現在読解中
フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

フロイト全著作リスト
↑本ブログの目次にあたります。

重元寛人のブログ

フロイト研究会
↑重元が会長をつとめるHP。

フロイト・ストア
↑フロイト本の購入はこちらで。

人気blogランキング

sigmund26110@yahoo.co.jp
↑メールはこちらへ。題名に「フロイト」などの語を入れていただけるとありがたいです。

2008年04月30日(水)
「C部 理論部 Y節 機知と夢、および無意識との関係」を読む
 いよいよ理論部に入り、機知の本質を夢の場合と比較しつつ論じていく。すでにこれまでのところでも、夢工作(Traumarbeit)と機知工作(Witzarbeit)という対照的な語によって、その類似性を指摘していた。本章では、さらにその道筋を本格的にたどっていくことになる。前提となるのは、もちろん『夢解釈』(1900)で展開された夢工作についての理論である。

一九〇〇年に公刊した拙著『夢解釈』は、同僚の専門家たちを「納得させた」というよりはむしろ、「意表を突いた〔唖然とさせた〕」という印象を私は受けている。(8-188)

 周知のとおり、『夢解釈』はフロイトの最大の著作であり、実質的な処女作であり、著者自身がもっとも愛した著作であろう。しかし、それについての世間からの評判はかならずしも芳しくなく、「意表を突いた」どころか、当初はほとんど無視されていたといってよい状況だったようだ。そのためか、フロイトはますますこの本の重要性について多くの著作の中で弁護しているように見える。
2008-04-30 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月29日(火)
ほんとは笑わせて欲しい
 自分で作った機知では笑えない。にもかかわらず、人はなぜ苦労して機知を作り、それを他人に語りたがるのか。
 フロイトの答えは、単純でありながら含蓄が深い。すなわち、「自分の機知を他人に伝えずにはいられないそのわけはまさに、自分ではその機知で笑うことができないから(8-185)」だというのだ。

 つまり、機知を作りたがる人は、本当は自分こそがそういった類の笑いを求めているのである。だから、自分の作りそうな機知を他人が聞かせてくれたなら、それが最高に幸せなことであろう。だけど、多くの場合それはかなわない。それで、仕方なしに自分で苦労して作り、それで他人を笑わせることで多少ともその相伴に与ろうとするのである。

 ジョークというものは、奇抜さが売りであって平凡なものはつまらない。すぐれて個性的なコメディアンというものは、これまでに聞いたこともないような笑い話を聞かせてくれるが、それは作り手自身が本当に聞きたいものをひねり出した結果なのだろう。

 同じようなことは、他の芸術作品にも言えそうだ。作家は自分が一番読みたいものを創作するし、作曲家は自分が一番聴きたい曲を作ろうとするし、画家は自分が一番見たい絵を描こうとする。

 さらに、同様のことは人間関係においても言えるかもしれない。自分が寂しくて慰めてもらいたい人は、人を慰めようとする、といった具合に。
2008-04-29 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月28日(月)
ただ笑え
 機知を作る人が笑えないのは、備給から解放された心的エネルギーが機知を作るために使われるからである。そして、聞き手の側も、どんな場合にも笑えるわけではない。笑える条件の一つとして、解放された心的エネルギーが別の思考過程にまわされたりしないということがある。これが実は意外にむずかしいことのようだ。

不必要になった備給の心理内的な使用を避けるということは、少しも容易ではないように思える。というのも、われわれの思考過程では、放散によってエネルギーを少しも失うことなくこのような備給を一つの通路から他の通路へと遷移させることを、つねに修練しているのだから。(8-180)

 われわれの心というのは、どうも律儀にできているようだ。あるエネルギーが節約できれば、それを別の思考過程などで有効利用しようとする。そういうことをさせないように、機知は巧みに技巧を用い、簡潔な表現によって不意打ちをする。こうした工夫によってはじめて、解消されたエネルギーは、笑いという無駄な運動によって、まさにばかばかしく消費されることになるのだ。
2008-04-28 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月27日(日)
節約の結果
 笑いの本質は、フロイト流に表現すると次のようになる。

われわれは、笑いは次のような場合に成立すると言うであろう。すなわち、以前はある心的通路の備給に使われていた心的エネルギーの量が使えなくなり、その量が自由に放散できることになった場合である。(8-174)

