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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2008年02月29日(金)
性格と肛門性愛(DB)
1908
Charakter und Analerotik (GW7-201)
Character and anal erotism (SE9-167)
性格と肛門性愛(全集9-279 道籏泰三訳 2007)
性格と肛門愛(著作5-133 懸田克躬・吉村博次訳 1969)
性格と肛門愛(ちくまエロス論集 中山元訳 1997)

キーワード:几帳面、倹約、強情、肛門性愛、糞便、金銭

要約:成人してからの几帳面、倹約、強情という性格と、幼少期の大便失禁の遷延と肛門性愛の快をあきらめない態度との関連。無意識における金銭と糞便の象徴的な結びつき。

関連論文:「性理論のための三篇」

記事「性格と肛門性愛」を読む
うんちはなぜ汚いのか
カカオの魅力
倹約の美徳
2008-02-29 00:00 | 記事へ | コメント(3) |
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2008年02月28日(木)
倹約の美徳
 糞便をためることと倹約することとの心理的な結びつき、無意識における「糞便=金銭」という等式が提示される。

 適度に倹約をするということは、われわれの生活を安定して快適なものにする上でも、また無駄の少ない生活によって自然破壊などの悪影響を防ぐためにも望ましいこととされている。
 しかし、過度の倹約というものは、往々にして当人の自己満足的な側面が強い。周囲の人、特に生計を共にするような家族にとってははなはだ堅苦しく、迷惑なものである。

 私たちは、お金を貯めることで何か価値あるものを増やしているかのような錯覚に陥ってしまいがちである。しかし、お金の価値は消費をすることによってのみ個人に還元されるのだ。将来価値あるものを買うために貯金するのには意味があるが、ひたすら倹約して最後まで使わずに死んでしまったら遺産を受け継いだ子孫を喜ばせるだけのことだ。もちろん貯めたお金を寄付するなどして利他的行動に価値を見出す方もおられるだろうが。

 このあたりは、糞便にまつわる快とたしかに類似性がありそうだ。最初は、なるべく多くの便をためてから排出すると気持ちいいから、ということでなされる我慢が、後にそれ自体が習い性のようになってしまい、ひたすら保持する姿勢というものが固定化していまうのだろう。
2008-02-28 00:00 | 記事へ | コメント(3) |
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2008年02月27日(水)
カカオの魅力
 肛門性愛のことを説明するためにつけられた注釈の事例がとてもおもしろい。そこでは、ココア・メーカーのヴァン・ホーテンのことが話題になっているのである。
 コンラッド・ヨハネス・ヴァン・ホーテン(1801-1887)は、オランダの化学者でありカカオ豆から脂肪を取り除いてココアパウダーを作る技術を開発した。こうして設立されたのが、ココア・メーカーのヴァン・ホーテン社であったのだ。100年前のフロイトの著作に出てくる固有名詞が、今も身近な存在であるというところがめずらしく、親しみを感じた。

 ヴァン・ホーテンのココアは、子供の頃によく飲んだものだ。今でも、家に一缶は置いてある。おいしいココアを作るには、ココアの粉と砂糖に少量のお湯を注いで、スプーンでよく練ってペースト状にしてから、温めた牛乳を注ぐ。ここでじっくりと練る程においしくなるのだ、と教えられて必死になって練ったもの。このココアを練るという作業は、たしかになにか糞便を連想させるものがあるかな。
 独特の味と香りをもつココアやチョコレートが、これ程までに人々を魅了してやまないというのも、なにか肛門性愛と関係があるのかもしれないと思ったりした。
2008-02-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月26日(火)
うんちはなぜ汚いのか
 糞便というものが、なぜこれ程汚がられるのか、というのは確かに興味深い問題だ。冷静に考えてみると、うんこはそれ程汚いものではない。もちろん、大便には伝染性の病原体が含まれているかもしれないという衛生上の問題はある。しかしばい菌がいて不潔ということなら、口の中だって相当不潔だ。でも、好きな人とキスをするのに汚いと感じることはないよね。

 自分のうんこに関して言えば、少し前までは自分自身の体内にあったものなのだから、それが外に出てしまったとたんに汚く感じられるというのもまた妙な話だ。

 うんこが汚いと感じられる理由のひとつに、その臭いがあるのだろう。好きな人であっても、その人が排便をした直後のトイレに入ったら臭い。自分の大便については、している最中には不思議とあまり感じないが、いったんトイレから出てまた入るとやはり臭い。
 もっとも、臭いについての快不快は、かなり主観的なもののようだ。良い匂いは弱い匂いであることが多く、強くすれば大抵は臭くなる。うんちの臭いも、薄めたら果たしてよい香りになるのか。

