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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年10月31日(水)
両価的な態度
 チューリッヒの精神医学者オイゲン・ブロイラーとカール・グスタフ・ユングが、フロイトの精神分析に興味を持ち、1906年以降学問的交流が生まれた。
 フロイトとユングの密接な交流と後の決別は有名な話である。ユングの師であり精神病理学の巨匠であるブロイラーとの関係は、もっと穏やかなものであったようだが、それでもフロイトの方はかなり不満だったようだ。

両価性(アンビヴァレンツ)という貴重な概念を私たちの学問に導入するにいたったのは、まさしくこの著者のおかげだったというのは、偶然ではなかったのである。(18-112)

 両価性とは、愛と憎しみのような対極にある感情が同時にひとつの対象に向けられることである。ブロイラーが統合失調症の特徴を描写する語として考案した両価性の概念を、フロイトは愛と憎しみの切り離せない性質を表すために用いた。
 ブロイラーはフロイトの精神分析にはかなり好意的であったようだ。しかし、それはフロイトの目には物足りず、ブロイラーが精神分析に対して両価的な態度をとっていると思われたのであろう。
2007-10-31 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月30日(火)
夢を通じて
 自由連想法から話題は夢解釈へと移る。ヒステリーおよび神経症理論から性欲論へ、そして精神分析技法の発展の話題の後に夢の話になるという、この展開の順序は本書の特徴かもしれず、おもしろい。
 夢解釈や失錯行為の研究は、精神分析の学問的地位を、単なる精神病理学の補助学問から、正常人を理解する上でも欠かすことのできないより基底的な心理学へと押し上げたのだという。

精神分析の前には、広大な領野へわけいる道、世界への関心の道が開かれているのだ。(18-108)

 これは、単なる偶然というよりは、最初からフロイトが抱いていた野望だったのかもしれない。そしてその方向性こそが、フロイト理論の幅広い分野への影響へとつながっているのであろう。
2007-10-30 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月29日(月)
転移の解釈
 自由連想法の開発によって、精神分析の方法は完成した。分析の内容においては、抑圧されたものの解釈から転移解釈へと重点が移っていく。「転移をどのように扱うかが、精神分析の技法のなかで最大の難所であるとともに勘所(18-104)」なのだという。
 転移は精神分析によって発見されたが、精神分析のみでおこる特殊な現象というわけではない。それは、人と人との関係において常に生じるといってもよい、幼児期の感情体験の再演である。

つまり転移とはそもそも、ある人とその周囲にいる人びとの世界との関係を制御しているのである。(18-103)

 関係があってそこに転移が生じるというよりは、転移によってはじめて関係ができるということのなのかもしれない。
 一般的な人間関係で転移があまり意識されないのは、相互に投げかけあうものが合致すれば密接な関係になるし、合わなければ関係ができなし、途中から合わなくなれば関係が壊れるというように、自然に事の成り行きが決まっていくからであろう。
2007-10-29 00:00 | 記事へ | コメント(3) |
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2007年10月28日(日)
潜伏期のパワー
人間の性生活のもっとも注目すべき特質は、それが中間休止をはさんで二節的に起動することである。(18-97)

 フロイトの主張で特筆すべきものに小児性欲がある。これは、四、五歳の幼児にも性欲あるという主張である。このこと自体にびっくりしてしまいがちであるが、重要なことはむしろ性欲の発達に中間休止があるということなのではないかと思う。つまり、小児の性欲は連続的に大人の性欲に発達していくわけではないのだ。

 潜伏期というのは、今の学校制度でいえば小学校年齢に相当する。この間、性欲は決して眠っているわけではない。単に抑圧されているだけであり、そのために反動的な、あるいは昇華された活動が豊かに発達する。この昇華された活動こそは人間と他の動物とを区別している特質なのだから、潜伏期は豊かな人間性が発達する時期といえよう。

 たしかに、小学生年代というのは実におもしろい。教養、芸術、運動などさまざまな分野の才能がはなばなしく開花する。多くの子供が、得意な方面では大人顔負けの力を発揮する。なかには、神童と呼ばれるようなすごい能力を身につける子もいるのだ。
2007-10-28 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月27日(土)
誘惑説から欲望空想説へ
 フロイトは初期の精神分析的経験から、神経症の原因は幼児期に体験した年長者からの性的誘惑であると結論した。性的誘惑の体験は事実としておこったものとみなされていた。
 「みずからを語る」では、この考え方は誤りであったとはっきりと認めている。

しかしやがて私は、そうした誘惑の場面はじっさいに起こったものではけっしてなく、患者たちが創作した空想(ファンタジー)にすぎないことを認識せざるをえなくなった。(18-94)

 ここのところは色々な批判の的となっている。近年においては、養育者による性的虐待によって生じた精神障害というものが注目されていて、すべてが幼児の空想だというフロイト説は養育者の責任逃れを合理化してしまうというのだ。

 たしかに本書のこの部分だけを読むと、フロイトは初期の誘惑説を完全に否定しているようである。しかし、全部が事実ではなかったというのも極端な話だ。もっと後の「モーセという男と一神教」あたりでは、両方の可能性があるというような、より穏やかな表現になっていた。

 フロイト理論は、かなり本質的な部分から末梢的なところまで、いろいろな点で変更がなされている。しかし、かならずしも後のものがよいとは限らないようでもある。
2007-10-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月26日(金)
ピエール・ジャネ
 治療技法としての、そして心理学体系としての精神分析の発展が語られた後に、ジャネについてのコメントがなされる。

 ピエール・ジャネ(1859-1947)は、フロイトとほぼ同時代に活躍したフランスの心理学者で精神医学者。パリのサンペトリエール病院でシャルコーに学び、ヒステリーを研究してトラウマや解離の概念によってその病理を捉えようとした。
 ジャネの著作は読んだことがないのだが(注)、どうやらフロイトの精神分析理論を自分の発見の真似であるようなことを述べているらしい。本書の脚注に引用があったが、確かにかなり手厳しい。

 それに答えてか、フロイトもジャネのことを批判している。「認識不足をさらけ出したばかりか、論法が見苦しかった」とか「ついに化けの皮が剥がれたわけで、彼の研究自体が値打ちを失った」など、非常に辛辣な言葉を使っている。
 まあ、こういう歴史上の論争というものも、今から見ると面白いが、当事者はやはりそうとうカッカときてたんだろうね。

注:ジャネのことは近年日本でも見直されているらしい。邦訳で読めるものに「症例マドレーヌ」がある。私は未読だが。
2007-10-26 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月25日(木)
ヨーゼフ・ブロイアー
 ヨーゼフ・ブロイアーとの関係については、かなりのページをさいて述べられている。アンナ・Oの症例をフロイトに話し聞かせ、それが共著の「ヒステリー研究」のきっかけとなったエピソードは有名だ。この本はまだ純粋に精神分析の著作とはいえないが、その先駆けとなるものである。以降の分析的著作はすべてフロイト単独の筆になるから、こういった形での共著は唯一のものになった。

 ブロイアーの方は、以後同様のテーマを追求することもなく、フロイトの方向性についていけなかったようである。仕事の面でも個人的な友情の面でも、二人は袂を分かつことになる。

 「ヒステリー研究」については、「同書が提出している理論のどこまでが私の働きによるものだったのか、いまとなっては見分けることがむずかしい(18-80)」と述べている。実際これは、二人の思考のコラボレーションが成し遂げたものだったのだろう。それを踏み台にして、フロイトは精神分析の世界に高く飛び立っていったが、ブロイアーはそうではなかった。 
2007-10-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月24日(水)
ユダヤ・パワー
 ユダヤ系出身で優れた学問的業績を残した人は多い。フロイトはその筆頭に数えられる名前のひとつであろう。
 ユダヤ人が多くの分野ですばらしい才能を発揮しているのはなぜか。この問題は今日でもたびたび議論されるところだ。ひとつには、差別をばねにして跳ね返すパワーとでもいうようなものを、彼らは伝統的にはぐくんでいるのかもしれない。

 本著作でも、最初から自らのユダヤ人という出自を明言し、それゆえに学問の世界では不遇の扱いをうけたことを述べている。

つまり私は、野党的な立場にたち「安定多数派」からは追放されるという運命に、あまりにも早く親しんでしまったのだ。(18-67)

 もっとも、フロイト自身によるこういった捉え方は、実際よりも大げさなものであったという指摘もなされている。例えば、男性のヒステリー症例の学会発表が否定的に評価され、その結果「私は野党的な立場に押し込められた(18-74)」というくだりがある。注釈によると、当時男性のヒステリー症例の報告や議論はすでになされており、フロイトの発表が注目されなかったのは単に新たな発見がなかったからというのが事実であったとのことだ。

