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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年09月30日(日)
二番目の図

 フロイトは、心的装置の図を公式には三回描いている。一番目は「夢解釈」、二番目が今読んでいる「自我とエス」、そして三番目が「続・精神分析入門講義」である。最初のものは初期局所論のものなので、今回登場する図とは大きく異なる。三番目のものは、二番目の改訂版のようでよく似ている。

 ここに示したのはもちろん、「自我とエス」に出てくる図である。今回は、独語版全集のものをとりこんでみた。「続・精神分析入門講義」の図と比べると、大きく違うところが二箇所ある。ひとつは「超自我」がここには描かれていないが、「続」の図では表示されていること。もうひとつは、「聴覚帽(Hörkappe, 図では"akust."と表示されている)」である。

 この聴覚帽、後の図では消えてしまっているし、他のところでもあんまり出てこないようだが、いったい何なんなんだろう。

もうひとつ付け加えておくと、自我は、「聴覚帽」を被っており、しかも脳解剖学によって証明されているように、それは片一方の側だけに限られている。(18-19)

 つまりこの図は脳を意識したデザインになっているようだ。たしかにそんな雰囲気はある。編注によると、「フロイトの念頭にあったのは、言語理解の際にある役割を果たしている高度聴覚中枢、つまりヴェルニケの脳内言語中枢のことなのかもしれない」とのことだ。

 フロイトは精神分析以前の著作である「失語論(1891)」で、失語のメカニズムについて論じている。言語については、聴覚理解にかかわるヴェルニケ中枢と発語にかかわるブローカ中枢があるというモデルが現代においても通用している。フロイトは、この仮説を批判し、両者はもっと広範囲にわたって存在する言語領域の入力と出力の部位に過ぎないだろうと述べている。
 であるから、聴覚帽が「高度聴覚中枢である」という表現にはフロイトも反対したに違いないが、これを音声言語の入り口と考えるとより近いのかもしれない。

 つまり、この図があらわしているのは、音声言語が他の感覚要素とは違う経路を通って知覚系に到達するということであろう。われわれが言葉を聞く際、それは意識に上った時には、すでに単なる音ではなく、意味を伴った言語に加工されているのである。
2007-09-30 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月29日(土)
エス登場
その洞察に敬意を払うためにも、ここで私としては、知覚系に発し、まずは前意識的であるものを自我と呼び、それに対して、この自我と地続きでありながら、無意識的な振舞いをするこれとは別の心的なものを、グロデックの用語を借りて、エスと呼ぶことにしたいと思う。(18-18)

 いよいよエスの登場である。エスという概念を、フロイトはゲオルグ・グロデック(1866-1934)から借用している。グロデックはみずからフロイトの弟子と名乗り、フロイトもこれを認めて1917年から1923年にわたってかなり親密な文通があったようである。しかし、例によってというか、二人はエスの概念の食い違いをめぐって衝突してしまった。(グロデック著「エスの本」訳者山下公子氏の解説を参照)

 よく指摘されるように、フロイトと弟子の関係は、急速な接近と親密な関係の後の衝突というお決まりのパターンになる。そうしながらも、フロイト理論は弟子の考えを取り入れて豊かに発展していくのだからすごい。エスの概念も、借り物とは思えないくらいにうまくはまっている。
2007-09-29 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月28日(金)
知覚と感覚
 知覚と感覚という語は、日常的な使用においては同じような意味に用いられがちである。
 心理学の用語としては、もちろん区別する必要がある。もっとも、感覚や知覚のしくみが完全には解明されていないだけに、その定義も曖昧であったり、理論によって異なったりする。

 一般的には、感覚は実際の刺激によってひきおこされるプロセスであり、知覚はそれを心なり脳が体験するプロセスであるとされる。感覚の障害といえば、例えば末梢神経の損傷によって痛みや触覚を感じなくなる状態。知覚障害の例としては、実体のないものが見える幻視などがある。つまり、外界から主体までの経路のうち、外に近いところのプロセスが感覚で、主体に近いところのプロセスが知覚である。おおざっぱには、そういうことでよいだろう。

 さて、フロイト理論においても、知覚(Wahrnehmung)と感覚(Empfindung)という語はわりと厳密に区別されているのであるが、やや独特のところがある。特に知覚ということのとらえ方である。