 小さい子供がうんちを汚がらずに喜んでいることなど見ると、やはり「うんこが汚い」というのは教育によって大人が植えつけた考え方なのであろう。子供がやたらと「うんち」という言葉を連発し、親にたしなめられるという時期があるものだ。では、なぜ必要以上にうんちを汚いものと扱い、そのように教育する必要があるのか。

 よくわからないが、排便が快であるからその反動形成として忌避されるようになったというのは、けっこう魅力的な仮説だ。口唇部の性愛と違い、肛門部の性愛は、成人してからのいわゆる完成された性生活の中に組み込まれる余地がほとんどなく、もっぱら個人的な快にとどまり続けるということも関係しているのであろう。

 確かに、うんこをすることはなかなかの身体的快感である。ある程度の量がたまって適度に硬さのある大便をすっきりと排出するのは気持ちよい。だけど、便秘でもなく下痢でもないちょうど良い具合というのはなかなか難しいものでもある。
2008-02-26 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月25日(月)
「性格と肛門性愛」を読む
 几帳面、倹約、強情という三点セットの性格と、肛門性愛の固着ということの結びつきについて述べた論文。最初に発表された時の世間の衝撃と憤慨には並々ならぬものがあったらしい、と解題に書かれていた。
 どの部分が当時の人々の反発を買ったのかまでは書かれていないが、おそらくうんちとかおしっこといったシモの話を、性格形成ということと結びつけた点であろう。しかも、その結びつきたるや、肛門に関心のある人は下品だとかいうのではなく、几帳面な人こそ肛門性愛に固着しているというのだから。そりゃあ世間の、特に几帳面で立派な面々は反論したくなったのも無理はない。

 すでに、神経症の原因は性にあるとか、小児に性欲があるといった発言で物議をかもしていたフロイトであったが、それにも増してこの肛門の話がインパクトをもっていたというのはなんとなくわかるし、そのインパクト自体が主題の本質と深く関わっているのだろう。
2008-02-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月24日(日)
「文化的」性道徳と現代の神経質症(DB)
1908
Die "kulturelle" Sexualmoral und die moderne Nervosität (GW7-141)
'Civilized' sexual morality and modern nervous illness (SE9-177)
「文化的」性道徳と現代の神経質症(全集9-251 道籏泰三訳 2007)
「文化的」性道徳と現代人の神経過敏(著作10-108 高橋義孝訳 1983)

キーワード:フォン・エーレンフェルス「性倫理」、自然的性道徳、文化的性道徳、一夫一婦制、W・エルプ、L・ビンスヴァンガー、フォン・クラフト=エービング、神経質症、神経衰弱、文化による欲動の抑え込み、禁欲、マスターベーション(自慰行為)

要約:現代社会における神経症質の蔓延の原因は、文化的性道徳の強制すなわち文化による性欲動の抑え込みにある。禁欲は若い男性を臆病にし、マスターベーションによって性への嗜好を誤らせる。未婚女性への禁欲は結婚後の不感症と神経症の原因となる。それら夫婦の性生活の歪が子供の性的早熟と神経症素因の形成をまねく。

関連論文:「性理論のための三篇」、「ある錯覚の未来」、「文化の中の居心地悪さ」

記事「「文化的」性道徳と現代の神経質症」を読む
神経質症および神経衰弱についての概論
神経症の分類
文化による欲動の抑え込み
夫婦生活の実態
禁慾の害
マスターベーションの害
そのツケは子供たちへ
2008-02-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月23日(土)
そのツケは子供たちへ
 文化による性欲動の抑え込みによって、多くの結婚生活は実りの少ないものになってしまう。そして、そのような不幸な連鎖の最終的なツケは、子供にまわされることになるのだ。

夫に満足していない神経症の妻は、自らの愛の欲求を子供に転移するため、母親として、子供に対して過度な情愛と気遣いを向け、子供の性的早熟を呼び起こす。加えて、両親の関係がしっくり行っていないために、子供は、感情生活を刺激され、ごく幼くして、愛情や憎悪や嫉妬を強烈に感じるようになる。(9-275)

 子供に掻き立てられた強烈な感情は、教育によって抑え込まれ、それが神経症の素質を形成する。こうして、神経症は世代を通じて拡大再生産されていくわけである。
 ぞっとするような話だが、これもまた現代社会で進行している家族の病理に、そのまま当てはめることができそうである。
2008-02-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月22日(金)
マスターベーションの害
 禁欲をつらぬくにあたって、多くの人にとって重要になってくるのが、代理満足としてのマスターベーションである。そして、このマスターベーションにもまた大きな害がある、とフロイトは説く。

