2008年03月31日(月)
もうひとつ、不条理の機知。これも「無意味の中の意味」だとすると、「意味」は何なのだろうか。
リヒテンブルクが不思議がって言うには、「猫の毛皮には、ちょうど目がある位置に二つの穴が開いている」。(8-68) 一見もっともらしい理屈に、「ふむ、たしかにうまいこと出来ているよな、あの穴がなかったら目が見えないところだった」などと納得しそうになる。しかし、これは当たり前のことをわざわざ不思議なことのように見せているだけなのだ。 ポイントは、「猫の毛皮」というところにある。この言葉によって、あたかも裸の猫が毛皮をまとうことで猫という動物が完成するかのような錯覚に、一瞬陥ってしまうのである。そう考えれば、「確かにうまくできてる!」となろうが、何のことはない猫が先で、そこから剥いだ「猫の毛皮」なのである。
一瞬「猫の毛皮」を先と考えるところに、人間中心の視点がある。そのことを、この機知は皮肉っているのであろう。
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2008年03月30日(日)
次なる機知は、これまでのジャンルとはまた別の、「無意味のなかの意味」という技法を用いた機知である。
イツィヒは砲兵隊に入隊した。彼は明らかに賢い若者ではあったが、反抗的で服務意識に欠けていた。好意をもってくれる上官がわきへ連れ出し、こう言った。「イツィヒ、お前はここに向いてないよ。一つ忠告してやろう。大砲を買って、独立しろ」。(8-64) 「大砲を買って、独立しろ」というところが、軍隊という前提のことを考えると無意味である。無意味な発言が、しかし意味のある忠告になる。しかも、それは「君のやり方では、軍隊ではだめだ」という正面からの忠告よりも、はるかに多くのことを語り、効果的な忠告になっている。 人間というものは、自分のやっていることの愚かさにはなかなか気づかないものである。イツィヒは、自分のやり方で文句があるかという態度であったのだろう。それは確かに、独立して自営でやるのであれば文句のないやり方であったのだろう。しかし、ここは軍隊なのであって、自営業ではないのだよ、というのが上官のメッセージである。
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2008年03月29日(土)
遷移の技法を用いた機知の三番目。趣旨としても「鮭のマヨネーズ添え」の機知と似ている。
人にたかることの得意な男が、オストエンデに旅行する費用を出してもらいたいと、金持ちの男爵に頼んだ。健康回復のため医師たちに海水浴を勧められたというのである。「よろしい、いくらかご用立てしましょう」と金持ちは言った。「しかしながら、よりによってオストエンデに、海水浴場でもいちばん金のかかるところに行く必要はあるんですかな」。――とがめるような答えが返ってきた。「男爵、私は健康のためにはどんな金がかかることだってやりますよ」。(8-63) 出典は明記されていないが、おそらくこれもユダヤの機知であろう。面白い話であるが、このような笑い話は日本ではできそうにないとも思う。 こうやって金持ちにたかる人がいたり、金持ちの方もそれにある程度応じたりしていたというのは、当時の社会ではめずらしいことではなかったのかもしれない。そういった状況があってはじめて、その誇張としてのジョークが輝きをますというものだ。 この機知を聴いて大笑いする人の頭には、おそらく似たようなことを言いそうな具体的な人物のことが連想されているのに違いない。
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2008-03-29 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月28日(金)
「鮭のマヨネーズ添え」の機知と同じジャンルの、つまり遷移という技法を使った機知として、以下のものが紹介されている。今度は、鮭好きでなく酒好きの話だ。
酒に身を持ち崩している男が、ある小さな街で個人教授をして暮らしていた。ところが、彼の悪癖がしだいに知れ渡り、そのためにたいていの生徒はやめてしまった。男が立ち直るように一言いってやってくれと、ある友人が依頼された。「いいですか、あなたはお酒をやめたら、この街いちばんの個人教授ができる人なんですよ。だから、そうなさい」。――男は立腹して答えた。「何てこと言うんですか。私が個人教授をするのは酒代をかせぐためです。個人教授ができるように酒をやめろですって!」(8-58) これもまた、面白くて考えさせられる機知である。単なる機知でなく、実際にこういうやり取りはありそうだし、この個人教授は多くの酒好きの思いを代弁してくれているとも言えるのではないか。
これが機知として成立するひとつの要因は、個人教授という一般的には高尚とみなされている職業と、酒好きということの対照であろう。そんな仕事をしている人が、酒に身を持ち崩してはならないという判断があるのだろう。実際には、そうでもないのだろうが。
