この本の終盤は、かなり難解でわかりにくかった。ひとつの要因は、フロイトが単なる滑稽と機知の違いといったことを厳密に区別して論じようとしていることだろう。ところが、原語のWitz、Komik、Humorといった概念が邦訳の語と一対一対応していないという事情がある。笑いそのものは万国共通で人間に普遍的なもののようだが、具体的に何を笑うかとかそのジャンルということとなると、背景とする言語や文化によって異なるということなのだろう。
フモールというのも、かつては「ユーモア」という訳語が与えられていた語であるが、日本語のユーモアとは一致しないということから本全集ではそのままカタカナ書きで表されることになった。ドイツ語のHumorのニュアンスがわからないので詳しい評価はしかねるが、本著作を読む限りでは「ユーモア」に置き換えてもあまり違和感はないように思えた。 つまり、ユーモアとは本来苦痛な感情として表現されるようなものを笑いに置き換えてしまうという、かなり意図的な防衛的営みのようだ。苦痛を笑いに置き換えるなんて、そんなことできるのか。できればいいなあ。 例えば、ジェームス・ボンドやインディー・ジョーンズが、絶体絶命の窮地に追い込まれて、それでもニヤリとジョークをつぶやきながら見事に切り抜けてしまうといった場面。それは、渾身の力をふりしぼって真剣な表情でなしとげるのよりも、かっこよく見える。 しかし、これはフィクションであって、現実世界ではなかなかそうはいかないものだ。
本著作の最後には、フロイトにはめずらしく全体を要約する段落がつけられている。
フモールの快の機制を滑稽の快や機知に対する定式と類比的な定式へと還元したいま、われわれの課題は決着した。機知の快は制止の消費の節約から、滑稽の快は表象(備給)の消費の節約から、フモールの快は感情の消費の節約から生じてくるように思われた。われわれの心の装置の三通りの作業様式のいずれにあっても、快は節約に基づいている。この三者は、心の発達を通じて本来ならひとまず失われてしまう快を、まさしくその活動から取り戻すための方法を示しているという点で合致している。なぜなら、これらの道のりを経て到達するべくわれわれが目指している高揚感とは、心的作業を概してわずかな消費で賄っていた人生のある時期の気分、すなわち滑稽なものを知らず、機知の能力もなく、フモールを必要としなくても、生きていて幸福だと感じることのできた、われわれの子供時代の気分にほかならないからである。(8-245) こんなにきれいにまとまるものでもないとは思うが、最後の一文にはぐっときた。 連想したのは、S・スピルバーグが製作した「A.I.」という映画。S・キューブリックの企画とかで前評判の割には‥‥だったようだが、私はビデオで観て感動した。捨てられた人工知能の少年が、最後に幸せだった頃の家族とのごく普通の一日を体験するというシーン。スピルバーグは、このシーンを撮りたくてこの映画を製作したのではないか、と思った。 幼い日への憧憬は、後から美しく飾り立てられた部分もあるだろう。実際には子供は子供で、大変な思いをしながら生きているに違いない。それでも、フロイトの言葉やスピルバーグが描いたシーンには、強く心を動かされる私であった。
|