そればかりかマスターベーションは、甘やかしによって性格をだめにしてしまう。(9-273)

 つまり、マスターベーションは現実の性行為に比べて、あまりにも簡単にできてしまう。そして、その空想の中で、性的な対象が、あまりにも素晴らしいものに理想化されてしまう。これらのことが問題なのだ。

 現代における男性のマスターベーションの実情については、実は間接的に伺い知ることができる。それは、いわゆるAVビデオをはじめとするポルノである。それらはマスターベーションに伴う空想の材料とされるため、それによって男性らの空想の平均的動向を推し量ることができるのだ。性的対象はますます理想化され、それを求める行為はますます倒錯の度合いを高めており、それによって現代の青年はますます甘やかされていることがわかる。
2008-02-22 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月21日(木)
禁慾の害
 この論文は実におもしろい。特に、性生活の分野において禁欲的な生活を送っているタイプの人にお勧めである。
 フロイトは、これでもかとばかりに、禁欲のもたらす害を並べたてていくのだ。

むしろはるかに頻繁に見られるのは、禁慾が実直な弱虫を育て上げるという事実、強い個人によってふきこまれた衝動に抗いながらも従ってゆくのを常とする大きな群衆のなかにやがて埋没してゆく弱虫をつくり出すという事実である。(9-270)

 禁欲をすることは個人にとってはつらいが、社会的には無難な態度である。禁欲的に暮らしていて、誰かから文句を言われることはあまりない。でも、それは人に非難されたくないことを最優先する弱虫の態度なんだね。

人が性愛においてとる振舞いは、往々にして、その人が人生で見せるそれ以外のすべての反応の仕方の範例ともなっている。(9-272)

 性的な対象を獲得するのに積極的な人は人生の他の分野でも積極的だし、性的欲動を断念する人は他の分野でも融和的で忍従的な振舞いをするということだ。
2008-02-21 00:00 | 記事へ | コメント(5) |
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2008年02月20日(水)
夫婦生活の実態
 諸々の性欲動を抑え込む文化が、唯一公式に認めている性生活が結婚生活である。しかしながら、そこで得られる性的満足が、いかに短時間しか続かず、わずかで不十分なものであるかを、フロイトは滔々と語っている。

 それにしても、夫婦生活の実態について、いかなるデータから一般論を引き出したのか気になるところだ。このような内容を公言すれば、当然人は「フロイト家ではそうなのか」と想像してしまうであろう。そう考えると、これはなかなか勇気ある発言である。あるいは、ここに書かれていることは当時の常識だったのか。

性行為の結果に対する不安とともに、まずは夫婦相互間の肉体的情愛が消えうせ、たいていの場合、これに引きつづいて、当初の怒涛のごとき情熱のあとを継ぐはずだった心の面での愛着も霧散してしまう。こうして、ほとんどの結婚生活の運命的到達点としての心の面での幻滅と肉体面での不足不満のもとで、夫婦はともに、結婚前のかつての状態に逆戻りすることになる――ただし今回は、錯覚がなくなった分だけより貧しくなり、そのうえ、あらためて、性欲動を制御し他へ逸らせるという覚悟を強くせざるをえないのである。(9-267)

 「結婚生活の運命的到達点」の後に、夫は、妻は、どうなるのか。多くの男性は、「しぶしぶながら黙認されているいくらかの性的自由を行使する」という。これは、売春などの手段を利用するということであろうか。

 女性の場合には、姦通をするか、躾が厳しくてそれもできない場合には、もはや神経症への道を歩むしかなくなるのだという。

 姦通というのは、当時それほど一般的なものだったのか。そういえば、スタンダールやバルザックの小説を読んでいると、結婚した女性が若い男と姦通する話がやたらと出てきて、夫がそれを黙認しているようなこともあり、当時の社交界ではそんなものだったのであろうかと思ったことがある。
2008-02-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月19日(火)
文化による欲動の抑え込み
 本論文が書かれた1908年は、現在2008年のちょうど100年前ということになる。100年前の西欧社会についての分析と批判なのであるが、そのまま現代の日本にもあてはまりそうなことが多い。

 テクノロジーの発達による生活の急速な変化によって、人々が精神的に疲弊して神経質症の蔓延をもたらしているという。現代社会がストレス社会と呼ばれ、うつ病をはじめとする精神的不健康が増加しているということも、これと類似した現象と捉えられるのではなかろうか。

