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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2008年01月31日(木)
「アンケート「読書と良書について」への回答」を読む
 当時32名の著名人にとったアンケートから「読書と良書について――あるアンケート」という一冊にまとめられた本のフロイト執筆部分である。他の著名人の中には、ヘルマン・ヘッセやエルンスト・マッハといった名もあがっており、この本全体を読みたいような興味にかられる。
 フロイトがあげているのは、以下の10冊である。

ムルタトゥリの書簡と作品
キプリング『ジャングル・ブック』
アナトール・フランス『白き石の上にて』
ゾラ『豊産』
メレシコフスキー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』
G・ケラー『ゼルトヴィーラの人々』
C・F・マイヤー『フッテン最後の日々』
マコーリー『文学歴史評論集』
ゴルペルツの『ギリシアの思想家たち』
マーク・トウェイン『〔「ジム・スマイリーとその跳ね蛙」他〕短篇集』

 これには注釈がついている。それらは「もっとも素晴らしい十作品」でもなく「もっとも重要な」でも「愛読書」でもなく、「「良き」親友に似たような書物のこと」であるという。

 フロイトが良いと言っているのであるから、それは是非とも読まねばと思うのだが、リストを眺めて私自身現時点でそのものを読んだ本は一冊もない。『ジャングル・ブック』は、子供用の絵本は小さい頃に親しんだことがある。マーク・トウェインの『トム・ソーヤ』と『ハックルベリー・フィン』は読んだことがある。それだけだ。

 アマゾンで検索してみたが、ここでも意外にみつからない。フランスとゾラについては、作品はいろいろ出てくるがフロイトの選んだ本はみあたらない。唯一、メレシコフスキーの『ダ・ヴィンチ物語(上・下)』がヒットした。2006年の出版だが、現在は古書でしか手に入らないみたい。例の『ダ・ヴィンチ・コード』の大ヒットを受けて関連本として出版されたのではないだろうか。
2008-01-31 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月30日(水)
事実状況診断と精神分析(DB)
1906
Tatbestandsdiagnostik und Psychoanalyse (GW)
Psychopathic characters on the stage (SE7-303)
事実状況診断と精神分析 (全集9-183 福田覚訳 2007)

キーワード:事実状況診断、連想実験、チューリヒ学派、ブロイラー、ユング、コンプレクス、アルフレート・アードラー、

要約:事実状況診断にブロイラーやユングらが研究中の連想試験を応用できないかということの考察。連想試験と精神分析の関連について。

関連論文:「日常生活の精神病理学にむけて」、「ヒステリー研究」、「夢解釈」

記事「事実状況診断と精神分析」を読む
2008-01-30 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月29日(火)
「事実状況診断と精神分析」を読む
 ウィーン大学の法学部教授A・レフラーの依頼によって、法学部学生を対象として行われた講義の記録である。全集では、長い脚注がたくさんついていて、その特殊な背景について説明している。
 ここで話題になっているのは、刑事裁判において被告がある事実を知りながら隠匿しているかどうかということを、心理学の連想試験という手続きによって判断できないかどうかという問題である。連想試験については、当時チューリヒのブロイラーとユングが研究をしていた。被験者は、与えられた刺激語に対して連想された語をなるべく早くに言わねばならない。その反応の時間や内容によって、刺激語が被験者のコンプレクスに触れているかどうかを判断することができるかもしれない。

 この講演の少し前に、フロイトとユングの書簡による交流がはじまった。講演ではユングらの研究を紹介しつつも、フロイト自身の失錯行為や症状行為についての研究、そして精神分析治療との関連について論じている。また、ここでフロイトとしてははじめて、「コンプレクス」という語を使用している。

 フロイトは、連想試験の研究のことは評価しつつも、それを司法に取り入れることについては慎重な意見を表明している。そのひとつの理由が、「神経症患者は、罪がなくても罪があるかのように反応します(9-194)」ということ。現実として罪を犯していないのに、心理的な罪責感のために罪を犯したかのような反応をすることがあれば、冤罪をつくりだす要因にもなりかねない。この指摘は連想試験だけでなく、被告の自白そのものの信頼性というより大きな問題にもつながってきそうだ。
2008-01-29 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月28日(月)
舞台上の精神病質的人物(DB)
1942[1905-6]
Psychopathishe Personen auf der Bühne (GW-Nb655)
Psychopathic characters on the stage (SE7-303)
舞台上の精神病質的人物 (全集9-173 道籏泰三訳 2007)

キーワード:演劇、情動からの浄化、叙情詩、「アイアス」、「ピロクテテス」、ギリシャ悲劇、謀反劇、市民悲劇、性格悲劇、宗教劇、性格劇、社会劇、心理劇、シェイクスピア「ハムレット」、バール「もう一人の女」

要約:心理劇において精神病質的登場人物の振舞いが観客の感動を誘う条件としては、劇の筋立ての中でその人物の病理的な面が表れること、観客が共通の葛藤を抱いていること、意識に上ろうとする心の蠢きは明確にされないままに諸々の感情によって掻っ攫われてしまうこと、がある。

