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フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

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2008年10月23日(木)
機知――その無意識との関係(DB)
1905
Der Witz und seine Beiehung zum Unbewußten(GW6-1)
jokes and their relation to the unconscious(SE8-1)
機知――その無意識との関係 (全集8-1 中岡成文・太寿堂真・多賀健太郎訳 2008)
機知――その無意識との関係――(著作4-237 生松敬三訳 1970)

キーワード:機知、機知の技法、機知の傾向、機知工作、笑い、滑稽なもの、無邪気なもの、ナンセンス、フモール(ユーモア)

要約:機知の快は制止の消費の節約から、滑稽の快は表象(備給)の消費の節約から、フモールの快は感情の消費の節約から生じてくる。そこで目指されている高揚感は、われわれの子供時代の気分にほかならない。

関連論文:「夢解釈」、「フモール」

記事 「機知――その無意識との関係」を読む
「A部 分析部 T節 緒言」を読む
  先人の知恵
  ユダヤの機知
  「U節 機知の技法」を読む
  アキレス腱
  おーっ!何ぃー?
  宿命的な裏切り
  不自由な翻訳
  妻の具合
  教授の実態
  機知の技法の分類
  節約、節約だよ、ホレイショー!
  少年ギャグ
  ユダヤのマヨラー
  屁理屈の中にも真実
  酒好きの弁明
  たかり屋 Der Schnorrer
  有意義な忠告
  誰がために毛皮はある?
  完全無欠じゃないと?
  経験とは
  できますとも!
  年に一度の‥‥
  真理の炬火
  東と南は?
  機知と夢
「V節 機知の諸傾向」を読む
  二つの傾向
  下の話
  猥談の三人称
  賛同される方は哄笑を!
  結婚の真実
  この日を?め
  嘘の嘘は真?
「B部 総合部 W節 快機制と機知の心因」を読む
  響きと意味
  教養の強要
  酒のこうよう
  笑いの三段変化
  思想を語れ
  解き放て!
「第X節 機知の動機」を読む
  機知の骨折り損
  笑顔の原理
  気の緩み?
  節約の結果
  ただ笑え
  ほんとは笑わせて欲しい
「C部 理論部 Y節 機知と夢、および無意識との関係」を読む
  ようやく夢理論
  機知は突然に
  閃き
  縮合、縮合でーす!
  可笑しな洞察
  違うような似ているような
「Z節 機知および諸種の滑稽なもの」を読む
  無邪気の原理
  知らぬが仏?
  節約の方法
  他者理解への消費削減
  そんな大げさな
  模倣が原点
  おーきなくりの
  んなわきゃない!
  ずっこけ
  物真似の秘密
  カリカチュアとパロディ
  その、正体は‥‥
  笑えない話
  笑うな!
  総括
2008-10-23 19:19 | 記事へ | コメント(0) |
| データベース |
2008年10月16日(木)
総括
 この本の終盤は、かなり難解でわかりにくかった。ひとつの要因は、フロイトが単なる滑稽と機知の違いといったことを厳密に区別して論じようとしていることだろう。ところが、原語のWitz、Komik、Humorといった概念が邦訳の語と一対一対応していないという事情がある。笑いそのものは万国共通で人間に普遍的なもののようだが、具体的に何を笑うかとかそのジャンルということとなると、背景とする言語や文化によって異なるということなのだろう。

 フモールというのも、かつては「ユーモア」という訳語が与えられていた語であるが、日本語のユーモアとは一致しないということから本全集ではそのままカタカナ書きで表されることになった。ドイツ語のHumorのニュアンスがわからないので詳しい評価はしかねるが、本著作を読む限りでは「ユーモア」に置き換えてもあまり違和感はないように思えた。
 つまり、ユーモアとは本来苦痛な感情として表現されるようなものを笑いに置き換えてしまうという、かなり意図的な防衛的営みのようだ。苦痛を笑いに置き換えるなんて、そんなことできるのか。できればいいなあ。
 例えば、ジェームス・ボンドやインディー・ジョーンズが、絶体絶命の窮地に追い込まれて、それでもニヤリとジョークをつぶやきながら見事に切り抜けてしまうといった場面。それは、渾身の力をふりしぼって真剣な表情でなしとげるのよりも、かっこよく見える。
 しかし、これはフィクションであって、現実世界ではなかなかそうはいかないものだ。