 フロイトは諸論者の説を認めつつも、そこで指摘されていない最大の要因として、文化による性欲動の抑え込みということをあげている。
 これを現代日本の社会にあてはめると、どうなるのだろうか。一見すると、われわれの文化では以前よりも性欲動の抑え込みは緩くなっているように見える。しかし、よくよく考えてみると、必ずしもそうではないのかもしれない。

 例えば、もう数年くらい前のことにはなるが、「不倫」という言葉がブームのようになったことがある。結婚した男女が夫婦以外の異性と関係をもつといったことを題材とした小説やらドラマが大流行した。
 このような現象を見ると、あたかも婚外交渉のごときが以前よりも自由に行われているかのような印象を与えられる。実際のところは、どうなのか私は知らないし、信頼できるデータが存在するかどうかもわからない。ただ、不倫がブームになった時には、それに反対する声もまた大きく盛り上がったことも事実であろう。

 現代日本の社会においては、従来の価値基準から見て不道徳なことも含めて、やたらと刺激的な欲求がフィクションなどによって駆り立てられている。このために、そこで暮らす個人は、以前よりも強烈で倒錯的な性欲を抱くようになっている傾向があるだろう。にもかかわらず、大半の人々は現実にはさほど自由に欲求を満たせているわけではない。したがって、欲望されるものの大きさと、実際に満たされるものの大きさの比率からすると、性的欲求不満はますます増大しているといえるのではなかろうか。
2008-02-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月18日(月)
神経症の分類
 フロイトの神経症の分類は、現代のもとのとは少し違うので、ここにまとめておこう。

現勢神経症(Aktualneurose)
狭義の神経症であり、中毒性の性質をもつ。現在の性生活の障害がその原因。神経衰弱と不安神経症が含まれる。

精神神経症(Psychoneurose)
遺伝的影響がより大きい。症状は心因性で、性的な内容をもった無意識的コンプレクスによる。ヒステリーや強迫神経症が含まれる。

 本論文で話題になっている神経質症(Nervosität)は、現勢神経症と精神神経症の両方にまたがる諸症状の観察される幅広い状態を指しているようだ。
2008-02-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月17日(日)
神経質症および神経衰弱についての概論
 本論文の前半では、いろいろな著名人の引用がでてきておもしろい。
 ゲシュタルト心理学のエーレンフェルスに続いては、ドイツの神経学者ヴィルヘルム・ハインリヒ・エルプ(1840-1921)の『われわれの時代の増大する神経質症について』(1893)が引用される。そこでは、人々が現代的な生活の中で官能と享楽の激情を駆り立てられることが、神経質症の増加をもたらしていると主張されている。

 続いて、現存在分析の創始者ルートヴィヒ・ビンスヴァンガー(1881-1966)の『神経衰弱の病理学とその治療』(1896)。そこでは、神経衰弱の病因を現代生活におけるテクノロジーの進歩に結び付けて論じている。また引用箇所には「神経衰弱」という概念を提唱したジョージ・ビアード(1839-1883)の名もあがっている。

 さらに、ウィーン大学の精神医学者でサディズム、マゾヒズムの名付け親として知られるリヒャルト・フォン・クラフト=エービング(1840-1902)の『神経質症と神経衰弱的状態』(1895)。神経質症の蔓延は、社会の急速な変化によって、人々の神経系が緊張と消尽を強いられることが原因としている。

 神経質症および神経衰弱についての当時の考え方を概観した後に、フロイトの『神経症小論集』(1906)が引かれ彼自身の理論が紹介されることになる。
2008-02-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月16日(土)
「「文化的」性道徳と現代の神経質症」を読む
 クリスティアン・フォン・エーレンフェルスの著書『性倫理』(1907)に触発されて書かれた、社会・文化批判の論文。フォン・エーレンフェルス(1859-1932)はプラハ大学の哲学教授で、いわゆるゲシュタルト心理学を築いた人のひとりとのこと。

 エーレンフェルスの著作の内容については、フロイトの論文に書かれているサマリーから知るしかないのだが、なかなかおもしろそうだ。人間を健康で生命力旺盛の状態に保つための「自然的」性道徳と、生産的な文化的労働へと駆り立てていく「文化的」性道徳の対立という観点から、現代社会を分析している。そして、当時の西洋社会では文化的性道徳が優位に立っているためのさまざまな弊害がでているとの主張である。
 文化的性道徳の典型は一夫一婦制による性交渉の制限と、その結果としての二枚舌道徳、すなわち男性側の違反をこっそり許容するということである。そのために、ヒューマニズムは一定の限界以上には進展することができず、性淘汰の制限によって人間の体質改善が限られてしまうという。