 すぐ後で、このような表現は「悪しき外見」を抱え込むのだと自分で書いている。すでに『夢解釈』でも使われたモデルであり、後に「経済論的」な観点として、局所論的観点と力動論的観点と共にメタサイコロジーの三本柱となる考え方である。

 大前提として、心的エネルギーというものが仮定される。これは物理的エネルギーの比喩であるが、脳内のニューロンにおける電位といったこととはとりあえず切り離して仮定されている。エネルギーだから量が重要で、質は問わない。ある仕事に使われていたエネルギーは、そのまま別の仕事に使うことができる。

 例えば、各家庭に配給されている電気エネルギーは、明かりをつけたり、温度を調節したり、調理をしたり、テレビやパソコンを動かしたりと、違った種類の仕事に使うことができる。明かりにまわすエネルギーを節約して、その分を調理にまわすといったことが可能になる。そんなようなものだ。

 「備給(Besetzung)」とは、その心的エネルギーをある心的過程なり心的通路なりに振り分けることである。引用文の「ある心的通路の備給に使われていた心的エネルギー」とは、例えば「こんな悪いことは考えちゃいけない」と我慢するのに要するエネルギーである。
 笑いの瞬間には、このような我慢のエネルギーごときものが、突然不要となってしまう。そこで自由になったエネルギーは、哄笑という別の行為を通じて放散されることになる。
2008-04-27 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月26日(土)
気の緩み?
 笑いの本質について、デュガの『笑いの心理学』(1902)やH・スペンサーの論文「笑いの生理学」からの引用文がある。どちらもフランス語であるが、フロイトの原文ではそのまま訳もつけずに引用されている。これまでも、本書では英語、フランス語、ラテン語については、そのまま引用されている。そのくらいは、読めて当然ということなのか。日本語版の全集では、ちゃんと邦訳されているのでありがたい。

 ところで、英語の引用であるA・ベインの「《笑いは拘束からの安心》」(8-174)という言葉については、全集を含めすべての版で間違えて引用されているそうだ。

フロイトの引用: "Laughter a relief from restraint"

ベインの原文: "Laughter a release from constraint"

 興味深い間違いだ。短い句なので、原文を確認せずにフロイトの記憶から引用されたのであろう。2つもの単語が違っていて、全体としては似たような意味ではあるが、やはり微妙に異なる。"release"と"relief"とでは音は似ているが意味の違いが大きく、"constraint"と"restraint"では音の違いの方が大きいというのも、なんだかおもしろい。
 おそらく、フロイトの考えにより近い形に変形されたものと思われる。ベインの原文では、せき止められていたものが解き放たれるというイメージ、フロイトによる修正版は、緊張がふっと緩んでほっとしたような感じになる。
2008-04-26 00:00 | 記事へ | コメント(3) |
| 全集を読む |
2008年04月25日(金)
笑顔の原理
 フロイトの著作では、著者による注釈の中に重要な所見がさらりと述べられていることが結構よくある。機知の動機を考察するにあたっても、「そもそも笑いとは何か」という重大問題について脚注の中で触れている。そこでは、笑いが特徴的な顔面筋の収縮と結びついていることに注目して、興味深い考察が述べられている。
 笑いには、可笑しい笑い(哄笑)とうれしい笑い(微笑)がある。より根本的なのは、つまり両方の笑いの元となったのは、二者のうち「微笑」の方であろうとフロイトは推測している。

微笑に特徴的な口元をしかめる動きが最初に見られるのは、私の考えでは、満ち足り、飽き足りて寝入り、乳房を放すときの赤ん坊である。この場合、顔をしかめるのはいかなる栄養もこれ以上は受つけまいという決心に対応しており、「充分」というより「十二分」の状態を示しているのであるから、本来の表情の動きと言える。微笑――それは笑いの根本となる現象であり続ける――にはこのようにもともと快に満ちた飽食の意味があって、後にそこから快に満ちた放散過程との関係が出てきたのではないだろうか。(8-175)

 笑いの根本は、おなかいっぱいという飽食であり、その際の口元は「もういらない」という拒否の形をしている。おもしろい仮説だ。たしかに、「にっ」と笑った口元はそんな風に見える。
 微笑みが表現する「満足」ということは、心理的には「うれしさ」とか「安心」といったことと結びつくのであろう。しかし、そういった充足状態は常に得られるわけではない。むしろ、われわれの生活は欠乏と緊張とに満ちている。それらが一瞬解消されて、急速に緊張が緩む時、「おかしさ」というもう一つの笑いが生まれるのであろう。
2008-04-25 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月24日(木)
機知の骨折り損
 フロイトのシェイクスピア好きは有名で、全集の中でもどれだけの引用がなされていることか。今回は、機知についての句を『恋の骨折り損』第五幕、第二場からの引用。

A jest's prosperity lies in the ear
of him that hears it, never in the tongue
of him that makes it...