関連論文:「詩人と空想」、「小箱選びのモティーフ」

記事「舞台上の精神病質的人物」を読む
シェイクスピア
2008-01-28 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月27日(日)
シェイクスピア
 フロイトは相当のシェイクスピア好きだったことで知られている。多くの著作の中で、作品や登場人物について言及したり引用したりしている。ひとつの作品を分析した著作としては、「ベニスの商人」を扱った「小箱選びのモティーフ」がある。言及された回数としては、おそらくハムレットが一番多かったのではないだろうか。もちろん、エディプスコンプレクスとのからみである。
 シェイクスピアには、別人説というのが幾つかあって、フロイトはシェイクスピア=オックスフォード伯説というのをかなり熱心に追求していた。「モーセという男と一神教」の注釈に、そのことが触れられている箇所がある。

 本論文では、シェイクスピアの劇が感動を与える秘密について、それが万人の抱いているコンプレクスに大きく関わり、そこの部分で観客の心を動かしつつも、それを明確に暴き出すことはしないところにあると指摘している。
2008-01-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月26日(土)
「舞台上の精神病質的人物」を読む
 フロイトの没後に「季刊精神分析」に英訳が発表されたのが初出(1942)で、実際には1905年末か1906年初めに書かれたものと推測されている。生前にフロイトからマックス・グラフ博士に送られた原稿であるという。どうしてその時に発表されなかったのだろうか。
 題名の「舞台上の精神病質的人物」とは、主にハムレットを指すのであるが、この文章ではハムレット自体の分析はなんだか中途半端なままに終わっている。だから、読んだ時にはこれは未完の原稿なのだろうと思ってしまった。

 この文章でおもしろいのは、演劇がどのように観客に快をもたらすかという考察である。もちろんそれは観客が主人公の人生を疑似体験するからなのだが、それが不幸な結末に終わるような悲劇もまた人々に感動をもたらすのはなぜなのか。
 そこでは、まず「われわれ自身の情動が存分に荒れ狂ったのち治まる(9-173)」ということが大事であり、それによってすっきりと心が軽くなるとともに、そこに副産物として「性的な共興奮」といったものが加わっているのだという。

 これは、演劇だけでなく現代であればすばらしい映画を見たときの感動などにも当てはまるだろう。たしかに、自分の人生だったら苦痛でしかないような作り話に涙を流せば、劇場を出たときにはすっきりした気分になる。安全なところに戻ってこれる保障があれば、激しい悲しみは心地よいカタルシスとなるということか。
 われわれの実人生は、なるべく激しい感情を避けるようにと臆病に舵取りをされている。疑似体験の中で普段していないような感情の氾濫をあえて起こさせることが、心の健康にとってもよろしいことなのかもしれない。その際におこるという「性的な共興奮」というのは、なんだかいまひとつよくわからないが。
2008-01-26 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月25日(金)
精神分析について(DB)
1910[1909]
Über Psychoanalyse (GW8-1)
Five lectures on psycho-analysis (SE11-1)
精神分析について(全集9-109 福田覚訳 2007)
精神分析について(著作10-139 懸田克躬訳 1983)

キーワード:S・ホール、C・G・ユング、J・ブロイアー、P・ジャネ、ヒステリー、夢の解釈、失錯行為、神経症の病因としての性、小児の性的発達、空想、芸術、転移、昇華

要約:一九〇九年九月七日から十一日にかけて米国クラーク大学で行われた講演内容を書き留めた文章。精神分析の開発と発展およびその概要について、わかりやすく解説している。

関連論文:「ヒステリー研究」、「夢解釈」、「日常生活の精神病理学にむけて」、「ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕」、「性理論のための三篇」

記事「精神分析について」を読む
第一日
第二日
第三日
第四日
第五日
2008-01-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月24日(木)
第五日
 最終日の講演では、空想、転移、そして分析治療の最終目的についての話題である。すべての人間にとって、文化が高い要求をつきつけてくる現実はつらいものであり、空想を抱いてその中で欲望を満たすという必要が生じる。エネルギッシュな生き方をする人は、行動によって現実を自らの空想に合うように変えていく。それが出来ない人は、現実に背を向けて空想にこもっていくのであるが、それだけでは済まない。ひとつの活路は芸術を創造することである。もうひとつの結末は、神経症にかかることである。どちらの結末でも、そうすることによって現実と再びある種の関係が築かれることになる。

 転移は、治療において患者が医者に向けるある大きさの情愛の念であり、そこには患者の無意識な古い空想的欲望が表現されている。医者は自らが触媒酵素の役割をはたし、この情動を一時的に引き受け、それを支配下に置くことによって心的なプロセスを望ましい方向にむけていく。フロイトの支持者は、転移を経験することで初めて神経症の病因に関する彼の見解の正しさを確信するようになったという。

 治療によって抑圧から解放された欲望の運命には、三種類ある。第一は、成熟した自我によって断罪されること。第二は、昇華によってより良い目的に使われること。そして第三は、直接的な満足を与えられること。
 こうして並べてみると、第二の昇華が一番望ましいように見える。しかし、すべての性愛的欲望を昇華に振り向けることはできない。性の制限があまりに広範に行われるなら、やりすぎによるあらゆる害がもたらされるであろう。シルダという街の笑い話によって示唆される警告によって、講演は締め括られている。
2008-01-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月23日(水)
第四日
 第四日は、神経症の原因としての性愛、そして小児の性的な発達についての講演である。論文でいえば「性理論のための三篇」に相当する内容であり、これまでの講演よりは難しく、初めてフロイト理論に触れる聴衆にはきびしかったのではなかろうか。