 そういう被害的な傾向はあったにせよ、それをエネルギーにして大きなことを成し遂げるというところはやはりすごいことだ。
2007-10-24 00:00 | 記事へ | コメント(2) |
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2007年10月23日(火)
ありあまる才能
 パリから戻ったフロイトは、ヒステリーに大層興味を持って臨床的研究にいそしんだが、一方ではまだそれ以外の神経学の仕事も続けていた。
 小児脳性麻痺、コカインの麻酔作用、失語症の研究など、多彩な方面での業績を残している。それぞれになかなかのものであったようだ。しかし、1891年頃にはそういった仕事にけりをつけて、神経症の診療と研究に専念することになる。

 フロイト全集は独語版でも英語版でも、基本的には精神分析に関する著作のみを扱っている。精神分析以前の神経学の論文は収録されていない。フロイトは、後になってからも一般医学論文への評論など精神分析に関係ない文章を時々書いていたようだが、そういったものも全集には含まれていない。
 今回の邦訳全集では、失語症の論文は精神分析理論との関連も大きいと判断されたためか第一巻に収録されることになった。画期的なことである。
 それ以外の論文も、全集とは別の形で是非とも翻訳出版していただきたいと、フロイトファンとしては思う。
2007-10-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月22日(月)
シャルコー
 千八百八十五年に、フロイトはパリのサンペトリエール病院に留学した。そこで学んだ師が、有名な神経内科医シャルコーである。

 シャルコーが偉かったのは、優秀な神経内科医であったというだけでなく、ヒステリーを病気として扱ったという点にある。これは、現在から見ると画期的なことであるが当時としては異論や反発も多かったようだ。ヒステリーは、神経疾患のように麻痺やけいれんなどの症状をきたすが、器質的な病変をともなわず、神経徴候が解剖学や生理学の法則に合致しない。だから、ヒステリーはにせの病気のように考えられがちだったのだ。

 そのシャルコーのヒステリー研究にフロイトは大きく影響を受けた。精神分析という学問への方向性のひとつが、ここで定められたといってもよいだろう。
2007-10-22 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月21日(日)
生物学者としての出自
 ウィーン大学医学部でのフロイトの最初の研究活動は、エルンスト・ブリュッケの生理学研究室でのヤツメウナギの脊髄についてのものだった。続いて脳解剖学研究室では、人間の延髄についての研究にはげんだ。

 脳解剖学に飽き足らなかったフロイトは、神経疾患の臨床に乗り出し、症例研究を積み重ねていく。「しだいにこの分野に通じるようになり、病理解剖学の専門家も付け加えることがないほど正確に、延髄内の病巣を特定できるようになった(18-69)」という。

 これはすごいことだ。延髄というのは脳幹の最下部にあって、様々な神経節や神経路が交錯するところである。解剖学の図譜を見るだけでめまいがしてくる程ややこしい。延髄に病巣を持つ神経疾患では、傷害される部位によって多彩なパターンの運動や感覚の麻痺がおこってくる。若きフロイトが神経徴候の診察から推定した病巣部位は、それが死後の病理解剖所見とぴったり合致していたというのだ。

 これだけで優秀な神経内科医として充分食っていけそうなところだが、彼がそのようにはおさまらなかったことは周知のとおりである。そして、そのおかげで我々はフロイト全集を読むことができるわけだ。
2007-10-21 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月20日(土)
「みずからを語る」を読む
 本書は1925年に出版されたフロイトの自伝的な作品である。自らの生涯を振り返りつつ、治療技法としての精神分析の進展とそこから導き出された理論の発展を概説している。

 フロイトをこれから学びたいという人へのアドバイス。いろいろな解説書の類があるが、やはり本人の書いた著作を読むのがよい。そしてこの「みずからを語る」から始めるのがお勧めである。

 他にもフロイト自身の著した一般向けの解説はいろいろある。有名なのは「精神分析入門講義」で、これもすばらしいのだがちょっと長い。途中で挫折しそうである。

 本書のよいところは、重要な著作名を挙げながら内容の解説やコメントをしていることだ。これで全体を把握した後で、興味をもった著作に進むことができる。というか、私もかつてはそうしていた。
2007-10-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月19日(金)
自我とエス(DB)
1923
Das Ich und das Es (GW13-235)
The ego and id (SE19-1)
自我とエス(全集18-1 道籏泰三訳 2007)
自我とエス(著作6-236 小此木啓吾訳 1970)
自我とエス(ちくま自我論集 中山元訳 1996)

