でのオリジナリティーを競うことにたいして意味はない。
 以上のような趣旨のことを、フロイトは繰り返し述べている。自戒の言葉ともとれるし、また当時彼の理論へのさまざなま反発の中に、「そんなことはすでに誰々が述べている」といったタイプのものが多く、それに対する反論として述べていたところもあったろう。

 今回とりあげられているヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスの「ある現実主義者の空想」という著作は、フロイトの「夢解釈」とほぼ同じ時期に出版された。それぞれは、お互いを知らずに書かれたものであるが、その内容には共通した洞察がある。それこそは「夢の歪曲」という、フロイトの夢理論においてかなり重要な鍵概念であったのだ。

 フロイトに学ぶ現代のわれわれにとって、彼の考えがオリジナルなものであるか否かはもはやどうでもよく(少なくとも私自身のオリジナルでないことだけは確かであるし)、それが真実探求の道しるべとしてどれだけ役に立つかが重要なのだ。
2007-05-15 12:22 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月14日(月)
嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について(DB)
1922
Über einige neurotische Mechanismen bei Eifersucht, Paranoia und Homosexualität (GW)
Some neorotic mechanisms in jealousy, paranoia, and homosexuality (SE)
嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について(全集17-343 須藤訓任訳 2006)
嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について(著作6-254 井村恒郎訳 1970)

キーワード:嫉妬、パラノイア、同性愛、投射、嫉妬妄想、迫害パラノイア、関係妄想

要約:嫉妬には、正常の嫉妬、投射された嫉妬、妄想性嫉妬の三相がある。投射された嫉妬は、自らの不実への衝動が投射された結果である。嫉妬妄想においては同性愛の蠢きが投射される。異性との関係における嫉妬や同性との競争を回避するということが、同性愛を選択する際の大きな要因となりえる。

関連論文:「自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察」、「集団心理学と自我分析」

記事「嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について」を読む
三角関係
至言
嫉妬深いということ
動機が大事
蠢き
一抹の真実
競争はいやだ
2007-05-14 12:26 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月13日(日)
競争はいやだ(嫉妬、パラノイア、同性愛8)
周知のように、相当数の同性愛者が、社会的な欲動の蠢きを著しく発展させ公益のために献身するという点できわ立っている。このことを理論的に説明しようとするなら、可能な愛の対象を他の男性に見る男は、男性の共同体に対し、男というものをさしあたり女性関係のライヴァルと見ることを余儀なくされる他の男とは異なった振舞い方をせざるをえないのだ、と述べてもいいだろう。(17-355)

 どんな人も同性愛と異性愛の両方に向かう傾向を本来持っているが、最終的に多くの人は異性愛を選択し、少数が同性愛を選択する。同性愛者を選択した人にとっては、それによってもたらされる有利さの総和が不利さの総和を上回っていたのであろう。少数派であるということはそれだけで多くのハンディキャップとなるだろうから、それらを上回る利点が必要になる。その有力な候補のひとつが、「同性との競争から自由になれること」であるとフロイトは分析した。逆に言えば異性愛者にとっては、異性関係の追及が同性との絶えざる競争による緊張をもたらしているということである。これはなかなか鋭い見方だなと思った。
2007-05-13 00:03 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月12日(土)
退却(戦争と平和)
 「戦争と平和」の第三巻を読み終わった。この巻では少しペースダウンしたかと思ったが、ブログの記事で調べてみたら各巻とも1ヶ月以上かかっており大差なかった。
 表紙の紹介文では「ナポレオン軍のモスクワ侵入を描く全編中のクライマックス」とあったが、予想していたような華々しい内容ではなかった。トルストイの歴史観によれば、歴史は英雄の活躍によって作られるものではなく、一人ひとりの人間がやむにやまれぬ選択をした結果の集積がもたらすものである。いかなる指導者も自分の思い通りに集団を支配することはできず、人々によって作られる大きな波のうねりに乗っていくことしかできない。