 以上のようなエーレンフェルスの意見に対して、フロイトは文化的性道徳のさらなる弊害として、神経質症の蔓延ということを付け加えている。
2008-02-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月15日(金)
ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係(DB)
1908
Hysterische Phantasien und ihre Beziehung zur Bisexualität (GW7-189)
Hysterical phantasies and their relation to bisexuality (SE9-155)
ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係(全集9-241 道籏泰三訳 2007)
ヒステリー症者の空想と両性具有に対するその関係(著作10-128 高橋義孝訳 1983)

キーワード:空想、白昼夢、マスターベーション、自慰行為、ヒステリー症状、異性愛的症状、同性愛的症状、両性的素質

要約:ヒステリー症状は、かつて自慰行為と結びついていた性的な空想の再演である。その際に、空想の両性的な内容が反映されることもある。

関連論文:「ヒステリー研究」、「夢解釈」、「性理論のための三篇」、「詩人と空想」

記事「ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係」を読む
2008-02-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月14日(木)
「ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係」を読む
 この時期に書かれた著作は、「空想」というキーワードを用いているものが多いようだ。本論文も、すでに理論化されたヒステリーの症状形成メカニズムを、無意識的空想との関連から見直している。

 興味深いのは、マスターベーション(自慰行為)と空想、そしてヒステリーとの関連の話だ。マスターベーションは、性的な内容の空想に耽りながら、特定の身体部位を自己刺激する行為である。その際の空想と、自己刺激すなわち自体性愛的実践は、もともと別のものが後から半田づけされたのだという。

この自体性愛的な活動が、やがてのちに、対象愛の領域から出てきた欲望表象とひとつに溶けあって、この空想が絶頂に達したときの状況をいくぶんかでも現実化するのに役立てられるようになったのである。(9-244)

 なるほどなあ、と思う。自慰行為における自己刺激は、空想がよりリアルに感じられるようにという目的でなされる。その際に、すでに自体性愛的に開発された性感帯が最大限に利用されるのであろう。

 このような自慰行為はやがて断念され、そこで演じられた空想は無意識的なものにものになる。ヒステリー症状が生み出されるにあたっては、この無意識的空想が形を変えて再演されるわけだが、その際に表れる身体症状は空想ともともと付随していた自体愛的実践ともつながりをもっている。

 ところで、人間の両性的素質を反映して、自慰行為の空想も異性愛的と同性愛的の両方の内容を含むことがある。ヒステリー症状は、そのような両性的な内容をもつ空想の表現となっていることがあるという。
2008-02-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月13日(水)
詩人と空想(DB)
1908
Der Dichter und das Phantasieren (GW7-211)
Creative writers and day-dreaming (SE9-141)
詩人と空想(全集9-227 道籏泰三訳 2007)
詩人と空想すること(著作3-81 高橋義孝訳 1969)

キーワード:子供の遊び、空想、白昼夢、欲望成就、詩人、小説、自我閣下、自我中心的な物語、呼び水、予快

要約:子供の遊びと大人の空想(白昼夢)は、欲望成就の性格をもち、現在、過去、未来と三つの時間を貫く構造をしている。詩人は、個人が抱く空想の普遍的な部分を捉えて物語の中に描き出すことで快を演出する。

関連論文:「舞台上の精神病質的人物」、「夢解釈」

記事「詩人と空想」を読む
三つの時間
小説のおもしろさ
2008-02-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月12日(火)
小説のおもしろさ
 子供の一人遊びの代理物として、大人は白昼夢を欲望成就の方法としてみるけるわけだが。この新しい方法も、完全に満足できるものではない。あまり空想に耽りすぎると、それは神経症に陥る要因になるかもしれない。
 とにかく、大人にとって空想とはこっそり隠れてすることなのだ。自分の空想は恥ずかしくて人に語れるものではない、ということは皆わかっている。

 大人の空想を代理するもっといい方法は、小説などのフィクションに熱中することである。読者は、主人公になりきって、現実で満たされない欲望を成就させることができるのだ。しかも、それを読むことは恥ずかしいことでも何でもなく、同じように感動した友人とその喜びを語り合うことができるのだ。
 どうしてこのようなことが可能になるのか。それは、個人が抱きがちな普遍的な空想を抽出して作品に仕立て上げる作家の技巧によるものなのだが、作家自身ははっきりその技巧を意識していないかもしれない。

 フロイトの分析では、その技巧は第一に空想の中心部をぼやかしてわかりにくくすること。つまり夢の歪曲と同じ。そしてもうひとつは、ここがよくわからないのだが、「空想を叙述するなかで純粋に形式的すなわち美的な快をもたらすことによって、われわれを魅了するということ(9-239)」ことだという。主人公が逞しい体とすばらしい剣の腕前を持っていたり、絶世の美女が現れたり、美しい自然が描写されたりといったようなことをさすのだろうか。
2008-02-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月11日(月)
三つの時間
 子供の遊びと大人の空想(白昼夢)は、共に欲望成就であり、したがって夜に見る夢とも本質的に同じである。そしてそれらは、作家の作る物語とも共通した構造をもっているのである。それは、欲望の基本的な構造といってもよいだろうが、空想が三つの時間、すなわち現在と過去と未来を貫いて生じるということだ。

心の作業は、何かある現時的印象、つまり、当人の大きな欲望のひとつを呼び覚ますことになった現在における何らかのきっかけにもとづいて始まり、そこから続いて、その欲望が成就されていたかつての――たいていは幼児期の――体験の想い出へとさかのぼり、そして最後に、その欲望の成就した姿としての未来のある状況を創り出すのでして、それがほかでもない、白昼夢ないし空想ということになります。(9-232)

 欲望成就の構造を示したシンプルにして見事な図式である。と同時にこれは、人間にとっての時間感覚というものについても実に含蓄の深い示唆を与えているのではないか。
2008-02-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月10日(日)
「詩人と空想」を読む
 われわれが文学作品を読んで感動する、その快の源泉がどこにあるかという問題について論じた、大変興味深い文章である。フロイトはこの話題について、第一に子供の遊び、第二に大人の空想あるいは白昼夢との関連から考察をしている。

 まず、遊びであるが、ここで主にイメージされているのは、ごく小さい3、4歳くらいの子供がする一人遊びのことだ。例えば両手に持った積み木を自動車か何かに見立てて、なにやらぶつぶつ小声でつぶやきながら一人で空想の世界で遊んでいるという、あれである。もちろんその連続上に、仲間どうしでルールを決めて行う「ごっこ遊び」なんかも発展していくわけだが、まず原点にあるのは一人遊び。
 子供を観察していたら、彼らが実に熱心にこの手の遊びに耽っていることがよくわかる。

 フロイトがあげる子供の遊びの特徴は、まず彼らが真剣なこと。しかし、いくらのめり込んでも現実と遊びの区別はしっかりとついていること。そして、子供は遊びをことさら周囲にアピールすることもなければ、隠れてこっそりするわけでもないということ。
 子供が大人になると、このような空想遊びはしなくなるのだが、その代わりに白昼夢に耽るようになる。しかし、大人は子供と違ってそれをすることを隠すのである。なぜなら、それが現実への不満を空想の中で充足させようとすることであることがわかっているから恥ずかしいのである。

こう言ってよろしかろうと思いますが、幸福な人は空想しない、空想するのは満たされない人にかぎるということです。満たされない欲望こそ空想の原動力でして、個々の空想は、いずれも欲望成就であり、満足をもたらしてくれない現実を修正せんとするものなのです。(9-231)

 このように現実で満たされない欲望の成就ということが、子供の遊びと大人の空想の共通の目的である。そして、子供において一番大きな欲望は大人になりたいということであり、したがって遊びは「大人ごっこ」であるといえる。
 遊んでいる子供は気楽なように見える。しかし、人間は、認識すればする程に満足できない現実の中に生まれてくる不幸な存在なのであり、それゆえ子供は遊ばざるをえないのだともいえる。
2008-02-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月09日(土)
子供の性教育にむけて(DB)
1907
Zur sexuellen Aufklärung der Kinder (GW7-127)
The sexual enlightenment of children (SE9-129)
子供の性教育にむけて (全集9-215 道籏泰三訳 2007)
児童の性教育について(著作5-371 山本由子訳 1969)

キーワード:性教育、ムルタトゥリ、エマ・エッキュシュタイン、子供はどこから来るのか

要約:子供への性教育は学校教育において適切になされるべきであり、その際に大人が性生活についての事実を隠したがっているかのような印象を与えないことが重要である。

関連論文:「性理論のための三篇」、「終わりのある分析と終わりのない分析」

記事「子供の性教育にむけて」を読む
2008-02-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月08日(金)
「子供の性教育にむけて」を読む
 フロイトが、ハンブルグの医者、M・フュルスト博士の問い合わせに答える形で著した公開書簡。「子供の性教育をどうするか」という問題についてのこの文章が、100年たった現在でも少しも新鮮さを失っていない点に、まずは驚かされる。つまり、ここで取り扱われている問題は今日でもなお「解決済み」になっていないどころか、おそらく当時の状況とほとんど変わっていないのかもしれない。