キーワード:自我、エス、超自我、心的装置、同一化、意識的、前意識的、無意識的、生の欲動、死の欲動、両価性、昇華、罪責感、表エディプスコンプレクス、裏エディプスコンプレクス、不安

要約:心的装置は、自我、エス、超自我の3つの審級からなる。エスは、生の欲動および死の欲動の源である。自我はエスから外界への対応のために分化し、対象との同一化によってその性格を決定づけられる。超自我は、両親への最初の同一化を核として、エディプスコンプレクスの解消によって強化される。自我は、外界、エス、超自我に対して依存的である。

関連論文:「ナルシシズムの導入にむけて」、「喪とメランコリー」、「快原理の彼岸」、「集団心理学と自我分析」

記事「自我とエス」を読む
「T意識と無意識」を読む
 略形の意図はいかに
「U 自我とエス」を読む
 意識は外側に
 言葉によって引き出せ
 外部から来たかのように
 知覚と感覚
 エス登場
 二番目の図
 勝ち馬に乗る
 境界としての身体
「V 自我と超自我(自我理想)」を読む
 多重人格
 昇華への道筋
 超自我登場
 表エディプスコンプレクスと裏エディプスコンプレクス
 内なる他者
 どちらの味方か
 超自我の由来
「W 二種類の欲動」を読む
 遷移可能なエネルギー
「X 自我の依存性」を読む
 非道徳性と道徳性
 罪責感から犯す罪
 自殺に対する免疫
 政治に譬えると
 三種の不安
2007-10-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| データベース |
2007年10月18日(木)
三種の不安
 自我は、現実、エス、超自我の三者に対峙している。自我にとって、これらの三者はいずれも脅威になりえるのであって、その時自我は、「こりゃ大変だ」とばかりに逃げ出したいような気持ちになる。これが不安の正体である。

 どこから来る脅威かということによって、不安には三種類ある。現実からくる対象不安(現実不安)、エスからくる神経症的なリビード不安、そして超自我からくる去勢不安である。
 死の不安は、去勢不安のバリエーションであって、自我が超自我に憎まれ責められた結果である。

 不安の問題については、後の論文「制止、症状、不安(1926)」で大きく修正されることになる。しかし、よく見ると「自我とエス」のこの部分にも、すでに「出産外傷」を暗示するようなことが一言書かれているのであった。
2007-10-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月17日(水)
政治に譬えると
 本論文では、自我の主体性がいかにみせかけのものであるかということが繰り返し述べられている。エスとの関係については、先に紹介したように暴れ馬を繰る御者の譬えがあったが、同様のことを今度は立憲君主にもなぞらえている。つまり、立憲君主は名目上の主権をにぎっているが、実際上は議会が決定したことをそのまま認めることしかできないと。

 さらに少し先では、自我がエスと超自我と現実との間に挟まれて二枚舌三枚舌を使うところを、日和見主義者の政治家に似ているとしている。

 なかなかおもしろい譬えである。と同時に、フロイトの政治への見方をもあらわしているようでそれも興味深い。
2007-10-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月16日(火)
自殺に対する免疫
 強迫神経症とメランコリーの相違の話。
 強迫神経症では、メランコリーと同様に、自我が超自我に激しく責めたてられる。しかし、そのために自殺におよんでしまう危険は、メランコリーよりも少ないのだという。

 その理由のところはわかりにくいが、ひとつには「対象がそれとしてきちんと保持されている(18-55)」からであるという。
 対象の力は偉大だ。もっとも、強迫神経症においては対象がやさしく救いの手をさしのべてくれるというよりは、対象に攻撃性が向かうことによって、超自我から自我に向かう攻撃性がいくぶんそらされるということなのかもしれない。

 また、先に述べたように、強迫神経症者の自我は責めたてる超自我に対して不満を感じ、完全には従属しないというところとも関係するのであろう。
 強迫観念や強迫行為といった防衛手段も、自我が最低限自らの存在だけは守りきろうとして導入されると考えると合点がいく。
2007-10-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月15日(月)
罪責感から犯す罪
多くの犯罪者、とりわけ若年の犯罪者の場合には、強い罪責感の存在が立証されており、しかもその罪責感は、犯行がなされる前にすでに存在していたものであって、犯行の結果ではなくて、その動機となっている。(18-53)

 普通に考えると、犯罪を犯す人というのは罪の意識が通常よりも少ないのではないかと思われる。しかし、無意識までを考えると、強い罪責感ゆえに犯罪にいたる事例があるというのだ。