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2008-03-28 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月27日(木)
前の記事で紹介した「鮭のマヨネーズ添え」の機知は、腹を抱えて笑うような面白さではないが、なかなか味わい深いものを持っている。噛めば噛むほど味わいが出るというか。このあたりが、ユダヤ人がジョークにこめた知恵といったものなのであろうか。
前提となっている貧者の言う理屈は、それ自体は間違っていない。「鮭のマヨネーズ添えを食べる」ということを当然の前提としている所が、一般的な常識からはずれているのである。 しかし、「貧乏人にだってたまにはご馳走を食べる権利がある」という主張を堂々としてるところが、実にあっぱれな姿勢である。
それに、よく考えてみると貧者は借りた金を返さないと言っているわけではないのだ。この時点で金持ちが怒るのは、気持ちはわかるが、筋違いな話である。ご馳走で腹ごしらえをして、さあ働くぞ、というところなのかもしれない。借りた金を上手に使って、期限どおりに返済することができれば問題ないのだ。逆に、本当に極端な窮状で借りた金も諸々の必要なことに費やされてしまうような状況であれば、借金を返すことなどとてもできなくなるかもしれない。
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2008-03-27 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月26日(水)
いよいよここで、新しいジャンルの機知が登場する。それは、語自体のもつ音の類似とか、二重の意味とは無縁の機知である。したがって、翻訳によって面白さがそこなわれることはない。むしろ、その時代の風俗や常識的考え方といった背景には影響されるかもしれない。 これは、ユダヤ人の機知である。そして、本書でたくさん紹介される機知の中でも、特に念入りに考察がなされている重要な事例である。
ある貧者が、さんざん窮状を訴えて、金持ちの知り合いから二十五フローリン借りた。金を貸した人物は、その同じ日、男がレストランでマヨネーズを添えた鮭料理を食べているのに出会って、難詰した。「何と、あなたは私から金を借りておいて、鮭のマヨネーズ添えを注文している。私が貸した金をそんなことのために使ったんですか。」責められた男は答えて言った。「おっしゃることがわかりませんな。金がなかったら鮭のマヨネーズ添えは食べることができないし、金があるときは食べてはならない。じゃあ、いったいいつ鮭のマヨネーズ添えを食べろと言うんですか。」(8-56) この機知の技法は、心的力点のずらし〔遷移〕と呼ばれる。金持ちの問いかけに対して、貧者は一見もっともそうだが本質をずらした答えをしており、それが面白いというわけだ。
この機知は、著作集で読んだときから、大変印象に残っていた。ひとつには、フロイトが繰かえし念入りに考察をしていることもあるのだが。私としては、機知の面白さの本質からは少しずれたところの、「鮭のマヨネーズ添え」というところが妙に気になった。機知の中で何回も繰り返されているというのもあるし。
西欧料理のご馳走ということなら、ビフテキとかフォアグラとかでもよさそうだが(こんな発想しかできないのは貧困?)、なぜ「鮭のマヨネーズ添え」なのか。マヨネーズって今では庶民的な調味料だけど、当時はハイカラなものだったのかな、とか。 ともかく、マヨネーズを口のまわりにつけて鮭を頬張っている貧者を想像すると、なんだかもうそれだけでおかしい。なぜなんでしょうかね。
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2008-03-26 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月25日(火)
機知の技法を一通り紹介し、そこから「節約」という本質らしきものを取り出した後も、さらに事例の収集は続く。 次なるは、駄洒落(独Kalauer,仏Calembourgs)と呼ばれるグループである。これらは、単に音が似ている二つの語というだけで、機知の中では「「最も安直」で、いちばん労少なくして生まれる(8-50)」のだという。
最近は日本でも「親父ギャグ」などと、再びはやってきている兆しがある。この場合、安直な駄洒落を言っては周囲の失笑を買うちょっと困ったオジサンという、マイナスのイメージがつきまとっているようだが。 若い人たちとなんとかしてコミュニケーションをとりたい、オジサン達の涙ぐましい努力とも言えるか。
以前別の記事にも書いたけど、小学生低学年くらいの特に男の子は、好んで駄洒落を連発するという時期がある。言葉の語彙を増やしていく時期には、ぜんぜん意味の違う言葉が似たような音を持つということだけでも、新鮮でおもしろいものなんだろう。 語彙をおおむね獲得した年齢になると、駄洒落だけではさほどおもしろいと感じなくなってしまいがち。言葉の意味の方に染まりきってしまったためだろうか。
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2008-03-25 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月24日(月)
前の記事であげた機知の技法の分類。それは一つの作業仮説であって、そこから機知の本質を引き出すための暫定的なものであった。 で、その本質とはなにかというと、節約、ということだ。言葉の数を節約し、同じ言葉の繰り返しの場合には、新しい語を用いることを節約する。
ところで、この節約をするために、機知を作る側は、実は大変な思考の労力を費やしているのだ。うまい機知となるために、あの語がいいかこの語がいいかと、あれこれ思考をめぐらせて作られるものなのだ、機知は。
そういった節約は、主婦がよくやる節約の仕方、つまり野菜を数ヘラー〔昔のドイツの小額貨幣〕安く手に入れられる遠くの市場を探し求め、そこに行くために時間とお金を費やすというやり方を想い出させる。(8-49) フロイトの、この機知に富んだ比喩はなかなかおもしろい。当時も今も、あんまり変わってないんだね。などと言うと、「主婦への偏見だ」といった声もあがりそうだが。
それで想い出したのだが、現代において叫ばれている、地球温暖化防止のための二酸化炭素排出削減などということも、下手をするとこの比喩のような節約にならないか、充分に考慮する必要があるなと。
ちなみに、この記事の題は、フロイトが引用している『ハムレット』の中のハムレットのセリフである。続く言葉は、「葬式のパイが冷たくなって婚礼の食卓を飾ったってわけさ」とあり、確かに機知の本質に通じているかもしれない。
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2008-03-24 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月23日(日)
機知の技法は、フロイトによって一覧表になして分類されている(8-44)。ここでは、本文で例としてあげられた機知を示し、記事で紹介したものにはリンクを張っておく。
T
縮合 a 合成語形成を伴う (例:familionär) b 変更を伴う (例:四つのアキレス腱) U 同一素材の使用 c 全体と部分 (例:O na, nie) d 順序変え (例:etwas zurückgelegt
haben) e わずかな変更 (例:Traduttore - Traditore !) f
同一語が十全な意味と形だけの意味で (例:"Wie geht's?","Wie Sie sehen",) V
二重意味 g 名前と事物的意味 (例:Mehr Hof als Freiung) h
比喩的意味と事物的意味 (例:Spiegel) i 本来の二重意味(語呂合わせ) (例:ordentlichen und außerordentlichen
Professoren) j 両義性 (例:Unschuld) k
ほのめかしを含む二重意味 (例:C'est le
premier vol de
l'aigle.)
このように示すと、実にきれいな分類のようだが、実際にはそれそれの例がどうしてその分類になるのか疑問に思えるところもある。あくまでも、これはひとつの暫定的な分類であって、ここから機知の本質は何かという問題を考察していくためのものである。
追記(H20.4.6) 上にあげたのは、言語に依存した機知(語機知)の技法であるが、他に思想機知の技法というものもある。思想機知の技法は、論理的誤謬、一体化、間接的提示とまとめられる。
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2008-03-23 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月22日(土)
次にあげるのは、「誰知らぬ者のない、教授をねたにした機知」だそうである。出典が記されていないが、それほどよく知られたものだったのだろう。 たしかに、独語原文では省略をうまく用いてコンパクトにまとまっているが、日本語訳にすると機知としてはやはり台無しになってしまうのはいたしかたない。
Der Unterschied zwischen ordentlichen und
außerordentlichen Professoren besteht darin, daß die
ordentlichen nichts außerordentliches und die
außerordentlichen nichts ordentliches leisten.
(GW6-39) 正教授と員外教授の違いは、正教授には並外れた業績はなく、員外教授には並みの業績もないという点にある。(8-42) ここでは、"ordentlich"という語の持つ、「正規の」という意味と、否定的なニュアンスを含んだ「並みの」という二重の意味が機知に利用されている。"ordentlich"が"außerordentlichen
"でなく、"außerordentlichen
"が"ordentlich"でない、という具合にうまく対応しており、結果としてできあがった文も、ひとつの真実をついている。
ここで機知の題材にされているのが教授であるということも興味深い。日本でもそうだが、教授という身分は尊敬されながらも、なにか「世間知らず」といったような面が人々の笑いの種にもなりがちなところがある。嫉妬ということもあるかもしれないが。
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2008-03-22 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月21日(金)
言葉の言い回しの持つ二重の意味を利用した機知の例。
病床にある妻のもとを離れて、医師はついて来た夫に首を振ってこう告げた。「奥さんの様子は気に入りませんな(Die
Frau gefällt mir
nicht)」。夫はあわてて同意して、「様子が気に入らないというなら、私はずっと前からですよ(Mir gefällt
sie schon lange
nicht)」と言った。(8-39) ドイツ語の言い回しからすると、医師の言葉は「奥さんの具合はよくないようですな」という意味になる。これを字義通りにとると、「奥さんは、私の気に入りませんな」という意味になる。夫の方はその言葉を受けて、「私には(Mir)」という言葉を前に持ってきて強調し、「ずっと前から(shon
lange)」を付け加えて応じることで、医師の言葉を字義通りの方の意味にとった、というわけである。
この機知の出典は記されていないのだが、ユダヤのジョークには、この手の夫婦の不仲をネタにしたものが多い。こうやって笑い話にすることで、現実の夫婦関係の緊張を少しでも耐えやすいものにしようという工夫なのか。
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2008-03-21 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月20日(木)
二重の意味を持つフレーズのうち、ふだんはあまり意識しない字義通りの意味の方が意味をもってくる機知の例。ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク(1742-1799)今回はドイツ語と日本語訳と両方引用してみる。
"Wie geht's?" fragte der Blinde den Lahmen, "Wie
Sie sehen", antworte der Lahme dem Blinden.
(GW6-34)
「行けてるかい〔調子はどうだい〕?」と目の見えない人が足の不自由な人に訊いた。「見てのとおりさ」と足の不自由な人は目の見えない人に答えた。(8-366) こうして並べると、前の記事の「翻訳者=裏切り者」という事態が際立ってしまう。訳としては問題ないし、「行けてるかい」はかろうじて、「見てのとおりさ」は、そのままの形でなんとか二重の意味を表現できているのだが。 ただ、「目の見えない人」、「足の不自由な人」がなあ‥‥。
これらの機知を見ながら、日本語でも同じような冗談はないものかと、考えたり思い出そうとしたりしてみたが、どうも思いつかない。「目をみはる」、「耳にたこができる」、「鼻が高い」、「あいた口がふさがらない」、「首を長くする」など、比喩的な表現はたくさんあるのだが。それを使った冗談というのは思いつかない。 ひとつには、これらの比喩的表現それ自体が、機知とまでいわないまでもちょっとしたユーモラスさを含んでいるので、それで冗談の材料になりにくいのかな。あるいは、字義的な意味の方が、まだそれ程後退していないからなのかな。
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2008-03-20 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月19日(水)
同一素材の多重的使用の別の例。一つの言葉の音を少しだけ変えて、別の言葉として使用するという機知の技法である。
Traduttore -
Traditore !
〔翻訳者―裏切り者!〕(8-34) このラテン語の機知は、翻訳者とは原著者を冒涜する者であるということを主張している。本書の翻訳者である中岡成文氏は、解題の冒頭でこの言葉をとりあげ、翻訳での苦労を振り返り、苦々しい気持ちでこの機知を想い起こしたことを告白している。
たしかに本書は、翻訳をするのが難しい種類の文章であろう。最初の英訳を記したブリルは、読みやすさを優先して意訳をしたり、地名を入れ替えたりしたそうだ。 日本語版全集では、カッコ付けや注釈で原語を示したりすることで正確さを期しているが、機知として原文が持っていたであろう面白みというものは、損なわれてしまっている。 結局のところ、どちらの翻訳スタイルも裏切りであり、フロイトがこの機知を採用したことの裏には、そのあたりのことまで読んでの意図が込められていたのかもしれない。
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2008-03-19 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月18日(火)
縮合につづく機知の技法は、「同一素材の使用」というジャンルである。ひとつのフレーズが二重の意味をもつ。
若い患者に自慰をしたことがあるかと尋ねると、答えは決まって、「えっ、まあ、ぜんぜん(O na,
nie)」。(8-32) これは当時の医者の間でみられた機知だそうである。"O
na,
nie"というフレーズが、3つの語に分解された状態の「えっ、まあ、ぜんぜん」という意味と、合成された"Onanie"と、二重の意味を作り出している。原語では、最初の自慰が"Masturbation"と、違う語になっているだけに、おもしろさも一層際立ったであろう。
この機知は、単なる語呂合わせでは終わっていない。患者の否定の言葉が、「実はオナニーをしていますよ」という真実を暴き出しているという暗示があり、そこがおもしろいのであろう。
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2008-03-18 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月17日(月)
縮合の技法には、"familionär"の例のように、合成語形成を伴うものの他に、「変更を伴うもの」という少し機制の異なるものもある。 そして、こちらの例として挙げられている機知の中には、語呂合わせではないために、翻訳してもかろうじておもしろさが分かるものもある。
対話の中でN氏は、ほめるべき点も少なくはないが、文句をつける余地の方が多いある人物に関して、「そう、うぬぼれは彼の四つあるアキレス腱の一つですな」と述べた。(8-24) ここで「N氏」とされているのは、本文では伏せられているが、法学教授で最高裁判所長官を務めたヨーゼフ・ウィンガー(1828-1913)であると推測されている。(解題)
原文の"vier
Achillesfersen"が、「四つあるアキレス腱」と少しもってまわった表現になっているので、機知の面白みは減じてしまうが、なんとか保たれている。つまり、アキレス腱が四つということで「四足=獣」ということを表している。
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2008-03-17 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月16日(日)
この節でとり上げられる最初の技法は、縮合(Verdichtung)である。 語呂合わせ的な合成語による機知であり、しくみとしてはわかるが、言語が違うと面白みは伝わってこない。だから冷静に分析できる、という利点はあるかもしれないが。
機知としてあげられる例は、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の『バーニ・ディ・ルッカ』という作品に登場する、ヒルシュ=ヒアツィントという愛すべき人物のセリフである。彼は、裕福なロートシルト男爵とのつてを自慢して、こう言う。
「私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人物として、まったく百万家族の一員のように(familionär)扱ってくれたんですよ」。(8-12) 「百万家族の一員」などと訳しても、これだけでは何のことやらわからないし、当然何の機知にもなっていない。これはいたしかたないところだ。 つまり、"familionär"というのは、家族的な(familiär)と百万長者(Millionär)の二つの語の縮合によって合成された、実際にはない語なのである。
男爵が、ヒルシュ=ヒアツィントのことを「家族的に扱ってくれた」と、言いたいところだが、実際にはその態度には百万長者的な鼻につくところがあった。それで、"familiär"が"familionär"になってしまった。 ヒルシュ=ヒアツィントが「百万長者的な」という考えを抑え込もうとして、思わず言い間違いをしてしまったケースと考えてみたら理解しやすいだろう。実際には、縮合の過程は、作者のハイネによって意図的になされたわけだが。
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2008-03-16 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月15日(土)
この研究が進むにつれて明らかになるように、機知の問題について洞察を求めずにはいられない個人的な理由が私にはあるのだが、それは別にしても次の事実を引き合いに出すことができる。(8-11) ここでフロイトが言う「個人的な理由」というのは、もちろん彼がユダヤ系の出身であるということであろう。ユダヤ人のジョーク好きは有名だし、フロイト自身も日々の生活において好んで冗談をとばしていたとのことだ。
ユダヤ人がジョークに長けていることについては、迫害と苦難の歴史を歩んできた彼らが身につけてきた人生の知恵であるなどと、もっともらしい理由も語られている。 実際のところはどうなのか。本書での思考の歩みとともに、じっくり考えてみたい課題である。
現時点で思いつくこと。ユダヤ人とは、理論的に思考して真理を追究することに熱心な民族であった。厳格な理論の対極として、機知を発達させることで、全体のバランスをとろうとしたのではあるまいか。
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2008-03-15 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月14日(金)
機知の研究をはじめるにあたって、まずは先行研究として、ジャン・パウル(J・P・F・リヒター、1763-1825)、フリードリヒ・テオドール・フィッシャー(1807-1887)、クーノ・フィッシャー(1824-1907)、テオドール・リップス(1851-1914)、エミール・クレペリン(1856-1924)らの業績をあげている。
諸家があげている機知の基準や性質を――活動性や思考内容への関係、遊戯的判断という性格、類似性のないものの結合、表象の対比、「無意味のなかの意味」、「意表を突かれて、納得する」という継起、隠されたものの引っ張り出し、機知の特殊な簡潔さなどを――以上にまとめてみた。(8-10) ここであげられている特徴も、ひとつひとつ含蓄の深いものである。 遊戯的判断(das
spielende
Urteil)とは、通常の真面目で論理的な判断とは対照的な、自由で縛られない判断であり、それが一見関連のないものを結合させたり、無意味の中に意味を創造したり、隠されたものを引っ張り出したりする。 機知では、簡潔な言葉の中に多くの意味が込められている。 それは唐突にナンセンスなことをもちだして意表を突くが、よく考えてみると納得させられ、その際にニヤリとしてしまう。
これらの相互に重なりをもつ特徴を、統合的な理論にまとめあげることが、フロイトが本論で試みようとしている意図である。
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2008-03-14 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月13日(木)
序盤のキーワード確認。
全集の訳語(原語) → 原語に対するクラウン独和辞典(電子辞書版)の訳語
機知(Witz)→ ジョーク、冗談、(短い)笑い話、機知、ウィット
滑稽(Komik)→ 滑稽、喜劇性 滑稽な(komisch)→ 滑稽な、おもしろい、喜劇的な、奇妙な 滑稽なもの(Komischen)
フモール(Humor)→ ユーモア、上機嫌
カリカチュア(Karikatur)→ カリカチュア、戯画、風刺漫画
「滑稽な」ということが、「奇妙な」ということを含むというのは、日本語でも同じことであり、興味深い。本文にも、「滑稽の対象は、何らかなの形で現れている醜いものである(8-4)」とある。 またTh・リップスの言葉を引き、機知とは、「考え方の滑稽であれ、状況の滑稽であれ、意識して巧みにある滑稽を引き出すことすべてて(8-4)」であるともいう。
フモールは、ドイツ語でもやや特殊な美学用語だそうで、従来の「ユーモア」という訳語とは少しニュアンスが異なるという。(解題より)
コミックもカリカチュアも、漫画であるということは面白い。
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2008-03-13 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月12日(水)
「夢解釈」、「日常生活の精神病理学」につづいて1905年に単行本として出版されたのがこの「機知――その無意識との関係」である。 機知という日常的な題材を扱った点で「日常生活」と似ているが、全体の構成はしっかりしていて後半の理論的部分が難解なところなどは「夢解釈」に似ている。笑いとは何か、言語とは何かという本質にせまっていく大変深い内容である。
日本語の「機知」という言葉は少々硬い言葉であり、ドイツ語の"Witz"がより広い意味を持つのにはうまく対応していない。英訳では、最初のブリルの翻訳では"wit"を採用していたが、ストレイチーの標準版では、"joke"になった。 今回の日本語版全集でも、「ジョーク」にするという案もあったそうである。私としては、これまで著作集で慣れた「機知」のままでよかったと思う。ドイツ語と一対一の訳語を選ぶことが出来ないのは当然だし、機知という語が日常会話などではあまり使われない語なので、却って誤解を招きにくくてよいだろう。
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2008-03-12 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月11日(火)
1910[1909] Vorwort zu Lélekelemzés, értekezések a
pszichoanalízis köréböl, írta Dr. Ferenczi Sándor
(GW7-469) Preface to Sandor Ferenczi's psycho-analysis: essays in the
field of psycho-analysis
(SE9-252) フェレンツィ・シャーンドル博士著『心の分析――精神分析関連論文集』への序言(全集9-323 道籏泰三訳 2007)
キーワード:精神分析、ハンガリー人
要約:フェレンツィ・シャーンドルによるハンガリー語で記された精神分析関連の論文集への序言。
関連論文:
記事: 「フェレンツィ・シャーンドル博士著『心の分析――精神分析関連論文集』への序言」を読む
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2008-03-11 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月10日(月)
「フェレンツィ・シャーンドル博士著『心の分析――精神分析関連論文集』への序言」を読む
フェレンツィ・シャーンドルが母国語のハンガリー語で記した論文集にフロイトが贈った序言。初出時は、この序文もハンガリー語訳で掲載された。 多国語に堪能なフロイトは、英語、フランス語、スペイン語くらいまでなら自分で短い文章は書いていたが、さすがにハンガリー語は無理だったかな。 ハンガリーで精神分析の研究が広まることへの希望が述べられている。
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2008-03-10 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月09日(日)
1908 Vorwort zu Nervöse Angstzustände und ihre
Behandlung von Dr. Wilhelm Stekel (GW7-467) Preface
to Willhelm Stekel's nervous
anxiety-states and their treatment
(SE9-250) ヴィルヘルム・シュテーケル博士著『神経質性の不安状態とその治療』への序言(全集9-321 道籏泰三訳 2007) ヴィルヘルム・シュテーケル『神経的不安状態とその治療』への序言(著作10-358 生松敬三訳 1983)
キーワード:不安ヒステリー
要約:神経質性の不安状態についてのシュテーケルの著作は、彼自身の豊富な経験によって得られた見解に基づいている。議論においては、「不安ヒステリー」というフロイトの提案した名称を用いている。
関連論文:
記事: 「ヴィルヘルム・シュテーケル博士著『神経質性の不安状態とその治療』への序言」を読む
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2008-03-09 00:00 | 記事へ | コメント(0)
| | データベース |
2008年03月08日(土)
「ヴィルヘルム・シュテーケル博士著『神経質性の不安状態とその治療』への序言」を読む (タイトルは40字までしか表示されません)
表題のとおり、1908年に出版されたシュテーケルの著作にフロイトから贈られた序文である。ヴィルヘルム・シュテーケル(1868-1940)は、フロイトに精神分析を受け、初期の精神分析運動に協力した分析家のひとり。しかし、後にフロイトのリビード理論に異をとなえて袂を分かつことになった。と書きながら、なにか似たような文句を他の記事でも書いたなという気になる。デジャ・ビュではなく、フロイトはいろいろな弟子と袂を分かっているのである。
他の著者による著作にフロイトから贈られた序言も、全集の中にずいぶん収録されている。このことも、すでに書いたね。
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2008-03-08 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月07日(金)
1909[1908] Der Familienroman der
Neurotiker (GW7-225) Family romances
(SE9-235) 神経症者たちの家族ロマン(全集9-315 道籏泰三訳 2007) ノイローゼ患者の出生妄想(著作10-135 浜川祥枝訳 1983) 神経症者の家族小説(ちくまエロス論集 中山元訳 1997)
キーワード:オットー・ランク「英雄誕生神話」、両親の権威、白昼の夢想、両親に対する過大評価
要約:子供が両親に対して抱く典型的な空想として、「自分は継子で真の親は高貴な身分のものである」というものがある。これらは、幼年期のごく早期になされた両親への過大評価を反映している。
関連論文:「夢解釈」
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2008-03-07 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月06日(木)
千九百九年に出版されたオットー・ランクの『英雄誕生神話』という著作中に挿入される形で発表されたのが初出とのこと。後に独立して出版された時に改めて表題がつけられた。
神経症者だけでなく、普通の子供や青年が両親に対して抱きがちな白昼夢についての解釈である。典型的な空想としては、「自分を育てている親は実は真の親ではなく、真の親は高貴な身分の者である」というものがある。また思春期以降になると、「産んだのは母であるが、父親は別の人物だ」というバリエーションも出てくる。 日本でも、よく「私は橋の下で拾われた子なんだ」というようなことを言う。この場合にはむしろ否定的なニュアンスを含むようだが。しかし、標準的な伝説において英雄が遺棄された後に水の中から引き上げられるという話と比べると、「橋の下」というところに何か意味深いものがあるのかもしれない。
子供が親について抱く、こうしたありがちな空想は、彼らがだんだん物心ついて、現実の親の姿に幻滅を感じることが契機になるという。空想の中の「高貴な身分の真の親」こそが、子供が最早期に抱いた理想的な親イメージを反映しているのだ。
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2008-03-06 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月05日(水)
1909[1908] Allgemeines über den
hysterischen Anfall (GW) Some general remarks on hysterical
attacks
(SE) ヒステリー発作についての概略(全集9-307 道籏泰三訳 2007)
キーワード:ヒステリー発作、運動による上演、歪曲、縮合、多重的同一化、神経支配の敵対的逆転、時間順序の反転、一次的疾病利得、二次的疾病利得、マスターベーション、自体愛的満足
要約:ヒステリー発作は、無意識的な空想の運動による上演である。その際には夢と同じような歪曲がなされる。また、リビードの放散にあたっては反射の機制が利用される。
関連論文:「ヒステリー研究」、「性理論のための三篇」、「ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係」
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2008-03-05 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月04日(火)
ヒステリー発作についての簡潔なまとめ。 ヒステリー発作とは、「当人の空想(ファンタジー)が運動的なものに翻訳され、運動性へと投射されて、パントマイムふうに上演されたもの(9-309)」とのことである。そういう意味では夢と似ている。夢は知覚による上演であるのに対して、ヒステリー発作は運動による上演であるということになろう。
夢と同様に、この運動による上演にも歪曲がなされる。そして、その歪曲もまた夢の場合と類似している。
1.縮合‥‥複数の空想が、一つの発作症状として上演される。 2.多重的同一化‥‥空想における二人の人物の動きが一人の動きとして上演される。 3.神経支配の敵対的逆転‥‥例えばヒステリー弓(身体をのけぞらせるように反らせる発作)は、抱擁が逆転して上演されている。 4.時間順序の反転‥‥動作が時間的に逆の順序で上演される。
発作が呼び起こされる際の誘引としては、以下のものがある。
1.連想によって(つまり心への刺激) 2.器質性の促しによって(つまり身体への刺激) 3.一次的意向(一次的疾病利得)に奉仕するために(疾病への逃避) 4.二次的意向(二次的疾病利得)に奉仕するために
発作として上演されるもととなったマスターベーションは、空想と自体愛的満足(こちらがより根源的)の結合からなる。発作においては、まずは空想が上演され、さらには自体愛的満足も再現される。 ヒステリー発作では、抑圧されたリビードが運動により放散されるが、その際に性交にみられる反射の機制が利用される。ヒステリー性の痙攣発作は性交の等価物である。
女性におけるヒステリー発作は、とくに男性的な性格をもった性活動を再演する傾向があるという。それは、女性的になるために、後に抑圧されたものである。
ヒステリー性神経症は、じつに多くの事例において、女性なるものを男性的な性を一掃することによってつくり出そうとする典型的な抑圧の力が、過度に現れ出た結果にすぎないのである。(9-311) |
2008-03-04 00:00 | 記事へ | コメント(5)
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2008年03月03日(月)
1908 Über infantile Sexualtheorien
(GW7-169) On the sexual theories of children
(SE9-205) 幼児の性理論について(全集9-287 道籏泰三訳 2007) 幼児期の性理論(著作5-95 懸田克躬訳 1969)
キーワード:子供たちはどこから来るのか、コウノトリ物語、ペニスをそなえた女性、排泄孔理論、サディズム
要約:幼児は「子供たちはどこから来るのか」という問題について独自の理論を形成するが、そこでは男女共にペニスを持ち、子供は母の胎内から肛門を通じて産み出されるとされる。両親の性交はサディズム的な行為と見なされ、結婚の本質についてさまざまな解釈がなされる。幼児の性理論の思春期以降の性知識と性生活に影響をおよぼす。
関連論文:「性理論のための三篇」、「ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕」
記事: 「幼児の性理論について」を読む 誤りに含まれる真実 |
2008-03-03 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月02日(日)
幼児の性理論は間違っているのだが、それは普遍的な間違い方をする、とフロイトは考えている。ここでは、主に男の子の場合で述べられている。
1.男性も女性もペニスを持っていると考えている。女性にとってはクリトリスがペニスの役割をする。 2.子供は母の胎内で成長し、そして肛門から大便のようにひり出される。そして、男も出産することが出来る。 3.両親の性交は、サディズム的な行為とみなされる。 4.結婚の本質について、さまざまな解釈がなされる。「目の前でおしっこをし合う」、「互いにお尻を見せ合う」、「血の混じり合い」など。
これら、それぞれの見解は誤りではあるものの、その中に本質的な真実をも含んでいる。そして、それは成人してからの性生活にも形を変えて影響をおよぼしてくるのである。 幼児の性理論は一旦抑圧により忘れ去られるが、前思春期の頃の本格的な性探求の際に再度活性化して、正しい認識を乱れさせる。
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2008-03-02 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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2008年03月01日(土)
「ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕」に先立って、その成果の一部を盛り込む形で作られた論文。「幼児の性理論」とは、「幼児が考える性理論」ということである。 もの心がつきはじめの小さな幼児は、「赤ちゃんはどこから来るのか」という問題について考えをめぐらせる。これについて、大人はちっとも正直なことを教えてくれない。だから、子供はたったひとりでこの難問に取り組まねばならないのだ。
このような疑問を抱くきっかけとなるのは、弟や妹のような下の子の誕生が契機になりがちであるという。兄弟の上の子は、下の子に嫉妬して「いなくなっちゃえばいいのに」と思うものである。下の子にしても、さらにその下の子が生まれるのではないかという脅威にさらされている。そういうことから、「そもそも赤ちゃんはどこから来るのか」という問いが投げかけられるのだという。
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2008-03-01 00:00 | 記事へ | コメント(0)
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