 フロイト理論では、意識と知覚は密接に結びついているということになっている。それらは、心的装置においては知覚−意識系において生じる過程である。
 意識と知覚がどれほど密接に結びついているかといえば、同じことであるといってもよいくらいである。つまり、知覚するということは意識するということに等しい。フロイトはそこまでは言っていないのであるが、彼の理論をつきつめていくとどうもそういうことになる。

 これは、フロイトが知覚ということを外界の認知のみならず、内界の認知にも広げて考えているためである。外であろうが内であろうが、知るということが知覚なのである。それは意識するということのほぼ全域をカバーしている。そして、意識に上らないことは知覚することにはならない。「無意識的知覚」ということはないのである。
 これに対して、無意識的感覚というものはある。意識に上らない事柄を確かに感知して反応していたり、それが記憶されて後の反応に影響するということは充分あり得ることなのである。
2007-09-28 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月27日(木)
外部から来たかのように
つまり、語表象は、内的な思考過程を知覚するための仲介者の役割を果たしているということである。とするなら、あらゆる知は外的知覚から発しているという命題も、これで証明されたも同然ということになろう。思考に過剰備給がほどこされると、思考内容は、現実のものとして――あたかも外部から来たかのように――知覚され、それゆえ真とみなされるのである。(18-17)

 知覚−意識系が心的装置の外側にあるということと対になるのが、思考のような内部過程は、あたかも外部から来たかのように知覚されるという仮説である。

 知覚−意識系はそもそも外部からの刺激を受け取るように作られており、それが本来の機能なのである。内部からの快不快を知覚したり、とりわけ思考過程を知覚することは後になってから、外からの刺激を知覚することを模範にして生じた機能である。
 思考の場合には、表象が語表象と結びつくことによって、つまり聴覚的な想い出−痕跡と結びつくことによって、それが可能となった。意識的に考えるということは、あたかも内からの声を聞くような営みなのであろう。
2007-09-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月26日(水)
言葉によって引き出せ
すでに別のところで仮説として打ち出しておいたところであるが、無意識的表象と前意識的表象(思考)の実際上の違いは、前者が、しかと識別されていないものを素材として生じるのに対して、後者(前意識的表象)の場合には、これがさらに語表象と結びつくという点にある。(18-14)

 前意識的表象の根本的な性質は語表象との結びつきであるという、非常に重要な命題である。

 それでは、言語を持たない動物には、前意識的表象は存在しないのか。そういう動物には、意識はないのか。といったような疑問も浮かんでくる。

 おそらく、言語をもたない動物にも、その瞬間その瞬間の意識はあるのだろうが、人間のような前意識的表象というものは存在しないかもしれない。つまり、前意識的表象とは、いつでも自由に意識の上にひきだせる表象ということであり、この「いつでもひきだせる」というこのために語表象との結びつきということが大事になってくるのだろう。

 例えばネズミにも記憶力があり学習をすることができる。ある部屋に行くとびりっと電気刺激が与えられるような実験をすれば、ネズミはその刺激のことを記憶して、その部屋には行かなくなる。しかしこのような記憶は、前意識的な表象とはいえないだろう。

 人間の場合には、「以前にいやな出来事があった場所だから、そこには行きたくない」と考えて、ある場所をさけるとしたら、その考えは前意識的表象になっているということだ。
 しかし、「なぜだかわからないが、そこには行きたくない」と思えたり、それさえも意識せずにその場所を避けているという場合がある。そのような行動は、当人も意識できない外傷的な記憶によって規定されているのかもしれない。そうであれば、その外傷的な記憶は無意識的な表象にとどまっているということになる。
2007-09-26 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月25日(火)
意識は外側に
意識とは心の装置の表面であるというのが、かねてよりのわれわれの主張であり、われわれは、意識なるものを、機能としては空間的に外界にじかに接している系に属するものと考えてきた。ちなみに、空間的とは、たんに機能の面から言っているだけでなく、そこには解剖学的な意味も含まれている。(18-12)

 意識が外界の知覚ということと密接している現象であるということは、フロイトが何度も述べていることである。しかも、それは単に比喩的な意味だけではなく、解剖学的な意味も含まれるというのだ。
 つまり、神経系において意識の座と考えられる脳皮質は、脳の一番外側にあるではないかと。しかし、そのことが心理学というレベルの話とどう関係してくるのか。
 フロイトは、もともと脳解剖学を研究していたくらいだから、こういう発想がでてくるのだろう。脳の形や場所のことなんてふつう心理学者は考えないでしょう。