 犯罪心理学のことはよく知らないので、実際のところがどうかはよくわからない。ただ、卑近なところからの連想では、昔の大映系のドラマなんかで、非行少女が「叱って欲しかったからこんなことをしたのよ!」と叫ぶといった場面があったような。
 この場合の心理としては、気を引くような行動によって対象のかかわりを求めるといった意図もあるのだろう。しかし、行動に先立つ罪責感というものも大きな要因になっていそうだ。
 ただ、実際にそんなことを言う少女がいるかどうか。いたとしたら、自分のことを相当深く洞察している子ということになるだろうな。

 犯罪の結果として罪責感が生じるという通常の因果律は、無意識の世界では必ずしも成り立たないのだろう。逆に、強い罪責感に見合うような実績が後から作られる。そういう行動を自我が迫られるということがありえるのだと。まあ、なんとなくわかる気もするな。
2007-10-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月14日(日)
非道徳性と道徳性
 自我、エス、超自我の中では、エスは完全に無意識的であるが、超自我も大部分無意識的である。したがって、無意識の中には、衝動的なものと道徳的なものが同居していることになる。「ノーマルな人間は自分が思っているよりもずっと非道徳的であるばかりでなく、自分が自覚している以上にずっと道徳的でもある(18-53)」ということだ。

 先の記事で述べた、「超自我とエスは意外に近いところにある」ということも、このあたりの事情と関係する。さらには、超自我の内容に備給エネルギーを提供しているのは、エスの内部の源泉なのだというのだから。

 内容的には正反対のものが同居し、同じ源泉からエネルギーの供給を受けているというのも、無意識においては別に珍しくもないことなのかもしれない。それに比べて自我は、現実に対峙しているという性質から、中庸で妥当で辻褄が合ったものでなくてはならないのだろう。
2007-10-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月13日(土)
「X 自我の依存性」を読む
 超自我と自我の関係から、精神分析の臨床における負の治療反応(注)の話題になる。通常症状の改善をもたらすはずの治療における進展が、却って症状悪化を招いてしまうような反応のことである。
 負の治療反応は治療に対する抵抗の一種であり、その原因は患者に内在する無意識的罪責感にあるという。

 超自我に起源をもつ無意識的罪責感は、多くの神経症に認められる。そればかりでなく、超自我の自我に対する振る舞い方が、神経症のタイプを決定づけているともいえる。

 強迫神経症においては、自我は超自我から強く罪を責められるが、自我はそのことにある種の不満を感じ、抵抗しようとする。
 メランコリーの場合には、超自我に強く責められた自我は、自分の罪をすっかり認めてしまって罰に服してしまう。
 ヒステリーでは、自我は超自我の批判を招きそうな素材を抑圧によって遠ざけてしまう。つまり罪責感が生じるもう一歩手前のところで防衛がおこっている。

注:negative therapeutische Reaktion, 以前は「陰性治療反応」とも訳された。
2007-10-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月12日(金)
遷移可能なエネルギー
 生の欲動と死の欲動の理論には未確定で曖昧なところがあることをフロイトは認めているが、それでもともかく二元論であるということは固持している。
 ところが、欲動理論としては二元論であるものが、エネルギー論になると一元論になってしまうという奇妙な点がある。

 欲動は有機体におけるある種の衝迫であり、リビードは量である。力学に例えると、欲動が力でリビードはエネルギーということになろう。リビードは性欲動に対応する量なのであるが、では死の欲動に対応する量というものがあるのか。
 フロイトはそういったものを明示していない。
 さらに、本論文では「遷移可能なエネルギー」といったものを仮定し、それが「エロースの蠢きであれ破壊欲動の蠢きであれ、質的に異なったその双方どちらに付加されても、それぞれがもつ備給の総量を増大させることができる(18-42)」としている。

 遷移可能なエネルギーは、「脱性化されたリビード」あるいは「昇華されたリビード」とも言い換えられる。この「脱性化」という過程は、対象リビードの自我リビードへの転換において、すなわち自我の対象への同一化による二次ナルシシズムの成立においてなされるという。
2007-10-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月11日(木)
「W 二種類の欲動」を読む
 「快原理の彼岸」で導入された、生の欲動と死の欲動の二元論が提示される。それぞれの欲動は純粋な形でみられることはなく、「生命基質のどの部分にもすべて、この二種類の欲動が二つながらに働いている(22-38)」のだという。
 さらに、欲動の混合と分離の話。それにからめて、両価性(アンビヴァレンツ)という、これもフロイトが好んでとりあげてきたた問題にいきつく。