 フュルスト博士の質問は3点。1)子供に性教育を行うべきか、2)行うのであれば何歳くらいに、3)いかなる方法で、というものである。

 一番目の点については、フロイトは議論の余地なしと切り捨てている。つまり「行うべき」であると。大人がそれを子供に秘密にしようとする態度自体が、多くの弊害をもたらしている。ちょっと皮肉っぽい表現で述べた以下の文章がおもしろい。

「お利巧さ」に重きを置くあまり、自分で考えるという子供の能力をできるだけ早期に圧殺するというのが教育者の意図であるとしますと、そのために何より有効な試みは、性の領域で道に迷わせ、宗教の領域で脅しつけることです。(9-222)

 性教育の問題を超えて、教育と学問の違いということを考えさせられた。子供に対して外から与えるのが教育であり、もちろんそれも必要なことではあるが、自らの内的欲求から追及する学問とは根本的なところから異なるものである。

 第二と第三の点については、具体的なところは議論の余地のあるところとしながらも、ひとつの提案を示している。第一に、大人が性生活についての事実を秘密にしたがっているという印象を与えないような態度が重要である。実際の教育は学校教育においてなされるのがよく、まず動物界における生殖の事実の重要性を教え、人間も他の高等動物と同等の存在であることを強調する。その上で、人間に特有の性生活についての事情を十歳を超える前に教え、性生活にまつわる倫理的義務については堅信礼(十五歳)の時に教えるのがよかろうと。

 ただし、家庭での性教育についてはあまり具体的なことは書かれていない。フロイト家では、どんな風だったのであろうか。
2008-02-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月07日(木)
『応用心理学叢書』の告知(DB)
1907
Anzeige [der Schriften zur angewandten Seelenkunde] (GW-Nb695)
Prospectus for Shriften zur angewandten Seelenkunde (SE 9-248)
『応用心理学叢書』の告知 (全集9-213 道籏泰三訳 2007)

キーワード

要約:「応用心理学叢書」は、人間の心の研究に興味を抱く広範な知識層を読者として想定している。独創的な仕事であることが叢書の選択基準にあげられるが、内容についての責任は寄稿者にある。

関連論文:「W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢」、「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出」

記事「『応用心理学叢書』の告知」を読む
2008-02-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月06日(水)
「『応用心理学叢書』の告知」を読む
 「応用心理学叢書」というシリーズの第一巻として出版された「W・イェンゼン著『グラディーヴァ』における妄想と夢」の初版に「編集責任者」の告知文として掲載された文章。このシリーズは、一九〇七年から一九二五年まで続き、二十冊ほどが出版されたという。フロイトのものでは「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の想い出」があり、他の著者としては、リクリン、ユング、アブラハム、ランク、ザートガー、プフィスター、ジョーンズらの名があがっている。

 現代日本においても、例えば岩波文庫の各巻の巻末に掲載された文章など、同様のものはある。そのようなものをフロイト自らが書いたということに、精神分析普及に積極的に関わっていく彼の姿勢、見方によっては「支配的」ともいえる姿勢が、表れていると感じた。
2008-02-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月05日(火)
強迫行為と宗教儀礼 (DB)
1907
Zwangshandlungen und Religionsübungen (GW7-127)
Obsessive actions and religious practices (SE9-115)
強迫行為と宗教儀礼 (全集9-197 道籏泰三訳 2007)
強迫行為と宗教的礼拝(著作5-377 山本厳夫訳 1969)

キーワード:強迫神経症、儀式、強迫行為、禁止、宗教的典礼、無意識的罪責意識、誘い、予期不安、防衛行為、欲動の断念、心的反動形成、妥協、性的な出自の欲動、利己的な出自の欲動

要約:強迫行為と宗教儀礼は、共に抑圧された欲動の蠢きに対する防衛的な行為であると同時に欲動を象徴的な形で成就させようという行為でもある。抑圧された欲動は、強迫行為においては性的な出自を、宗教儀礼においては利己的な出自をもつ。

関連論文:「防衛−神経精神症再論」、「強迫神経症の一例(「鼠男」)のための原覚え書き」、「トーテムとタブー」、「ある錯覚の未来」

記事「強迫行為と宗教儀礼」を読む
断念された欲動の出自
復讐するはわれにあり
2008-02-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月04日(月)
復讐するはわれにあり
 強迫行為は、抑圧された欲動からの誘いから身を守るための防御策である。と同時に、まさにその抑圧された欲動を象徴的な形で充足させようとする行為でもある。