冗談が受けるのは、聞く人の
耳のせいであって、決して言う人の
舌のせいではありません‥‥‥ (8-172)

 機知や冗談が完結するのは、聞き手がそれを笑った時である。話者はそれを固唾を呑んで見守り、笑いを聞いてようやくほっとする。
 聞き手が笑うかどうかは、ひとつには機知そのものの出来のよさにかかっているのだが、それだけではない。特に傾向的な機知の場合には、その思想内容に聞き手が賛同してくれることが必須である。例えば、ある人物をこき下ろす冗談を、彼の熱烈な支持者の前で言ったとしたら、笑いどころか猛然たる反発を受けるだけだ。
2008-04-24 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月23日(水)
「第X節 機知の動機」を読む
 機知の動機(Motiv)を問う、というのはいかにもフロイトらしい問題の立て方である。なぜ、人は機知を作るのか。以前の記事でも指摘したが、一見すると機知を笑い、その恩恵にあずかるのは聞き手なのである。作る方は苦労して考えるけれど、自分ではおかしくもない。もちろん、聞き手が笑うのを見る満足感というのはあるだろうが。それにしても、なぜそこまで苦労して機知をひねり出し、人を笑わせようとするのか。

 ここで注目すべきは、誰もが機知を作るわけではないということ。好んで機知を作る人物がいる。それは、どのような性質をもった人なのか。
 まず考察の対象となったのは、本書における最初の事例「百万家族の一員のように(famillionär)」の機知を作ったハイネである。ハイネはヒルシュ=ヒアツィントという滑稽な人物にこの機知を語らせているのだが、フロイトの分析によれば、このヒアツィントはハイネ自身の分身なのだという。ハイネは実際に、金持ちの親戚からまともに相手にされず随分とつらい思いをしたことがあったのだそうだ。そのような、悔しくてつらい体験が、彼にこの機知を作らせる動機になったというのである。
2008-04-23 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月22日(火)
解き放て!
すなわち、傾向的機知は諸傾向に寄与するものであり、予快としての機知の快を介して抑え込みと抑圧を解除することで、新たな快を生み出そうとする、と。(8-164)

 結局のところ、機知とはその技巧的面白さという快を呼び水(予快Vorlust)として、さらに大きな快を解き放とうとする試みである。その大きな快は、外的障害や内的制止、なかでも抑圧によって実現をはばまれている、いわば「禁じられた快」なのである。

 われわれの生活には、さまざまな事情から実現できない快というものが、あっちにもこっちにもころがっている。しかし、そういう窮屈さを、ときどき機知が吹き飛ばしてくれる。それは、禁じられた快が、笑いに乗じて解き放たれる喜びなのであろう。
2008-04-22 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月21日(月)
思想を語れ
 単なる冗談と機知の違いは何か。ここは結構微妙なところで、判断する人によって冗談と判定したり機知と判定したりされるような、境界的な例もあるだろう。

 その違いとは、ずばり「機知は思想をもつ」ということである。前節で、機知の傾向を論じ、それを「傾向的な機知」と「無害な機知」に分類したわけだが、実は完全に傾向のないのは冗談だけであるという。無害であっても、機知には思想がある。傾向的な機知の思想の方が、毒を含んでいて特定の人には大きな快をもたらしてくれるのだが。

機知は、拡張によって思想を支援し、批判から守ろうとする第二の意図に従っているのである。(8-158)

 機知を笑う者は、その技法によるおかしさを笑っているのか、その思想を賞賛するために笑っているのか、曖昧なところがある。笑う人が、自分の快がどこからきているか意識していない。そこがポイントである。