 映画のDVDは待ちきれず、一枚目だけ見てしまった。四部構成になっているが、小説の四巻と一対一対応になっているわけではなかった。やはり映像のインパクトは大きく、小説を読み進める上でも影響される。時代も土地も隔たった舞台の話では、風景とか建物とか服装といった具体的な物を想像しにくいので、映像を見るととても助けになる。一方、人物の外見とかは自分の思うように想像したいということもある。今回の映画のキャストは、わりとイメージどおりの人が多かったがエレン役が小説よりかなり年上の俳優のようでちょっと残念であった。
2007-05-12 21:42 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月11日(金)
一抹の真実(嫉妬、パラノイア、同性愛7)
 フロイトは、「妄想は真実である」という仮定から出発した。しかも、それは単に妄想が当事者にとって心的現実であるということを言っているだけではない。客観的に見ても、そこに少しは真実があるのではないかという仮定を立てている。この点がすばらしい。

 妻への嫉妬妄想の事例では、当人は自分の無意識的な不実を妻に投射するのであるが、何もないところに投射するのではない。妻のほんの些細なしぐさの中に不実の兆候を嗅ぎ出し、それについて極端な拡大解釈をしたのであった。こうして見ると、「妻が浮気をしている」という訴えにも1パーセントくらいは真実が含まれていることになる。

 このような発言を妻は否定するだろう。周囲の人もそれに同調するだろう。こうした「客観的事実」と合わないから、この男の発言は妄想と判断され、彼はパラノイアと診断される。彼の発言にも1パーセントの真実が含まれているのだが、それは周囲の「正常な人」にとって都合の悪い真実だから否定されるのである。
2007-05-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月10日(木)
蠢き(嫉妬、パラノイア、同性愛6)
妄想性嫉妬とは同性愛の嫉妬に関連しており、パラノイアの古典的形態のうちにその位置を占めてしかるべきものである。それは強すぎる同性愛の蠢きに対する防衛の試みであり、(男性の場合)次のように定式化することができよう。
彼を愛しているのはわたしではない、彼女なのだ。
(17-345)


 抑圧された不実への衝動を他者に見出すのが投射された嫉妬であり、それをもっと極端に進めたのが嫉妬妄想であるが、そこまで行き着くためにはより強力な動機が必要になる。その動機が、「同性愛の蠢き」だ。嫉妬妄想では、抑圧された同性愛の蠢きを異性の対象に投射するという機制が働いているというのがフロイトの定式化である。
 このような説明は、「では同性愛者は嫉妬妄想を抱きやすいのか」という誤解を生じそうである。同性愛者は、自分の中の欲求を意識化してそのままの形で表現しているわけだから、投射という防衛をする必要がない。同様に、同性愛的衝動を友情といった形で昇華できている人も、嫉妬妄想に陥らずにすむ。
 では、嫉妬妄想になるのは一体どんな人なのか。同性愛というのは一次ナルシシズムに近いより原始的な対象愛であり、それすらも充分に現実の対象に振り向けることができず、そのような衝動を抱えることに危険を感じて、他者に投射せざるをえないような切迫を感じる人であろうか。現実では同性も異性も充分に愛することができず、しかし愛への欲求には強く悩まされているという人であろうか。
2007-05-10 21:58 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月09日(水)
動機が大事(嫉妬、パラノイア、同性愛5)
 フロイトといえば神経症の治療と理論で有名である。精神病圏の疾患については分析治療の対象とはならないと考えられていた。彼の精神病理論の根拠は、シュレーバー症例という精神病者の自伝と、分析的に関わった若干のパラノイア患者ということのようで、自らの豊かな臨床経験から導き出したものではない。
 にもかかわらず、フロイトの精神病理論はすばらしい、と私は思うのだ。どこがすばらしいかと言うと、彼が動機というものを重視したということだ。

 投射による嫉妬が極端なところまでいきつくと、それは嫉妬妄想になる。が、その間には簡単には乗り越えられない「現実認識」という防波堤がある。嫉妬を投射しようとする波は強い力をもって押し寄せるが、他者と共有する現実という防波堤を突き破るところにまでは容易には至らない。しかし、非常に強い波であればこれを乗り越え、その結果氾濫が起こるであろう。また、防波堤自体に脆弱なところがあれば、このような氾濫は比較的小さな波でも起こるかもしれない。
 打ち寄せる波というのはもちろんさまざまな感情や衝動といった動機のことであるが、防波堤の方もまた他者と現実を共有しなくてはならないという動機によって支えられている。つまりそれは建造物のような静的なものではなく、心的エネルギーを注ぎ続けることによって維持されている。葛藤しあう諸動機が最終的にどこでバランスするかということが心の状態を決めるのであり、それはそれぞれに配分されるリビードの量によって決定される。

注:ここで用いた防波堤の比喩は、私が説明のために工夫したものであり、フロイト自身の表現ではありません。
2007-05-09 12:43 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月08日(火)
嫉妬深いということ(嫉妬、パラノイア、同性愛4)
 嫉妬というのは当人にとってつらい情動であり、できればあまり抱きたくはないものだ。他者のとの愛情関係がうまくいっている時には、嫉妬にとらわれることはあまりない。カップルの一方が強く惚れ込んでいる場合には、パートナーの浮気になかなか気づかなかったりする。強い片思いにおちいっている人は、相手に交際者がいることを最後まで知らないということもある。

 一方では、些細なことで嫉妬が生じてしまうような状況がある。嫉妬を抱きやすい人というのもいる。事実に不釣合いな強さの嫉妬が起こる場合、それは投射による嫉妬であることが多い。投射というのは防衛機制の一種であって、自分自身の抑圧された感情や衝動を他者の中に見出すことだ。気づかぬうちに不実への欲望を抱いている人が、パートナーの中に不実への欲望を見出し、そのことに嫉妬する。これが投射による嫉妬である。われわれは禁じられた情動を自分の中に持ちこたえるということがなかなかできないので、それを他人の中に捜し求め、それを発見すると大騒ぎするのである。
2007-05-08 08:47 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月07日(月)
至言(嫉妬、パラノイア、同性愛3)
忠誠、とくに結婚において要求される忠誠は、絶えざる誘惑に抗してのみ維持されうる。(17-344)

 コメントするのも野暮だが、誤解をまねかないよう念のため。「だから結婚に対して不実であってもよい」と、不倫を勧めているのではない。耐えざる誘惑に抗して維持されるからこそ、忠誠に価値があるのである。
2007-05-07 08:51 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月06日(日)
三角関係(嫉妬、パラノイア、同性愛2)
 嫉妬は、3人の人物の関係から生じる。嫉妬自体はもしかすると、愛とか憎しみのようにより単純な情動に分解できるのかもしれないが、3人の人物が関わるだけに複雑なドラマを生む。三角関係が、古今東西の物語の題材となってきたのは周知のごとくである。

 フロイトは、嫉妬を三段階に分けた。

嫉妬の三層ないし三段階は名づけてみれば、一、競争の嫉妬、つまり正常な嫉妬、二、投射された嫉妬、三、妄想性嫉妬と呼ぶことができる。(17-343

 嫉妬を正常から異常へのスペクトラムを形成するものとしてとらえたわけだ。そもそも嫉妬という感情は、もともと正常と呼ばれるような心の営みに収まりにくいものをもっている。

(正常の嫉妬とは)愛の対象が失われたと信じ込まれたがゆえの痛みである喪の悲哀、また、他と区別される限りでのナルシス的傷心、さらに、ライヴァルが優遇されたことに対する敵意の感情、および、愛の喪失を自分の自我の責任にしようとする多少とも厳しい自己批判といったものである。(17-343)