 まず目についたのは、小児の性欲を説明するのにクラーク大学の研究員であるサンフォード・ベル博士の論文をひいていること。論文では、2500もの実証的な観察例に基づく研究から小児における性的な起源を結論づけている。招待された大学の研究者の論文をひいてくるとは、なかなかのサービスぶりだ。

 また、ハンス症例についての報告をユングの講演で紹介された女児の観察例(「アンナ」実のところユングの娘アガーテ)とからめて論じたりもしている。もっとも、解説によるとこの部分は実際には第五日に述べられたもので、フロイトが執筆する際にホールの許可を得て改変した部分のひとつとのことである。

 そして、神経症の中核的コンプレクスに話題がおよび、エディプス王の神話やシェイクスピアの「ハムレット」の逸話がひかれる。ただし、ここでは「エディプスコンプレクス」という言葉は使われない。この言葉は、本講演の直後に書かれた論文、「性愛生活の心理学への寄与T――男性における対象選択のある特殊な類型について」で初めて登場するのだ。
2008-01-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月22日(火)
第三日
 第三日目からの講演は、二日目までのホールとは別の、大学図書館の美術室で行われた。同じ日の同じ場所で、フロイトの前にはユングが講演をしていた。両方を聴いた聴衆も多かったであろう。今から考えると、まさに夢のような講演会であったわけだ。

 講演の内容は、分析技法から夢の解釈、失錯行為へと及んでいく。その中でも、ユングなどチューリヒ学派の業績を高く評価しており、また「抑圧されたコンプレクス」といったユング的な言葉使いも多用していた。
 この後で、ユングとフロイトは袂を分かつことになる。そう考えると、これはますます貴重な歴史的瞬間の記録であるともいえよう。
2008-01-22 00:00 | 記事へ | コメント(2) |
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2008年01月21日(月)
第二日
 二日目の講演では、抑圧についての説明がなされる。ヒステリーについては、フランスのシャルコーとその弟子P・ジャネが心的な機制という点から研究をしていた。その考え方は、ブロイアーとフロイトのものと近いところもあるが、根本的な要因のところが異なっている。ジャネの考え方によると、ヒステリーにおける心の解離は、患者がもともと心的な統合作用の弱さをもっているためにおこるとされる。
 これに対し、フロイトの理論では心の葛藤が重視される。個人の中で他の欲望と相容れない欲望が、それに結びつく想い出と共に抑圧されることが、病気の根本的原因を形作る。

 この日の講演でも、説明のためのおもしろい比喩が登場する。講演の行われているホールで、もし大きな音をたてるなどして邪魔をする人物がいれば、彼はその場所から「締め出される(抑圧verdrängenされる)」だろうという。抑圧されたものの回帰としての症状形成、そして分析治療による症状の解消までの過程がこの比喩によって解説される。つまみ出された男を行儀良くするよう約束させた上でホール内に再び招き入れるスタンリー・ホール学長が、葛藤を調整して治癒を助ける分析医である。こういう社交辞令も織り交ぜた話しぶり、実にうまいとしかいいようがない。
2008-01-21 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月20日(日)
第一日
 五日間の講演の第一日目は、ブロイアーとの協力によってヒステリーに対する心理的治療としての精神分析が開発され、その最初の理論が形作られたいきさつについての話であった。この講演の頃のフロイトは、ブロイアーに敬意を表して、「精神分析を生み出したことが一つの功績であるとすれば、それは私の功績ではありません(9-111)」と述べている。しかし、1923年に付けられた注はこの発言を訂正している。1914年の「精神分析運動の歴史のために」において、フロイトは精神分析に対する責任を無制限に表明したのだ。たしかに実際の状況を見れば、精神分析はほぼフロイトが単独で開発したということの方が、事実に近いであろう。

 この日の講演でおもしろいのは、「ヒステリー患者は回想に苦しんでいる」ことを説明する比喩として、大都市を飾る記念建造物のことをあげているところだ。ロンドンにある、十三世紀のエレアノール王妃の葬列の記念に建てられたチャリング・クロスと1666年の大火を警告するために作られたモニュメント。それらの前で悲嘆にくれる現代のロンドン市民がいたとしたらおかしなことだが、ヒステリー患者とはそのようなものなのだという。
2008-01-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月19日(土)
「精神分析について」を読む
 一九〇九年九月、フロイトはアメリカのクラーク大学の創立二十周年記念行事に、学長のスタンリー・ホールによって招かれ、精神分析についての講演を行った。五日間連続で行われた一般向けの講演の内容は、帰国後フロイト自身により書き留められ出版された。