 確かに、脳のような重要な器官が身体の奥深くではなく、露出した場所にあるというのはおもしろい。おそらく、目、耳、鼻、口といった、重要な感覚器官と近い位置にあるということが大事なことなのだろう。脳の中で神経細胞が表層部にあることは、それぞれが相互に膨大なネットワークを築きつつ外部とも連絡をとるという機能から導かれた、必然的な形なのであろう。
2007-09-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月24日(月)
「U 自我とエス」を読む
 著作全体の題名と同じになっているが、第二章の題名である。ここの前半は特に難解だ。フロイトのこれまでの著作での議論をふまえないと、なんのことを述べているのかもよくわからないのではないか。

 さかのぼっていくと、「快原理の彼岸(1920)」、「無意識(1915)」、「夢解釈(1900)」の第七章といったところに同様の事柄の論述があり、さらに「心理学草稿(1995)」や「失語論(1891)」での議論にまでさかのぼることもできる。

 こういう難解な理屈は正直よくわからないし、はじめて読むような方は適当に読みとばしてもよいのではないかと思う。この章の後半でエスが登場してから以降は、また少し理解しやすくなるので。
2007-09-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月23日(日)
略形の意図はいかに
 「自我とエス」については、これまで著作集の小此木啓吾氏訳とちくま学芸文庫の中村元で読んできたが、全集の道簱泰三氏の訳もなかなか読みやすい文章でよかった。
 ただ、これは全集全体の方針なのか、「自我とエス」でだけのことなのか、フロイトが用いた意識、無意識についての略形表記を訳に反映していない。

 すなわち、原文では次のような略形を用いている。

bewußt(意識的な)→ bw 名詞形→ Bw
vorbewußt(前意識的な)→ vbw 名詞形→ Vbw
unbewußt(無意識的な)→ ubw 名詞形→ Ubw

 これまでの2つの邦訳では、「意識(Bw)」のような表記をしていた。ちなみに、標準版の英訳では、"Cs.","Pcs.","Ucs."という略形を用いている。

 原文を見ると、略形とそうでない表記が混在していて、それらを区別する明瞭な意図があるのかどうかわからない。全集の訳では、意味ある区別はないと考えたのだろう。ここの部分については、それでいいような気もする。

 しかし、「夢解釈」における初期の局所論では、"Vbw"や"Ubw"に体系としての意味合いがあり、略形で区別することは重要なのではないかと思う。新宮氏がどのような翻訳をするか、注目されるところだ。
2007-09-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月22日(土)
「T意識と無意識」を読む
 まずは意識と無意識の話からはじまる。これは、フロイトが分析理論の全体について論述する際の常套手段である。

 今日ではフロイトの功績もあって、無意識的な心理過程が確かにあるということは、さほど強調しなくても理解されるようになっている。もっとも、それはなんとなく意識と無意識があるという程度のことかもしれない。彼は、心的なものの質として、意識的、前意識的、無意識的の三様を規定したのであった。

 このうち、前意識的ということが意外に誤解されやすいところだ。これは、現在その時に意識されていないという意味で潜在的であるが、その気になれば意識することのできる心的過程のことをいう。
 例えば、「昨日の夕食は何を食べましたか」と問われれば「とんかつを食べました」と、その食事の内容や有様を思い出すことができる。昨日の夕食にまつわる諸観念は、その時点ではじめて意識的になったということだ。問われる前には、それらの観念は潜在していたわけで、それらは前意識的だったということになる。

 考えればわかることだが、ある瞬間に意識できる心的内容は限られているのに対して、前意識的な観念は膨大である。この意識と前意識の関係がどうなっているかというのは、けっこうむずかしい。
 ワープロやエディタで長い文書を表示しているところを考えてみよう。ウィンドウに表示されているのは、文書全体のほんの一部である。これが意識的なものに相当する。そしてスクロールした時に見えてくるであろう他の部分は前意識的なものということになる。
 こういう文書を上下にスクロールして全体をみわたすと、目に見えている部分を縦に延長したような文書全体が存在するかのように錯覚してしまいがちだが、実はそうではない。メモリ上に保存された情報が、スクロールされるごとにウィンドウ内の所定の位置に描画されているにすぎないのだ。
2007-09-22 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月21日(金)
「自我とエス」を読む
 心的装置についての後期構造理論(第二局所論)が完成された、大変重要な論文である。本格的にフロイトを勉強しようという人なら必ず熟読するであろう。

 序の部分では、本論文を「快原理の彼岸」に始まった思考の歩みを引き継ぐものとしている。しかしこちらの方が、ずっと論理的であり、高い完成度でまとまっている。というか「彼岸」の方はとんでもない論文だったから。

 そういうわけで、まるっきり初心者では厳しいだろうが、ある程度フロイトの著作を読み進んだ後にチャレンジするにはお勧めの著作だ。一回読んでさっとわかるというわけにはいかないだろうが、何度も読むことで後期理論の真髄に触れることができる。
2007-09-21 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月20日(木)
フロイト全集第18巻を読む
 第22巻の読解が終わって、いよいよブログでは4冊目になる第18巻に突入だ。これは、最初に読んだ第17巻に続く1922年から1924年の時期の論文を集めている。後期構造理論が完成をみた重要な論文「自我とエス」と、フロイト自身が自らの著作の歩みを振り返りつつ解説した「みずからを語る」。これら2つの他にも、「十七世紀のある悪魔神経症」、「マゾヒズムの経済的問題」、「エディプスコンプレクスの没落」、「神経症および精神病における現実喪失」、「「不思議のメモ帳」についての覚え書き」など、小粒だが重要な諸論文を収録している。後期の理論的発展のピークであった時期といってよいだろう。

 それでは、はじめよう。まずは「自我とエス」。
2007-09-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月19日(水)
成果、着想、問題(ロンドン、一九三八年六月)(DB)
1941[1938]
Ergebnisse, Ideen, Probleme (London, Juni 1928) (GW 17-149)
Findings, ideas, problems (SE 23-299)
成果、着想、問題(ロンドン、一九三八年六月)(全集22-283 高田珠樹訳 2007)

キーワード:早い時期の体験、クリトリスとの同一化、子供における存在と所有、エスの中の遺伝の痕跡、罪責意識、幼児のオナニーの制止、空間性、神秘主義

要約:1938年の6月から8月に記された考想のメモ。

関連論文

記事「成果、着想、問題(ロンドン、一九三八年六月)」を読む
2007-09-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月18日(火)
「成果、着想、問題(ロンドン、一九三八年六月)」を読む
 題名のように1938年の6月から8月に記された、アイデアのメモのような10個の短文。内容は相互に関連なく、思いつくままに書き記していたのであろう。それぞれが、どのような著作に発展しえたのか、いろいろと想像を掻き立てられる。

 八月三日付けの、7番目の短文では、「幼児のオナニーの制止」について書かれている。「完全な発散や充足には常に何かが欠けている」という幼児の性のあり方が、その後の人生における性的あるいはその他の(ということは昇華された性的な)活動の先例となるということのようだ。

 少し古いところだが、チャゲ&飛鳥(CHAGE and ASKA)の「太陽と埃の中で」という歌の一節を想い出した。

追いかけて 追いかけても つかめないものばかりさ
愛して 愛しても 近づくほどみえない

 まことに、人生においては、求めても求めても、完全に満たされないということばかりだ。それが、われわれの欲望の宿命なのかとも思えてくる。
2007-09-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月17日(月)
イスラエル・ドリュオン当て書簡二通抜粋(DB)
1945[1938]
Auszüge aus zwei Briefen an Yisrael Doryon (GW)
SEなし
イスラエル・ドリュオン当て書簡二通抜粋(全集22-279 渡辺哲夫訳 2007)

キーワード:モーセ、ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイス、「ある現実主義者の空想」

要約:「モーセという男と一神教」における仮説が、ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスの「ある現実主義者の空想」という著作の影響を受けた可能性はあるが、両者の主張は根本において異なるところもある。

関連論文:「イスラエル・ドリュオン著『リュンコイス新国家』への緒言」、「モーセという男と一神教」

記事「イスラエル・ドリュオン当て書簡二通抜粋」を読む
2007-09-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月16日(日)
「イスラエル・ドリュオン当て書簡二通抜粋」を読む
 フロイトが緒言を書いた『リュンコイスの新国家』の著者イスラエル・ドリュオンからの質問に対する、返答の書簡二通からの抜粋。『モーセという男と一神教』におけるモーセの出自についての仮説に、ヨーゼフ・ポッパー­=リュンコイスの著作『ある現実主義者の空想』が影響を及ぼしたか否かという問題。

 独創的なアイデアが、本当にその人の独創であったかという、これまでにも何度も出てきた問いである。仮にフロイトの考えの重要な部分が先人のパクリであったとしても、それを説得力のある形に構築して提示したのは彼の業績であり、それこそが重要なことであろう。
2007-09-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月15日(土)
イスラエル・ドリュオン著『リュンコイス新国家』への緒言(DB)
1940[1938]
Einführung zu Ysrael Doryon, Lynkeus' New State (GW)
SEなし
イスラエル・ドリュオン著『リュンコイス新国家』への緒言(全集22-277 渡辺哲夫訳 2007)

キーワード:ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイス

要約:ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスを再評価するイスラエル・ドリュオンの著作への緒言

関連論文:「ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと夢の理論」、「ヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスと私の接点」、「イスラエル・ドリュオン宛書簡二通抜粋」

記事「イスラエル・ドリュオン著『リュンコイス新国家』への緒言」を読む
2007-09-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月14日(金)
「イスラエル・ドリュオン著『リュンコイス新国家』への緒言」を読む
 イスラエル・ドリュオンの著作『リュンコイスの新国家――改良された人道的基盤の上に新たな社会秩序を築き上げるためのプラン』に寄せられたフロイトの緒言。この本自体は1940年、すなわちフロイトの死後に出版された。すでに亡くなっている著名人の緒言を載せた著作というのもすごいが、同じ本にアルベルト・アインシュタインの緒言も載せられたというから、さらにすごい。しかし、今となって見ればこの著作の本文はほとんど知られていないのに、フロイトの緒言の方はちゃんと残って日本語にも翻訳されているというのだから。時代を超えて残るものと、埋もれていく大部分のものとの対照ということを考えさせられる。

 本文の内容の詳細はわからないが、フロイトが高く評価していたヨーゼフ・ポッパー=リュンコイスについてのものだったようだ。フロイトの緒言はリュンコイスを賛美し、本書がそれを再評価する試みであることを述べている。
2007-09-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月13日(木)
イスラエル・コーエン宛書簡(DB)
1954[1938]
Brief an Israel Cohen (GW-Nb775)
SEなし
イスラエル・コーエン宛書簡(全集22-275 渡辺哲夫訳 2007)

キーワード:宗教に対する絶対的に否定的な態度

要約:イギリスに亡命したフロイトに、ユダヤ建設運動支援の請願文への署名を願い出たイスラエル・コーエンに対する、辞退の手紙。

関連論文:「モーセという男と一神教」

記事「イスラエル・コーエン宛書簡」を読む
2007-09-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月12日(水)
「イスラエル・コーエン宛書簡」を読む
 イスラエル・コーエンは、ユダヤ人たちのパレスチナ再定住を推進させるために、イギリスに亡命したフロイトに運動支援の請願文への署名を願い出た。それに対して、フロイトが丁重に辞退を伝えた手紙である。
 亡命した有名人をある種の政治的な運動に利用しようという動きは、いつの時代でもあるのだろう。
 ユダヤ教を含めすべての宗教を否定し、「モーセという男と一神教」という、ユダヤ人に対してもスキャンダラスな書を発表しようとしていたフロイトにとっては、自らが「イスラエルの指導者」になることなど到底出来ない相談であったのだろう。
2007-09-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月11日(火)
『タイム・アンド・タイド』女性編集者宛書簡(DB)
1938
Brief an die Herausgeberin von Time and Tide (GW-Nb782)
Ant-semitism in England (SE23-301)
『タイム・アンド・タイド』女性編集者宛書簡(全集22-273 渡辺哲夫訳 2007)

キーワード:ユダヤ人迫害

要約:ユダヤ人迫害のテーマにした文章の寄稿に対する辞退の手紙

関連論文:「反ユダヤ主義にひとこと」

記事「『タイム・アンド・タイド』女性編集者宛書簡」を読む
2007-09-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月10日(月)
「『タイム・アンド・タイド』女性編集者宛書簡」を読む
 英字新聞「タイム・アンド・タイド」のユダヤ人迫害に関する特別付録に「フロイトからの手紙」というタイトルで掲載された文章。フロイトはこの件に関しての寄稿の求めに対して、辞退の手紙を書いたが、結局その手紙そのものが掲載されることになった。
 ユダヤ人迫害に関してのフロイトの個人的体験が短く語られた後、特別号に掲載される文章には、「個人的に巻き込まれてはいない非ユダヤ人こそがふさわしい」と述べている。

 ユダヤ人迫害の非人道性に対しては、非ユダヤ人の側から非難の声をあげてこそ意味があるという主張である。少ない抑制された言葉の中に、フロイトの怒りと悲しみが込められている。
2007-09-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月09日(日)
反ユダヤ主義にひとこと(DB)
1938
Ein Wort zum Antisemitismus (GW-Nb771)
A comment on anti-semitism (SE23-287)
反ユダヤ主義にひとこと(全集22-269 渡辺哲夫訳 2007)

キーワード:反ユダヤ主義、愛の宗教、ヒューマニズム、真理の宗教

要約:非ユダヤ人はユダヤ人を劣等な民族として不当に取り扱ってきたという真理に基づいた反ユダヤ主義への抵抗がなされるべきである。

関連論文:「モーセという男と一神教」

記事「反ユダヤ主義にひとこと」を読む
2007-09-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月08日(土)
「反ユダヤ主義にひとこと」を読む
愛の宗教とヒューマニズムの外に、なお真理の宗教なるものが存在するのであって、この真理の宗教は反ユダヤ主義に対する抵抗においてあまりにも軽視されすぎている。(22-270)

 初出は「未来へ 新たなるドイツ、新たなるヨーロッパ!」という雑誌。フロイトがどこかで読んだが忘れてしまった文章からの引用という体裁をとっている。全集の解題や標準版の編集者注によれば、引用されている文章は実はフロイト自身による可能性が高いとのこと。
 「彼はどちらかというと気に入らない見解を述べるにあたって間接的な方法を選ぶ人だったのだ。(標準版解説)」
 よくわからないが、フロイト自身ユダヤ出身という立場から反ユダヤ主義への抵抗運動に参加することには、あまり気がすすまなかったようである。

 引用した部分の「真理の宗教」とは、フロイトが晩年に到達した、無宗教でありながらある種宗教的な、真理を求める真摯な態度をさすのであろう。この件については、「モーセという男と一神教」の記事「預言者フロイト」でも述べた。
2007-09-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月07日(金)
防衛過程における自我分裂(DB)
1940[1938]
Die Ichspaltung im Abwehrvorgang (GW17-57)
Splitting of the ego in the process of defence (SE23-271)
防衛過程における自我分裂(全集22-263 津田均訳 2007)
防衛過程における自我の分裂(著作9-152 小此木啓吾訳 1983)

キーワード:自我分裂、否認、フェティッシュ

要約:幼児の自我は、去勢威嚇といった現実の脅威に際して、現実を否認する自我とそれを承認する自我とに分裂するという防衛を用いることがある。

関連論文:「精神分析概説」

記事「防衛過程における自我分裂」を読む
統合はむずかしい
2007-09-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月06日(木)
統合はむずかしい
われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。(22-264)

 当たり前のように思える自我の主体性が、実はみせかけであることを論じたのがフロイトであった。そして、統合するという自我の機能も自明ではなく、特別な条件のもとでのみ成立するという。
 自我の分裂は、自我がエスと現実の双方に対して従属的であることの帰結であるように思われる。相反するものに仕えようとすれば、風見鶏のように一貫性がなくなり、二枚舌になる。自我なのに自我がないというべきか。

 幼い自我が分裂するのはかなり普遍的なことのようであり、それは成長に伴う成熟によって二次的に統合性を勝ち取る。そのための「特別な条件」がなにかということについては、この短い文章には具体的には述べられていない。
 私見では、超自我の成立、愛情対象との同一化とそれによる二次ナルシシズムといったことが重要なのではないかと思う。
2007-09-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月05日(水)
「防衛過程における自我分裂」を読む
しかし、ご存知のとおり、この世で金のかからぬものは死のみである("Umsonst ist nur der Tod."ドイツの諺とのこと)。(22-264)

 自我分裂という防衛が、大きな代償を負ってのみなされうることを述べた一文。これを書いたフロイト自身が、迫りくる死を強く意識していたであろうことをも連想してしまう。

 まことに自我にとって、生きるとは大変なことだ。あちらを立てればこちらが立たず、両方立てれば自分が苦しい。そして、死は最終的にそれらの苦労からの解放という大きな快をもたらしてくれるのかもしれない。

 晩年のフロイトが死を前にしてどんな心境だったのかはわかなないが、著作の端々では自らの老い先の短いことについてユーモアを交えて語っている。彼の人生も相当大変なものだったようだから、死という最終的解放が静かに待たれるような心持もあるいはあったかもしれない。
2007-09-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月04日(火)
精神分析初歩教程(DB)
1940[1938]
Some Elementary Lessons in Psycho-Analysis (GW17-139)
Som elementary lessons in psycho-analysis (SE23-279)
精神分析初歩教程(全集22-253 新宮一成訳 2007)

キーワード:発生的提示、独断的提示、意識性、言い違い、催眠

要約:一般的な読者を対象にした精神分析理論の解説として書き始められた未完の原稿。原題は英語だが、本文は独語。

関連論文:「精神分析概説」

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百万人の心理学
2007-09-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月03日(月)
百万人の心理学
 それにしてもいつもながらうまいなあと、つくづく思うのはフロイトの語り口。これが82歳で刻一刻と全身を癌に蝕まれていく苦しみの中で書かれたとは、信じがたいような若々しい文章である。
 冒頭では、専門的な知識を一般人に説明する際にとられる典型的なふたつの方法として、「発生的提示」と「独断的提示」ということをあげ、自らがこれから双方のやり方をとりまぜながら論を進めていくことを宣言する。「精神分析には、愛されようとか、人気を博そうとかいうもくろみはない(22-254)」といった、少しだけ自虐的なユーモアも健在である。

 最初の節「心的なものの本質」は、これもお得意の物理学との比喩からはじまる。電磁気学が、電気の本性を知らぬまま、電流や電圧を仮定することで理論を構築したという事実である。後になって、電流の本質は電子の流れとわかったわけだが、結果的にはプラスとマイナスが逆であったけれども、それによって電磁気学が大きく改変させられることはなかった。
 それと同じように、精神分析学も「欲動」といった心理学の根本概念について曖昧なままで理論を構築しなくてはならない。そうせざるを得ないし、それでさしつかえない、というわけだ。

しかし、心理学の場合には他とは違った事情もある。物理学上のことがらの判断については、必ずしも誰もが自信をもって何か言えるというわけのものではない。だが、心理学上の問いとなると、哲学者から市井の人まで、誰もが一家言を持ち、控えめに言ってもアマチュア心理学者であるかのように振舞う。(22-255)

 読んでいて、にやりとさせられ、しかも含蓄の深い文章。まさに、そのとおりだよなあ。
2007-09-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月02日(日)
「精神分析初歩教程」を読む
 さきの「精神分析概説」を中断させた大きな手術の後で、着手され未完に終わった著作である。未完といっても「概説」と違い、ほんの序盤で終わっている。
 「概説」よりも一般的な読者を想定して、親しみを込めた語り口で丁寧に解説をはじめている。「この短い研究」とあるけれど、最初の調子で進めて「概説」で扱ったくらいの内容を網羅したならば、一冊の単行本になるくらいの分量になったはずである。新版の「精神分析入門講義」を目指していたのであろうか、などとも想像してしまう。

 迫りくる死を強く意識していた彼が、専門家向けの「精神分析概説」の完成をさせずに、この解説書に着手した意図というのはどのあたりにあったのか。この期に及んで精神分析の普及のためというわけでもあるまいし、やはりフロイトはこういった解説書を書くのが単純に好きだったということなのかもしれない。

 残念ながらその意図は貫徹できなかったわけだが、ともかく書き始めたということ自体がすごいことだし、その片鱗だけでも知ることができてよかった。
2007-09-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月01日(土)
「精神分析概説」へのまえがき(DB)
1940[1938]
Vorwort zum Abriß der Psychoanalyse (GW-Nb749)
Preface to an outline of psycho-analysis (SE23-144)
「精神分析概説」へのまえがき(全集22-177 津田均訳 2007)

キーワード:教義

要約:「精神分析概説」につけられた前書き。独語版全集では本文と別に別巻に収録されている。

関連論文:「精神分析概説」

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2007-09-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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