現在読解中
フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

フロイト全著作リスト
↑本ブログの目次にあたります。

重元寛人のブログ

フロイト研究会
↑重元が会長をつとめるHP。

フロイト・ストア
↑フロイト本の購入はこちらで。

人気blogランキング

sigmund26110@yahoo.co.jp
↑メールはこちらへ。題名に「フロイト」などの語を入れていただけるとありがたいです。

2008年05月19日(月)
その、正体は‥‥
 滑稽のジャンルのひとつに、「正体の暴露(Entlarvung)」と呼ばれるものがある。このような呼び方からは、「一体どんな正体なのだろう、宇宙人か?悪魔か?」と期待が高まってしまう。しかしなんのことはない、正体は単なる人間なのだ。

 ここでは偉大な人物もやはり人間なのだということを知らしめる滑稽をいっているのである。例えば偉人の精神的に崇高な所作も、肉体的欲求によって影響を受けざるをえないといったことの暴露である。

つまり、半神のごとく崇拝されるこの人やあの人だって、実は私や君と同じ一介の人間にすぎないのだという戒めなのである。(8-240)

 当たり前であるはずのことが当たり前でなくなっているということがポイントである。そのような常識を打ち破るところに、滑稽の快が生じるのでだ。
2008-05-19 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月18日(日)
カリカチュアとパロディ
 模倣による滑稽に含まれるものとして、カリカチュアがある。こちらは、そっくりに似せるというよりむしろ特徴的な部分を誇張して呈示することで一層の可笑しさを作り出す。

 もうひとつ、パロディがある。こちらは、オリジナルとは別のものという体裁をもちながら、模倣をとりいれることで滑稽を作り出す。オリジナルが真面目に追求しているところを、茶化しながら取り入れることで笑いを誘うのである。

 カリカチュアもパロディも、崇高なものを貶めるという点が共通しており、それこそが笑いを生み出す原理となっているのである。

 フロイト自体も、これまで随分と多くのカリカチュアやパロディの対象となってきたことであろう。例えば、ホームページの方でも紹介した以下の本など。


フロイトの料理読本
J・ヒルマン C・ボーア 著
木村定 池村義明 訳
フロイトが晩年に英語で書いた料理レシピという体裁をとっているが、もちろん著者らによって創作されたパロディ。注意しないといけないのは、翻訳者の解説から帯広告まであたかもフロイトの著作であるかのように書かれていること。おもしろいが、フロイトの生涯や精神分析についてある程度の知識がないとわからない。逆にこのようなパロディが成立するということは、欧米での精神分析に関する知識の普及をあらわしているのか。

2008-05-18 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月17日(土)
物真似の秘密
 滑稽なものの可笑しさを研究する有力な方法として、作られた滑稽というものについて考察するということがある。

 滑稽なものを作り出す技法にもいくつかある。ひとつは、自分が不器用なふりや愚かなふりを演じてみせること。次には、いたずらを仕掛けて、ある人物を滑稽な状況においこむこと。

 そして、よく用いられるやり方に、物真似ということがある。身をもって演じるのでもいいし、似顔絵のようなものでもよいが、ともかく模倣というものはお笑いの一大ジャンルになっている。
 有名人であっても、身近な人物でも、その真似をするということは手っ取り早く他人を笑わせる方法である。

 ここでの笑いの原理は、偉大なものを引きずり下ろすということである。対象を尊敬しようとするような心的消費が、そこでがくっと節約され笑いとなって解放されるわけだ。
 物真似や似顔絵に対象になりがちなのは、偉い人である。そして、そのような行為は、対象となった人物に対してはやはり失礼なことでもある。

 物真似は、似ていれば似ている程おもしろい。その人だけが持っていると思われた独特の表情や喋り方が、別の人物によってそっくりに再現される時、そこに込められていた威厳や個性は崩れ去ってしまう。
2008-05-17 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月16日(金)
ずっこけ
 「状況の滑稽」と呼ばれる例としては、「ある人が神経を遣う仕事をしている最中に、苦痛や排泄欲求のために突然妨害される場合(8-233)」といったものがある。

