本報告は、フロイトが治療した事例ではない。しかし、フロイトは単なる傍観者でもない。父親という治療者のスーパーバイザー的な役割を超えて、直接的な介入もしている。 治療経過の中で、フロイトは一度だけハンスに会っている。短いセッションであったが、そこでは重要な介入がなされた。以下は、その時の言葉。
君はお父さんを怖がっているのだ、それは君がお母さんをとても愛しているからだ。君はそのためにお父さんが気を悪くしていると思っているに違いない、でもそれは本当ではないのだ、お父さんも君のことが好きで、君はお父さんに恐れることなく何でも打ち明けることができるのだ。君がまだ世の中に生まれてくるずっと前から私は、ハンスという坊やがお母さんのことを愛するあまりお父さんを怖がらざるを得なくなり、私のところに来ることになるだろうということを分かっていた、そのことを君のお父さんに話してあるのだと。(10-46) 引用最後の一文については、フロイト自身「ふざけた大言壮語」だったと書いているが、確かに少々調子に乗った発言のようにも感じられる。ハンスにも強い印象を与えたようで、帰り道で父親に尋ねているのだ。
「すべて先に知ることができるって、教授は愛する神様と話しているのかな?」(10-47) こうして、ハンスにとってフロイトは大きな権威的存在となった。以降の父親との対話では、その背後に「何でも知っている教授」がいることが意識されるようになる。
生まれる前から分かっていたというのは冗談にしても、いや冗談だからこそ、そこには重要な真理が込められている。エディプスコンプレクスは、人間としての宿命である。環境的なものによって、偶然にもたらされるものではない。フロイトがハンスに伝えたかったのも、おそらくそこのところだろう。
精神分析技法という点から見ると、フロイトがハンスにしているのは解釈である。
精神分析において医師はいつも、患者が無意識を認識し、捉えることができるよう助けるために、意識的な予期表象を与えている。(10-133) このように、解釈とは、その時点で患者に無意識を認識させるためのものではなく、後の洞察を導くためにあらかじめ与えられる予言のようなものだ。 これと混同されやすいのが、分析医が患者の無意識を理解しようとするためになされる探索である。この際には、一定の方向にそった質問で誘導することは慎まねばならない。ハンスと父親との対話においてもそのようなことがあり、フロイトがコメントをしている。
父親はあまりに質問をしすぎていて、自分の狙いに従って探求しており、少年に自らを語らせることをしていない。(中略)自身で分析をまだやったことのない読者に対しては、すべてを直ちに理解しようとせず、現れてくるすべてのことに相応の公平な注意を向け、さらなることを待つということをお勧めするだけである。(10-77) 「現れてくるすべてのことに相応の公平な注意を向け」という態度は、フロイトの精神分析の基本的な態度として繰り返し強調されていることである。
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