 自分が失恋したときのことを想い出してみるとよい。まずそれは、愛情の対象を失うという体験である。しかしこれは単純な喪失ではなく、愛人が自分とは別の競争者を選んだことによる喪失なのである。そこで、敵意はまずこの競争者に向かう。そしてこの恨みは彼(または彼女)を選んだ愛人へと向かう。(個人的な印象としては、意外にも敵意は競争者のところよりも愛人のところに強く長くとどまるような気がする。それはもともと愛人に向けられていた感情の両価性によるものかもしれないし、あるいはフロイトの指摘した競争者との同性愛的結びつきのせいかもしれない。)そして、最後にそれは自分自身にかえってくる。結局のところ、愛人に選ばれなかった自分がだめなんだ、というわけだ。
 このようなお決まりのパターンで、友人が登場して「世の中にはもっとすばらしい相手もいるから元気出せよ」などとしごくもっともな慰めをしても、当人はなかなか諦められずに悲嘆を続けるというのもまたお決まりのパターンであろうか。

 嫉妬状況が人の心を強くとらえ、なかなか冷静で合理的な判断にもどれないのは、この情動が「深く無意識に根を張り、幼児の情動活動の蠢きを継続したものであって、第一期の性的時期のエディプスコンプレクスないし兄弟コンプレクスに由来しているからである」という。
2007-05-06 00:08 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月05日(土)
「嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について」を読む
 初出は1922年の「国際精神分析雑誌」だが、その前年に執筆され「精神分析とテレパシー」と同じ機会に「秘密委員会」で読み上げられ、その後も加筆されたとのこと(解題より)。小粒な論文だが、かなり気合が入っていることがうかがえる。

 最初に術語のこと。精神分析の用語では、「嫉妬」と「羨望」は比較的厳密に区別される。独語、英語との対応関係は以下のとおり。

Eifersucht(独),jealousy(英),嫉妬
Neid(独),envy(英),羨望

 日本語の「嫉妬」という語は、通常上記の2つを含む幅広い意味を持っているので注意が必要だ。また、日本語で「羨望」と言うと、「羨望のまなざし」などのようにあまり悪いイメージの言葉ではないが、精神分析では(あるいは独語英語一般でもそうなのかもしれないが)羨望は未熟で攻撃的な意味を持つ。「ねたみ」の方が近いかもしれない。特にメラニー・クラインは、羨望という概念を多用した。

 わかりやすく言うと、羨望は一対一の関係において、相手の持っている良いものをねたましく思う気持ち。
 嫉妬は、3人の関係で生じる感情。本人が男であるとすると、愛人(女)が別の男を好きになったのではないか、といった時に燃え上がるのが嫉妬。
 人間が3人からむだけにややこしい。嫉妬という感情は誰に向けられるのか。愛人にか、別の男にか、あるいは2人の関係そのものにか。日本語で「〜に嫉妬する」と言う時には、どれも当てはまるような気がするが。
2007-05-05 00:06 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月04日(金)
夢とテレパシー(DB)
1922
Traum und Telepathie (GW13-163)
Dreams and telpathy (SE18-195)
夢とテレパシー(全集17-311 須藤訓任訳 2006)
夢とテレパシー(精神感応)(著作11-54 高田叔訳 1984)

キーワード:夢、テレパシー、思念転移、エディプスコンプレクス、想い出の錯誤

要約:テレパシーに関連した夢の報告事例2つ。テレパシー的お告げが存在するとしても、それは夢の外見に素材を与えるに過ぎず、欲望成就という夢の本質には関わらない。エディプスコンプレクスの領域に属する興奮が、思い出の錯誤によってテレパシー的な体験を作り出すことがある。

関連論文:「夢解釈」、「精神分析とテレパシー」、「続・精神分析入門講義」、「強迫神経症の一例についての見解」

記事「夢とテレパシー」を読む
どちらでもおなじ
超常現象の起源
2007-05-04 00:42 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月03日(木)
超常現象の起源(夢とテレパシー3)
 第一の事例は娘の双子出産を伝えるテレパシー的な夢を見たという男性のものであった。フロイトの分析は、この事例においてテレパシー的お告げが仮にあったとしても、それは睡眠中の物音のように夢に素材を与えたに過ぎず、夢の本質は当人の抱いていた近親相姦的欲望の成就というところにあるというもの。