 治療技法としての精神分析の発見と発展、その初期の理論についてわかりやすく、興味深くまとめられている。フロイト一流のユーモアもいたるところに散りばめられており、後期理論は含まれていないものの、読みやすさの点ではフロイト入門として格好の文章といってよいだろう。
2008-01-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月18日(金)
W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢 (DB)
1907[1906]
Der Wahn und die Träume in W. Jensens "Gradiva" (GW7-29)
Delusions and dreams in Jensen's Gradiva (SE)
W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢 (全集9-1 西脇宏訳 2007)
W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢(著作3-5 池田紘一訳 1969)
グラディーヴァ/妄想と夢(作品社 種村季弘訳 1996)

キーワード:創作、詩人、夢、妄想、抑圧されたものの回帰、二重性、蜥蜴、マゾヒズム

要約:W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』の主人公ハーノルトの夢と妄想を、抑圧された幼児期の性愛的欲望とその回帰という観点から分析的に解釈した。詩人の作り出した夢も現実と同じように解釈することができる。

関連論文:「ヒステリー研究」、「夢解釈」

記事「W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢」を読む
文学を分析されることへの抵抗
種明かし
無関心の理由
幼馴染
蜥蜴のモティーフ
抑圧からの回帰
数学への逃走
ポンペイの魅力
治療者ツォーエ登場
妄想と夢における二重性
第一の夢
小説における偶然
旅立ち
第二の夢
動機が大事
夢は知っている
確信の由来
偽なるものへの擁護
能ある鷹は爪を隠す?
恋人の中に妹を見る
2008-01-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月17日(木)
恋人の中に妹を見る
 独語版全集の注釈では、フロイトが第二の夢の解釈において性愛的な内容を意図的に韜晦したのではとの推測が述べられていた。同じように感じられる箇所がもう一つある。それは、ハーノルトが宿で見かけた若い男女に好感をいだくシーンである。

 それまで露骨にいちゃつく新婚さんに辟易としていた彼であるが、この二人のことは初めて好感をもって眺めたのであった。ハーノルトは、彼らを仲の良い兄と妹であろうと推測する。しかし、翌日に人気のない遺跡で二人が熱い接吻をしている場面に出くわし、恋人同士であることを知った。

 ここのところは、小説ではとても印象的な場面であり、何か意味深いものがありそうに感じる。フロイトの分析はあっさりとしていて、ハーノルトが抑圧された性愛的傾向を再び承認するための準備段階として捉えられている。親密な恋人に嫌悪感を持っていた男が、兄妹のように見えるからという口実のもとに、カップルに好感をいだくという見方であろう。ここでは、当然「近親相姦的欲望」といった解釈が出てきそうなのだが、その記述はない。

 ただ、後で追加された「第二版への補遺」の中に示唆と思えるところがある。そこでは、イェンゼンの他の小説を紹介して『グラディーヴァ』との関連を述べている。

イェンゼンの最後の小説(『市井の方外』)は、詩人自身の青春に由来する多くの事柄を含み、「恋人の中に妹を見る」男の運命が描かれている。(9-106)

 ハーノルトのグラディーヴァ=ツォーエへの想いには、「恋人の中に妹を見る」側面があったかもしれない。そして、それは彼がツォーエへの想いを抑圧した動機になった可能性はないだろうか、などと想像してみる。
2008-01-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月16日(水)
能ある鷹は爪を隠す?
 グラディーヴァが蜥蜴取りをする第三の夢(注)には後半がある。夢の中でハーノルトが「実際これはずいぶんばかげた話だ」と思い、最後には、「どうやら、笑い鳥が蜥蜴を嘴にくわえて運び去ってくれたらしい(小説p.79)」となる。

 フロイトの解釈によると、昼間の体験においてツォーエが立ち去った後に聞こえた笑い声は、笑い鳥ではなく彼女がハーノルトを笑い飛ばしたものであることを、夢は明らかにしているのだという。さらに、アポロンがウェヌスを運び去る第二の夢との連想にも触れている。

 この部分には、独語版全集につけられた長い注釈がつけられている。笑い鳥=グラディーヴァ、蜥蜴=ペニスといった象徴により、この夢がなまなましい性的な意味をもつことに、フロイトは気づいていながら韜晦(とうかい:あえて隠すこと)したのだろうという推測だ。

 先の記事で、私も蜥蜴のモチーフをフロイトがあまり解釈していないことを指摘したので、注釈を見て「やはりそうか」と思った。しかし、もしそうだとするとなぜフロイトはそんなことをしたのだろう。「象徴解釈を乱用している」といった批判を想定して、慎重な分析にとどめたのか。

注:この記事では、小説に出てくる三つの夢に対応させてこう呼んでいるが、フロイトの文章では真ん中の短い夢は省略されて、蜥蜴取りの夢を「第二の夢」としている。
2008-01-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月15日(火)
偽なるものへの擁護
 前の記事の続き。ハーノルトの妄想における確信感は、抑圧された真実から、意識上にある別の事象へと遷移した。フロイトは、この例を妄想における確信感の成立と持続ということに一般化して論じている。

 妄想の特徴とは、常識的に考えたらありそうもないことを、根拠もなしに確信することである。フロイトによれば、この確信感は本来別の真実に結びついていた感情であり、それが別のものに遷移したが故により強固になってしまったのだという。妄想は、偽りであることの埋め合わせをするかのように、強く確信され主張されるのである。

 さらに、この原理は正常心理にも拡張される。

われわれ誰もが、真偽一体となっている思考内容にみずからの確信を付着させ、その確信を真から偽のほうへと拡張させるのである。(9-90)

 たしかに、自分自身を振り返っても他の人たちを見ても、真実そうなことは「本当かな」と自信なさげに言う傾向がありそうだ。「絶対に正しい」などと強く主張される事柄には、充分に注意しなければならない。そこには、偽りだからこそそれを擁護せねばならぬという、感情的な動機があるのかもしれない。
2008-01-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月14日(月)
確信の由来
 太陽館でいかがわしい骨董品の留金を買って立ち去るハーノルトは、とある窓辺に生けてあるアスフォデロスに目をとめると、それを留金が本物である保障であると思う。
 骨董品が本物であるかどうかと、窓辺に生けたアスフォデロスは何の関係もないのだから、ハーノルトの思考はなんとも不合理である。妄想知覚と呼ばれる病理現象に近い。

 フロイトの考え方はこうだ。ハーノルトの感じた確信感自体はまっとうなものである。それが、骨董品の真偽ということと結びついているから不合理に見えるだけである。その確信感は、本来は抑圧されて無意識的な別の考えに結びつくべきものなのだ。
 別の考えとは、「ツォーエはこの太陽館に泊まっていたのか」ということである。アスフォデロスは、ハーノルトがグラディーヴァ=ツォーエに贈った花だったのだ。
2008-01-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月13日(日)
夢は知っている
 ハーノルトがグラディーヴァに二回目に会った後、彼はいろいろと妙な出来事を体験した。蜥蜴の調査をしている動物学者との出会い。太陽館(アルペルゴ・デル・ソーレ)という宿屋では、主人の言葉を信じていかがわしい骨董品の留金を買い込んだ。

 その晩に見たのが、第三の夢である。物語は、いよいよクライマックスに近づいている。その日に体験した奇妙な出来事には、真実のヒントが散りばめられていた。ハーノルトは意識の上ではそのことに気づいていないが、無意識的には知っていたのだ。

「どこか太陽の下でグラディーヴァは坐っていて、蜥蜴を捕まえようと草の茎で罠をこさえている。さらに彼女は「ちょっと、じっとしていて――あの同僚女性が言ってたとおり、この方法は実にすばらしい。彼女はそれを使って大いに成果があったのよ」と言う」。(9-81)

 この夢の潜在夢思想は、ツォーエが父と共に太陽館に滞在しており、ハーノルトのことを蜥蜴のように捕まえて夫にしようとしているということを表現している。
 夢を見ながらハーノルトは、「これじゃ全くの気違い沙汰じゃないか」と思うのだが、この感想はそのまま潜在夢思想に向けられたものでもあった。
2008-01-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月12日(土)
動機が大事
 ハーノルトは、グラディーヴァとの出会いに際していろいろと不合理な思考をしている。目の前に現れた女性が、古代からよみがえったグラディーヴァであるとするにはおかしな点がたくさんあるのだが、彼はそれらの矛盾に目をつぶって信じきっている。

 フロイトの心理学ですばらしいところは、動機を大事にすることである。人が不合理な事柄を信じてしまった場合、それは彼の判断力が低下したためと考え勝ちである。しかし、判断力の低下はあらゆる方向に起こるわけではない。その人が、信じたい方向に起こるのである。つまり、信じたいという動機が根本的な要因であって、判断力の低下は二次的に生じるのである。

 フロイトはおもしろい例をあげている。ある医師は、自分の治療上のミスによってバセドー病の女性患者を亡くしてしまったと気に病んでいた。数年後、目の前にその女性の姿が現れた時、彼は「死者がよみがえることができるというのはやっぱり本当なんだ(9-80)」としか思えなかった。実は、その女性は患者の妹であることがわかった。そして、その医師とはフロイト自身のことであった。

 常に合理的な思考を手放さないフロイトにして、一瞬ではあるがオカルト的な現象を信じてしまった。女性患者にまつわる罪責感、彼女が生きていてくれたらという願望、それらの強い動機によって判断力が低下してしまったのだ。
2008-01-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月11日(金)
第二の夢
 性愛からの逃避として旅立ったハーノルトだが、ローマに行ってもアテネに行っても周りは新婚旅行のカップルばかりでうんざりであった。皮肉なことだが、逃げれば逃げるほど追いかけてくるのは、主張する性愛と抑圧しようとする傾向との葛藤によって、自ら招いた結果なのだからしかたがない。おまけに、滞在先のホテルでは、アウグストとグレーテという熱々の二人の隣室になって、壁越しに聞こえるいちゃついた会話に悩まされる。その晩に見たのが第二の夢である。

 またまたヴェスヴィオ山が噴火したポンペイである。そこに現れたのは、カピトリーノのウェヌスを荷車か何かに乗せて、ギシギシきしらせながら運ぶベルヴェデーレのアポロであった。

 フロイトは「この夢を解釈するのに、いずれにせよ格別の技術は必要でない」とだけ書いている。当然過ぎて言うまでもないということだろうが、つまり露骨な性行為への欲望を表した夢ということだ。
2008-01-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月10日(木)
旅立ち
 ポンペイでグラディーヴァと出会う夢を見たハーノルトは、突然路上でグラディーヴァの歩き方をする女性を発見するが見失い、さらには向かいの建物のカナリヤの鳴き声を聞くうちに、旅立ちの決意をした。後で分かったことだが、グラディーヴァに見えた女性は実はツォーエであった。カナリアはツォーエの家のものだった。

 ハーノルトは行き先もはっきり決めずに旅立ったが、ローマからナポリと道をたどりポンペイを訪れる。そこでグラディーヴァと出会って、はじめて彼自身この旅行の目的が最初からグラディーヴァを追い求めることだったと思い至ったのであった。

 この旅立ちに至る経緯を、フロイトはツォーエへの性愛的欲求の回帰とそれを抑圧しようとする力とのせめぎ合いと見た。前者はグラディーヴァに似た女性その実ツォーエの発見とカナリヤへの注目であり、しかしそこまで近づいてもツォーエそのものには行き当たらずに、最終的にはグラディーヴァという妄想の方向へと逃走してしまう。それが旅立ちの意図であった。

 以上がフロイトによる構成だが、前の記事で書いた私の想像とは、ツォーエからの逃走という点で反対になっている。しかし、大きなまわり道をして、最終的にツォーエへの性愛が勝ったのだと考えれば、両方の構成が共に成り立つことも可能なのではなかろうか。
2008-01-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月09日(水)
小説における偶然
 小説においては、いろいろな偶然の出会いといったものが、物語の重要なポイントになる。しかし、これが現実にありそうもないような偶然だと、読んでいる方はしらけてしまうこともある。

 さて、小説「グラディーヴァ」では、ポンペイの夢を見て旅に出ることを思いついた主人公ハーノルトが、最終的にたどりついた先がポンペイであった。一方ツォーエの方は、動物学者の父がいつものように発作的に蜥蜴の調査に出掛けることを思いつき、そのお供についてポンペイに来たのであった。そこで、二人は再会するのだが、果たしてこれは単なる偶然なのだろうか。

 この点については、小説では特に何も触れていないので、普通に読むと単なる偶然なのかと思える。フロイトも特に分析していない。しかし、私はここは偶然ではないと考えたい。

 ハーノルトは、幼馴染のツォーエ・ベルトガングと斜め向かいに住んでいた。彼女の家で飼っていたカナリヤの鳴き声は聞こえていたが、彼女のことはすっかり忘れていた。これだけ近くに住んでいれば、当然彼女の生活場面を見聞きする機会はたくさんあるはずなのだが、彼女のとの想い出を抑圧していたために全く注意が向かなかった。
 ツォーエの父が学問的調査のために、しばしば旅行に出掛け、彼女もついて行っていたこと。とりわけ、ポンペイ付近の蜥蜴に興味を持っていたこと。そういった事柄の会話は、ハーノルトの耳に時折入り、無意識を通じて彼の空想や夢に影響を与えた可能性はある。
 ポンペイ行きを急に決めて、あたふたと準備するベルトガング家の様子も、おそらくハーノルトは無意識に聞いていたのだろう。それは、ポンペイでグラディーヴァと出会う夢を作り出し、覚醒してから旅立ちを決意させ、最終的にポンペイに彼を向かわせた。

 以上の構成は、私の想像であるが、このようなことはあながちあり得ないことではない。そう考えた方が、ずっとおもしろい。
2008-01-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月08日(火)
第一の夢
 ノルベルト・ハーノルトは、ヴェスヴィオ山が噴火してポンペイが滅亡する日に、その場所でグラディーヴァに出会う夢を見た。フロイトの分析は、3つのポイントを指摘している。

 第一に、夢の中でハーノルトがグラディーヴァと「思いがけないことに同時代に生きている」ということは、グラディーヴァの正体であるツォーエと同時代に生きていることを示している。
 第二に、グラディーヴァの息切れた顔が石像のように変化していくくだりは、彼の関心がツォーエから石像に移ってしまったことを表している。
 第三に、夢を見ている最中の不安は、拒絶された性愛的欲望を表し、それは階(きざはし)にグラディーヴァが横たわるシーンに見て取れる。

 フロイトの分析は的確だと思うが、私としてはこれにひとつ付け加えてみたいことがある。夢の中で、グラディーヴァがとっている態度である。
 彼女は「独特の、周囲に目もくれぬ無関心な面持であるいていった(小説p.15)」のであり、ハーノルトが心配して警告の呼びかけをすると、こちらにくるりと頭を向けたが、「しかし素知らぬ顔でそれ以上気にとめることもなく、これまで通り行手をさして歩をすすめた」のであった。
 夢の中でグラディーヴァがとった態度は、まさにハーノルトがツォーエや、女性一般に向けた態度そのものではないのか。つまり、これはハーノルトとツォーエの立場を夢の歪曲によって逆転した形で表現しているのではなかろうか。
 現実においては、積極的なツォーエの態度に怖けづいて逃げ出したのはハーノルトの方であった。その外見上の無関心の裏には、燃え上がる性愛的欲望に危険を感じて抑圧する彼がいたのではなかろうか。

 それと、もう一つの思いつきだが、ヴェスヴィオ山の噴火ということ自体も、男性的な性欲の放出ということを象徴しているのではないだろうか。この点にもフロイトは触れていないが。
2008-01-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月07日(月)
妄想と夢における二重性
 ツォーエ=グラディーヴァは、ハーノルトに二重の意味を持つ言葉で話しかけた。一つの言葉で、グラディーヴァの物語と、ツォーエの物語とを同時に語ろうとするのである。

 この二重性は、ハーノルトの妄想の二重性と対応している。妄想の中で、彼はまさにグラディーヴァと対話していると思っている。妄想のこの表向きの内容の下には、本人も気づかない無意識的な欲望、すなわちツォーエに対する性愛的な欲望が潜んでいる。その欲望は抑圧されたが、力を持ち続け、そして変形されることでついに意識的な生活の中に表現されることを許されたのだ。このように妄想は妥協の産物なのだから、その不満足感がさらなる妄想形成の原動力となるのである。

 妄想の構造は、夢の構造と同じである。夢は、意識される顕在夢内容の背後に、潜在夢思想を持っている。潜在夢思想は、そのままの形では実現せずに抑圧された欲望であり、歪曲されることではじめて意識的になることができたのである。
2008-01-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月06日(日)
治療者ツォーエ登場
 自室に飾ったレリーフを見て空想に浸るハーノルト。この時点では、まだ彼は正常の心理状態にいる。つまり、現実と空想との区別がついている。
 ところが、ポンペイでグラディーヴァを目撃したとたんに、客観的な視点から言うと、そこで目撃した女性をグラディーヴァと信じ込んでしまったとたんに、彼の思考と判断力は混乱して病的な域に達してしまったのだ。(正確に言うと、彼がポンペイの夢に触発されて、旅立つ時から、その非合理的な思考ははじまっていたのではあるが。)

 グラディーヴァの正体であるツォーエの立場から見ても、さぞかしこの出会いは驚くべきことだっただろう。密かに思いを寄せていたハーノルトと、思いがけない場所で会ったことも、さらに彼が自分のことをとんでもない勘違いして捉えているということも。

 普通ならここで、「なにをおかしなことを言っているの!」で終わりになってしまうところだが、そうはならなかった。彼女は、ハーノルトの妄想をささえる空想が、変形されたツォーエへの思慕から成立していることを鋭く見抜き、早速その「治療」に乗り出したのであった。

 この治療における重要な技巧は、言葉に二重の意味をもたせることである。妄想を真っ向から否定してしまえば、関係が終わってしまう。かといって、妄想に調子を合わせているだけでは、いつまでたっても現実に戻ってこれない。
 そこで、ツォーエは、ポンペイから蘇ったグラディーヴァの言葉としても理解でき、かつそこに自分とハーノルトの関係を暗示するように二重の意味を持つ言葉によって語りかけるのであった。
2008-01-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月05日(土)
ポンペイの魅力
 小説「グラディーヴァ」がポンペイを舞台にしているということは、フロイトがこの作品に興味を持つにあたって重要なことだった。鼠男症例では、抑圧された思いで痕跡を分析治療で再構築することを、ポンペイの遺跡とその発掘に例えて説明している。

 周知のように、ナポリ近郊にあるこの都市は、西暦79年のヴェスヴィオ火山の大噴火によって一瞬にして滅亡した。当時の人々にとっては大惨劇であったのだが、このために当時の街の暮らしがすばらしい完全さで保存され、発掘によって復元されたのであった。

 ここからの類似で、外傷体験の想い出は、抑圧によって意識から遠ざけられるために、却ってその後の体験によって磨り減らされることなく、活き活きした力を発揮し続ける。その作用によって作られるのが神経症の症状である。分析治療の目的は、抑圧された想い出を発掘することによって、症状形成のメカニズムを断ち切ることである。

 精神分析という発掘作業は、患者には症状からの解放を、分析者には忘却されたかに見えた幼少期の体験についての貴重な知識をもたらし、それによってフロイトはひとつの心理学体系を築き上げた。

 精神分析とポンペイの遺跡には、さらに偶然とは思えないアナロジーがある。ポンペイの守護神は、美と恋愛の神ウェヌスであった。街には娼館が立ち、男女の交わりを描く鮮やかなフレスコ画も残っている。抑圧されたものは、性的なものであったということ。

 小説では、主人公ハーノルトと、ツォーエの父ベルトガング教授が、それぞれの学問的関心に惹かれてポンペイにやってくる。そこには、昇華された性欲動追及としての学問ということが表現されているのであろう。
2008-01-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月04日(金)
数学への逃走
 性欲を抑圧する手段として、学問に没頭するということはよくある。また、学問への集中を邪魔をする最大のものは、異性への関心を含めた広い意味での性欲であるということも言えそうだ。
 学問にもいろいろ分野があるが、「性的なことから気をそらすものとしては、数学が最大の名声を享受している(9-39)」のだという。