 宗教儀礼の場合には、誘いに対抗するための防御という側面はよくわかるが、後半の隠された意図の方はどうなのか。フロイトは、「復讐するはわれにあり」という新約聖書の言葉(ローマ信徒への手紙12.19)をひいて論じている。
 この言葉は、日本では映画化された小説の方で有名になってしまったが、もともと復讐という人間の行為を戒めるものである。ただ、その際に単に「復讐はいけない」と言うのではなく、「復讐は神のすることである」という戒め方をしている点が興味深い。つまり、「敵への復讐を断念したならば、かわりに神が復讐してくれますよ」といったほのめかしが、そこにはあるのだ。
 宗教儀式の中にも、それによって内なる悪を追い払うと同時に、それを神に託して実現させようという邪悪な意図が込められているということかもしれない。

 そういえば、この記事を書いたのは2月3日の節分であったが、豆をまいたり太巻きを食べたりという儀式的行為の中にも、邪悪さを振り払うと同時に、欲動追求的な意図が込められているという気はする。
2008-02-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月03日(日)
断念された欲動の出自
 一般に精神疾患における正常と異常の境界というものは流動的で相対的なものであるが、強迫神経症においては特にそうである。ほとんどの人がなんらかの強迫的儀式行為といったものを体験したことがあるのではないか。手洗いや洗面を決まった手続きでやるとか、寝る前にいつもする儀式的行動とか、特定の色のタイルだけを踏んで歩くとか、階段の昇降で最後は決まった側の足で終わるようにするとか。
 これらの強迫行為は、通常どこか目立たないところでひっそりと執り行われており、それゆえ社会生活には大きな支障にならずにすむわけだが、それがエスカレートして生活の大きな負担になると病的と見なされることになる。

 一方、宗教儀礼はそれ自体実際的な目的のはっきりしない形式的行為であるが、宗教的に意味あるものと見なされ、共同で厳格に執り行われる。

 フロイトは、強迫行為と宗教儀礼の間に根本的なつながりを見出した。強迫行為はいわば私的な宗教儀礼であり、宗教は歴史的に形成された普遍的な強迫神経症である。いずれにせよ、この強迫という現象が、特殊な現象ではなく普遍的な性質をもっているということであろう。

 フロイトの考え方によると、かつて断念され抑圧された欲動の蠢きが、誘いと感じられ予期不安をひきおこし、それに対する心的反動形成としてなされるのが強迫行為である。それは、欲動の蠢きを退けようとする意図と共に、象徴的な形で禁じられた行為の代理満足を得ようとするという風に、二重の意図を持っている。
 そして、誘いに対する防御が完全ではないと感じられるために、またそこに代理満足が潜んでいるために、その行為は完結せずにどんどんエスカレートしていかざるを得ないようになってしまう。

 強迫行為と宗教儀礼の違いは、断念された欲動の性質である。それは、強迫神経症の場合は性的な出自の欲動、宗教の場合は利己的な出自の欲動であるという。ここのところは、よくわからなかった。宗教においても、禁じられているのは性的な欲動である場合が多いのではと思うのだが。
2008-02-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月02日(土)
「強迫行為と宗教儀礼」を読む
 一九〇七年に書かれた、フロイトとしてはひさしぶりの強迫神経症に関する論文である。ここで初めて、強迫神経症は宗教との関連から論じられた。
 この後、一九〇九年に有名な「鼠男」の論文が書かれることになり、それを足掛かりに「トーテムとタブー」では歴史的な文化研究がはじめられた。さらに、「ある錯覚の未来」から「文化の中の居心地悪さ」、そして「モーセという男と一神教」という宗教論の中心には、常に強迫神経症の考察があった。

 ヒステリーが、精神分析という治療を開発するにあたって最も重要な疾患であったとすれば、強迫神経症はその理論を深めるとともに、文化論へと広げていく鍵となった疾患であった。
2008-02-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月01日(金)
アンケート「読書と良書について」への回答 (DB)
1906
Antwort auf eine Rundfrage Vom Lesen und von guten Büchern (GW-Nb662)
Contribution to a questionnaire on reading (SE9-245)
アンケート「読書と良書について」への回答 (全集9-197 道籏泰三訳 2007)

キーワード:読書、良書

要約:フロイトのあげる十冊の良書――ムルタトゥリの書簡と作品/キプリング『ジャングル・ブック』/アナトール・フランス『白き石の上にて』/ゾラ『豊産』/メレシコフスキー『レオナルド・ダ・ヴィンチ』/G・ケラー『ゼルトヴィーラの人々』/C・F・マイヤー『フッテン最後の日々』/マコーリー『文学歴史評論集』/ゴルペルツの『ギリシアの思想家たち』/マーク・トウェイン『〔「ジム・スマイリーとその跳ね蛙」他〕短篇集』

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2008-02-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
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