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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年11月30日(金)
「ルイス・ロペス=バイェステロス・イ・デ・トッレス宛書簡」を読む
 フロイトの著作のスペイン語翻訳者に送られた書簡。後にスペイン語版フロイト著作集に掲載された。独語の原文はなく、フロイト自身によってスペイン語で書かれたものかもしれないとのこと。

 フロイトは『ドン・キホーテ』を原文で読みたいあまりに、「若気の至り」で独学でスペイン語を勉強したという。すごい。
 彼はドイツ語以外に少なくとも英語とフランス語はかなり堪能だったようだし、そのうえスペイン語もできたということか。「十七世紀のある悪魔神経症」では、ラテン語の資料も読んでいたようだ。ユダヤ人ということだから、ヘブライ語もできたのかな。当時の欧米の知識人における語学力の標準がどんなだったかは知らないが、かなりできる方であったことは間違いないだろう。

 自分の著作がいろいろな言語に翻訳されるのを見るのは、さぞかし愉快なことだっただろうね。フロイトの存命中に著作の日本語訳もすでになされていたから、彼の手元にも届いていたことだろう。さすがに日本語はわからなかっただろうけれど。

 私はもう若気の至りというわけにはいかないが、いつか原文でフロイトを読むようになりたいものだ。
2007-11-30 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月29日(木)
精神分析梗概(DB)
1924[1923]
Kurzer Abriß der Psychoanalyse (GW13-403)
A short acout of psycho-analysis (SE19-189)
精神分析梗概(全集18-245 本間直樹訳 2007)
精神分析要約(著作11-134 吾郷晋浩訳 1984)

キーワード:二十世紀、精神分析、深層心理学

要約:精神分析の発展の概要と、今後数十年の文化発展への寄与。

関連論文:「夢解解釈」、「ヒステリー研究」、「日常生活の精神分析にむけて」、「原始語のもつ逆の意味について」

記事「精神分析梗概」を読む
2007-11-29 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月28日(水)
「精神分析梗概」を読む
 初出は英国で出版されたエンサイクロペディア・ブリタニカ社の『激動の年月――開拓者たちが語る二十世紀のはじまり』という本に「心の秘奥を探る精神分析」という題で寄稿された文章。

 すでに、全集第18巻では「みずからを語る」と「「精神分析」と「リビード理論」」という似たような趣旨の文章を読んだ。それぞれの文章は、重なり合う内容を扱いながらも、想定された読者に合わせて重点を少しかえている。
 この文章では、精神分析が発展してきた道のりと今後の寄与ということに重点がおかれているようだ。とくに「今後」については、文化論・芸術論といった精神分析の応用分野の発展についての期待が述べられている。この後に書かれる「ある錯覚の未来」や「文化の中の居心地悪さ」などの構想が、すでにフロイトの頭にはあったのかもしれない。
2007-11-28 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月27日(火)
神経症と精神病(DB)
1924[1923]
Neurose und Psychose (GW13-385)
Neurosis and psychosis (SE14-147)
神経症と精神病(全集18-239 吉田耕太郎訳 2007)

キーワード:転移神経症、精神病、アメンチア、統合失調症、ナルシス的神経症、メランコリー、自我、超自我、エス、抑圧、否認

要約:転移神経症は自我とエスの葛藤から、ナルシス的神経症は自我と超自我の葛藤から、そして精神病は自我と外界の葛藤から生じる。

関連論文:「自我とエス」、「神経症および精神病における現実喪失」

記事「神経症と精神病」を読む
2007-11-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月26日(月)
「神経症と精神病」を読む
 論文「自我とエス」で導入した心的装置の3つの区分を、精神疾患の大きな分類の病理理解に結びつけようとした仮説。

転移神経症は自我とエスとの間の葛藤に対応している。そしてナルシス的神経症は自我と超自我との間の葛藤に対応し、精神病は自我と外界の間の葛藤に対応している。(22-242)

 転移神経症は精神分析によってもっともよく研究されてきた疾患である。自我とエスの葛藤は、抑圧に続く妥協としての症状形成をもたらす。
 ナルシス的神経症の代表はメランコリーであり、超自我に責め立てられた自我がうなだれて生きる意欲も失ってしまう。
 精神病では、受け入れがたい外界の現実は否認され、エスの要求に合うよう幻覚や妄想によって作りかえられる。
 そして病気ではない正常状態では、さまざまな葛藤はいろいろな防衛手段や自我の一貫性のない振舞いによってなんとかもちこたえられる。

 単純でわかりやすい図式であり、これをもとにいろいろな考察ができそうだ。
 外界の現実は、どんな疾患であれ正常状態であれ、多少とも歪んでとらえれている。精神病においてはその歪みが、他者から容認されない一線を越えてしまう。そうなるための要因はなにか。
 単なる量的な問題なのかもしれないし、そのように定義したからそうなるので、「なぜ」という問い自体無意味なのかもしれない。
 しかしそれでも、この件に関してどうも「なぜ」と問いたくなる。それはおそらく、主体によって外界が変容されることが異様に思える程に、われわれは自分の現実認知を、実はたいした根拠なしに、信頼しているからなのだろう。
2007-11-26 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月25日(日)
幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)(DB)
1923
Die infantile Genitalorganisation (Eine Einschaltung in die Sexualtheorie) (GW13-291)
The infantile genital organization (an interpolation into the theory of sexuality) (SE19-139)
幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)(全集18-233 本間直樹訳 2007)
幼児期の性器体制(性欲論への補遺)(著作11-98 吾郷晋浩訳 1984)
幼児期の性器体制(性理論への補遺)(エロス論集 中山元訳 1997)

キーワード:幼児の性的探求、対象選択、幼児期の性器的編成、ファルス優位

要約:幼児期の性器的編成は性器優位でなくファルス優位である。思春期において性の両極性が男性・女性の対立と一致し、性器優位の編成が完成する。

関連論文:「性理論のための三篇」

記事「幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)」を読む
2007-11-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月24日(土)
「幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)」を読む
 「性理論のための三篇」(1905)は、「夢解釈」と同様に後年の追加を繰り返しつつ発展していった著作である。この文書は第五版(1922)と第六版(1925)の間に独立して発表されたが、内容的には「性理論」を補足するものである。

 幼児期の性的体制は、口唇期からはじまり肛門期を経てファルス期に至る。ここで潜伏期によって中断され、そして思春期になって性器期として完成する。

 このファルス期と性器期の違いというのはよくわからなかったが、要するにファルス期ではまだ女性器が発見されていないということがポイントのようだ。男の子にとっても女の子にとっても、大切なのはファルス(女の子ではクリトリス)。思春期になってはじめて、女性器である膣が発見され男性器との関連において理解されるのだ。

そのとき膣は、ペニスの宿として評価され、母胎の遺産を相続するのである。(18-238)

 逆に言うと、ファルス優位の段階では、まだペニスは性器としてはみなされていないということか。であれば、その段階で発生する去勢コンプレクスとはいかなる意味を持つのであろうか。
 大人にとっての去勢とは性交不能を意味するわけだが、幼児にとっては自己愛のよりどころになる大事なものを奪われるということなのだろうか。
2007-11-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月23日(金)
十七世紀のある悪魔神経症(DB)
1923[1922]
Eine Teufelsneurose im siebzehnten Jahrhundert (GW13-315)
A seventennth-centry demonological neurosis (SE19-67)
十七世紀のある悪魔神経症(全集18-191 吉田耕太郎訳 2007)
十七世紀のある悪魔神経症(著作11-102 池田紘一訳 1984)

キーワード:父の代替者としての悪魔、女性的な態度、去勢への快、男性的抗議、生活の困窮

要約:十七世紀に書かれた歴史的文書の解釈。画家ハイツマンの悪魔神経症は、生活の困窮から父への思慕、その代替者としての悪魔との契約、父への女性的態度といった面から解釈することができる。

関連論文:「自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察」

記事「十七世紀のある悪魔神経症」を読む
歴史的文書
神経症か統合失調症か
代替者としての悪魔
マリア信仰
女性的な態度
自作自演
生活の困窮
2007-11-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月22日(木)
生活の困窮
 ハイツマンの神経症の原因は、結局のところ生活の困窮だった。生活の困窮は、かつて自分をやしなっていた父への思慕をかきたて、悪魔神経症のきっかけを作った。
 二度目の神経症では、世俗的な快楽の追求と、修道士として生計を維持する道との葛藤が演じられ、最終的には後者が選ばれた。

 生活の困窮といえば、フロイトも分析医として開業してからも生活はなかなか安定しなかったようで、お金にまつわるようなエピソードをあちこちで披露している。「生活の困窮が父への思慕をかきたてる」というのは、フロイト自身にもあてはまることだったのかもしれない。
2007-11-22 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月21日(水)
自作自演
 ハイツマンが悪魔から取り戻したという二つの契約書。これらはマリアツェルの文書庫に保管されており、その文書には共に1669年という年号が記されていたという。
 ここの部分はハイツマンの訴えとはつじつまが合わない。フロイトは追及して、結局のところこの契約書がハイツマン自身によって後から作られたものであり、マリアによる救済が二度にわたったために思わずなされた書き損じから生じた矛盾であると分析している。

しかしこれでは、神経症ではなく詐欺の話ではないか。画家は仮病を使った文書偽造者であり、病人ではなかったのではないか。そのとおり。神経症と仮病の境界線が流動的なことは周知の通りである。(18-224)

 今だったら、「自作自演だろ」との声がかかりそうだ。まさしくそうなのだろうが、仮病や自作自演との違いは本人が意識せずにやっていることだ。
 本症例はいわば無意識的になされた自作自演ともいえるが、ではその目的は何なのか。
 二度目の症状再燃の意図というのはかなり明白で、一度目のマリアツェル訪問でしてもらったように、僧侶たちにやさしく対応してもらうことであったろう。そのために、「実は契約書はもう一つあった」という後からの捏造が行われ、それによって全体の辻褄が合いにくくなってしまったのであろう。
2007-11-21 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月20日(火)
女性的な態度
 悪魔との関係の解消のために、聖母マリアに救いを求めたハイツマンであった。そもそも、彼と悪魔との関係自体が女性的なものを含んでいたという。
 悪魔との契約期間の九年という数は、九ヶ月という妊娠の月数を暗示する。画家によって描かれた悪魔に四つの乳房があるのは、本人自身の女性性を投射するものであった。といった解釈である。

 ここには、シュレーバー症例以降フロイトがたびたび強調した「父に対して女性的態度をとる息子」というパターンがある。

 神経症を「男性的抗議」という観点からとらえようとしたアードラーへの批判が述べられる。去勢への不安を契機に生じる男性的抗議は、ものごとの半面をとらえているに過ぎない。「去勢への快」すなわち女性的態度を望む傾向が、もうひとつの半面にはある。
2007-11-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月19日(月)
マリア信仰
 父の代替者たる悪魔と契約をして悩んだハイツマンであったが、その解消を求めてすがったのが聖母マリアであったというのが興味深い。マリアはもちろん母の代替者である。父との関係に苦しみ、母に助けを求めるという図式はわかりやすい。

 キリスト教の特にカトリックにおけるマリア信仰というのもおもしろい。なにしろ新約聖書には、イエスの母マリアについてはほんの少ししか記述がなく、マリアを信仰の対象にするべしとも書いていない。それなのに、多くの教会にはイエスを胸に抱くマリア像といったものがある。そもそも偶像崇拝だってキリスト教では禁じられているはずなのだ。
 カトリックにおけるマリア信仰というものは、明らかに本来のキリスト教の精神からははずれているのだ。にもかかわらず、これだけ広くいきわたっているのは、やはり民衆に人気があるからだろう。父と息子の関係だけではどうしても物足りず、母性的なものを求めたくなるのは人間の本性なのであろう。
2007-11-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月18日(日)
代替者としての悪魔
 例によってここからはネタバレですので、「十七世紀のある悪魔神経症」を存分に楽しみたい方は読まない方がよいでしょう。

 ハイツマンはなぜ、悪魔と契約を結んだのか。魔術を、富を、享楽を得るためだったのか。否。悪魔から提示されたそれらの誘惑を、彼は退けている。
 では、ハイツマンは悪魔に何を求めたのか。フロイトの分析によると、彼は悪魔に父の代替者となることを求めたのであった。彼は当時、父を失ってうつ状態に陥り、仕事もできない状態にあった。そして、ついに彼は、九年間にわたって悪魔の息子になるという契約を結んでしまったのであった。

 しかし、それにしても何故に悪魔が。
 父の代替者といえば、神もまた父の代替者である。子供にとって、父は神のようでもあり、悪魔のようでもある。神と悪魔は、そのような両価的感情の両極を表している。
 父を失ってうなだれる息子を慰めてくれる存在としては、むしろ神のほうが適切ではないのかという疑問もおこる。もちろん、父を失って神への信仰を深めるといった場合もあるだろう。ハイツマンのケースでは、もしかしたら実際に父が悪魔っぽい人だったとか、彼自身が悪魔嗜好の人だったとか、個人的な要因から選ばれたということなのかもしれない。

 しかしそれだけでなく、こういう場合には悪魔の方が一般的にもしっくりする気がする。自分がそういう立場に立ったら、やはり悪魔にすがってしまいそうな。なぜだろう。遠い存在に思える神より、悪魔の方が親身になってくれそうな気がするんだな。
2007-11-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月17日(土)
神経症か統合失調症か
 フロイトが分析対象とした歴史文書については、イーダ・マカルピン博士とR・A・ハンター博士の共著で「1677年の統合失調症(Schizophrenia 1677)」という本が1956年に出版されている。こちらには、歴史文書が9枚の絵のカラー複写を含めて掲載されているらしい。また、フロイトの論文に対してはずいぶん批判的に書かれてるとのことだ。
 この本自体ももうだいぶ古いので新刊書として手に入れることはできないようだ。残念。
 フロイトに対してどのような点で批判的であったのか詳細はわからないが、題名からしてハイツマンを統合失調症とみなしていたとうかがわれ、そのあたりの診断的なことが問題になっているのだろう。
 フロイトのみたては、メランコリーの後に生じた神経症的な空想ということのようだ。

 このような歴史的事例に現代的な診断を当てはめるにあたっては、時代背景ということを充分に考慮しないといけない。たしかに、ハイツマンの悪魔と契約を結んだといった発言は、現代的な背景にもってくれば妄想ということになろう。しかし、その当時は悪魔ということが多くの人に真剣に信じられており、それに僧侶たちもつきあい、マリアによる奇跡に感動してそれを文書に残しているのである。つまり彼の言動は、当時の常識的世界観からみたら荒唐無稽とも言えないのではないか。

追記(H20.1.13)
”Schizophrenia 1677”は、米国のamazon.comのマーケットプレイスで手に入ることがわかった。現在の出品は200.15ドルとかなり高価だ。
Schizophrenia 1677: by Ida Wertheimer Macalpine (Author)
書評は下記で見ることができる。
Schizophrenia 1677
2007-11-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月16日(金)
歴史的文書
 本書でフロイトが分析の題材にしているのは、オーストリア=ハンガリー帝国記録文書館の館長ルードルフ・パイヤー=トゥルン博士が発見した巡礼地マリアツェルに由来する写本である。原本はおそらく1714年に書かれたもので、1677年におこったクリストフ・ハイツマンという画家にまつわる出来事について描写している。

 ハイツマンという男は、9年前に悪魔と結んだ契約を解消するためにマリアツェルの聖母の恩寵にすがった。その願いが奇跡によってかなえられたいきさつが、目撃した僧侶の証言とハイツマン本人の日記によって報告されている。

 宗教的な奇跡の出来事として書かれた文書を、フロイトはひとつの病歴として分析するのである。歴史的文書に記された魔的な話や憑依現象を精神疾患として捉えなおすということは、フロイトの師であったシャルコーが興味をもって取り組んでいたことでもあった。

 現在この写本は、オーストリア国立図書館に保管されているという。誰か日本語に訳して出版してくれないかなあ。
2007-11-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月15日(木)
「十七世紀のある悪魔神経症」を読む
 フロイト全集第18巻の中で、実は一番楽しみにしていたのが本論文である。

 悪魔というテーマがおもしろい。現代でも、子供向けのテレビ番組やファンタジー映画には必ずといっていいほど悪魔的な存在が登場する。悪魔というのは怖いけれど魅力的なのだ。子供のファンタジーに欠かせない要素なのかもしれない。

 もともとは宗教的な背景の中で作られたものなのだろう。新約聖書にも悪魔の話はでてくる。イエスは洗礼を受けた後、自分から悪魔の誘惑を受けるために荒れ野に行き40日の断食をする。すると、悪魔が現れて、石をパンにかえたらどうだとか、自分を拝むならすべての国々を与えようなどと言って誘惑をするのだ。(マタイによる福音書第四章)
 ここでは、内面からの誘惑を悪魔として比喩的にあらわしているのかもしれない。あるいは、断食という極限状態で幻覚があらわれたということかも。だとすれば、やはり内的な欲望の投射ということになるか。
 一神教であるキリスト教において、悪魔という存在の位置づけはどうなっているのか、ちょっとよくわからない。
2007-11-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月14日(水)
夢解釈の理論と実践についての見解(DB)
1923[1922]
Bemerkungen zur Theorie und Praxis der Traumdeutung (GW13-299)
Remarks on the theory and practice of dream-interpretation (SE19-107)
夢解釈の理論と実践についての見解(全集 三谷研爾・吉田耕太郎訳 2007)

キーワード:夢の解釈技法、解釈への抵抗圧、上からの夢と下からの夢、回復夢、両価的な夢、暗示の影響、反復強迫的な夢、外傷神経症の夢、懲罰夢、夢における自我の分裂

要約:著作「夢解釈」への補足的な文章。分析治療における夢解釈の技法。欲望成就の例外としての外傷神経症の夢。夢における自我の分裂。

関連論文:「夢解釈」

記事「夢解釈の理論と実践についての見解」を読む
2007-11-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月13日(火)
「夢解釈の理論と実践についての見解」を読む
 著作「夢解釈」の内容についての補足的な文章。「通例なら訂正ないし追加として、本文中に組み込まれるはずのものである(18-175)」とある。
 「夢解釈」は、版を重ねるうちにフロイト自身による訂正や追加が何度にもわたってなされ、原型がどうだったかわかりにくくなっているところがある。しかし、この文章はなぜか独立したものとして発表された。
 せっかくだから、翻訳も「夢解釈」の新宮一成氏にしていただきたかったものだ。

 夢解釈について、十の事柄についての文章からなる。精神分析治療の中で夢解釈を扱う際の問題点など。根本的な問題としては、「快原理の彼岸」で指摘された欲望成就の例外としての外傷神経症の夢の件がある。
 夢の中での自我の分裂について論じた十番目の文章がおもしろい。自我分裂一般ということと、超自我ということともつながってくる問題だ。
2007-11-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月12日(月)
「精神分析」と「リビード理論」(DB)
1923[1922]
"Psychoanalyse" und "Libidotheorie" (GW13-209)
Two encyclopedia articles ((A) Psycho-analysis, (B) The Libido theory ) (SE18-233)
「精神分析」と「リビード理論」(全集18-143 本間直樹訳 2007)
「精神分析」と「リビード理論」(著作11-78 高田叔訳 1984)

キーワード:精神分析、リビード理論

要約:M・マルクーゼ編「性科学事典――自然科学・文化科学的性知識の百科事典」の「精神分析」と「リビード理論」の項目のために執筆された文章。

関連論文:「精神分析梗概」

記事「「精神分析」と「リビード理論」」を読む
2007-11-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月11日(日)
「「精神分析」と「リビード理論」」を読む
 千九百二十三年に出版されたM・マルクーゼ編「性科学事典――自然科学・文化科学的性知識の百科事典」の「精神分析」と「リビード理論」の項目のために執筆された文章。

 全集では31ページ相当の分量である。収録された「性科学事典」というのが、どういう本だったのか興味深いところだが解説にもそれ以上のことは載っていない。「精神分析」と「リビード理論」について、以下のような小見出しで区切って解説している。

精神分析 精神分析 歴史 カタルシス 精神分析への移行 催眠の放棄 自由連想 「技法の根本規則」 解釈術としての精神分析 失策行為と偶然行為の解釈 夢の解釈 夢形成の力動理論 象徴表現 性生活の病因論的意義 幼児期の性 リビードの発達 対象発見とエディプスコンプレクス 性的発達の二節的起動 抑圧説 転移 精神分析理論の基本柱 精神分析のさらなる運命 精神分析の新しい歩み ナルシシズム 技法の転換 治療方法としての精神分析 精神分析と催眠療法・暗示法との比較 精神分析の精神医学への関係 精神分析に対する批判と誤解 医学外の分野への精神分析の応用と関連 経験科学としての精神分析の性格

リビード理論 リビード 性欲動と自我欲動の対立 原リビード 昇華 ナルシシズム ユングの見解への外見上の接近 群棲欲動 目標制止された性的追及 心の生活における二種類の欲動の承認 欲動の本性

 コンパクトな中に、1922年までの(ということは「自我とエス」の局所論はまだだが)精神分析学について要領よくまとめられている。こういった文章も丁寧に作られているところが、いかにもフロイトらしい。事典という性質上、これではじめて分析理論の概要に触れるという人も多いだろうから、きちんと理解してもらえるようにということだろう。
2007-11-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月10日(土)
『みずからを語る』その後――1935年(DB)
1935
Nachschrift 1935 zur "Selbstdarstellung " (GW16-31)
Postscript (SE20-71)
『みずからを語る』その後――1935年(全集18-137 家高洋訳 2007)

キーワード:文化的な問題、ゲーテ賞

要約:「みずからを語る」の後の10年について。フロイト自身の興味は人類文化の問題に向けられた。治療として学問としての精神分析は、今後も発展していくであろう。

関連論文:「みずからを語る」、「素人分析の問題」、「制止、症状、不安」、「ある錯覚の未来」、「文化の中の居心地悪さ」

記事「『みずからを語る』その後――1935年」を読む
2007-11-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月09日(金)
「『みずからを語る』その後――1935年」を読む
 「みずからを語る」が書かれた10年後に、アメリカの出版社が「自伝」の再版を企画した時につけられた後日談。フロイトは「みずからを語る」を書いたときには、悪性腫瘍の再発で自分の生涯は間もなく終わるものと考えていたという。
 幸いなことに、彼はその後10年以上にわたって生き、著作活動を続けた。フロイト全集にして4冊分以上の分量がその間に書かれている。

 フロイト自身のあげる重要な著作としては、後期理論に修正を加えた「制止、症状、不安」がある。しかし、彼の関心はむしろ「トーテムとタブー」で切り開かれた文化的な問題に移っていった。

生涯にわたって自然科学、医学、精神療法へのまわり道を経てきた後で、私の関心は、かつて思索にも目覚めていなかった青年を魅了したあの文化的な問題に帰っていったのである。(18-138)

 こうして書かれたのが、道徳と宗教の問題を扱った「ある錯覚の未来」と「文化の中の居心地悪さ」であった。そして、「その後」のさらに後、死の直前に「モーセという男と一神教」が書かれた。
 それにしても、精神療法が単なるまわり道だったとは。 
2007-11-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月08日(木)
『みずからを語る』補筆(DB)
1935
Ergänzungen zur Selbstdarstellung (GW-Nb763)
SE:本文に収録
『みずからを語る』補筆 (全集18-135 家高洋訳 2007)

キーワード

要約:「みずからを語る」(1925)が、アメリカで「自伝」という題名で再版された時につけられた訂正と追加の文章。

関連論文:みずからを語る

記事「『みずからを語る』補筆」を読む
2007-11-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月07日(水)
「『みずからを語る』補筆」を読む
 「みずからを語る」発表の10年後にアメリカで単行本として再出版された際につけられた追加箇所のリスト。

 フロイトがすでに出版された著作の再版に際して追加や訂正を行うことはよくあった。全集における他の著作では、最終版に脚注でどこの部分がいつ追加されたなどの記載をつけるという体裁になっていた。本著作のみがそれと違うやり方で処理しているのは、独語版全集でこの補筆部分が本文とは別の補巻に収録されているためのようだ。「精神分析概説」の「まえがき」を別の著作として扱っていたのと同じことだろう。
 しかし、独語版全集の不完全な部分にまで忠実にしなくてもいいのでは。どのみち、「失語症の理解にむけて」など独語版にない著作も収録予定になっているし、日本語版独自の全集として完成度の高いものにすればよいのではと思う。

 追加箇所の大半は小さなものだが、最後の追加は8行と少し長く、精神分析が科学として正当に扱われていないことへの不満を表明している。
2007-11-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月06日(火)
みずからを語る(DB)
1925
Selbstdarstellung (GW 14-31)
An autobiographical study (SE 20-1)
みずからを語る(全集18-63 家高洋・三谷研爾訳 2007)
自己を語る(著作4-422 懸田克躬 1970)

キーワード:自伝、精神分析、著作解説、技法の発展、精神分析協会

要約:フロイトの仕事に関連した生活史、精神分析技法の発見と発展、学会としての発展、重要著作についての内容解説などについての、自身によるサマリー。

関連論文:「ヒステリー研究」、「性理論のための三篇」、「夢解釈」、「日常生活の精神病理学にむけて」、「精神分析運動の歴史のために」、「精神分析について」、「快原理の彼岸」、「集団心理学と自我分析」、「自我とエス」、「グラディーヴァ」、「機知――その無意識との関係」、「トーテムとタブー」

記事「みずからを語る」を読む
生物学者としての出自
シャルコー
ありあまる才能
ユダヤ・パワー
ヨーゼフ・ブロイアー
ピエール・ジャネ
誘惑説から欲望空想説へ
潜伏期のパワー
転移の解釈
夢を通じて
両価的な態度
アメリカン・サイコアナリシス
ユングとアードラー
ショーペンハウアーとニーチェ
精神病の精神分析
芸術論・文化論
2007-11-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月05日(月)
芸術論・文化論
 フランスへの精神分析の進出は、精神医学としてよりもむしろ文学の方面ではじまったという。
 私もフロイトの芸術論は大好きである。作品そのものの精神分析的解釈としては、「グラディーヴァ」、「ヴェニスの商人」(「小箱選びのテーマ」)、「ミケランジェロのモーゼ像」といったものがあり、作品を通して著者の人格分析をするものとしてはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ゲーテ、ドストエフスキー論などがある。
 どちらかというと、後者の系列のものがより面白いと思う。いずれにしても、それらは単なる余興ということを超えて精神分析学の重要な一側面を形成していると言ってよいだろう。

空想(ファンタジー)の領分とは、苦しい思いをして快原理から現実原理に移行するにあたって設けられた「保護区」であって、そこでは現実の生活では断念を余儀なくされている欲動充足の代替が認められる。(18-126)

 つまり、芸術の中にはわれわれが現実生活では禁じられている秘かな欲望が表現されているのであり、その欲望が普遍的なために多くの人に満足を与えるのだという。ただ、それを知ったからといってすぐれた芸術作品を作れるかというと、そういうわけではない。そこはやはりセンスの問題なのかな。でもセンスっていったい何だろう。

 フロイトの芸術論は、さらに文化論につながっていく。「トーテムとタブー」、「ある錯覚の未来」、「文化の中の居心地悪さ」、そして「モーセという男と一神教」というシリーズは、晩年に向けてフロイトにとっての最大のテーマとなっていった。
2007-11-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月04日(日)
精神病の精神分析
 精神分析は、主にその治療対象を神経症にして発展してきた。精神病圏の疾患は分析治療の対象にはならないとフロイトは考えてきたわけだが、「とはいっても、手も足も出ないわけでもないことがわかってきている(18-122)」と、本書では希望をもたせるような書き方をしている。
 フロイトも、軽度あるいは部分的な精神病圏の疾患の分析経験や、神経症か統合失調症か診断上の区別がつきにくいケースにも遭遇していたようだ。それらは、治療としては困難であるが学問研究においては有益なものだったという。というのは、「神経症では苦労して深みから掘り出さねばならないものの大半が、精神病ではおもてにあらわれていて、誰の目にも明らか(18-122)」だからという。

 フロイトの心理学モデルは、いろいろの点で精神病圏の疾患をも視野に入れた作りになっている。特に、第一局所論における退行の概念と、ナルシシズム理論と、思考過程の知覚についての見解は、幻覚や妄想を理解するのにとても役に立つ。
2007-11-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月03日(土)
ショーペンハウアーとニーチェ
 フロイトは、常に哲学とは一定の距離をおいていた。経験から学ぶことを重視し、思弁的な考察にふけることに対して常に慎重な態度をとってきた。これは、彼自身が本当は哲学への強い志向を持っていることへの自戒でもあったようだ。

 ショーペンハウアーとニーチェの哲学が、精神分析のもたらした知識と、結果としてよく似ていると述べている。それは、両者が別の方法論によって、真実を言い当てているからだとフロイトは言いたいのかもしれない。

 ニーチェといえば、大学の頃『ツァラツストラ』に没頭したことがあった。天地がぐるぐるひっくり返るような経験であった。ずばり真実を言ってのけるような、奮い立たせるような魅力をもった文章に心酔したものだ。
 私にとってのニーチェ体験は、フロイト体験に先んじるものであった。やはり何か共通したものに惹かれるのであろうか。現在のフロイトへの傾倒は、かつてのニーチェに比べると、ずっと穏やかで息の長いものであるという気がするが。
2007-11-03 00:00 | 記事へ | コメント(4) |
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2007年11月02日(金)
ユングとアードラー
 ユングとアードラーの離反については、先に書かれた「精神分析運動の歴史のために」に詳述されているとのことで、本書では簡潔にしかしきっぱりと記されている。

 本書が書かれた時点でフロイトの元を去った弟子は、ユング、アードラー、シュテーケルであった。なお忠実であった者は、アブラハム、アイティンゴン、フェレンツィ、ランク、ジョーンズ、ブリル、ザックス、プフィスター、ファン・エンデン、ライクであった。このうち、本書執筆の後にフェレンツィとランクは師と異なる意見を持つようになったという。

 このあたりの事情は、フロイトの弟子に対する狭量さとも批判されたりする。しかし、寛大な師がいいのかといえば、それはそれで弟子たちが好き放題して何が何やらわからなくなるってこともある。
 だいたい、弟子というものは師に反発してそれを超えたいと思うものなのだ。フロイト理論でいう「父親殺し」だな。
2007-11-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年11月01日(木)
アメリカン・サイコアナリシス
 ドイツの学会が精神分析に対して冷淡な態度であったことについては、フロイトは相当頭にきているようだ。本書の草稿を見たアイティンゴンは、ドイツ国民の野蛮性について述べたくだりは削除した方がよいのではと勧めたが、フロイトは頑として聞かなかったという。

 一方、当時のアメリカは精神分析をずいぶん好意的に受け入れたようだ。1909年には、フロイトはユングと共にアメリカに招かれて、クラーク大学で連続講演を行っている。
 アメリカでは、精神分析は非専門家のあいだに広く行き渡り、医学教育の重要な構成要素として認められたという。

ただ残念なことに、精神分析はアメリカではずいぶん希釈されてしまった。(18-114)

 よさそうなものは積極的に取り入れて、ブームのように広めてしまうというのは、いかにもアメリカのお国柄という感じがしておもしろい。コーヒーもアメリカンは薄めだし。
2007-11-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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