 自分のことを振り返ってみれば、中学から高校の時に一番好きな学科は数学であった。たしかに、数学は人間くささとは対極の純粋に抽象的な思考の学問である。難しい証明問題の答えがわかったた時の快感というのはなんともいえない。この快感は異性への関心とは表面的には別種のものだが、美しい理想的な体系に憧れて求めていくという点は共通しており、やはり昇華されたリビードがそのエネルギーになっているということは納得いく。
 ちなみに、高校時代にならった数学教師は、数学を愛しつつ、異性への関心も旺盛なことを隠さないおおらかな先生であった。
2008-01-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月03日(木)
抑圧からの回帰
 ノルベルト・ハーノルトは、幼い頃近所の少女ツォーエと親しい関係であったことをすっかり忘却していしまった。この忘却を、フロイトは「抑圧」という語で呼んだ方がよいだろうと提案している。彼は、他の女性すべてにも興味を失い、考古学の学問の世界へと逃げ込んでしまった。
 しかし、抑圧されたものは回帰する。

回帰するものは、担い手となった抑圧するものの中や背後に身を潜めつつ、最後にはわれこそは抑圧されたものである、と高らかに勝利を宣言して姿を現すのである。(9-38)

 つまり、ハーノルトの場合には、抑圧されたもの=ツォーエとの想い出は、抑圧の担い手=考古学の中から回帰したのであり、それがグラディーヴァについての空想であった。
 この説明のために、フロイトはフェリシアン・ロップス(1833-1898)という画家の銅版画をあげている。編注によれば、これは1878年作の「聖アントワーヌの誘惑」という作品とのことである。私は知らなかったが、ネットで調べると独特の画風で今風に言えば「エロ・グロ」の作品をたくさん残しているようだ。行儀のよい人の顰蹙を買いそうな絵だ。
2008-01-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月02日(水)
蜥蜴のモティーフ
 小説「グラディーヴァ」では、蜥蜴(とかげ)が重要なモティーフになっているようだ。ノルベルトが、最初にグラディーヴァの空想をする場面から蜥蜴は登場する。空想の中で、グラディーヴァはポンペイの真昼の街頭を渡っていく。

そのあいだをグラディーヴァは踏み石を渡ってあゆみ、緑金にきらめく蜥蜴を踏み石から払いのけた。(「グラディーヴァ/妄想と夢」p.11)

 そして、旅に出たノルベルトがポンペイの遺跡で、初めてグラディーヴァを目撃するシーンでも、大きな蜥蜴が踏み石に横たわっていて、近づく人影にするりと逃れた。空想どおりの場面が実現したのである。

 さらに、グラディーヴァとの2回目の逢瀬の後、ノルベルトは親しげに話しかけてくる紳士に出会う。彼は蜥蜴の調査をしている動物学者らしく、特にファラグリオネンシスという蜥蜴の生息に興味を持って追跡していると言う。実はこの紳士、グラディーヴァ=ツォーエの父親リヒャルト・ベルトガング教授であった。

 この場面の影響を受けてか、ノルベルトはその晩奇妙な夢を見る。夢の中で、グラディーヴァは蜥蜴を捕まえようとして言う。「ちょっと、そのままじっとしていて――あの女の同僚のいっていた通りだわ、この装置はほんとに便利。彼女はこれを使って大成功したのよ――(同p.79)」。

 ツォーエは幼少期から父と二人で暮らしてきたが、その父はアルコール漬けの蜥蜴にばかり関心を向けて娘のことなんかかまってくれなかったのだった。そして最後の場面で、ツォーエはノルベルトとの結婚を父が許してくれなかった場合には、めずらしい蜥蜴をつかまえて、娘とどっちを選ぶか選択させるという手を使えばよいと提案するのだった。

 フロイトは、蜥蜴についてはあまり詳細な分析はしていない。しかし、蜥蜴がペニスを象徴すると考えれば、ツォーエにとってはペニス羨望の態度であり、ノルベルトについてはグラディーヴァを「男性を虐待する女性」といった風に見ている、といった解釈もできそうだ。
2008-01-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月01日(火)
幼馴染
 前記事の続きで、ノルベルトはどうして女性に無関心になったかということ。ちなみに、ノルベルト・ハーノルトのことを小説では名前の「ノルベルト」と呼ぶことが多いのに、フロイトは「ハーノルト」と姓で呼んでいる。なぜだろう。

 ノルベルトの生育歴の詳しいことはわからないが、最後にグラディーヴァの正体であるツォーエ・ベルトガングが登場して、彼と彼女とは幼少期にごく近しい仲であったことが明らかになった。彼らは何かの契機で離れてしまったわけではなく、その後もすぐ近くに住んでいたのであるが、ノルベルトの方からしだいに疎遠になってしまった。
 ツォーエとの想い出が忘却され女性一般に向けられる欲望が抑圧されたとなると、その原因自体も彼女が作ったのではないかと推測したくなる。つまり、ノルベルトにとって、ツォーエにまつわる何か外傷体験のようなものがあったのではないか。

 ツォーエはどちらかというと、お転婆な娘だったようである。そして、小説後半のツォーエ=グラディーヴァが、ノルベルトと対話する場面でも、彼女のほうがサディスティックで、ノルベルトはマゾヒスティックな態度をとっているように見える。幼い二人の関係においても、ツォーエの強引で征服するような愛にノルベルトがたじろいで逃走するといったことがあったのではなかろうかと、想像してみる。
2008-01-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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