 また、期待が失望に終わった場合の滑稽というものもあって、例えば受け止めたボールが予想よりもはるかに軽くかったりとか、重そうな荷物を持ち上げたら軽いハリボテでずっこけたという場合である。

 両方のケースとも、可笑しいのはもちろん見ている人だけで、当事者はそれどころではない。当事者においては、空振りに終わったエネルギーはバランスを崩して転倒するときのエネルギーなど、笑いとは別のところで消費されてしまう。それを見ている者だけが、感情移入により心的消費の節約分を笑いにまわすことができるのである。

 ここであげられている滑稽の諸例は、昔のチャップリンの映画とか、主に動きで笑わせる作品の中にふんだんに盛り込まれている種類のものだろう。
2008-05-16 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月15日(木)
んなわきゃない!
 パントマイムのように過剰な動作は、それを頭の中で模倣して理解する際に過大な心的消費を強いられる。そのことをシュミレーションしながら、「まてよしかし目的を達するためにはもっと少ない動作でこと足りるはずだ」と気づいた瞬間、その心的消費に費やされていた過剰な部分が解放され、笑いとなるのである。「そんなわけないだろ!」「そりゃ余分だよ!」という笑いなのだ。

 動作の滑稽と比較して、精神的な働きの滑稽が検討される。例えば、「不勉強な受験生が試験でしでかしてしまうようなナンセンスな滑稽(8-231)」といったものである。
 この場合は、過剰な動作における滑稽と逆で、滑稽な対象は精神的な働きを省いているのである。本来の目的のためには、もっと多くの心的消費が必要なはずなのだ。

 いずれの場合でも、二通りの心的消費の差から滑稽の快が生じるということになる。

いま論じた滑稽の快の起源、すなわち他者と自我との比較――感情移入の消費と自己の消費とのあいだの差分――から快が生じる場合が、発生論的にみておそらく最も重要なものだろう。(8-232)
2008-05-15 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月14日(水)
おーきなくりの
 人は、大小とか高低といった量的なことを伝えたい時に、よく身振りを交えるものである。「大きい」と言いながら手を大きく広げたり、「高い」と言いながら手を高くさしのべたり。

ところで、こうした擬態への欲求は、伝達への要請によってはじめて惹起されているとみなされるべきだろうか。(8-229)

 ここでも常識的な考えに疑問が呈される。普通に考えると、擬態はよりよく物事を伝えるためになされる。しかし、フロイトは擬態の方が伝達よりも根源的な行為であるという仮説を立ててみた。

つまり、表象されたものの内容に合致しようとする身体の神経支配こそが、伝達目的の擬態の発端であり起源だった、と。(8-229)

 擬態は物事を理解するための行為であって、それが後になってから伝達のために利用されるようになったというのだ。たしかにそうかもしれない。
2008-05-14 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月13日(火)
模倣が原点
 過剰と見える動作が滑稽とうつるのはどうしてか。「他者に看取される動作と自分自身がその人の立場になったら行ったであろう動作とを比較することによって、笑いが生じる(8-226)」のだという。

 このような仮説の前提として、次のような考え方がある。すなわち、他人の動作を知覚するということは、その動作を頭の中で真似していることなのだ。身体を動かしてはいないが、頭の中で模倣している。いや、かつては身体も動かして真似ていたのである。

ある一定の大きさをもつ動作の表象を私が獲得したのは、自分でこの動作を実際に行ったりそれを真似したりすることによってである。(8-227)

 動作を認識することの原点は真似ることである、というのは『失語論』以来の考え方である。そこでは、言語を聞いて理解することの原点は言語を模倣することにある、という仮説が展開されていた。
2008-05-13 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月12日(月)
そんな大げさな
 無邪気の次は、滑稽な動作の考察である。過剰に見える運動は、滑稽な動作とうつるという。いくつかの例があげられている。

