つまり、半神のごとく崇拝されるこの人やあの人だって、実は私や君と同じ一介の人間にすぎないのだという戒めなのである。(8-240)
フロイトの料理読本 J・ヒルマン C・ボーア 著木村定 池村義明 訳フロイトが晩年に英語で書いた料理レシピという体裁をとっているが、もちろん著者らによって創作されたパロディ。注意しないといけないのは、翻訳者の解説から帯広告まであたかもフロイトの著作であるかのように書かれていること。おもしろいが、フロイトの生涯や精神分析についてある程度の知識がないとわからない。逆にこのようなパロディが成立するということは、欧米での精神分析に関する知識の普及をあらわしているのか。
いま論じた滑稽の快の起源、すなわち他者と自我との比較――感情移入の消費と自己の消費とのあいだの差分――から快が生じる場合が、発生論的にみておそらく最も重要なものだろう。(8-232)
ところで、こうした擬態への欲求は、伝達への要請によってはじめて惹起されているとみなされるべきだろうか。(8-229)
つまり、表象されたものの内容に合致しようとする身体の神経支配こそが、伝達目的の擬態の発端であり起源だった、と。(8-229)
ある一定の大きさをもつ動作の表象を私が獲得したのは、自分でこの動作を実際に行ったりそれを真似したりすることによってである。(8-227)
この種の滑稽のきわめて純粋な事例としては、たとえばボーリングの球を投げた人が、まるで投げたあとでもまだ軌道修正できるとでもいわんばかりに、その進路を見守っているあいだの一連の動作がある。また、舞踏病(Chorea St. Viti)患者におけるように不随意に生じてしまう場合を含め、通常の感情表現を逸脱するような渋面はすべて滑稽である。さらに、今日のある指揮者の情熱的な指揮ぶりは、その動作の必然性を理解することができない音楽とは無縁の門外漢には、滑稽なものに映ることだろう。(8-225)
要するに、無邪気なものが滑稽なものの一種であるのは、他者を理解しようとする際に生じる心的消費の差分から快が生じているかぎりのことなのであろう。(8-222)
夢は主として不快の節約に貢献し、機知は快の獲得に寄与する。しかるに、われわれの心の活動はすべて、この二つの目標において重なり合うのである。(8-212)
私の精神分析の治療を受けている神経症患者の多くは、彼らの意識的知覚に対して隠された無意識をうまくありのままに示せたとき、決まって笑いによってそのことを表明する。暴露されたことの内容からして笑うのがまったくお門違いであるときでも、笑うのである。それにはもちろん、医師がこの無意識を察知し、患者に対して示したとき、彼らがそれを理解できるほどに無意識に近づいている、ということが条件となる。(8-201)
前意識的な思考が一時、無意識的な加工に委ねられ、その成果がただちに意識的な知覚によって捉えられるのである。(8-196)