 一歩一歩本質に近づいてきている感じだ。私としては、ここで本文の進行に先走るかたちでいろいろ考えてしまう。機知の重要な目的が、思想を語ることだとすれば、機知の作者が苦労して他人の喜びのために奉仕する理由がわかる。それは、思想を広めるためであり、その思想に同意させるためである。
 日本ではそうでもないが、アメリカでは政治家の演説にジョークは欠かすことができず、そのできばえが人気を左右する大きな要因になるほどであると聞く。そのことは、機知の本質にかかわることなのかもしれない。
2008-04-21 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月20日(日)
笑いの三段変化
 機知の前段階のものとして、二つがあげられている。最初のものは、遊戯(Spiel)。これは、子供のするナンセンスな言葉遊びである。そこでは、類似のものの反復、既知のものの再発見、音合わせなどが、子供に快をもたらしてくれる。
 子供の遊戯は、大きくなるにしたがって、その無意味さゆえに批判され、断念させられることになる。そこで、その発展型としての冗談(Scherz)が登場する。冗談(語呂合わせ)は、一応意味を持っている。しかし、その意味は文脈にそったり、ある種の主張をしている必要はなくて、単に無意味ではないということで許される。つまり、断念されたナンセンスの快が、形ばかりの意味によって批判をかわしながら、再登場したというわけだ。

 冗談がさらに発展して、ひとつの意味深い主張を持つようになれば機知(Witz)になる。ところで、この節ではなぜか「機知」という語に「ジョーク」というふりがながふってある。「ジョーク」と読めということなのか。元の語は"Witz"で変わらないのであるが、翻訳の担当者がこれまでの中岡成文氏から大寿堂真氏になっているのと関係があるのか。解説には、"Witz"の訳語として「ジョーク」も検討されたとのことだから、その名残なのかもしれないが、節ごとに変わるのも妙だ。
2008-04-20 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月19日(土)
酒のこうよう
 人は大人になると、子供の時のように自由にナンセンスの喜びを得ることができなくなってしまう。しかし、これを一時的に容易にしてくれるのが、アルコールである。

アルコールの影響で成人は子供に返る。子供は、論理的強迫に従わずに好きなように想念を展開し、そこから快を得るのだ。(8-152)

 フロイトのタバコ好きは有名だが、アルコールの方はどうだったのだろう。このような記述からは、酒のもたらす気分高揚のことはよくわかっていたようだが。
 本文では、さらに「ビール演説(Bierschwefel)」や「酒場新聞(Kneipzeitung)」といった言葉も登場する。酒場でなされる、ナンセンスな演説や覚え書きのことのようだ。
2008-04-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月18日(金)
教養の強要
 前の記事でも述べたように、大人では言葉の響きから意味への連想は、ほとんど瞬時になされている。しかし、子供では事情が異なる。彼らはまだ、言葉の響きの方に大きな注意を向けているのだ。だから、駄洒落のような言葉遊びを喜ぶ。無意味な言葉をもて遊ぶ。

私が思うに、こういった遊びを始めたとき子供がどんな動機に従っていたにせよ、それがもっと発展した段階では、遊びは無意味(ナンセンス)だという意識をもちつつそれに没頭するのであり、理性の禁じるものが与えるこうした刺激に満足を見いだしているのだ。こうなると遊びは、批判的理性の圧力を逃れるために利用されている。しかしながら、正しく思考し、現実において真偽をより分けるための教育で幅を利かせることになる諸制限は、はるかに強力なものである。したがって、思考と現実の強迫に対する反抗は根が深く、息長く続く。(8-150)

 子供は教育によって、語の意味に注意を向け、論理的に組み立て、現実に適応することを、強要されていやいや身につけていく。無意味さによる遊びは、教育に対する反抗なのである。思考と現実の強迫と、それに対する遊びによる反抗というせめぎ合いは、大人になるまで持ち越される。

 理性によって常に強いられる思考のための心的消費が、ナンセンスから快を生み出すための基礎条件を作る。機知によって論理的な思考がはずされた時、そこからは大きな解放の喜びがおこるのである。
2008-04-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月17日(木)
響きと意味
 心的消費の節約ということは、傾向的な機知だけでなく、無害な機知においても快を生み出す要因となる。例えば、語呂合わせの機知である。

このような機知に属するあるグループ(言葉遊び)の場合、どこに技法があるかというと、われわれの心的焦点を語の意味ではなく語の響き(音)に対して向けさせ、事物表象への関連によって語表象に与えられる意味の代わりに(聴覚的な)語表象そのものを立てるところにある。(8-143)

 われわれ、特に大人は、言葉を聞けば即座にその意味を連想してしまうので、その語がどのような音で構成されているか、ということには通常あまり注意を払わなくなっているのである。言葉遊びの技法は、本来意味に向けられるべきわれわれの注意を、語の響きの方に移すというところにある。
 つまり、われわれの頭の中では、言語を使う限り常に、語表象(Wortvorstellung)から事物表象(Dingsvorstellung)への翻訳がなされているのである。この仕事に伴う心的消費が、言葉遊びの機知では節約されるというわけだ。
2008-04-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月16日(水)
「B部 総合部 W節 快機制と機知の心因」を読む
 いよいよ後半の総合部に入り、これまで多くの例を分類した成果を統合し、そこから機知の本質にせまっていくことになる。
 傾向的な機知において生み出される快の大半は、ある傾向の充足である。それは、わいせつな、あるいは攻撃的な意図であり、ある障害のために通常の方法では充足されえない。
 目上の者を批判することが社会的に容認されないといった外的な障害、あるいは、おおっぴらに他者を非難することへの羞恥心といった内的な障害が、その充足を阻んでいる。機知こそが、それらを乗り越え、快をもたらしてくれるのである。

 ここで、再び節約ということが出てくる。語機知の特徴のひとつは、言葉の節約であった。今回問題になっているのは、心的消費の節約である。
 さまざまな外的および内的障害によって、われわれに欲求は自由には充足できない。それを制止したり抑え込んだりするために、常に心的消費を要する。機知は、その心的消費を節約してくれるのである。
2008-04-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月15日(火)
嘘の嘘は真?
 傾向的な機知の種類を、フロイトは最終的に4つに分けている。露出的もしくはわいせつな機知、攻撃的(敵対的)な機知、シニカルな(批判的な、涜神的な)機知、そして懐疑的な機知である。

 懐疑的な機知の例としては、ひとつだけ以下のものがあげられている。

あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(8-137)

 これは私には単なる笑い話に思えた。いつも嘘ばかりついている人物が本当のことを言えば、それは嘘のような効果を与えるというわけだ。
 フロイトの解釈では、この機知は「本当のことを語っているつもりでも聞き手の受けとめ方次第では嘘になりえる」という主張をなしており、全体として真実に関するわれわれの認識に疑問を呈しているというのだ。そこまで汲み取ることが一般的かどうかはわからない。ただ、こういった機知には、聞き手を笑わせた上で「まてよ」と考えさせるものがあるのも確かだ。
2008-04-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月14日(月)
この日を摑め
 攻撃的な傾向機知は、権力者や制度を攻撃する。フロイトお気に入りの「鮭のマヨネーズ添え」の機知で槍玉にあげられているのは、禁欲の道徳である。人生は不確かであり、明日のこともわからない。禁欲はやめて、今日を楽しもうということである。"carpe diem"(この日を摑め)というホラティウス(B.C.65-B.C.8)というローマ詩人の句が引用されている。

これらの機知がささやいていることを大きな声で言うと、要求が多く容赦のない道徳だけではなく、人間の欲望や慾にも語る権利があるということである。それに今日では、この道徳なるものは、少数の富者・権力者が下す利己的な指令に過ぎず、この者たちはいつでも遅滞なく自分の欲望を充足することができるということが、心を捉える強い調子の文章で述べられている。(8-131)

 ユダヤ人の機知に同様の趣旨のものが多いのは、やはり彼らが禁欲的な生活を送っているからであろうか。そして、禁欲の要求の向こうには、富者や権力者の姿がある。他民族から虐げられ続けたユダヤの歴史から滲み出る、彼らの思いがこめられているのかも知れない。
2008-04-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月13日(日)
結婚の真実
というのも、結ばれた婚姻の神聖さは、婚姻締結時の経緯を云々すれば手ひどく打撃を受けることを、民衆の精神は知っているからである。(8-126)

 機知が攻撃し、その真実を暴き立てる対象は、権力者であったり、制度であったりする。それらによって、人々は窮屈な思いをしているが、面と向かっては異を唱えることはできない。機知が、その憂さを晴らしてくれるのである。

 そのような制度のひとつに、結婚がある。先にも紹介した、ユダヤ機知でお決まりの題材になっているもののひとつに取り持ち屋の話があった。それらの機知が秘かに攻撃しているのは、実は結婚制度そのものであったのだ。
 結婚において、新郎と新婦が、そして両家の両親が、それぞれに抱く貪欲な思いの数々。そういった本音と、婚姻とは神聖なものなりとしている建前のギャップのばかばかしさ。そういったものこそ、取り持ち屋の機知が暴きたてようとしていることなのだ。
2008-04-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月12日(土)
賛同される方は哄笑を!
 傾向的な機知において、作者の意図は、対象への禁じられた欲動を迂回路から満足させることである。聞き手は、その意図に巻き込まれ、労なくして快を得る(笑わされる)ことで、機知作者の共謀者となるのである。

 攻撃的な機知の場合には、例えば権力者が攻撃の対象となり、ほのめかしによる批判が聞き手を笑わせる。作者は、その笑いを聞いて、自分の攻撃が達成された満足を得るのである。

 権威に対抗する機知に似たものに、カリカチュアがある。現代の新聞に掲載される政治的な風刺漫画も、これと似たようなものであろう。

われわれはカリカチュアを聞いて、その出来が悪いときでさえ笑うが、それは権威への抵抗をカリカチュアの功績に数えているからに他ならない。(8-124)

 聞き手は、何を笑っているのか、実はつきつめて考えてはいない。カリカチュアの技法が見事なので笑っているのか。案外そうではなくて、作者の攻撃的な意図に、喝采を送るために笑っているのである。
2008-04-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月11日(金)
猥談の三人称
 機知の前段階が猥談であり、猥談は性的な誘いかけである。私(男)が、あなた(女)を誘い、言葉によって興奮させようとするのである。誘いが成功してしまえば、それは単なる誘いにすぎない。しかし、それが拒絶されると(注)、言葉による誘いは自己目的化し、それ自体が快をもたらすものへと向かう。これが猥談である。

 そこで、もう一人の人物、彼(男)が登場する。猥談の向かう方向は、あなたから彼へと逸らされ、彼に快をもたらす(笑わせる)ことが目的となる。言葉によって、あなたを興奮させ、彼に対して露出させ、はずかしめ、それによって彼に満足させることが目的となる。

 猥談を高尚にした機知も、これと同じ構造をもっている。機知は、笑いのネタにしようとしている対象(あなた)についての何かを、笑わせようとしている人(彼)に対して暴露しようとする試みなのである。

 機知とは節約であるという話があった。その節約をするために機知の作者はとても苦労をするのである。なぜそこまでして他人を笑わせようとするのか。その答えが、上の比喩的な説明に含まれている。

注:「拒絶」は強すぎる表現だったかもしれない。フロイトの表現は「女性の手ごわさ」であり、「その場ですぐには応じられないものの」という含みを持たせている。そのことが、一層「私」をその気にさせるのであろう。
2008-04-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月10日(木)
下の話
 二種類の傾向的機知のうち、わいせつな機知の方が先に考察の対象となる。そして、それを考察するにあたって、いわば補助線となるのが「猥談(Zote)」である。

猥談の内容となる性的なものは、両性によって異なっている点を含むだけではなく、それ以上に両性に共通して羞恥の対象となる点、つまり排泄物の全領域を含んでいる。(8-115)

 日本語で「下ネタ」と言ったときにも、狭義の性的な内容の他に、糞便についての下品な内容も含んでいる。特に子供は「おしっこ」とか「うんち」の方の下ネタが好きだ。まさに、それこそが猥談の原点なのかも知れないね。
2008-04-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月09日(水)
二つの傾向
 第V節では、機知をその技法とはまた別の観点、すなわち「傾向」という観点から分類し、考察する。
 傾向的な機知とは、それが一部の人々には快をもたらすが、別の人々には不快をもたらすような機知である。例としてあげられている機知では、カトリックの神父とプロテスタントの牧師をやり方の違う商売人に喩えている。これは、キリスト教の信者には不愉快な機知であろう。
 一方、聞く人を選ばない機知は、抽象的な、あるいは無害な機知と呼ばれる。

 傾向的な機知は、無害な機知よりも、より大きな快をもたらす可能性がありそうである。そして、傾向的な機知には、たった二種類の傾向しかない。それは、敵対的な機知(攻撃、皮肉、防衛に用いられる)と、わいせつな機知(露出に役立つ)である。

 いよいよ、核心に近づいてきたかな。
2008-04-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月08日(火)
「V節 機知の諸傾向」を読む
 フロイトが多くの機知を引用したゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク(1742-1799)は、ドイツの数学者、科学者、著述家だそうである。本書で引用されている機知を見るだけでも、とても深い思想を持った人であったことがうかがえる。
 その彼の機知を、もう一つ引用。

「彼は幽霊を信じなかっただけではなく、それを恐れさえしなかった」。(8-108)

 この機知についてのフロイトの説明は、いまひとつわかりにくいのだが、機知そのもののおもしろさと思想内容は充分伝わってくる。
 論理的に言えば、幽霊を信じない人は幽霊を恐れるはずはないから、このようなことを言う必要はないのである。しかし、実際には「幽霊を信じない」と言っている人の多くが、内心は幽霊の存在を恐れているのだ。だからこそ、幽霊を信じないだけでなく、それを恐れない人というのが、特筆すべきことになるわけだ。
2008-04-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月07日(月)
機知と夢
 「U節 機知の技法」では、豊富な実例を挙げながら機知の技法が分類されていく。しかし、読んでいると、そこには分類すること自体よりも、なにかもっと大きな目的があるかのように感じられてしまう。あえて言えば、それらの分類自体はあまり整然としているとも言えず、ところどころこじつけ的に思えたりもするのであった。
 その、大きな目的というものが、節の最後になってようやく明らかになる。なる程、そういうことだったのかと。それは、機知と夢との類似性である。

 "familionär"の機知で分析された「代替形成を伴う縮合」という技法は、夢形成との類似性を示唆していた。さらに、思想機知における、遷移、論理的誤謬、不条理、間接的提示、反対物による提示といった技法は、潜在夢思想から顕在夢内容が作られる際の変化にそっくりだという。

 機知工作(Witzarbeit)と夢工作(Traumarbeit)の媒体(手段)にみられる大幅な一致ということこそ、フロイトが示そうとしていることのようだ。
2008-04-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月06日(日)
東と南は?
 リヒテンベルクの機智的な比喩をもうひとつ。

「ひとが何かをする運動根拠は、三十二の風向きのように分類し、名前も同じように付けることができる。たとえば、〔北・北・西などに合わせて〕パン・パン・名誉とか、名誉・名誉・パンのように」。(8-101)

 おもしろい機知である。ところで、東西南北四つの基本的な方角に喩えられるものの二つがパンと名誉であるすると、残る二つは何であろうか。
 一つはおそらく性愛ということだろうが、もう一つがわからない。権力かな、しかしこれだと名誉に近いし。虚栄、おしゃれ、趣味、どれも他とかぶってしまう。あるいは、苦痛からの逃避といった消極的動機をいれてみるか。
 リヒテンベルクの原典には、そのあたりの言及があるのかどうか。
2008-04-06 00:00 | 記事へ | コメント(3) |
| 全集を読む |
2008年04月05日(土)
真理の炬火
 リヒテンベルクの著作集から引用された、機智的な比喩。

"Es ist fast unmöglich, die Fackel der Wahrheit durch ein Gedränge zu tragen, ohne jemandem den Bart zu sengen."(GW6-89)

「真理の炬火を揚げ、誰のひげも焦がすことなく雑踏を通っていくことは、無理な相談だ」。(8-97)

 「真理の炬火」というのは、従来からある比喩である。それは、暗闇を照らし出すものである。しかし、ここではその比喩を逆手にとって、真理の別の側面を語っているところがおもしろい。
 それは、多くの人々の間にあっては、人を傷つけもし、実のところはた迷惑な代物ともなりえるのである。

 本書の引用箇所では、フロイトはもっぱら機知の技法的側面について分析をしており、内容については何も語っていない。しかし、そうすることで、却ってこれらの機知のメッセージがひきったっているところもある。もしかしたら、フロイトの頭の中では、精神分析を「真理の炬火」になぞらえているところがあるのかも知れない。
2008-04-05 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月04日(金)
年に一度の‥‥
 ユダヤのジョークでよくテーマになることのひとつに、風呂嫌いということがあるらしい。

二人のユダヤ人が入浴について話していた。一人が言った。「おれは毎年一回は風呂に入るのさ、必要があろうがなかろうが」。(8-84)

さて、公衆浴場の前にいる二人のユダヤ人にまた登場願おう!
一人がため息をついて言った。「早くもまた一年が過ぎたか!」(8-92)

 実際にユダヤ人が風呂嫌いかどうかは知らないが、清潔好きとされる日本人に比べるとヨーロッパの人は意外にもあまり風呂には入らないという話は聞く。
 このへんの感覚はよくわからないが、気候とかも関係しているのだろう。日本のような高温多湿な風土では、やはり何日か風呂に入らなければ自分が気持ち悪くなる。私自身も、特に清潔好きな方ではないし、面倒くさがりの方だが、カラスの行水でも一応毎日入っている。乾燥した土地に住んだら、風呂嫌いになるクチかもしれないな。
2008-04-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月03日(木)
できますとも!
 「反対物による呈示」という技法を使った機知。K・フィッシャーの著作からの引用。

ヴェルテンベルクのカール大公は馬で遠乗りをしていて、仕事中の染物屋に行き合った。「わしの葦毛の馬を青く染められるかな」と大公が大声で問いかけると、返ってきた答えは、「できますとも、殿下、煮えたぎる染料につけても馬が平気ならね」。(8-80)

 通常なら「できません」と答えるべきところを、「できます」と答えておいて、しかしそれに条件をつけるというやり方である。
 この小噺で思い出すのは、一休さんについての有名な逸話。殿様に「屏風絵の虎を縛ってみよ」との難題を出された一休が、綱を持って構え、「さあ殿様、虎を追い出してください」とやる、あれである。

 難題を出す権力者に対する巧妙な返答、というところが共通している。私には、いちばん難しいところを殿様に委ねてしまった一休さんの方が、さらに上手だなあと感心する。「人にそんな難題を出すからには、当然そのくらいのことは出来ますよね」と、見事に権力者をやりこめている。
2008-04-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月02日(水)
経験とは
 以下の機知は、著作集で読んだ時から強く印象に残っていた。K・フィッシャーからの引用で、格言といってもよい程の含蓄をもつ。

"Die Erfahrung besteht darin, daß man erfährt, was man nicht zu erfahren wünscht". (GW6-70)

「経験とは、経験したくなかったことを経験することである」。(8-76)

 機知の技法としては、表象の相互定義であり、一体化(Unifizierung)としてまとめられたものに属する。ドイツ語の"Erfahrung"が「経験」とかなりうまく対応しているために、日本語訳がうまくはまっている。「経験」ということを、「経験する」という語によって定義しているわけだが、その際に動詞形はより一般的な意味をもち、名詞形は「価値ある経験」という狭い意味になっている。

 「経験は大事」とか「若い頃の苦労は買ってでもしろ」などと、人は言う。しかし、自分からすすんで経験するようなことは、得てしてたいした経験にはならない。「こんな経験はしたくなかった、二度と御免だ」と思うような、そんな経験こそが、われわれの血となり肉となるのである。
2008-04-02 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年04月01日(火)
完全無欠じゃないと?
 ユダヤ人の機知でお決まりのテーマになっているものの一つに、取り持ち屋(Schadchen)という結婚仲介人についてのものがある。フロイトもこのテーマの小噺を幾つも紹介している。機知の技法でいうと、「詭弁的な論理的誤謬」と「自動的な論理的誤謬」という種類のものが多い。
 どれか一つここで紹介とも思ったのだが、大概のジョークが花嫁候補の身体的特徴を話題にしていて、現代的な視点からは不適切な表現も含んでいるとも感じられるのでやめておく。

 ただ、このような機知が多く生まれた背景というものを想像するとおもしろい。直接実情は知らないのだが、やはり取り持ち屋をめぐる笑い話のような、しかし当人たちは実に真剣なエピソードというものが多々あるのだろうなと。
 客の方は、紹介された候補者に対してなんだかんだと高望みな注文をつけるだろうし、取り持ち屋の方は詭弁を弄してでもうまく話をまとめてしまおうと、それぞれの思惑にそった取引が展開するのだろう。
2008-04-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |