現在読解中
フロイト全集第10巻
ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕
総田純次訳
Analyse der Phobie eines fünfjährigen Knaben
1909

フロイト全著作リスト
↑本ブログの目次にあたります。

重元寛人のブログ

フロイト研究会
↑重元が会長をつとめるHP。

フロイト・ストア
↑フロイト本の購入はこちらで。

人気blogランキング

sigmund26110@yahoo.co.jp
↑メールはこちらへ。題名に「フロイト」などの語を入れていただけるとありがたいです。

2008年12月24日(水)
お見通し
 本報告は、フロイトが治療した事例ではない。しかし、フロイトは単なる傍観者でもない。父親という治療者のスーパーバイザー的な役割を超えて、直接的な介入もしている。
 治療経過の中で、フロイトは一度だけハンスに会っている。短いセッションであったが、そこでは重要な介入がなされた。以下は、その時の言葉。

君はお父さんを怖がっているのだ、それは君がお母さんをとても愛しているからだ。君はそのためにお父さんが気を悪くしていると思っているに違いない、でもそれは本当ではないのだ、お父さんも君のことが好きで、君はお父さんに恐れることなく何でも打ち明けることができるのだ。君がまだ世の中に生まれてくるずっと前から私は、ハンスという坊やがお母さんのことを愛するあまりお父さんを怖がらざるを得なくなり、私のところに来ることになるだろうということを分かっていた、そのことを君のお父さんに話してあるのだと。(10-46)

 引用最後の一文については、フロイト自身「ふざけた大言壮語」だったと書いているが、確かに少々調子に乗った発言のようにも感じられる。ハンスにも強い印象を与えたようで、帰り道で父親に尋ねているのだ。

「すべて先に知ることができるって、教授は愛する神様と話しているのかな?」(10-47)

 こうして、ハンスにとってフロイトは大きな権威的存在となった。以降の父親との対話では、その背後に「何でも知っている教授」がいることが意識されるようになる。

 生まれる前から分かっていたというのは冗談にしても、いや冗談だからこそ、そこには重要な真理が込められている。エディプスコンプレクスは、人間としての宿命である。環境的なものによって、偶然にもたらされるものではない。フロイトがハンスに伝えたかったのも、おそらくそこのところだろう。


 精神分析技法という点から見ると、フロイトがハンスにしているのは解釈である。

精神分析において医師はいつも、患者が無意識を認識し、捉えることができるよう助けるために、意識的な予期表象を与えている。(10-133)

 このように、解釈とは、その時点で患者に無意識を認識させるためのものではなく、後の洞察を導くためにあらかじめ与えられる予言のようなものだ。
 これと混同されやすいのが、分析医が患者の無意識を理解しようとするためになされる探索である。この際には、一定の方向にそった質問で誘導することは慎まねばならない。ハンスと父親との対話においてもそのようなことがあり、フロイトがコメントをしている。

父親はあまりに質問をしすぎていて、自分の狙いに従って探求しており、少年に自らを語らせることをしていない。(中略)自身で分析をまだやったことのない読者に対しては、すべてを直ちに理解しようとせず、現れてくるすべてのことに相応の公平な注意を向け、さらなることを待つということをお勧めするだけである。(10-77)

 「現れてくるすべてのことに相応の公平な注意を向け」という態度は、フロイトの精神分析の基本的な態度として繰り返し強調されていることである。
2008-12-24 22:26 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年12月11日(木)
宿命的な役割
 本ブログでもすでに何度か述べたことだが、フロイトについてのよくある誤解に、彼が神経症の病因として素因より環境を重視したと思われがちなところがある。(過去記事参照)実際には、フロイトはむしろ遺伝的素因を重視していたということが本論文を見てもわかる。

 「氏か育ちか」という古くからある問いは、子供の神経症では、「児の素因によるものか、親の養育のせいか」という問題になる。そして、環境因ということになると、特に母親が責められがちである。ハンスの馬恐怖症についても、当初父親は、母親のやり方に問題があると考えていた。

正当に見えないこともないが、父親は過度の情愛とあまりにしばしば子供を進んでベッドに入れてやることで神経症の勃発を招いたと彼女を咎めている。同じように、ハンスの求愛を精力的に退けたことで抑圧の発生を促したと非難することもできよう。しかし彼女は宿命的な役割を演じており、あまり分が良くない。(10-28)

 さらに、編注によれば、この件についてフロイトは1909年の精神分析協会の会合で、両親を擁護して次のように述べたという。

「それほど多くのミスがあったわけではないし、起こったミスも神経症とさほど深い関係があるわけではない。母親についてトイレに行くことだけ少年に拒めばよかったのである。ちなみに神経症は本質的には体質の問題である」(10-380)

 「宿命的な役割」とは、含蓄が深い。子供が親に向ける「求愛」は、底知れずに強いものだから、親としてはそれをある程度まで受け入れ、それ以上は退けるということにならざるを得ない。受け入れれば「甘やかし」と言われ、退ければ「抑圧を促した」と非難されるのでは、確かに分が悪い。どこまで受け入れ、どこまで退けるかは、実は親の一存で決められるものでもない。それは、文化によって規定された親としての振舞いとか、家族関係の中で親が演じさせられてしまう態度、といったものによって宿命的に決定づけられてしまうところがあるだろう。
2008-12-11 18:14 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |
2008年12月10日(水)
「ある五歳男児の恐怖症の分析〔ハンス〕」を読む
 本論文は、1909年に「フロイトによって報告された論文」として初めて公刊された(解題p.473)。「フロイトの論文」でない理由は、本文の構成を見れば察しがつく。少年ハンス(本名ヘルベルト)の恐怖症の経過について、父親マックス・グラーフがフロイトに伝えた報告が、ほぼそのままの形で掲載されているのだ。フロイトはところどころでコメントをはさみ、最後に「総括」として病歴についての考察を述べている。グラーフとフロイトの共著としていい内容だ。

 このような形式が選ばれた理由も、読んでみると納得がいく。素材そのものがとても豊かなものを含んでおり、いろいろな側面から解釈することができそうなのだ。フロイト自身が後の論文で、繰り返しハンス症例に立ち返って考察をしているし、批判的なものも含めて他の論者による論文も多数ある。

 まずは、この魅力的な少年についての活き活きした描写がすばらしい。父親は、会話をその場でメモして手紙でフロイトに送っていたようである。当のハンスも途中でそのことに気づいて、「どうしてパパは書き留めているの?」と尋ねたりしている(10-40)。経過を教授に伝えることで「ばかげたこと(馬恐怖症)」を治してもらえるという説明に、少年の方も積極的に応じ、自分の思いつきをつぎつぎ語るようになった。まさかその記録が、百年以上にわたって世界中で読みつがれることになるとは夢にも思わなかったであろうが。

 父親との会話から、ハンスが全体としてはごく健全な少年であり、恐怖症も病的というより一過性の、よくある類のものであったろうと推測される。考察においても、事例の特殊性に注目するより、そこから子供の発達一般についての宿命的な成り行きを引き出すことに重点がおかれている。すなわち、後に「エディプスコンプレクス」として定式化される中核的コンプレクスである。
2008-12-10 18:30 | 記事へ | コメント(0) |
| 全集を読む |