滑稽と機知の境界事例としてあげられている小噺。
さるハンガリーの村で鍛冶屋が死刑に相当するほどの罪を犯した。しかし、そこの村長は、罪滅ぼしとして、その鍛冶屋の代わりに、ある仕立屋を絞首刑にするという決定を下した。そのわけは、村には二人の仕立屋が暮らしているが、鍛冶屋は彼以外の代わりがいなかったからであり、しかも、犯した罪は償われなければならなかったからである。(8-245) フロイトはこの話が余程お気に入りらしく、『精神分析入門講義』と『自我とエス』でも引用している。 かなりブラックでちょっと笑う気になれなかった。しかしその点にこそ、フロイトがこれを単なる滑稽でなく、思想を含む機知とみなした所以があるのかもしれない。 たとえ人違いであろうと、「犯した罪は償われなければならない」としてしまうところに、刑罰の孕む恐ろしさがある。現実の冤罪事件の本質ともつながってくるような、リアリティーを感じる。
そしてまた、これは人間の思考法のある側面を皮肉っぽくあばき出しているようだ。まずは結論ありき。そして、理由はご都合でこじつけられる。
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