 第二の事例は、テレパシー的な幻覚をよく体験する女性を繰り返し悩ませる夢の報告である。この夢自体はテレパシー的でもなんでもない。むしろ夢解釈によって明らかになった父へのエディプス的欲望が、彼女が想い出の錯誤によってテレパシー現象を作り出す際の原動力になったという解釈。

 第二事例の考察が大変おもしろく、また「霊感の強い」と自認するような他のケースにも応用できそうだ。本人だけが経験したというオカルト的体験は、他人の記憶と照らし合わせて現実性を確かめることができない。にもかかわらずというか、だからこそというか、これらの体験の現実性は当人によって間違いないこととして主張されがちである。この確信感は、その出来事の現実性ゆえではなく、それが当人にとっての強い欲望に基づくものであることから生じる。
2007-05-03 00:08 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月02日(水)
どちらでもおなじ(夢とテレパシー2)
 本論文は、テレパシーに関連した二つの夢の事例からなっている。これらの事例はフロイト自身が分析で取り扱ったものではなく、当事者が手紙によって報告してきたものだ。
 そういう意味でこれらの事例がもつテレパシーの証拠能力は小さい。だいいち、実際に相対して分析するのでなければ夢の分析は完全にはなしえない。また、わざわざこういった夢を報告してくる人にはある種の思惑があるに違いない。

 フロイト自身はオカルト的体験をすることが乏しく、テレパシー的や予言的にみえる夢をみたとしても、それは当たらなかったという。また27年間の分析家としての活動の中で、患者がテレパシー的な夢を体験するところに立ち会ったことがなかったともいう。
 これらの事実からしても、テレパシー的な夢というのは、そういうものを信じたい人によって作られる場合が多いのではないかという推測がたちそうだ。

 しかし、実はこの論文の目的はテレパシー的な夢が存在するかどうかということを検証することではない。その点については、批判的に吟味はなされるが最終的な結論にいたらない。むしろ、ここでの重要な主張は、たとえテレパシー的なお告げが眠っている人にやってくるとしても、それは夢形成のための素材の一つとして取り扱われるに過ぎず、一番本質の夢工作のプロセスにはかかわらないということだ。
2007-05-02 00:18 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年05月01日(火)
「夢とテレパシー」を読む
 「精神分析とテレパシー」の少し後に書かれ、翌1922年の「イマーゴ」誌に掲載された論文。もともとウィーン精神分析協会で講演する予定の原稿だったが、結局講演は行われなかったらしい(解題より)。
 これもテレパシー関係の論文ということで、発表までに紆余曲折があったのだろうかといろいろ想像させる。この論文自体にも妙なところがあり、以前に著作集で読んだ時には最後のところで「はてな?」と首をひねった。

わたしは皆さんに、オカルト的な意味でのテレパシーの実在性を認める立場を暗々裏にとろうとしているという印象を与えたでしょうか。そういう印象は避けがたいだけに、もしそうなら、大変遺憾に思います。というのも、わたしは実際、完全に公平でありたいと思っているからです。そうすべきあらゆる理由がわたしにはあります。テレパシーの実在性について、わたしはいかなる判断もつかないし、何も知らないのですから。(17-191)

 本論文では、前のものに比べるとテレパシーを認めることに否定的な調子で論述が進んでいくのだが、終わりの方になって急に肯定的な論調になり、最後は上記引用で締めくくられる。

 当時はテレパシーという現象がかなり灰色に見え、思い込みによる幻影なのかあるいは将来科学的知識の一部になるのか、実際のところ判断がつかなかったということはあるだろう。
 そんな状況において、精神分析の創設者フロイトとしては自身の発言が後世にも長く影響を与えるという自負と責任があったのだろう。将来テレパシーが実証された場合と否定された場合、どちらに転んでも発言が見当はずれなものにならないように。そんな計算があったのではないかとも思える。
2007-05-01 12:38 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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