神経症を引き起こしやすい素質の人に非常にしばしば強く見られるあのいつもの両価性(アンビヴァレンツ)なるものも分離の結果として解釈していいのではないか、という問いもここに生じてくるが、しかし、この両価性はきわめて根源的なものであるため、これはむしろ、欲動混合が完全になされなかったために生じたものとみなされねばならないだろう。(18-39)

 両価性もまた、人間の感情の根源的で不思議な性質のひとつである。簡単にいえば、愛のあるところに憎しみがあり、憎しみのあるところに愛があるということだ。対極にあるかのようにみえる二つの感情が実は同じ根っこから出てきている。そのことは、日常的なさなざなま場面でも実感されることであろう。
 愛と憎しみは、生の欲動と死の欲動と一対一に対応するわけではない。しかし、欲動の混合と分離ということを考える上で重要なヒントになりそうだ。
2007-10-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月10日(水)
超自我の由来
 フロイトが遺伝ということを重視していたことは、意外に知られていない。彼が幼少期の体験を重視したということは、「氏か育ちか」という問いに対して「育ち」を重視したとみなされがちである。
 しかし、彼がもし環境要因そのものを重視したのであれば、個人のもつコンプレクスはそれぞれが体験した多様な幼少期を反映しているはずであるから、エディプスコンプレクスのような普遍的なパターンはでてこなかったであろう。彼が幼少期の体験を重視しつつ、その背後にある「太古の遺産」といったものを捉えていたからこそ、エディプスコンプレクスの理論は定式化された。

 心的装置の理論においても、その系統発生的由来というものが繰り返し問われている。このような進化的な側面からの問題意識をフロイトはつねにもっていた。

すなわち、その昔、父コンプレクスをもとにして宗教と倫理を獲得することになったのは、原始人の自我にあたるのかエスにあたるのかどちらなのか。(18-35)

 フロイト自身難問だとして、迷いつつ暫定的な答えをしている。自然淘汰の理論と「集団心理学と自我分析(1922)」での議論を取り入れて、私なりに解釈すると次のようなことになろう。

 エスは遺伝によって個人にもたらされたものである。自我は、その個人が直面する現実に対応するにためにエスから派生したものである。自我の体験は直接には遺伝しないが、おなじような体験が多数の個体で繰り返されることによってエスを変えていくことができる。逆に言えば、エスの進化は自我のふるまいを通して淘汰されことによってのみおこる。
 エスはその内に、そこから自我を派生させるための雛形を含んでいる。首領(原父)を中心に群族で暮らしていた原始人類においては、二種類の自我がありえた。首領の自我とその他大勢の自我と。それらの自我は、同じようなエスから派生してくるのであり、すなわちエスは大きく二種類の自我の雛形を含んでいた。「原父の殺害」という歴史的事件(といってもただ一回の出来事ではない)から以後、現実の首領は出現しなくなった。首領の自我の雛形は現実の人物として体現されることはなくなり、かわりにそれぞれの個人の中でひとつの超自我となった。 
2007-10-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月09日(火)
どちらの味方か
 自我とエスと超自我、この三者の関係はどうもわかりにくい。超自我というのは、自我にとっての理想であり、自我に対して「こうすべし」とか「してはならぬ」と上から命令してくるものである。一方でエスは、自我に対して「あれを欲する」と下から欲望を突き上げてくる。だから単純に考えると、三者は上から超自我、自我、エスの順に並んでおり、超自我とエスがもっとも遠い関係にありそうに思える。
 しかし、フロイトの記述によれば必ずしもそうではないようなのだ。むしろ、超自我とエスとは意外に近いところにあるようである。

自我は、自我理想を打ち立てることによって、エディプスコンプレクスを制圧すると同時に、自らをエスに従わせることになったわけである。自我が本質的に外界ないし現実の代理形成だとすれば、それに対して、超自我は、内界ないしエスの代弁者として、自我に対峙している。(18-33)

 譬えていえばこんなことになる。ウルトラマンでもかなわない強大な怪獣が現れた。ウルトラの父が登場し、その力を借りてようやく怪獣を制圧した。しかし、そのためにウルトラマンは怪獣に従属することになってしまった。実は、ウルトラの父は怪獣の味方だったのだ。
 そんなばかな話があるのだろうか。よくわからないが、しかしなんとなくありそうな気もする。

 うまい話には意外な落とし穴があることが多い。誰かの助けを借りれば、必ず自らの独立性は減じてしまう。助けてくれた人が実は敵と近しい存在だったということも、ありがちなことだ。近しい仲だから制圧できたのかもしれないし、最初から共謀していたのかもしれない。
2007-10-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月08日(月)
内なる他者
 超自我における同一化が自我における同一化と異なる最大の点は、それが禁止の命令を含んでいるということである。

超自我の自我に対する関係は、そのように(父のように)あるべし、という促しに尽きるものではなく、そのように(父のように)あってはならぬ、すなわち、父のすることを何でもしてよいわけではない、という禁止も含んでおり、多くのことを、父親だけの特権として留保しているわけである。(18-31)

 同一化は「なりきること」と考えると理解しやすい。自我の同一化については特にそうである。しかし、超自我における同一化はそれだけではない。なりきりつつ、禁止もするという。そういう意味で、超自我は内にある他者のような存在である。しかし、まったくの他者でもなく、というのは内にあるわけだらから当然かもしれないが、その禁止に従うことは、自我にとってもある種のナルシス的な満足感をもたらすのだ。
2007-10-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月07日(日)
表エディプスコンプレクスと裏エディプスコンプレクス
 男の子のエディプスコンプレクスが解消されるにあたって、母親への性的欲望は断念されねばならない。その際に、父親への同一化によって超自我が強化される。ここのところ、断念した対象と同一化して自我の性格が変容する場合とは異なっている。

 実はエディプスコンプレクスには、表と裏の二種類がある(注)。その前提として、子供は男の子でも女の子でも、両方の性の特徴をもっているということがある。
 この両性性ということは、フロイトが性別について問題にする際に必ずといってよいほど持ち出すキーワードである。

 男の子であれば、表エディプスコンプレクスは、通常どおりの、母を愛して父を邪魔者と思うというもの。そして、裏エディプスコンプレクスは、女性のような態度で父を愛して母に嫉妬すること。表と裏の両方が同時に進行していくのが、完全なエディプスコンプレクスである。
 そして、両者が解消される時、父−同一化と母−同一化が出現する。それらがひとつに合体して、自我の中に超自我を作り出すというのだ。

注)以前は陽性と陰性などと訳されていた。原語は"positive"と"negative"。
2007-10-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月06日(土)
超自我登場
 いよいよ超自我の登場だ。どうやって登場するかというと、同一化によってである。じゃあ、自我とどう違うんだ、ということになる。ここのところは、ちょっと、というかだいぶややこしい。

 超自我の核は、最早期における父親あるいは両親との同一化によってつくられる。この同一化は、対象備給を断念する結果ではなく、直接的なものであるという。これを一次同一化という。
 さらに、エディプスコンプレクスが解消されるにあたって、超自我は父への同一化によって強化される。ここでちょっと不思議なのは、男の子の場合であれば断念される対象は母親なのに、超自我は父に同一化されるということだ。

 超自我はむずかしい。同じ同一化でも、自我の同一化はしっくりと理解できるのだが、超自我の場合にはどうもぴんときにくいのだ。
2007-10-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月05日(金)
昇華への道筋
 同一化とは、対象に向けられていたリビード(対象リビード)が、自我にもう一度戻ってきて(ナルシス的リビード)、二次ナルシシズムが形成される過程である。これが、自我がその性格を豊かにしていくのにとても大事なことなのだ。

 さて、ここでフロイトは本筋とは少し離れるが、重要なことを述べている。上記のリビード転化には、「性目標の断念ないしは脱性化、つまり一種の昇華(18-25)」がともなうというのだ。しかも、このような過程が、昇華がなされる際の一般的な道筋ではないかという仮説をたてている。

 昇華というのは、性欲を別の行動への欲求に転化させることである。スポーツとか、芸術活動とか、あるいは仕事に没頭するといったことが昇華の例といえよう。
 この昇華がおこるためには、対象リビードがナルシス的リビードに転化するという過程が必ずともなうというのだ。たしかに、そうかもしれない。昇華された活動の追求ということは、対象をひたすら求めるというよりは、「こういうことをしている俺ってすごい」みたいなナルシシズムの要素を含んでいる。
2007-10-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月04日(木)
多重人格
 自我はさまざまな対象との同一化によってその性格を形作っていく。それはさながら、いろいろな端切れで作るパッチワークのようなものであろう。どのような過程によって、それが自分らしい作品に仕上がるのかという点が興味深い。
 ことがいつもうまくいくとは限らないわけで、フロイトは矛盾しあう同一化の折り合いがつかずに病的な結末になるケースのことを指摘している。

それぞれの同一化が、抵抗によってはばまれて相互に受けつけなくなると、自我は分裂状態に陥りかねないし、もしかしたら、いわゆる多重人格という症例の秘密も、それぞれの同一化が、入れ代わり立ち代わり意識を占領してしまうところにあるのかもしれない。(18-26)

 多重人格というと、数年前から随分ブームのようになって、小説やらドラマやらでしきりに取り上げられている。フロイト自身が本格的な多重人格のケースを治療したという話は聞いたことがないが、興味をもっていたことは、こういった言及でわかる。
2007-10-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月03日(水)
「V 自我と超自我(自我理想)」を読む
 いよいよクライマックスにさしかかってくる。「自我とエス」という論文は心的装置の3つの審級について述べたものだが、なぜか題名に入っていない超自我についての叙述が、実は一番新しくて重要なところなのではないかと思う。

 まずは、対象を断念するにあたって同一化という過程によって自我に変容がもたらされるという重要な指摘。

自我は、対象の特徴を身にまとうと、いわば、エスに対しても自らを愛の対象として押しつけ、エスの損失を埋め合わせようとして、こう言うのである。「どう、私を愛してもいいのよ、私、対象(あのひと)にそくりでしょう」と。(18-25)

 ここのフレーズは以前から好きなところだったが、今回の翻訳で女性の口調になっているのでびっくりした。その前の段落に、「豊富に恋愛経験を積んできた女性の場合には、概して、その性格特徴のうちに対象備給のさまざまな残留物が容易に見出せるようである。」という文があり、それとの兼ね合いなのか。しかし、引用部分は男女に関係なく一般的な過程を表現しているのだと思う。本論文の翻訳は全体にくだけた日本語だが、「対象」に「あのひと」とルビをふったりするあたりは少々やりすぎなのではとも感じた。

 ともかく、エスに愛されようと自我が同一化によってさまざまな性格を身につけていくというのは、実におもしろい洞察だ。
2007-10-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月02日(火)
境界としての身体
自我とはとりわけ、身体的自我なのであって、たんに表面に位置するものであるだけでなく、それ自体が表面の投射ともなっている。(18-21)

 「自我とは身体的自我である」というフロイトの言明は、どうもわかったようでわからないところがある。以下のような理解でよいのか、あまり自信がない。

 人間は身体を、とりわけ外界との境界であるその表面によって強く意識する。つまり自分の身体が、ある体積と形と方向を持って、三次元的に広がる空間のある部分を占めていることを実感する。その表面によって内と外が区切られることを知る。
 このように形としての己をイメージすることによって、その中身である精神的なものも含め、他とはっきり区別され、ひとつのまとまりをなす自らを表象することができるようになるのである。
2007-10-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月01日(月)
勝ち馬に乗る
エスとの関係でいえば、自我は、馬の圧倒的な力を制御しなければならない騎手にでも譬えられるが、ただし、騎手ならば自力でもってこれをなそうとするのに対して、自我はよそから借りてきた力でもってこれをなそうとする点が異なっている。この比喩はもう一歩進ませることができる。つまり、騎手は、馬と離れたくなければ、往々にして、馬の行こうとするところへ馬を導いてゆくほかないが、それと同じで、自我もまた通常は、あたかも自分の意志であるかのようにしてエスの意志を行動に移しているということである。(18-20)

 自我とエスの関係についての、騎手と馬の比喩。
 フロイトは比喩の名人であり、このブログでもすでにいくつか紹介してきたが、その中でもこれは特にすばらしい。ベストテンに入ることは間違いないだろう。(いずれそういうベストテンをしてみたいものだ。)

 難解な論文だが、こういうところは実にしっくりとわかる。そして、なにか人生を生きるうえでの教訓のようにも読むことができる。

 われわれは、自分が暴れ馬に乗せられていることに気づかず、行ける所に行けると錯覚してしまいがちである。そして、馬の意向を無視して強引に目的地をめざそうし、ひどい目に会う。
 自分の馬がなにをやりたいかということに注意を払い、ある程度それに身をゆだねるようにしながらうまく操っていくことができれば、人生の難局も案外うまく乗り切ることができるのかもしれない。あるいはうまく乗り切れなくても、それは馬が望んだことだからと、素直にあきらめることができるかもしれない。
2007-10-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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