 本著作の最後には、フロイトにはめずらしく全体を要約する段落がつけられている。

フモールの快の機制を滑稽の快や機知に対する定式と類比的な定式へと還元したいま、われわれの課題は決着した。機知の快は制止の消費の節約から、滑稽の快は表象(備給)の消費の節約から、フモールの快は感情の消費の節約から生じてくるように思われた。われわれの心の装置の三通りの作業様式のいずれにあっても、快は節約に基づいている。この三者は、心の発達を通じて本来ならひとまず失われてしまう快を、まさしくその活動から取り戻すための方法を示しているという点で合致している。なぜなら、これらの道のりを経て到達するべくわれわれが目指している高揚感とは、心的作業を概してわずかな消費で賄っていた人生のある時期の気分、すなわち滑稽なものを知らず、機知の能力もなく、フモールを必要としなくても、生きていて幸福だと感じることのできた、われわれの子供時代の気分にほかならないからである。(8-245)

 こんなにきれいにまとまるものでもないとは思うが、最後の一文にはぐっときた。
 連想したのは、S・スピルバーグが製作した「A.I.」という映画。S・キューブリックの企画とかで前評判の割には‥‥だったようだが、私はビデオで観て感動した。捨てられた人工知能の少年が、最後に幸せだった頃の家族とのごく普通の一日を体験するというシーン。スピルバーグは、このシーンを撮りたくてこの映画を製作したのではないか、と思った。
 幼い日への憧憬は、後から美しく飾り立てられた部分もあるだろう。実際には子供は子供で、大変な思いをしながら生きているに違いない。それでも、フロイトの言葉やスピルバーグが描いたシーンには、強く心を動かされる私であった。
2008-10-16 18:00 | 記事へ | コメント(2) |
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2008年10月15日(水)
笑うな!
恐らくこういうことは妥当だろう。すなわち、さまざまな状況下で子供は純粋な快から笑うが、そうした状況を大人は「滑稽」だと感じるものの、その動機を挙げることができないのに対して、子供の動機は明確に提示できるということである。たとえば誰かが路上で足を滑らせ転んだとすると、その印象が――なぜだかよくわからないが――滑稽であるがゆえに、われわれは笑ってしまう。これと同様の状況で子供は、優越感や他人の不幸を悦ぶ性根(Schadenfreude)から笑う。「君は転んだけど、ぼくは転んでないよ」というわけである。われわれ大人は、子どもの快のある種の動機を失ってしまったようである。それとひきかえに、われわれは、同じ条件のもとで、失われたものの代替として「滑稽」を味わうのである。(8-269)

 笑いというものは、本来攻撃的なものなのかも知れない。そこには、優越性の誇示、もっと言えば軽蔑に満ちた攻撃性tといったものが潜んでいる。

 他人の不幸を笑ったりすれば、「そんな時に笑ってはいけませんよ」と注意される。大人は、そういうことを自制するようになっている。
 しかし、そうやって笑いを制限していけば堅苦しくなるだけだから、あからさまにならないよう適当に誤魔化しているだけだ。
 この点で、子供は正直だ。軽蔑して笑う方も正直だし、笑われた方も憤然と抗議する。

 大人に笑われて、「笑うな!」と抗議する少年。「楽しいから笑っただけなのよ」と、大人が誤魔化そうとしても、子供には本当の意味がわかっているのだ。
2008-10-15 17:45 | 記事へ | コメント(0) |
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