この種の滑稽のきわめて純粋な事例としては、たとえばボーリングの球を投げた人が、まるで投げたあとでもまだ軌道修正できるとでもいわんばかりに、その進路を見守っているあいだの一連の動作がある。また、舞踏病(Chorea St. Viti)患者におけるように不随意に生じてしまう場合を含め、通常の感情表現を逸脱するような渋面はすべて滑稽である。さらに、今日のある指揮者の情熱的な指揮ぶりは、その動作の必然性を理解することができない音楽とは無縁の門外漢には、滑稽なものに映ることだろう。(8-225)

 フロイトも、転がりゆくボウリングの球を見つめて身体をひねりながら「右ーっ」とか叫んだのでしょうか。その姿、見たかったなあ。
 当時の指揮者で、情熱的な指揮をした人ってどなたでしょうね。そしてフロイトはその音楽を理解していた方なのだろうか。この例は、同じ動作が見る人によって滑稽に見えたり見えなかったりする理由を明らかにしている。観察者がその動作を「無駄なもの」と思うか「必要なもの」と捉えるかによって違いが生じるのだ。
2008-05-12 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月11日(日)
他者理解への消費削減
要するに、無邪気なものが滑稽なものの一種であるのは、他者を理解しようとする際に生じる心的消費の差分から快が生じているかぎりのことなのであろう。(8-222)

 われわれは、他者を見るとき常にその心を読もうとしている。つまり彼の立場に身をおいて考えてみている。そうやって、複雑な人間関係を考慮し対処していくのであって、そのために相当の心的エネルギーを消費しているわけだ。

 無邪気な子供を見ていて笑えるのは、相手が大人であれば想定せねばならないような心的制止や論理的思考への配慮が不要になるからである。相手の立場になって考える際の心的消費が節約された分だけ、笑いによって放出されるのである。
2008-05-11 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月10日(土)
節約の方法
 機知と無邪気の共通点は、それが制止を解除し節約となることで快をもたらすということだ。しかし、制止の解除がいかにしてなされるか、というところが異なっている。
 機知の場合は、作り手によって巧みにしくまれることで制止がはずされ、節約がなされる。しかし、無邪気の場合には作り手には何の作為もなく、むしろ無知であることが聞き手に節約をもたらすのである。

 二種類の説明がなされる。ひとつは、相手の身になるということ。子供の無邪気な間違いであれば、その子供の気持ちになってみる。そうすれば、「ああ大人のように七面倒なことを考えなくてもいいんだ!」と気持ちが楽になる。
 別の説明であれば、相手の間違いに対して「なに」と身構えておいて、そしてそれが無知による間違いだとわかると、憤慨のためのエネルギーが節約されるというわけだ。
2008-05-10 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月09日(金)
知らぬが仏?
 子供の無邪気な発言が滑稽をかもしだす例が、3つあげられている。第一例は男女差に関連した勘違いによるもの、第二第三の事例は共に性に関する無知に基づく滑稽になっている。すなわち、どれも性にまつわる話なのである。さすがフロイト。

 子供の無邪気で滑稽な言動がすべて性にまつわるものというわけではないだろうが、それが多いのもたしかだ。なにしろ、性については大人が子供にはっきりした口調で説明しないですましがちなのだから、子供が間違えるのも当然と言える。

 しかし、本当に子供がそれについて無知なのかといえば、少々怪しい感じもする。第二例は大変おもしろい事例なのだが、この点についてはかなり怪しい。子供の方も薄々は気づいていて、それでいて大人が妙な反応をするものだから余計にその手の話をしたがるということもあるかもしれない。
2008-05-09 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月08日(木)
無邪気の原理
 日本語の「無邪気」という語もおもしろい。「邪気」とは悪い気、悪意のことだから、それがないのが無邪気。「悪気がない」というのは、それを見る人が判定する。でも、本当に悪意がないかどうかは、ちょっと怪しい。

 例えば小さな子供が、相手に面と向かって失礼なことを言っても、悪気ではないと笑って許される。しかしこれは、悪気がないというよりも、その言葉を悪いとは思っていないということだ。相手にそれを言いたいという気持ちは、大人も子供も変わらない。ただ大人になると、いろいろなことを「悪いこと」として抑え込むようになる。それを平気で言ってしまうのが子供なのだ。
 だから無邪気というよりも「無節制」なのだが、「悪いと知らずにやったことなら悪くない」というのは、もしかすると日本的な考え方なのかも知れない。
2008-05-08 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月07日(水)
「Z節 機知および諸種の滑稽なもの」を読む
 最後の節では、これまで考察してきた機知に似た、諸種の滑稽なものについて論じている。まずは、「無邪気なもの(das Naive)」について。

 この語の元になった形容詞の"naiv"は、「素朴な、自然な、無邪気な、うぶな、単純な、幼稚な、おめでたい」といった意味である。「ナイーブ」というのは日本語にもなっているが、「神経質で繊細な」というニュアンスがある。

 無邪気なものと、機知や冗談との違いは、それが意図して作られたものではなく、対象の無知によって偶然生じた可笑しさであるという点である。「天然ボケ」というのがあるが、あれが近い。

 無邪気なものの例としては、子供の言動というものがやはりあげられている。子供が無知ゆえに大真面目にしてしまう間違いというものは、大人から見るとおもしろい。もっとも、そうした間違いのすべてが可笑しさをもたらすわけではないのだから、そこには何か法則性があるのであろうか。
2008-05-07 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月06日(火)
違うような似ているような
 夢と機知の比較をして類似点をあげてきたが、しかし相違点もある。根本的な違いは、両者の社会的な(社交的な)役割である。
 機知は社交的であり、夢は非社交的である。夢が個人の内面的なものであることは、それが睡眠中におこることからも当然のことである。しかも、夢は見ている本人にもその意味が判然としないというのだから、超個人的なものだ。

 覚醒時の生活は、他者との交流に必要な現実的制約に縛られている。つまり、意識的な思考ということ自体がそもそも社交的にならざるを得ないのである。そのような思考活動に矛盾するような欲望は、昼間の生活においては満たすことが出来ず、抑圧されざるを得ない。それは、夜間に、本人にとっても意味不明に歪曲されて、はじめて夢という表現を得るのである。

 一方、機知の方は昼間の生活に順応している点で社交的であるが、実は社会においては本来受け入れがたいものを上手に表現する手段なのである。つまりそれは、個人と他者の葛藤をうまく回避しつつ、個人の欲望を充足させる方法なのである。

夢は主として不快の節約に貢献し、機知は快の獲得に寄与する。しかるに、われわれの心の活動はすべて、この二つの目標において重なり合うのである。(8-212)

 結局のところ、快をめざすという人間の根源的な傾向のために、夢も機知も有力な手段を提供してくれる点が似ているということなのであろう。
2008-05-06 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月05日(月)
可笑しな洞察
 本書は、精神分析そのものとは直接関係のない題材を論じているので、臨床的な話題にはところどころで触れられるだけである。が、そのところどころでは、結構重要なことを述べているようにも見える。
 無意識的なものが暴露される時、われわれはそれを「滑稽である」と感じがちである。そのようなこととの関連で、本文に以下のような脚注がつけられている。

私の精神分析の治療を受けている神経症患者の多くは、彼らの意識的知覚に対して隠された無意識をうまくありのままに示せたとき、決まって笑いによってそのことを表明する。暴露されたことの内容からして笑うのがまったくお門違いであるときでも、笑うのである。それにはもちろん、医師がこの無意識を察知し、患者に対して示したとき、彼らがそれを理解できるほどに無意識に近づいている、ということが条件となる。(8-201)

 私自身は分析の経験がないのでわからないが、なんとなくそんなものかと納得できるものがある。その笑いとは、どんなものなのだろう。やはり、抑圧から解放された快なのでしょうか。
2008-05-05 00:00 | 記事へ | コメント(2) |
| 全集を読む |
2008年05月04日(日)
縮合、縮合でーす!
 無意識的な加工の中でも重要なものが、縮合である。意識的な思考においては区別されていた幾つかの概念が、一つのものにまとめられることである。縮合ということは、われわれにとってはなはだ奇異なものに見える。しかし、むしろ常識的思考があまりに多くのものを区別しているというのが真実なのかもしれない。

 例えば、個人の膨大な体験の記憶は、どのようにして脳の中に記録されているのか考えてみる。記憶そのものは無意識的な過程である。それは、諸概念の連想という形で、しかも概念自体も連想によって記録されているものと想定される。
 体験の記憶をホームビデオに喩えよう。通常新しい映像を撮る時には新しいビデオテープを用意するわけだが、脳の中には新しいテープに相当するものなどありそうにない。新しい記録は、古い記録に重ね撮りされていくのであろう。連想の法則にしたがって縮合されながら。それでも再生する時に別々に取り出すことができるのは、意識的な思考が時間という区別によって体験を再構成する術を心得ているからであろう。

 いろいろな事柄を区別して考えるのは、しんどいこと。あれもこれも一緒くたにしてしまう方が楽しいし、そういう方向を求めるのが心の根源的な傾向なのかもしれない。
2008-05-04 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月03日(土)
閃き
 われわれの思考は、とりわけ何か創造的なものを生み出そうとしている時の思考は、そのすべての過程が意識されているということはめったにない。むしろそのもっとも重要なところは、無意識的な加工に委ねられ、そこから突然意識の中に閃いて来る。機知を思いつく時というのが、その典型なわけであるが。これは、一体どういうわけなのだろうか。

 無意識的なものとは、幼児的なもののことである。われわれの意識的な思考は、論理といった堅苦しい制約に縛られざるを得ない。無意識的で幼児的な思考過程というものは、そういったものから自由なのであり、それ故にそれ自体が大きな快を生み出す可能性を秘めている。論理的思考ではあり得ないような、縮合や遷移という加工がなされた産物が、意識に浮かび上がる時、それは可笑しさという喜びと共に知覚されるのである。
2008-05-03 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年05月01日(木)
機知は突然に
 夢工作と機知工作の共通性ということを分析していくと、以下の結論にいたる。

前意識的な思考が一時、無意識的な加工に委ねられ、その成果がただちに意識的な知覚によって捉えられるのである。(8-196)

 夢が、無意識のうちに加工され、突然われわれの意識に立ち現れてくるように、機知というものも突然われわれの頭にひらめくのである。突然ひらめくといっても、何もないところに生じるわけはないのであって、なんらかの思考の結果生まれてくるに違いない。しかし、その過程というものがわれわれの意識にはのぼらないわけだから、それは無意識的な加工に委ねられた結果なのだと想定されるのである。
2008-05-01 22:04 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
ようやく夢理論
 本書では機知の本質を夢と比較検討するために、『夢解釈』で展開されたフロイトの夢理論が要約されて示されている。それを、さらに要約してみた。

●夢を見た人が想い出す内容のことを「顕在的夢内容(manifesten Trauminhalt)」という。
●顕在的夢内容は大抵不可解なものであるが、それはある思考の改定であると理解できる。この思考を「潜在的夢思考(latente Traumgedanken)」と呼ぶ。
●潜在的夢思考は、夢工作(Traumarbeit)によって顕在的夢内容になる。
●日中の間に処理し切れなかった思想、日中残渣(Tagesrest)は、以前からの抑圧された欲望によって補強され、欲望成就(Wunscherfüllung)としての夢が作られる。
●夢工作は、無意識的な過程である。
●呈示可能性への転換、縮合、遷移は、夢工作に帰すことのできる三大機能である。
呈示可能性への転換(Umwandlung zur Darstellungsfähigkeit)とは、欲望が、成就した状態の知覚像として表現されることである。この過程は、夢工作の退行(Regression)によって可能となる。
縮合(Verdichtung)とは、多くの素材が顕在夢内容においては一つの要素に凝縮して表現されることである。
遷移(Verschiebung)とは、中心的な内容が辺縁的な要素と表現されるなどの力点の移動のことである。
2008-05-01 00:00 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |