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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2007年12月31日(月)
無関心の理由
 小説「グラディーヴァ」の主人公ノルベルト・ハーノルトは、独身の男性でありながら、現実の女性にまったく関心がない。恋愛や結婚は、まことに愚かなことと決めつけていて、ひたすら考古学の研究に明け暮れているのであった。
 そんな彼が、なぜか大理石のレリーフの女性に熱中するようになり、名前までつけて空想に浸るようになる。フロイトは、これを抑圧されたものの形を変えた回帰とみるのである。

 しかし、そもそもハーノルトにおける女性への欲望は、どのような理由から抑圧されたのだろうか。小説を読んでも、フロイトの分析を読んでも、はっきりわからないところだ。
 もっとも、男性が女性に対してこのような無関心な態度をとり、かわりに学問に打ち込むというのは、ありがちなパターンではある。一般的には、持って生まれた嗜好性とか、幼少期のさまざまな体験によって決定づけられるのだろう。

 推測するためにも、ノルベルト・ハーノルトの生育歴について知りたいところだが、小説にはほんの少しのことしか書かれていない。両親は彼が小さい頃に亡くなっている。兄弟についても不明だが、おそらくいないのではないだろうか。父の仕事をついで考古学者になり、受け継いだ資産のために自由な生活をすることができた。なんだか、小説を成立させるための都合でおざなりに作られた生い立ちという感じがする。
 そもそもハーノルト自体が架空の人物なのだから、彼の性格や関心の方向がいかにして生じたかなど考えてもあまり意味はないが。それでも、いろいろ想像するのは楽しいものだ。
2007-12-31 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月30日(日)
種明かし
 前の記事で紹介したように、道簱泰三氏は解題で、フロイトが「探偵小説のごとく一枚一枚あくまで冷徹にヴェールをはがしていく」と述べていた。しかし、そもそもイェンゼン自身がこの小説を探偵小説のように仕立てているのである。そして、種明かしは小説の最後でちゃんとなされているのだ。だから、ごく普通に最後まで読んだら、この話がどういうことだったのかよくわかる。フロイトの解釈も、その大筋にそった上で、さらに詳細な精神分析的な解釈を加え、小説が分析理論から見てもいかに筋の通ったものであるかということを示しているのである。

 大筋とは、こういうことだ。主人公ノルベルト・ハーノルトは、若い独身男性である。彼は天涯孤独であり、現実の女性には一切興味がなく、考古学的研究に没頭している。ある時、彼はローマの美術館で若い女性の全身像のレリーフを発見して心惹かれ、レプリカを作って書斎に飾った。彼は女性の独特の歩き方に注目し、「あゆみ行く女」という意味の「グラディーヴァ」という名前をつけて、飽くことなく眺めては空想に浸るようになった。
 ある時ノルベルトは、ヴェスヴィオ火山の噴火に埋もれるポンペイでグラディーヴァと出会う夢を見る。夢から醒めた彼は、旅に出る決意をし、ローマを経てポンペイへと到着した。ポンペイの街を一人でさまようノルベルトは、真昼の時刻に路上を渡って行くグラディーヴァを目撃した。そして、「メレアグロスの家」と呼ばれる遺跡の中で、彼はついにグラディーヴァと邂逅し、会話をすることになる。グラディーヴァは、忽然と姿を消したが、しかし翌日も同じ時刻に同じ場所に現れる。ノルベルトは、これが現実の女性なのか、幻覚なのか、あるいはすべてが夢なのか混乱し、悩む。
 三日目の逢瀬で、ついにグラディーヴァは自分の正体をあきらかにする。彼女は、ツォーエ・ベルトガングといって、ノルベルトの幼なじみであり、ずっと斜め向かいの家に父親と一緒に暮らしていたのだ。ツォーエは、ノルベルトに惹かれていたのだが、彼の方は同年代の女性などには見向きもせず、彼女が近くにいてもまったく気がつかなかったのであった。そして、最後は二人が結ばれて、めでたしめでたし。
2007-12-30 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月29日(土)
文学を分析されることへの抵抗
 全集の最後につけられた、道簱泰三氏の解題に目を通して「おや」と思った。氏は、どうやらフロイトのグラディーヴァ論をあんまり良く思っていないようなのだ。一部を引用してみる。

文学作品の批評というより、むしろ文学作品を通して見た精神分析――そこにはある種の暴力とトートロジーの臭いが感じられる――とでも言った方がふさわしいかもしれない。(p.385)

この空想−妄想のつながりがハーノルトの見た夢によってどう解釈できるのか、その証拠固めには解釈としてのさまざまに独断的、暴力的なところも見えるものの、フロイトの関心はその一点にむかってまるで探偵小説のごとく一枚一枚あくまで冷徹にヴェールをはがしてゆく‥‥。そこにはむろん、A・ブルトン(グラディーヴァ画廊)やS・ダリ(グラディーヴァ連作)などのシュルレアリストたちが、現実と夢幻のはざまを漂う『グラディーヴァ』という幻想小説に対して見せた熱狂や感動のかけらはつゆほども見出せない。しかし、言うまでもなく、これこそが、良し悪しは別にして、文学も精神分析のなかに取り込んでいこうとするフロイトの「文学批評」の真骨頂でもあるのである。(p.387)

 「良し悪しは別にして」と言うけど、解説者がブルトンやダリを「良し」、フロイトを「悪し」と思っていることはみえみえだ。フロイトの分析に対して「暴力」、「トートロジー」、「独断的」といった言葉を使い、括弧つきの「文学批判」としている。

 「独断的」という批判はあり得ると思うが、「暴力的」というのはどうなのだろう。どうもそこには、「文学というのは神聖なものであって、読者が勝手に作品を分析したりするのは冒涜だ」といったような考えがありそうだ。そして、それは多分に情緒的な反応なのではないだろうか。

 フロイトが、「かけら」どころか、相当小説に熱中していたことは論文からも伝わってくる。そこからインスピレーションを得て、別の芸術作品を作るか、感動の起源を分析的に考察した論文を作るか、それだけの違いなのではないかと思うのだが。
2007-12-29 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月28日(金)
「W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢」を読む
 本論文は、題名のとおりヴィルヘルム・イェンゼンの書いた小説『グラディーヴァ』を分析したものである。であるから、論文を読むにあたっては、その前に題材となる小説を読んだ方がよい。フロイトもそれを勧めている。

 「重元寛人のブログ」でも紹介したが(記事にリンク)、日本では種村季弘氏の翻訳でフロイトの論文と一冊にまとめられた単行本が1996年に出版されている。あまり売れなかったのか、現在新刊本では出回っていないようだが、中古なら手に入れることができる。これは、なかなかすばらしい企画だったので、文庫本で再版などされるとよいのだが。あるいは、中村元氏が光文社古典新訳文庫で出した「幻想の未来/文化への不満」が、フロイトの文化・芸術論をまとめたシリーズの第一弾とのことなので、第二弾あたりで「グラディーヴァ」を原作小説と共に収録するようなことになるとよいなと期待したり。

 「グラディーヴ」は、大変おもしろい小説である。そして、読むのであればフロイトの論文を読む前に、先入観なしに読んだ方がよい。私は幸いに、そのような読み方ができた。正確には、ずっと以前にフロイトの論文をかじっていたと思うのだが、ほとんど覚えていなかったので、新鮮な気持ちで小説を読めた。

 ここから、そしてグラディーヴァ関連の記事は今後も、どうしてもネタバレ的になるので、小説を読もうと決意された方は、ここでやめておいてください。

 もう、いいかな。

 実はこの小説は、作者の仕組んだカラクリが随所に配置されていて、最後の段になってその種明かしがされるという構成になっているのだ。読者は、主人公の体験する妄想に付き合わされるが、最後にはそこから覚醒させられて、「なるほど、そういうことだったのか」と目から鱗の気持ちを味わえる。私はうまいこと乗せられたので、妄想から現実に引き戻される治癒過程を疑似体験をすることができた。
 とにかくよくできているので、このまま映画化したらかなりヒットするんじゃないかとも思った。調べると、すでに「グラディーヴァ:マラケシュの裸婦」という題のフランス映画が作られていて、2008年の3月には日本でDVDが発売されるようである。しかし、こちらはイェンゼンの小説の忠実な映画化ではないようだ。小説からインスピレーションを受けて、ブルトンやダリなどが芸術作品を創作しているらしいから、そういったものをモチーフにした映画なのであろうか。
2007-12-28 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月27日(木)
フロイト全集第九巻を読む
 フロイト全集の読解も、およそ一年間で四冊を終え、五冊目の第九巻に入る。本巻は、「W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢」と「精神分析について」の二作品を中心に、1906年から1909年の間の論文を収録している。

 「グラディーヴァ」は、文学作品を精神分析の技法で分析した初めての本格的な試みである。「精神分析について」は、フロイトが新世界アメリカのクラーク大学に招待された際に行われた講演である。
 二つの著作の内容的にはあまり関連はないが、こじつければ、両者は共に精神分析がより大きな世界へと広がっていくことになる転換点に位置づけられる著作といえよう。
 他の収録作品を見ても、多岐にわたる内容であるが、全体としては「精神分析と文化・社会」といったテーマをつけたくなる構成になっている。

 本巻の冒頭には、一枚の有名な写真がある。1909年のクラーク大学への招待に際して撮られたもので、学長のS・ホールを中心に、向かって左にフロイト、右にユングが並び、後列にはブリル、ジョーンズ、フェレンツィが立っている。精神分析学の発展が、フロイト一人から弟子たちの手にも広がり、豊かな実りを生み出していったことをも象徴している。

 それでは、早速読んでいこう。まずは、グラディーヴァから。
2007-12-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月26日(水)
『国際精神分析雑誌』編者のことば(DB)
1924
Mitteilung des Herausgebers der Internationalen Zeitschrift für Psychoanalyse (GW-Nb713)
Editorial changes in the Zeitchrift (SE 19-293)
『国際精神分析雑誌』編者のことば(全集18-339 本間直樹訳 2007)

キーワード:オットー・ランク博士、ニューヨーク、S・ラドー、M・アイティンゴン、S・フェレンツィ

要約:『国際精神分析雑誌』の編集委員を務めてきたオットー・ランク博士は、活動の拠点の一部をアメリカに移すため業務をS・ラドー博士に譲ることになった。

関連論文

記事: 「『国際精神分析雑誌』編者のことば」を読む
2007-12-26 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月25日(火)
「『国際精神分析雑誌』編者のことば」を読む
 『国際精神分析雑誌』が創刊した1913年以来編集委員を務めてきたオットー・ランク博士が、編集業務を別の者に譲ることになったいきさつを説明し、彼の業績を讃える文章である。
2007-12-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月24日(月)
精神分析への抵抗(DB)
1925
Die Widerstände gegen die Psychoanalyse (GW14-97)
The resistances to psycho-analysis (SE19-211)
精神分析への抵抗(全集18-325 太寿堂真訳 2007)
精神分析への抵抗(著作11-149 池田紘一訳 1984)

キーワード:新しいものへの抵抗、ブロイアー、ショーペンハウアー、プラトン、ダーウィン、文化による欲動の押さえ込み、ユダヤ人

要約:精神分析への人々の抵抗は、性欲の重視とエディプスコンプレクスの内容に対する情動的な抵抗である。

関連論文:精神分析運動の歴史のために

記事「精神分析への抵抗」を読む
2007-12-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月23日(日)
「神分析への抵抗」を読む
 精神分析が世間にもたらした反発について述べた文章。同様の趣旨のことは、これまでに何度も述べられている。精神分析への人々の反発が、その内容に対する情動的な反感からきていること、それは個々の患者が分析治療において表現する抵抗と同じ性質のものであると論じる。特に多くの人の気にさわるのが、性欲を重視した欲動理論と、エディプスコンプレクスの理論であるという。

 後半には、文化論が少し展開されており、後に書かれる「ある錯覚の未来」や「文化の中の居心地悪さ」に発展していくような内容だ。

ある種の欲動の蠢きを社会は過度に抑え込んでいるが、これらがもっと充足されるのを容認すべきである。また他の欲動については、抑圧を通して抑え込むという目的に相応しくない方法をやめ、より良い、もっと確実なやり方で置き換えるのがよい。(22-334)

 フロイトの考える理想的な、あるいはよりましな社会というものが、具体的にどんなものなのかはよくわからない。例えば、現代の日本社会などを見ると、フロイトが暮らしたヨーロッパの社会よりは、社会による欲動の抑え込みは穏やかになったと言えるだろう。とりわけ、性的なことについては、いき過ぎじゃないかとも思える程おおっぴらになされている。天真爛漫として、自由でよいのかもしれないが、人々が自分勝手に利己的欲求ばかり追及している様は、どうなんだろうかなとも思う。
2007-12-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月22日(土)
「不思議のメモ帳」についての覚え書き(DB)
1925
Notiz über den "Wunderblock" (GW14-1)
A note upon the "mystic writing-pad" (SE19-225)
「不思議のメモ帳」についての覚え書き(全集18-317 太寿堂真訳 2007)
マジック・メモについてのノート(ちくま「自我論集」 中山元訳 1996)

キーワード:記憶、想い出−痕跡、知覚−意識系、想起系、時間表象

要約:知覚−意識系と想起系の働きを例える比喩としての不思議のメモ帳。内部からの興奮の非連続性から時間表象が生じる。

関連論文:「夢解釈」、「快原理の彼岸」、「否定」

記事「「不思議のメモ帳」についての覚え書き」を読む
脳を例えてみれば
知覚のしくみ
2007-12-22 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月21日(金)
知覚のしくみ
 不思議のメモ帳では、カバーシートが知覚−意識系に、ワックス版が想起系に対応する例えになっている。さらに、カバーシートは、外側のセルロイドシートと内側のパラフィン紙に分かれていて、前者が刺激保護、後者が刺激受容の役割をする。

 大事なことは、刺激受容が想起系との共同作業によってなされるということだ。不思議のメモ帳で、書いたものが浮き出るのは、筆圧によってパラフィン紙とワックス版が密着し、その部分が他よりも黒く見えるからである。

 つまり、知覚というのは外から来る刺激と、内からの興奮が出会うということなのである。この、知覚というと外から受容するという方向ばかりが目立つけれども、実は内側からある種の刺激を期待して迎えにいくという能動性が大事なのだと思う。
2007-12-21 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月20日(木)
脳を例えてみれば
 脳における記憶のしくみはどうなっているのか。これは実にむずかしい問題だ。こういうことを考えるのに、身体器官を人間の考案した道具に例えて比較するというのは、ありがちな思考法ではある。

 フロイトは、まずメモ帳や石版を例に出し、しかしそれよりもよい比喩として「不思議のメモ帳」をあげた。
 今であれば、記憶システムはコンピュータのメモリに例えられそうだ。気まぐれな検索システムを備えたデータベースソフトといったものを想像すれば、外見上は脳と同じような働きをしそうである。しかし、コンピュータのメモリーと脳のニューロンでは、根本的なところでも違いがあるのではないかという気がする。

 コンピュータの場合は、一つのデータは特定の場所に記録され、重ね書きをすれば前のデータは消えてしまう。メモリにはデータを記録できる容量の限界がある。たくさん記録したければ、最初に大きな容量のメモリを用意しておかなくてはならない。
 脳の場合にはどうなっているのか。例えば赤ちゃんは空のメモリをたくさん携えて生まれてきて、いろいろ覚えていくにつれて空容量が減っていき、年をとるともうこれ以上覚えられなくなるのか。
 それにしても、われわれの脳に記録されているデータの量というのは莫大なものになりそうだ。あるいは、そこはうまく圧縮されて、実際はみかけ程の量ではないのか。考えれば考えるほど、どうなっているのか不思議である。

 この件については、不思議のメモ帳の方が、コンピュータよりも脳に近いのではないかと思う。これは、フロイトが指摘している点とは別のことなのであるが。
 不思議のメモ帳では、永続的な痕跡はカバーシートの下のワックス版に、筆記具でつけた窪みとして残る。そして、それは書いたり消したりするごとに、重ね書きされるのである。最初のうちは、この窪みは読み取りやすいだろうが、重なりが多くなると、とくに前に書いたものほど読み取りにくくなる。しかし、強い筆圧で書いたものは例外的に時間がたっても残るであろう。

 脳における想い出痕跡も、このように重ね書きがなされているのではなかろうか。その点で、コンピュータのメモリより、不思議のメモ帳に近いのではないかと想像するのである。
2007-12-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月19日(水)
「「不思議のメモ帳」についての覚え書き」を読む
 意識と記憶の問題について考察した、小さいけれども重要な論文である。「快原理の彼岸」で提示された「意識は想い出−痕跡の代わりに出現する」という命題に関連した論述がなされている。
 これについては、「快原理の彼岸」についての記事でも触れたし、「フロイト研究会」のセミナーでも書いたことがある。

 表題になっている「不思議のメモ帳(Wunderblock)」とは、当時売り出されていた、書いたり消したり出来る記録板のようなもので、解題によると1960年代のイギリスでは”Printator”という商標で入手可能であったとのこと。
 私も、小さい頃(30年数年ほど前?)に、類似の物があったのを覚えている。今では、もっと便利なものがいろいろでてきたためか商品としては見なくなったが、子供用教材の付録で似たようなしくみのものを見たことがある。
2007-12-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月18日(火)
神経症および精神病における現実喪失(DB)
1924
Der Realitätsverlust bei Neurose und Psychose (GW10-4)
The loss of reality in neurosis and psyhchosis (SE19-181)
神経症および精神病における現実喪失(全集18-311 本間直樹訳 2007)
神経症および精神病における現実の喪失(著作6-316 井村恒郎訳 1970)

キーワード:神経症、精神病、現実喪失、抑圧の不成功、否認、現実の改変、空想世界

要約:神経症では、抑圧の不成功の結果症状が形成され自我と現実の関係がぼやける。精神病では否認による現実喪失の後に現実の改変がなされる。神経症では空想と現実の区別がなされているが、精神病では空想が現実改変の素材となる。

関連論文:神経症と精神病、ヒステリー研究

記事「神経症および精神病における現実喪失」を読む
2007-12-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月17日(月)
「神経症および精神病における現実喪失」を読む
 少し前に書かれた「神経症と精神病」の内容を、修正しつつ発展させた論文である。前の論文の方が単純でわかりやすい図式であったような気もする。こういったモデルは、実際の物事を多かれ少なかれ単純化している故の不正確さはつきまとう。どの程度まで複雑にするかは、好みの問題もあるだろう。

 新しいモデルでは、神経症と精神病の成立過程をそれぞれ二段階にわけている。神経症の第一段階は、自我が現実に奉仕してエスに蠢く欲動を抑圧する。この段階では、まだ病気とはいえない。第二段階では、抑圧された欲動が症状を形成し、それによって現実のある部分と自我の関係がぼやけてしまう。これが神経症における現実喪失である。

 精神病の第一段階はいきなり病的過程からはじまる。自我がエスに従属し、現実のある部分を否認する。第二段階では、否認された現実を修復しようとする過程であり、幻覚や妄想によってエスの欲動にかなった新たな現実が作られる。もっともこの現実構築は、エスの思いのままになるわけではなく、最初に拒絶された現実が執拗に迫ってくるために、やはりある種の妥協の産物になる。

 「否認」という言葉は、現実を断固として拒絶するといったような強い意味で用いられ、精神病特有の過程とされる。「神経症は現実を否認せず、現実について何も知ろうとしないだけ(18-313)」であるという。

 空想という、現実との中間領域の役割も重視される。精神病では、空想を元に新たな現実が作られる。神経症では、現実の一部が象徴的な結びつきによって、空想を依託され代替的な満足を与えるようになる。
2007-12-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月16日(日)
エディプスコンプレクスの没落(DB)
1924
Der Untergang des Ödipuskomplexes (GW13-393)
The dissolution of the oedipus complex (SE19-171)
エディプスコンプレクスの没落(全集18-301 太寿堂真訳 2007)
エディプス・コンプレクスの消滅(著作6-310 吾郷晋浩訳 1970)
エディプス・コンプレックスの崩壊(ちくま「エロス論集」 中山元訳 1997)

キーワード:ファルス的編成、エディプスコンプレクス、去勢の脅し、超自我形成、潜伏期、女の子のエディプスコンプレクス

要約:エディプスコンプレクスの没落は親からの去勢の脅しを契機に起こり、これによって超自我が形成され、ファルス的編成は潜伏期へと導かれる。女の子の場合は、去勢は既成事実として受け入れられ、ペニスの不在を埋め合わせるために子供を所有したいという欲望を抱く。

関連論文:「自我とエス」、「性理論のための三篇」、「幼児期の性器的編成」、「解剖学的な性差の若干の心的帰結」、「女性の性について」

記事「エディプスコンプレクスの没落」を読む
2007-12-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月15日(土)
「エディプスコンプレクスの没落」を読む
 論文「自我とエス」についての補足的な意味をもつ小論文。四歳頃にピークを迎えるエディプスコンプレクスが、小児の欲望断念によって終焉し、次の潜伏期に移り変わる過程についての考察である。この部分が重要であり、再考を続けていたことがわかる。

 いくつかのポイントがある。第一に、題名にもなっている「没落(der Untergang)」という言葉である。この重要な過程は、抑圧といってもよいが、単なる抑圧ではない。「抑圧以上のものなのであって、理想的なかたちで運べば、かのコンプレクスの破壊ないし棚上げにも匹敵するものである(18-306)」とある。
 どこがどう違うのか、具体的なことはあまり記されていない。私の考えでは、この時期に続く潜伏期における昇華による欲望追求ということが重要なのではないかと思う。

 問題の没落の過程については、親からの去勢威嚇への反応というこれまで通りの説明がある。しかし、それだけでなく論文の冒頭では、親への欲望がそもそも実現不可能なことを知った小児が自分からあきらめるという見方と、乳歯が抜けて永久歯に生え変わるように遺伝的にプログラムされた過程であるという仮説をも提示している。そして、それらは一つの過程が多面性をもつということを表しているようだ。

 さらに、論文の最後では女の子のエディプスコンプレクスについての考察がなされる。この問題は、続く「解剖学的な性差の若干の心的帰結」と「女性の性について」といった論文でさらに詳しく論じられることになる。
2007-12-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月14日(金)
マゾヒズムの経済論的問題(DB)
1924
Das ökonomische Problem des Masochismus (GW13-369)
The economic problem of masochism (SE19-115)
マゾヒズムの経済論的問題(全集18-287 本間直樹訳 2007)
マゾヒズムの経済的問題(著作6-300 青木宏之訳 1970)
マゾヒズムの経済論的問題(ちくま『自我論集』 中山元訳 1996)

キーワード:サディズム、涅槃原理、死の欲動、性源的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム、無意識的罪責感、欲動の断念

要約:マゾヒズムはサディズムから二次的に生じると考えられていたが、死の欲動にエロースが混合することによって直接生じる本来のマゾヒズムというものも存在する。マゾヒズムは、性源的、女性的、道徳的の三形態に分類される。

関連論文:「快原理の彼岸」、「自我とエス」、「性理論のための三篇」、「子供がぶたれる」

記事「マゾヒズムの経済論的問題」を読む
自虐的な動物
マゾヒズムの形
エロースの混合
2007-12-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月13日(木)
エロースの混合
 性源的マゾヒズムと女性的マゾヒズムと道徳的マゾヒズムは、もちろん別々のものではなく、重なり合い移行し合うものである。
 例えば道徳的マゾヒズムは、もっともリビード的な要素が少ないマゾヒズムであるが、「父からの懲罰」、「尻を叩かれる」といった連想を通じて、女性的マゾヒズムや性源的マゾヒズムに変貌する。そうなると、リビード的要素も多くなってくる。

 そもそも、マゾヒズムは死の欲動から生じるが、エロースとの混合が不可欠である。その混合の割合も、マゾヒズムの三分類に関係しているようだ。

 また、一般的な性欲にもマゾヒズムの要素がひそんでいることがある。男性が女性に尻に性的魅力を感じるといったところには、マゾヒズムの味つけがある。
2007-12-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月12日(水)
マゾヒズムの形
 本論文で、フロイトはマゾヒズムを三つの形態に分類している。
 性源的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、そして道徳的マゾヒズムである。

 第一の性源的マゾヒズムは、身体的な苦痛自体が性的快感になるというもので、マゾヒズムという言葉の本来の意味に近い。これは、一種の倒錯である。いわゆる正常の性生活においては、倒錯的な要因が多く入り混じっており、むしろ倒錯こそが性の本質といってもよいくらいである。苦痛が快になるというのも、例外というよりは性の本質的な部分を占める。身体的苦痛の表情と、性行為における絶頂の時の表情は酷似している。

 第二の女性的マゾヒズムは、性源的マゾヒズムと区別しにくいが、もう少し対象との関係ということが意識されているようだ。つまり、受身的姿勢であり、対象から辱められて屈服するという側面が強調される。去勢され、性交を強要され、子供を孕まされるということである。「女性的」といいながら、フロイトは男性におけるこのような嗜好性を強調している。

 第三の道徳的マゾヒズムは、脱性化されたマゾヒズムである。リビードは死欲動の危険性を中和するものであるから、脱性化されるということは危険なことでもある。道徳的マゾヒズムは、無意識的罪責感とも関連している。

 本来的なマゾヒズムはサディズムと同一のものとみなされる。自分が自分を攻撃するのだから、それをサディズムと見るかマゾヒズムと見るかは視点の違いである。そうは言うものの、そこに心的装置の審級という概念をとりいれると、区別がでてくる。それは、自我にとってはマゾヒズムであり、超自我にとってはサディズムである。
2007-12-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月11日(火)
自虐的な動物
 人間は根源的にマゾヒスティックである、というのは一つの逆説だが、なかなか心にしっくるくるものがある。それは、もしかすると私自身がマゾヒストだからかもしれないが、周囲の人や世の中の動きを見ていても、人間は本来自虐的であるととらえると納得できることが多い。

 フロイトも長年の臨床経験を経て、このような結論に達した。そのような印象を与えた例として、長い間神経症に苦しんだ患者が、不幸な結婚や破産や重い身体疾患など、現実的不幸を契機にして、神経症からは解放されたといったケースをあげている。
 このようなケースでは、最初からの前提として「自分は苦しまねばならない」という結論があり、その手段として神経症が選択されたわけで、他の形での苦痛を手に入れれば神経症の方は必要なくなるというわけなのだ。
2007-12-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月10日(月)
「マゾヒズムの経済論的問題」を読む
 小粒だが重要な論文。位置づけとしては、「快原理の彼岸」で導入した生の欲動と死の欲動の理論を、「自我とエス」の心的装置モデルもふまえて補足するもの。抽象的題材なだけに難解である。

 経済論というのは、フロイトのメタサイコロジイで重要な視点である。心的装置の振舞いはさまざまな要因に影響されるが、最終的な決定は量的要因によってなされるという。つまり、諸要因はそれぞれ量に還元され、その量の足し算引き算によって、病気になるかならないかとか、どのような疾患が選択されるかとか、そういったことが決まる。
 いわば損得勘定なわけだが、そのような視点からマゾヒズムの問題を考えてみようというのが本論文の目的。採算の面から考えて、マゾヒズムは合うのかどうか。

 普通に考えると、サディズムはそれに見合った利益を個人にもたらしてくれる。他者を攻撃し排除しようとすることは、利己的な自己保存の目的にそっている。だから、個体がサディズム的傾向を本来的にもっていることは、容易に理解ができる。
 であるから、マゾヒズムは人間が根源的にもつサディズムを、自己に向けかえることから二次的に生じるものと考えると理解しやすい。フロイトも最初はこのように考えていた。

 本論文で提案されているのは、以上のような常識的な見方に対して、一次的なマゾヒズムが存在するのではないかという新しい仮定である。
2007-12-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月09日(日)
雑誌『ル・ディスク・ヴェール』への寄稿(DB)
1924
Zuschrift vom 26. Februar 1924 an die Zeitschrift Le Disque Vert in Paris und Bruxelles für ihr Sonderheft "Freud et la Psychanalyse" (GW13-446)
Letter to Le Disque Vert (SE19-290)
雑誌『ル・ディスク・ヴェール』への寄稿(全集18-285 家高洋訳 2007)

キーワード:パリ、ブリュッセル、シャルコー、学問

要約:仏語の雑誌『ル・ディスク・ヴェール』への寄稿。シャルコーから授かった学問の基本的姿勢についての言葉。

関連論文

記事「雑誌『ル・ディスク・ヴェール』への寄稿」を読む
2007-12-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月08日(土)
「雑誌『ル・ディスク・ヴェール』への寄稿」を読む
 雑誌『ル・ディスクヴェール』は当時パリとブリュッセルで発行されていた雑誌で、その特別号の「フロイトと精神分析」に寄せられた手紙である。ドイツ語の原文は現存せず、おそらくフロイトがフランス語で書いたものと。

 フロイトが若き日に留学したパリのサンペトリエール病院。そこで恩師シャルコーから授かった、学問に必要な基本的姿勢についての教示を紹介している。研究対象について粘り強く繰り返し考えることと、常識的な反対意見は気にしないということ。
 たしかに、フロイトの学問的姿勢をよくあらわしている。
2007-12-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月07日(金)
フェレンツィ・シャーンドル博士(五十歳の誕生日に)(DB)
1923
Dr. Ferenczi Sándor (Zum 50. Geburtstag) (GW13-443)
Dr. Sándor Ferenczi (on his 50th birthday) (SE19-265)
フェレンツィ・シャーンドル博士(五十歳の誕生日に)(全集 家高洋訳 2007)
フェレンツィ・サンドール博士(五十歳の誕生日に)(著作11-381 生松敬三訳 1984)

キーワード:ブダペスト、国際精神分析協会事務総長、おんどり少年

要約:フェレンツィの実務的およびに学問的な業績についての紹介。

関連論文:「シャーンドル・フェレンツィ追悼」

記事「フェレンツィ・シャーンドル博士(五十歳の誕生日に)」を読む
2007-12-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月06日(木)
「フェレンツィ・シャーンドル博士(五十歳の誕生日に)」を読む
 『国際精神分析雑誌』のフェレンツィの五十歳を記念する特別号に寄せたフロイトの文章。フェレンツィの実務的およびに学問的な業績について紹介している。

 フェレンツィはハンガリー人の精神分析家で、精神分析運動の初期からフロイトと活動を共にしていた。ちなみに、「フェレンツィ・シャーンドル」というのは、日本と同じく「姓・名」の順に書くハンガリー式の表記である。
 この文章の後に、彼はフロイトと袂を分かつことになった。
2007-12-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月05日(水)
M・アイティンゴン著『ベルリン精神分析診療所に関する報告』への序言(DB)
1923
Vorwort zu M.Eitingon. Bericht über die Berliner psychoanalytische Poliklinik (GW13-441)
Preface to Max Eitingon's reprot on the Berlin psyho-analytical policlinic (SE)
M・アイティンゴン著『ベルリン精神分析診療所に関する報告』への序言(全集18-279 本間直樹訳 2007)
M・アイティンゴン『ベルリン精神分析無料診療所に関する報告』への序(著作11-380 生松敬三訳 1984)

キーワード:マックス・アイティンゴン、ベルリン精神分析診療所、分析家の要請

要約:マックス・アイティンゴンが資金を出して創設したベルリン精神分析診療所に関する報告書によせられた序言

関連論文:「精神分析療法への道」

記事「M・アイティンゴン著『ベルリン精神分析診療所に関する報告』への序言」を読む
2007-12-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月04日(火)
「M・アイティンゴン著『ベルリン精神分析診療所に関する報告』への序言」を読む
 マックス・アイティンゴンが1920年に開設したベルリン精神分析診療所については、「みずからを語る」などにも触れられていた。彼は毛皮商人の父から受け継いだ資産を、精神分析関連の事業につぎ込むという実際的な貢献をつづけてきた。
 アイティンゴンがなした業績に対して、フロイトは賛辞を惜しまない。同じような施設が各地に作られ、貧しい人も精神分析を受けられ、訓練された分析家を多数教育することができるようにと、将来への希望を述べている。
2007-12-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月03日(月)
フリッツ・ヴィッテルス宛書簡(DB)
1924[1923]
Brief an Fritz Wittels (GW-Nb754)
Letter to Fritz Wittels (SE19-286)
フリッツ・ヴィッテルス宛書簡(全集18-271 訳 2007)

キーワード:コカイン、アードラー、シュテーケル、ユング

要約:フリッツ・ヴィステルから送られたフロイトの伝記に対する返礼の手紙。本の内容への訂正リスト付。

関連論文:「快原理の彼岸」

記事「フリッツ・ヴィッテルス宛書簡」を読む
2007-12-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月02日(日)
「フリッツ・ヴィッテルス宛書簡」を読む
 フリッツ・ヴィッテルスは1924年にフロイトの伝記『ジークムント・フロイト――その人物像・学説・学派』を出版した。出版前にフロイトに送られた一冊に対する返礼としての書簡である。当時ヴィッテルスは精神分析協会を離れており、フロイトとも微妙な関係にあったと思われる。

 本人が生きている間に書かれる伝記というのはむずかしい。逆に死んでしまえば言いたい放題というところがある。ヴィッテルスによる伝記は、読んではいないけれど割と公平なものであったようではある。それでも書かれた本人は、皮肉っぽく批判的に評価している上、訂正箇所のリストまでつけている。
 リストは細かい点にわたるが、大きなものとしてはコカインについての記述と、『快原理の彼岸』における死の欲動のアイデアのこと。ヴィッテルスは死の欲動の思いつきとフロイトの娘の死去とを関連づけて分析していたが、フロイトは『彼岸』の重要部分はその出来事の前に完成していたと反論している。「もっともらしいことは必ずしも真実ではない(18-227)」と。

 フロイトは若い頃に、将来の伝記作者を困らせるためと、自分の日記を廃棄してしまっている。誰でも個人的なことを他人からとやかく言われたくないが、彼の場合には自らの研究成果を個人的動機と結びつけて解釈されるのがとりわけ嫌だったようだ。
 そりゃあそうだろうと思う。理論がすばらしければ、それをいかに思いついたかという個人的な動機などは、どうでもよいことだ。
2007-12-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月01日(土)
ルイス・ロペス=バイェステロス・イ・デ・トッレス宛書簡(DB)
1923
Brief vom 7. Mai 1923 über die spanische Ausgabe an den Übersetzer Luis López-Ballesteros y de Torres, eröffentlicht in Band IV der "Obras Completas del Profesor S. Freud", Biblioteca Nueva, Madrid 1923 (GW13-442)
Letter to Señor Luis Lopez-Ballesteros y de Torres (SE19-289)
ルイス・ロペス=バイェステロス・イ・デ・トッレス宛書簡(全集18-269 本間直樹訳 2007)

キーワード:セルバンテス『ドン・キホーテ』

要約:スペイン語版フロイト著作集の翻訳者に贈られた賛辞の手紙。

関連論文

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2007-12-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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