フロイト全集 第20巻1929-32年
ある錯覚の未来
Die Zukunft einer Illusion (1927)
高田珠樹 訳(2011)
「幻想の未来」として知られている著作であるが、今回の全集ではIllusionを「錯覚」と訳すことになったようで「ある錯覚の未来」。
ここで言う「ある錯覚」とは、宗教のこと。文化における錯覚たる宗教、その未来はどうなるのか、あるいはどうすべきなのか、ということについて考察した著作である。
錯覚。やはりどうも慣れない。「宗教は幻想である」という方が良かったような気がする。ま、この点については、また後で考えることになるだろう。
I
本章の冒頭で述べられる文化についての問題提起は、3年後の著作『文化の中の居心地悪さ』へとつながっていく主題である。
まずは、フロイトによる文化の定義。
私は文化と文明とを切り離すことには反対であり、人間の文化ということで、人間の生が自分に備わる動物的な条件を脱し、動物の生から区別される所以の総体のことを考えている。この人間の文化には周知のように二つの面が認められる。そこには、一方では、人間が、自然の諸力を支配し諸々の人間的な欲求を充足させるべく、自然から様々の富や物資を奪い取るために獲得してきた知識と能力の一切が包摂されるが、他方では、人間相互の関係を律する、とりわけ手に入る物資の分配を律するのに必要な仕組みのすべてが含まれる。(20-4)
文化と文明の区別をしないというのは、そこに実質的な違いがないということだろう。
Wikipediaによれば、文明とは「人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す」とのこと。しかし何が高度であるかということには主観が入りがちであり、文化と文明を区別する根本的な理由というものはない。
「文明の曙」において、我々の先祖は道具を使い協力して狩猟をしたり、農耕を開発して生産を伸ばしてきたりしたという。「自然から様々の富や物資を奪い取るために獲得してきた知識と能力」とは、そういうことだろう。
しかしもうひとつ重要なのは、自然から得た富をいかに分配するかとういう問題である。そのために、「人間相互の関係を律する仕組み」とういうものが必要になるわけだ。
文化のこの両方の方向は互いに独立しているのではない。というのも、第一に人間相互の関係は、実際に手近にある富で可能となる欲動充足の程度に深く影響されるからであり、第二に個々の人間自身も、他人からその労働力を利用されたり、性的対象とされたりする以上、一個の物資として他人と関係することもあるからで、第三にまた個々人一人ひとりは、広く人類全般の関心であるはずの文化には潜在的に敵対しているからである。(20-4)
自然から富を得る技術と、人間相互の関係を律する仕組みは、無関係ではない。
その理由を、フロイトは3つあげている。
第一の点は、例えば食料が乏しいか豊かに手に入るかで人間関係の有り様が変わってくるといったことだろう。
第二の理由には、いよいよフロイトらしい視点が入ってくる。
自然から得られた富の配分と言われてまず思い浮かぶのは、食料のことだ。誰が一番うまいところを取るかで喧嘩になることもあろうが、それでもまだ単純な話だ。
むずかしいのは、人間そのものが直接欲求の対象になる、性の領域である。原始の人類は食料の獲得と分配だけに熱心だったのか、いやそんなことはなかろう。性にまつわる事柄は、人類の遠い祖先にとっても大きな関心と争いの的だったに違いない。
第三の点は、本論文の主題であり、次の『文化の中の居心地悪さ』にもつながる重要なテーマである。
奇妙なことに、人間は孤立しては生存できないのに、共生を可能とするために文化から求められる犠牲についてはそれを厄介なものと感じるのだ。(20-4)
ここのところは、実感としてよくわかる。
人間とは恩知らずなもの。文化のおかげでより安全に快適な生活ができるようになったはずなのに、その文化から強制されることを嫌がるのだから。
誰もが潜在的には文化に敵意を持っていて、一部の人は実際にその敵意を行動にうつし文化を破壊しようとする。だから文化は、これらの敵意に対して身を守らなくてはならない。
ここで文化を擬人化して述べているけど、実際にそれを担っているのは人間なんですね。
文化に敵対する人間と、文化を守ろうとする人間がいる、ということ。
もちろん一人の人間の中にも、文化に敵対する気持ちと、文化を守るために担っている役割とが混在していることだってあるだろう。いや、大抵の人はそうだ。
潜在的で穏やかな文化への反感というと、「昔はよかった」というのがある。
自分の幼少期の生活が懐かしく思い出されるというだけでなく、文明化の遅れていた昔の生活をことさら美化する傾向である。
「技術は進歩して生活は便利になったが、人間は本当に幸せになったのか」といった疑問もこの類のものだ。
実際に田舎に行って自給自足に近い生活をはじめる人もいるが、多くの人は憧れるだけで都会の便利な生活を手放せないようである。
人類がこと自然の支配に関してはたえず進歩をなし遂げ、今後もこれまで以上に大きな進歩を遂げるであろうことが期待されるのに対して、人間相互の関係や関心の調整に関してはそれに似た進歩をしかと認めることができず、今ふたたびそうであるように、どうやらいつの時代にあっても多くの人間が、自分たちの獲得してきたこの一片の文化とはそもそも守るに値するものであるのかと自問してきたらしい。(20-5)
技術の進歩というのはわかりやすい。旧い物より新しい物がすぐれているのは明らかで、誰もが納得する。
しかも確実に進歩している。カメラ、ステレオ、携帯電話、パソコン、年々進歩して後戻りすることはない。最新のものが最高である。
ところが、富の分配、人間関係の調整というものを取り決めた、社会制度や政治システムということになると、進歩はしてるのだろうが、いきつもどりつではっきりしない。
現在のシステムも、とても最高とはいえず、不完全で不公平なものに見えてしまう。
こうして人は、文化とは、権力と強制の手段を領有するすべを心得た少数の者が、嫌がって逆らう多数の者に押し付けたものであるとの印象を覚える。(20-5)
こういう印象は、もしかすると文化がいくら進歩しても拭い去れない、本質的なものなのかもしれない。
要するに、文化の仕組みはある程度の強制によってしか維持されえないのは、人間の中に広く蔓延するこの二つの特性、すなわち人間は自発的に労働しようという気がなく、彼らの情熱に対しては論を説いても無益であるという特性のせいなのである。(20-6)
後の方の特性が少しわかりにくいが、人間は理屈よりも感情で動くものだからいくら正しいことを説き伏せてもいやなことはやらない。そういう人間を動かすためには、説得ではなくて強制するしかない、ということだろう。
これに対してフロイトは、ひとつの反論を想定している。
曰く、上記の性質は人間の根本的な性質ではなく、文化が不完全なために生じたものであろうと。
幼少期から愛情をもって育て、文化の恩恵に浴して成長した人間は、文化のために自発的に働く人間になるのではないかと。
この意見も正論であり理想論でもある。
ただ、すぐに実現するのは困難だし、完全に実現するのはおそらく無理である。
ひとつの理想としてめざされては来たと思うが、現代においても文化における強制がなくなっていないのは周知のとおりである。
この理想主義で思い出すのは社会主義のことであり、フロイトも触れている。
それゆえ、現在、ヨーロッパとアジアにまたがる広大な国で試みられている壮大な文化実験について判断を下すつもりは全くないということをはっきり明言しておきたい。
と、明言しているものの、文章の流れからいってフロイトが社会主義に懐疑的であったことは容易に読み取れる。「壮大な文化実験」という言い方からして皮肉っぽいし。
この実験が失敗に終わったことは、歴史が示すとおりである。
II
一貫した表現が望ましいから、ひとつの欲望が充足されえないという事実をわれわれは不首尾Versagungと呼び、この不首尾を固定する仕組みを禁止Verbot、そしてこの禁止が招き寄せる状態を不自由Entbehrungと呼ぶことにしよう。そうなると、次の課題は、不自由の中でも、万人を見舞う不自由と、そうではなくて単にある集団や階級、のみならず個々の人だけを見舞う不自由とを区別することである。(20-9)
われわれが普段使う「不自由」は後者の、特定の個人だけを見舞う不自由にあたる。例えば、仕事が忙しくて自由な時間がないっていう場合、仕事をせずに遊んで暮らせる身分もあるというように。
では「万人を見舞う不自由」とはなにかといえば、それは最古の不自由であり、それを禁止されることによって人間が動物的な原始状態を脱したような、そういう不自由であるという。
具体的には、
近親相姦、
食人、
殺人、
を禁止されるという不自由のことである。
このあたりが、フロイトについていけなくなるかどうかの分かれ道であるかもしれない。
私も、近親相姦と殺人はいいにしても、食人はどうもぴんとこない。
ただ、人間の食欲がこれ程旺盛なのは、単なる個体保存以上のものが何か底にあるような気もするのであるが。
ともかく、人間には文化によって禁止されたいろいろな不自由がある。
いちいち禁止されて不自由に感じていてはつらくてやってられないよ、ってことでこの禁止は内面化されることになる。
外的な強制が、心の特別な審級である人間の超自我によってその命令圏内に取り込まれることで次第に内面化されてゆくのは、われわれの発展の方向に沿うものである。(20-10)
超自我というのは、心の中にあって自らを律するもの(審級)のこと。
詳しくは、『自我とエス』などの著作を参考のこと。
超自我によって人は自らを律し、文化から強制されることはその分少なくなるわけだ。
この超自我の強化とは、極めて貴重な心理学上の文化遺産であり、超自我の強化を経た人は、文化の敵対者から文化の担い手へと変身する。(20-10)
文化の担い手となる人物とは、その文化の中で比較的多くの恩恵をこうむっていて支配的な立場にいる人であろう。
これに対して、不遇な地位にあり文化から強制される立場の人は、これに反発して、つまりは反体制的になる。
こういった、文化への敵対をうまくそらすための仕組みがいくつかある。
ひとつは、文化理想。国でいえばナショナリズムというようなこと。
文化理想から得られるナルシシズム的な満足感は、ある文化圏の内部で生じる、その文化に対する敵意をうまく牽制する力のひとつである。人一倍この文化の恩恵に浴している階級だけでなく、抑え込まれている者たちも、この文化圏の外にいる者たちを軽蔑してよいという権利を得ることによって、自分の文化圏の内部の不遇に対する代償を手にするのであり、そのかぎりでは、彼らもまた文化の恩恵にあずかっている。(20-13)
フロイトはローマ市民としての誇りを例にあげている。
当時であれば、ナチズムの台頭といったことも思い浮かぶ。ユダヤ人であったフロイトが、その犠牲となったことは周知のとおり。
文化理想は対外的に危険な面をもっているが、異なる文化が独自性を競い合いつつ存続してきたことの要因でもある。
文化からの恩恵のもうひとつは、芸術である。
ずいぶん以前に明らかにしたように、芸術は、今なお痛切に感じられる最古の欲望断念に対する代替満足を与えるものであり、それゆえこの断念のために捧げられる犠牲を宥める上で芸術に勝るものはない。(20-13)
ここでいう芸術とは、演劇など個人の空想を具象化するようなものをさす。
現代であれば、映画やゲームなど、娯楽作品も広く含まれるであろう。
そして、文化への敵対をそらす仕組みの最後のもの、本論文の主題となるのが宗教である。
III
一方には人間の力ずくの試みをすべて嘲笑うかに見える自然の猛威、たとえば揺れ動いては引き裂け人間の営みや人間の手になるものすべてを多い尽くしてゆく大地、ひとたび氾濫すれば一切を押し流し呑み込んでいく水流、すべてを吹き飛ばしてしまう嵐がある。(20-15)
フロイトが日本の震災や津波を予言したのだろうかと神秘的な気にもなるのだが、もちろんそんなことではない。
天災は忘れた頃にやってくる。
文化によって自然をかなり征服した人間が「もう自然なぞ怖くないぞ」と奢り高ぶったころにやってくる。
もっとも、人間が奢り高ぶるのも天災によって自然の厳しさを再認するのも、文化がはじまって以降のことであったろう。
もともと自然は問答無用であって、そこで生きる動物が異をとなえることはない。
文化によって自然の一部を制御し食事や安全を確保できたことは、人間にとって大きな成果だった。
しかし初期の文化はとりわけ不完全で、自然によって簡単に破壊されてしまう。
こんな文化、ほんとに役立つのか。
文化にとって重要な課題は、人間を納得させることだった。
納得させる方法は、自然の擬人化。これが宗教的表象の起源である。
この擬人化にはひとつのモデル、模範がある。
とういうのは、人はすでに一度、小さな子供として両親に対する関係においてそのように寄る辺ない状態にいたことがあり、そこでは両親、とりわけ父親は、当然、恐るべき存在でありながら、またその頃にもすでに知っていた危険から自分を必ずや守ってくれる存在でもあったからだ。(20-17)
寄る辺ない幼児にとって、厳しさと、やさしさをもった存在。
それが両親、とりわけ父親だったわけだ。
なぜ、「とりわけ父親」なのか。
母親だと、厳しさが足りないのかな。
ともかく、そういった両親(父親)像を模範として宗教的表象がつくられた。
神々の登場だ。
自然の脅威を払い除けること、とりわけ死という局面で現れる運命の残酷さとの和解を図ること、さらに文化的な共同生活が人間に課す苦痛と不自由とを補償すること、これらの三重の課題を神々は担い続けている。(20-18)
宗教的表象=神々には、3つ(または2つ)の課題が課せられている。
第一、自然の脅威を払いのけること。
これはもちろん心理的にということで、実際に危険が減るわけではない。
大地震は神の怒りであるとか、気候がよくて豊作だったのは神の恵みであるとか、そもそもこの世界は神が創造したのだとか、そういう自然についての解釈のことである。
第二、死という局面で現れる運命の残酷さとの和解を図ること。
これは第一の課題の延長にもなるけれど、死によってもらされる悲しさ、残酷さ、自分が死ぬことへの恐怖をやわらげようとするために、天国や地獄など「死後の世界」を提示することでしょう。
第三、文化的な共同生活が人間に課す苦痛と不自由とを補償すること。
「殺してはいけない」「盗んではいけない」と、道徳・倫理にあたる課題のこと。それが単に強制されるのではなく、そのような生き方が神の思し召しにそった価値あるものであるという満足感をも与えるっていうところが大事なのだろう。
これら3つの課題は、重なりあい相互に影響しあっている。
そして、おそらく歴史的にはこの順序で発展してきた。
現代では、第一の課題は大部分自然科学による世界観に置き換えられた。
第二の課題については、自然科学はなにも教えてくれない。
第三の課題は、宗教を基盤として作られた法律や社会的マナーによって整備されている。
IV
第4章からはダイアローグ形式ですすんでいく。
つまり架空の反論者との対話をする形だが、フロイトの作り上げた反論者はかなりするどいところをついてくる。
つまりこれらは説明のための反論ではなく、彼自身かなり肩入れをしている「もう一つの意見」ともいえるのではないか。
この章で肝となるのは、なぜ他ならぬ父親との関係が自然を擬人化する模範となるのか、という点である。
なぜ子供にとって最初の対象である母親ではないのか。
しかし父親への関係には独特の両価性(アンビヴァレンツ)が付きまといます。以前の母親への関係ゆえか、父親自身がひとつの危険でした。父親は憧れと賛嘆の的であるだけでなく、それに劣らず恐れの的でもあるのです。(20-25)
もちろん神々の中には女神もいただろうが。
宗教が一神教という形に統合されていくと、神は父親らしい形になってくる。
ここで宗教的表象として主に想定されているのは、キリスト教のことである。
V
宗教上の教義がいかに不合理なものであるか、フロイトはユーモアを交えて暴き立てていく。
宗教が語っている内容が信じがたいものである、ということは古くから人々が感じていた。
にもかかわらず、あの手この手で宗教上の教義は守られてきた。
第一の試みは教父の《不条理ゆえにわれ信ず》〔Credo quia absurdum〕という信条である。(20-30)
この言葉は、二世紀後半から三世紀初頭の教父テルトゥリアヌスが語ったものとされている。
この旧い時代からすでに、キリスト教の教義は不条理なものと感じられていたということでもある。
この言説自体不条理ともいえるが、それでもなにか説得させるものがある。
信じがたいことだからこそ、信じる価値がある。
理屈ではなく、信仰である。
宗教的信条について、繰り返し主張されてきたことだ。
第二の試みは「かのように」哲学の試みである。(20-31)
これを表明したのはハンス・ファイヒンガー(1852‐1933)というドイツの哲学者であった。
宗教的な教えなど多くの人はあまり信じていないが、それでもそれが正しい「かのように」ふるまうことが大切である、という考え方である。
「かのように」哲学は、現代における宗教に対する大多数の態度をうまく言い当てている。
聖典に書かれていることが文字通りの真実とは思わないが、皆もそのつもりで尊重している。
宗教的な権威というものは、世の中の秩序を維持するために大切ではないのか、というわけである。
これら二つの「試み」は、なかなか説得力のあるものである。
そして、それほど不条理な宗教上の教義がこれほど長きにわたって力をもってきたという実績がある。
無神論的主張は、フロイトのずっと前からあるし、現在までの状況を見ても宗教は影響力を弱めつつも決して力を失っていない。
これらの教義の内的な力はどこにあるのか、それらが、たとえ理性によって認められなくてもこれほどの影響力を持つのはどのような事情に拠るのか、これを問わなくてはならない。(20-32)
VI
宗教上の教義が不条理にもかかわらず存続してきた理由。
自らの教義を騙(かた)るそれらの表象は、経験の沈殿や思索の最終的な結果ではなく、錯覚であり、人類の最古にして最強の、そしてもっとも差し迫った欲望の成就である。(20-32)
ここで使われている「錯覚Illusion」の定義は独特なので注意する必要がある。
ちなみに、最初に述べたように以前の翻訳では「幻想」とされていた。
このように、欲望成就が主たる動機となって何かが信じられている場合、われわれはそれを錯覚と呼ぶ。(20-34)
錯覚に似ているものに妄想があるが、後者では現実に反していることが本質的である。
現実かどうかは人々に共有されているかどうかで決まるので、錯覚と妄想の区別も相対的であり程度問題である。
VII
この章の冒頭では少し寄り道があるのだが、これが興味ぶかい。
文化の中に宗教以外にも錯覚があるのではないか、という疑問である。
われわれの文化の中での異性関係もまた、性愛に関する一連の錯覚のせいで曇っているのではないか。(20-37)
おそらく異性間恋愛や結婚制度にまつわる錯覚のことを指しているのだろうなあ、といろいろ想像される。
話題を広げすぎるのは手におえない、と宗教に限定された話題に戻ってしまうのだが。
さて、論敵は「宗教が錯覚である」というフロイトの主張を一部認めつつも、それを大衆に知らせるのは危険だ、と言いはじめる。
考古学的な関心はもちろん賞賛に値します。でも現に生活している者の居住地の下を掘ったために、そこが陥没して人々が瓦礫の下に生き埋めになるようなら、発掘などしないものです。(20-38)
しかし、フロイトが指摘するずっと以前から宗教の化けの皮は剥げてきているのだ。
宗教の空洞化、権威の失墜は、放っておいても進んでいくであろう。
かくなる上は、これら危険な大衆を厳重に押さえ付け、精神的な覚醒に繋がるあらゆる機会から彼らを遮断するべく目を光らせるか、それとも、文化と宗教の関係を根本的に修正・再検討するか、そのどちらかしかないのである。(20-44)
もちろん目指すのはべきは後者の試みである。
VIII
「文化と宗教の関係を根本的に修正・再検討する」とは穏当な表現で、はっきり言って神はもういらないということだ。
たとえば人はなぜ他人を殺してはいけないのか。
それは、自分が誰かを殺せば自分も誰かに殺されるかもしれないからである。
お互いに殺さないことを、合理的に取り決めたのだ。
もっとも文化の指図についての合理的な説明は、あくまで仮想的なものであって歴史的な事実とは考えにくい。
人間は感情に流されやすく、なかなか合理的には行動できないものだ。
太古の人間は互いに殺しあっていた。
そしてついに、群れのリーダーたる原始の父、原父を、皆で協力して打ち殺してしまったのだ。
これがフロイトのいう「原父の殺害」。
人間はもとより自分たちが暴力的な行為によって父を片づけたことを知っており、この冒涜の行いに対する反応のひとつとして、父の意志を以後、尊重することを自らに課した。宗教上の教義は、それゆえ、ある種の変形と変装とを加えた上でとはいえ、歴史上の真実をわれわれに伝えているのである。(20-48)
合理的な取り決めで済むのであれば最初から神の出番などなかったろう。
「殺してはならない」ということを実現するためにも、宗教的教義は歴史的に必要だったわけだ。
そんなわけだから、すでに宗教が必要なくなってもそれを合理的な取り決めに置き換えるのは非常に難しい。
ここでフロイトは、歴史における宗教の出現を、人間における幼児期の神経症になぞらえる。
宗教は人間全般の強迫神経症であり、幼児の強迫神経症と同様、エディプスコンプレクス、すなわち父親との関係に起因しているのではないか。(20-49)
フロイトがこの著作によって試みているのは、人類に対する分析治療であったのだ!
IX
最後の2章では、宗教という錯覚を廃して合理的な取り決めに置き換えるための計画が語られる。
それは、子供への宗教教育の廃止である。
健康な子供の輝かしい知性、凡庸な大人の愚昧、両者のあいだの気のめいるような対照を考えてごらんなさい。こうした相対的な萎縮のうちのかなりの部分は、まさに宗教教育のせいだと言うことはできないでしょうか。(20-53)
ここにおいて、フロイトは理想主義的で楽観的であり仮想の論敵は保守的である。
論敵は子供の教育にとって宗教は必要であると主張し、人間はそのような慰めなしでは生きられないのではないかと心配している。
しかし、幼年期とは乗り越えられるべき定めにあるのではないでしょうか。人間は永久に子供のままであることはできません。最後には「敵意に満ちた人生」の中へ漕ぎ出してゆかなければなりません。(20-56)
X
宗教を廃止した後に残るものは知性である。
強い情動の流れに対するのに知性の力はいかにも弱いのだが、他に頼れるものはないのだ。
知性の声はか細い。しかしこの声は誰かに聞き取られえるまでは止むことがない。(20-61)
フロイトはオランダ人ムルタトゥリの言葉をひき、宗教に代わってアナンケー(苦境・運命)に対峙するものとして、ロゴス(理性)をあげている。
めざすところは隣人愛と苦悩の軽減である。
神に変わってロゴスによって世界の営みを説明しようとするのが科学である。
宗教が与えてきたものを科学は与えられない、という批判は今日でも続いている。しかし、科学が与えられないというそのものは、錯覚としての快なのである。
そもそもないものねだりなのだ。
いいえ、私たちの科学とは錯覚ではありません。でも、科学が与えてくれないものをどこか他のところから得られると信じるなら、それは錯覚というものでしょう。(20-64)
2012.8.11
文化の中の居心地悪さ
Das Unbehagen in der Kultur (1930)
嶺秀樹・高田珠樹 訳(2011)
「ある錯覚の未来」の3年後に書かれた続編的な著作であるが、こちらの方が幅広い話題に及んでおり、論調はより悲観的になっているように思える。3年の間に何があったのだろうか。
I
「ある錯覚の未来」では、仮想の論敵に対して答える形でフロイトの主張が展開された。
「文化の中の居心地悪さ」の冒頭は、前著作へのロマン・ロランの感想を紹介するところからはじまる。
ロマン・ロランによれば、宗教性の本来の源泉は多くの人が共有する主観的な感情であって、それは何か無窮のものにつながっているような感覚、「大洋的」な感情なのだという。
これに対してフロイトは、自分には大洋感情などないと断言した上で、この感情についての分析にとりかかる。
われわれ自身の自我についての感情、自我感情についての考察である。
成人においては、外界と自我の境界は比較的はっきりしているのであるが、これは当然のことではない。恋愛や病的状態では、自我と外界の境界があいまいになることがある。
そもそも人間の根源的状態である幼児期には、自我は外界と融合したように感じられていたのだという。
つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつて自我と環境とがもっと密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遥かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。(20-72)
つまり大洋的感情とは、外界とつながってもっと多くのものを含んでいた昔の自我についての感情なのではなかろうか。
さてここからがおもしろいのであるが、成人してからの自我感情と根源的幼児的な自我感情とは個人の心の中で並存している。
われわれは外界と自己をきちんと区別しているのだが、一方では外界に対して自らとつながっているような親近感を感じているのである。
「並存」というより重なり合って存在している、と言った方がよいかもしれない。
ここのところはフロイト心理学における根本的仮定のひとつ、「心的なるものにおける保存」にまつわる問題である。
いわく、心の生活においては、一度形成されたものは何ひとつ滅びず、すべてが何らかのかたちで保存されており、たとえばその時期になるまで届く退行のような好的な機会に恵まれると、ふたたびおもてに現れてくることがある・・・。(20-73)
古いものがいつまでも滅びないだけでなく、古いものの上に新しいものが重なって存在している。
この様相を説明するために、フロイトは歴史的都市ローマの比喩をあげている。
歴史家がわれわれに教えるところによれば、最古のローマはパラティウムの丘の上の、柵で囲った入植地《ローマ・クァドラータ》〔Roma quadrata〕である。これに、個々の丘の上の居住地を統合した《七つの丘の町》〔Septimontium〕の時期、その後にセルウイィウスの城壁をきょうかいとする都市が続き、さらにその後、共和制の時代や初期帝政時代の各種の変遷を経て、アウレリアヌス帝が城壁をめぐらせた都市に至る。(20-73)
現実のローマは古い遺跡と新しい建物が混在して都市をなしているのであるが、そこに想像力を働かせて、古いものが滅びず新しいものと並存している有様を仮定してみる。
この部分の描写はローママニア・フロイトの面目躍如で、説明のための比喩を超えた詳細さである。
古いものと新しいものは出鱈目に重なっているのでなく、時間の順番と場所の連関をもって存在しているのである。
それはともかく、フロイトは多くの人に「大洋」感情なるものが存在することは認めているが、それを宗教的欲求の源泉とみなすことについてはきっぱり否定している。
感情は、それ自身が何か強い欲求の表現である場合にしか、ひとつのエネルギー源とはなりえないからだ。宗教的な欲求は、寄る辺ないという幼児の思いとそれが呼び覚ます父親への憧れから説明されるべきであり、これについては譲れないと思われる。(20-77)
II
ロマン・ロランのような学問のある者が、宗教がもはや信じるに値しないと薄々気づきつつもそれを未練がましく擁護することに対して、フロイトは手厳しい。
神の代わりに、人格を持たない影のような抽象的原理を出してくれば、それで宗教の神を救えると信じる哲学者どもに対しては、信者たちの列に紛れ込んで彼らと一緒に、主の御名をみだりに唱えるなかれ、と叱りつけてやりたい。(20-78)
さて、「世間一般の人々が信じる宗教」についての話に戻る。
ゲーテからの引用。
「学問と芸術を持つ者は、
宗教をも持っている。
無学無芸の者は、
宗教を持つべし。」
ゲーテ「温順なクセーニエン」第九集(『遺稿詩集』)より
(20-79)
ここでは宗教はある種の慰めものとして価値下げされている。
その前提には「人生はそのような慰めものを必要とする程つらいものだ」という世界観がある。
われわれが背負わされている人生は、あまりにも重く、あまりに多くの痛みや幻滅、解きようのない課題をわれわれに突きつける。この人生に耐えるのに、われわれは鎮痛剤を欠かすことができない。(20-79)
人生を耐えるための鎮痛剤として、フロイトは三種のものを挙げている。
自分の惨めなことなど眼中にないようにするだけの強力な気晴らし
惨めな思いをやわらげる代替満足
惨めさを感じないですむようにしてくれる麻薬
最初の「気晴らし」とは、仕事や学問などに熱中することである。
二番目の代替満足はフィクションの楽しみ。現代では映画やテレビ、ゲームなど、さまざまな代替満足が提供されている。
「麻薬」は、煙草やアルコール、現代なら向精神薬など、幅広い薬物による慰みである。
人生がどうしてそれ程耐え難いのかといえば、われわれ人間が多くを欲し、にもかかわらず現実世界がなかなかそれを与えてくれないからだ。
お気づきのように、人生の目標を設定するのは、もっぱら快原理のプログラムである。この原理は心的装置の働きを最初から支配している。この原理が目的にかなうものであるのは疑いえないが、このプログラムは、ミクロコスモスもマクロコスモスも含め、全世界と敵対している。(20-81)
人間が幸福を経験するのは極めて難しく、不幸を経験するのは遥かにたやすい。
苦しみは三つの方面から襲ってくる。
第一は、自分の身体から。
第二は、外界から。
第三は、他者との関係かから。三つのうちでこれが一番大きな苦痛となる。
人間が幸福になる方法。それには快感を目指す積極的なやり方と、苦痛を避けるための消極的なやり方がある。
まずは、一番積極的な方法。
あらゆる欲求を無制限に満足させるというのは、数ある生き方の中でも人の気をそそる点で図抜けているが、これは楽しみを優先して慎重を軽んじることを意味し、長続きせず、やがて報いを受ける。(20-83)
誰もがこうありたいと思う。しかしそこから競争が生まれ、足の引っ張り合いという苦痛な人間関係が生じる。「報い」は、同じように欲求を満足させたい他者からやってくる。
そこでこのような苦痛を避けるという、消極的な方法を考える。
自ら望んで孤独になったり他人から距離をとったりするのは、人間関係から生まれる苦しみから身を守るのに誰もが考える手近な方策である。容易に察しがつくとおり、こうしたやり方で得られる幸福は、平安の幸福である。(20-83)
外界に背を向けることで苦痛は避けられるかもしれないが、やはり寂しいものだ。
もう少し穏便なやり方で他者と協調しながら幸福を追求するという方法はないものか。
人間共同体の一員として、科学が先導する技術の助けを借りて自然に対する攻撃に打って出て、自然を人間の意志に屈服させるのだ。それだと、万人の幸福のために万人と力を合わせることになる。(20-83)
これらの面倒くさい手続きを省略し直接身体に働きかけて幸福を得ようというのが、麻薬による方法である。
幸福を追求し悲惨を遠ざけておくための闘争の中で麻薬の果たす役割は典型として重宝され、個人も集団も自分たちのリビード経済の中でこれに確固たる地位を認めてきた。(20-84)
もちろんこの方法には大きな欠点がある。
反面、この特性ゆえにこそ麻薬が危険で有害なのもまた周知の事実である。時としてこの麻薬のせいで、人間関係が巡り合わせた境遇の改善に費やされえたであろう大量のエネルギーがいたずらに空費されていくこともある。(20-84)
フロイトといえば、若い頃にはコカインの研究に熱中し、自らもそれを試していたのは周知のこと。
麻薬の魅力とその恐ろしさを身を持って知っていたに違いない。
現実世界で苦労なしには得られない快楽を麻薬によって苦労せずに得てしまえば、人はもはや現実には見向きもしなくなってしまうだろう。
薬に頼らないというのであれば、自ら欲動の蠢きに働きかけることによってこれを滅却してしまうという方法がある。
フロイトは東洋のヨガを例として挙げているけれど、これは少し理想化されているのかもしれない。解脱するというのは、そう簡単なことではない。
あるいはもう少し控えめに、欲動生活の抑制だけを目指すという方法もある。
しかしこれも苦労が多い割にいまひとつの満足しか得られないことは否めない。
自我による拘束を受けない奔放な欲動の蠢きが満足させられる場合、それで得られる幸福の感情は、馴致された欲動の満喫による幸福感とは比べものにならないほど強烈である。(20-85)
これが具体的にどういうことを指すのか、フロイト自身経験したことがあるのか、よくわからない。いずれにせよ、めったにないほど難しいことであろう。
他の穏便な方法としては、リビードの目標を外界に受け入れられやすいものに移しかえるというものがある。
欲動の昇華である。
具体例としては、芸術家が創造を通して得る喜び、研究者が問題を解決して真理を認識する喜びなどがある。
芸術家や研究者には誰でもなれるわけではないが、平凡な労働の中にも昇華の喜びはある。
人に生き方を説く上で、個々の人間を現実にしっかり繋いでおく方策として、労働を強調するのに勝る手はない。労働は少なくとも、人間を一片の現実の中に、人間の共同体の中に確実に組み入れる。労働にはナルシシズム的な要素や攻撃的要素、あるいはエロース的な要素といったリビード的要素のかなりの部分を、職業労働とそれに付随する人間関係に遷移できるという可能性が備わっている。(20-87)
空想生活の領域で、代理的な満足を得るという方法もある。芸術作品の享受である。
現代であれば、さまざまなメディアで展開されるフィクションや体験型ゲームもここに含まれるだろう。
現実と敵対し、現実社会の変革を目指すという方向性もある。
この目論見はほとんど成功せず、個人がこれに拘って妄想に至ることもあれば、宗教のような集団的な妄想へと発展することもある。
人生の中心に愛をすえ、愛し愛されることを求める生き方もある。
ここでいう愛は、直接的な性愛ではなく遷移されたリビードによる非性的な愛のことである。
人生の幸福を美の享受に求めるという生き方もある。自然の美しさを嘆賞したり、芸術作品を味わったり、学問によって得られる知識の美しさに感動したり、といったことである。
人は自分の素質や境遇に応じて、以上に列挙したような方法からいくつかを選択して幸福を追求するのであるが、むずかしい。
外界が、なかなか思うようにならないからである。
不都合な欲動資質を生まれつき持っている者にとっては、特にむずかしい。
こういう人に少なくとも代替満足を約束する、人生を処する最後の技法として浮上するのが、神経症の中への逃避であり、それは大概のところすでに年齢的に若いうちに行われる。さらに後年に至って、幸福を求めた自分の努力が徒労に終わったのを思い知らされる者は、慢性中毒の快の獲得になお慰めを見いだすか、あるいは精神病という絶望的な反抗の試みを企てることになる。(20-92)
神経症になる代わりに、宗教という集団妄想に入るという方法もある。
いずれにせよ、これらは幸福を与えてくれない外界を捻じ曲げて自らの思いを優先させるということである。
人間の様々な幸福の可能性を考察するのであれば、ナルシシズムが対象リビードに対して持つ総体的な関係を検討することが欠かせまい。基本的に自分に頼るほかないという事態が、リビード経済にとって何を意味するのか、知りたいものである。(20-93)
幸福というのは、外界、対象によってもたらされるように見えるが、結局のところそれらを幸福と感じるかどうかは自分しだいだ、ということだろうか。
Ⅲ
人間が幸福になるのは何故こうも難しいのか。
この問題に取り組むうちに、ついに本著作の主題ともいえる命題が現れる。
この可能性に取り組んでゆくと耳にするひとつの主張は、実に驚くべきもので、しばらくこれについえ検討しておきたい。この主張によると、われわれの悲惨な状態の大半は、われわれのいわゆる文化のせいであり、もしわれわれが文化を放棄し未開の状態に戻るなら、遥かに幸福になるのだそうだ。(20-94)
我々が幸福になるのを妨害していたのは文化だった!
もちろんフロイトがこの本末転倒な話を全面的に支持しているわけではない。
ただ多くの人々がそう感じて文化に敵意を抱いているというのは、なんだか納得できる。
なぜ人々はそのような敵意を文化に抱きがちなのか。
それを考察するためには「文化とはなにか」という本質から明らかにする必要がある。
文化の定義としては、前の著作『ある錯覚の未来』の言及が繰り返されている。
私はかつて、われわれの生活が動物的な先祖の生活と異なるのは、自然から人間を守り、人間相互の関係を律するとい二つの目的に資するある種の活動や制度のおかげであり、「文化」という言葉はそういった活動や制度の総体を指す、と述べたことがある。(20-97)
「自然から人間を守り」という部分は比較的わかりやすい。
文化によって人間は、自然を支配し、他の動物と違う発展を遂げてきた。
歴史的にみればそれは、
道具の使用
火の馴致(じゅんち)
住居の建設
の3点に集約され、それらが発展したのが現在の姿である。
しかし文化の特質としては、これらだけで十分とは言えない。
美と、清潔と、秩序。
以上3点は、文化的と呼ばれる社会では実用的な必要以上に重視されている。
さらに、
知性や学問、芸術、
そして、宗教活動などの高度な心的活動。
これらは文化が文化らしくあるために重要なものである。
しかし、それらは人々に恩恵を与えるだけでなく彼らを律する側面も持っている。
そこで、「人間相互の関係を律する」という文化の第二の目的が重要になってくる。
個人がそれぞれ勝手なことをしないようにその自由を制限する、ということだ。
文化のこの部分こそが、人々の反発を招いていることは容易に想像される。
文化の第一の目的(自然を支配し人間を守る)と第二の目的(人間相互の関係を律する)は、どうやら根本的に不可分なようだ。
個人の自由は文化の賜ではない。この自由が盛栄を極めたのはいかなる文化もまだない時代であるが、もとより当時の個人にはこれを守るすべなどほとんどないに等しいから、自由にはまた大概何の価値もなかった。文化が発展すると、自由は制限されるようになる。(20-104)
文化がまだない時代、個人は思い思いに振舞うことができた。
もっとも、これは動物的なルールのもとで、ということだ。それぞれの力量に応じて、縄張りとか群れでの序列などには従う必要がある。
道具の使用は自然に対して個人を強くしたと同様、他の個人に対しても強くした。従来のように個人が思い思いに振舞ったとしたら、それこそ殺し合いになってしまう。
そういう権力闘争の時代を経て、集団による支配すなわち「共同体の権力」が出現した。
人間らしい共同生活は、多数の者が集まり、それで出来た集団がどの個人よりも強く、またどの個人に対しても結束して対抗するときに初めて可能となる。このような共同体の権力は、今や「法」として、「粗野な暴力」の烙印を押された個々人の権力に対抗することになる。個々人の権力が共同体の権力に取って代わられることが、こと文化に関しては決定的な歩みである。(20-104)
理屈としてはもっともだ。しかし気持ちとしては収まらない。
人間は、文化による制限に対して、あくまでも自由を追求したいのである。
人類の格闘のかなりの部分は、この個人的要求と集団の側からの文化的な要求とのあいだに、目的にかなった、すなわち双方にとって納得のいく幸福な妥協点を見いだすという、ほかに例のない課題に傾注されてきた。(20-105)
「妥協」というのは、フロイトの個人心理学においても重要な考え方であった。
対立した力と力がぶつかりあい、双方にとってそこそこに良いところに達することである。
妥協は、暫定的で流動的である。
個人の側からみると、それは欲動の直接的な表現は断念しつつも文化に許容され推奨される線にそっての表現を試みることである。
そのやり方は個人によって異なり、「性格特性」と呼ばれる。
例えば、極端な倹約、整理好き、きれい好きを特徴とする「肛門性格」がある。
欲動の目標を、文化に許容されるものに変換することを「昇華」と呼ぶ。
欲動の昇華は、文化発展に備わるとりわけ顕著な特質であり、学問や芸術、イデオロギーなどの高等な心的活動は、昇華によって初めて文化生活の中でこれほどに重要な役割を果たしうるのである。第一印象に従うと、昇華とはそもそも文化によって強いられた欲動の運命である、とつい言ってみたくなる。(20-106)
文化の中で生きる我々は、もはやむき出しの、直接的な欲動の表現などなしえない。
欲望として意識されるものは、すでに文化を前提として、制止されたり方向を逸らされた欲動なのである。
昇華によって、文化のために断念された欲動は文化の役に立つものに変換される。
文化の第一の目的にみえた「自然を支配し人間を守ること」にしても、それを達成するためのエネルギーはまさにそこから来ていたのである。
最後にもうひとつ、最も重要と思われる第三の点であるが、文化とはそもそも欲動断念の上に打ち立てられており、様々の強力な欲動に満足を与えないこと(抑え込み、抑圧、あるいは他にも何かあるかもしれない)こそがまさに文化の前提である。(20-107)
欲動断念は、そもそも文化の大前提であるというのだ。
逆説めいているが、非常におもしろい。
これこそが人間の文化を大きく発展させた原動力であり、同時にまた個人が文化に抱く敵意の根源でもあるのだという。
Ⅳ
文化がまさに欲動断念の上に打ち立てられているということ、このことを歴史的に再構成してみる。
フロイトの想定によれば、太古において人間の祖先は、首長である父の支配する集団、すなわち「原始の家族」を作って暮らしていた。
『トーテムとタブー』で、私は、この状態での家族から、兄弟同盟というかたちを取った共同生活の次の段階に至るまでの道筋を明らかにするのを試みた。父を打ち倒した際、息子たちは、力を合わせれば一人の者より強いこともあるのを知った。この新たな状態を維持するために、息子たちは互いに様々の制限を課さねばならなかったが、そういった制限の上にトーテミズム文化は成立しているのである。(20-109)
有名な「父親殺し」の話である。
ここで重要なのは、父親を殺すのが「息子たち」であるということだ。
一人の息子が父親を殺したのであれば、それは単なる政権交代、その息子が新たな父親になるだけである。
そうではなく、複数の弱い息子たちが強い父親を殺したのである。
一人の者が力によって支配する状態から、複数の者たちによって支配する状態への変換だ。
必然的に、首長が行使していた権力はトーテミズムとして棚上げされ、人々は互いに様々な制限を課すことになる。
ここで「様々な制限」のうちで、重要なのは性愛にまつわることである。
父親がいた頃には、彼が性的な愛を独占していた。
それが、父親殺しの後には一定の制限のもと皆に分配されることになった。
制限とは、近親相姦のタブーなど性愛関係を結ぶ相手を限定することである。
最終的には、性愛関係を特定の相手に限定するという婚姻制度が完成する。
そのような制限のもとで、直接的な性愛は「目標制止された愛」と呼ばれるものに変換される。
性的な目標を断念したかわりに、制限のない対象に広く向けられる情愛である。
友愛、兄弟愛、ひいては人類愛、世界愛といったものがある。
家族を形成した愛は、直接的な性的満足を断念しないもともとのかたちにおいてであれ、また目標制止された情愛という変容したかたちにおいてであれ、文化の中で作用し続ける。いずれのかたちでも、愛は、かなりの数の人間を相互に結びつけるという機能を継続している。(20-112)
人々を結びつけて集団を作るのは、愛の力だ。
直接的な性愛は、男と女を結びつける。
そこから家族が生まれ、親子愛、兄弟愛、それらによる家族愛が、強い家族の絆を作る。
しかし、そこで留まらない。
文化は、個人がもっと大きな共同体に愛によって結びつくことを要求するようだ。
友愛、共同体への愛、国家への愛、人類愛。
より大きな共同体に帰属することに対して、最初の集団であった家族は抵抗をする。
結束の強い家族ほど閉鎖的になり、そのメンバーは共同体に入っていくことが難しくなるのである。
家族というのは、系統発生的には一段古く幼年期にしか存在しない共同生活の型式だが、これは後に獲得される文化的な共同生活の形式に取って代わられることに逆らうのである。(20-113)
家族の結束が文化に対抗する、というこの流れはわかりやすい。
家族を守ろうとするのは女たちであり、男たちは外へ、文化の仕事を担うために出て行くのである。
Ⅴ
文化の求めるところは、愛によって人間をより大きな集団に束ねることである。
二人の人間が性愛によって結ばれ満ち足りている状態。
これだけでは、いつまで経っても大きな集団ができないので困る。
そこで性欲を制限し、そうすることで生じる「目標を制止された愛」をより大きな集団作りのために利用するのである。
そこで問題となってくるのが、人間の攻撃性である。
人間とは、誰からも愛されることを求める温和な生き物などではなく、生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だと見て間違いない存在なのだ。(20-122)
攻撃性はすでに、子供がまだ幼いうち、所有というのがその原初の肛門形式を放棄するかしないかという時期に現れ、人間相互のあらゆる情愛的な関係や愛情関係のそこに澱を形成する。ひとり母親が自分の息子に対して持つ関係だけは唯一の例外かもしれない。(20-125)
最後の一文はなかなか意味深なのだが、それはともかく。
攻撃的な人間を束ねるのは容易なことでない。
人間の攻撃欲動に枠をはめ、それが発現するのを心的な反動形成によって抑えておくために、文化は持てるすべてを動員しなければならない。だからこそ、各種の方法を動員して、人間を集団に一体化させることや目標制止された愛情関係へ駆り立てることが画策されるのだ。(20-123)
攻撃性をなんとかする方法のひとつは、外に逸らすことである。
文化圏が比較的小さい場合、外部の者らと敵対することによってこの欲動を放出させてやることができる。(20-126)
こうして、部族と部族の争い、国と国の争いがおこり、それによってそれぞれの集団は結束することができる。
こういうことが歴史上繰り返され、今も続いていることは周知のとおりだ。
攻撃性を外にそらす方法は、それぞれの集団に暫定的な安定をもたらすかも知れないが、集団同士が争っているという点では不安定で、様々な悲劇をもたらすことにもなる。
また集団が大きくなると、この方法に頼るのはむずかしくなってくる。人類全体が結束するには、SFの世界のように宇宙人でも相手にしないといけないことになろう。
集団の外に逸らす以外の、攻撃性への対処としてはどんなものがあるのだろうか。
Ⅵ
論をすすめるにあたって、フロイトは欲動理論の変遷についておさらいをする。
欲動理論は、常に対極性の構造をなしてきた。
最初の理論では、自我欲動と対象欲動の対極。
自我欲動とは自己保存のための欲動であり、対象欲動は「リビード的」欲動であるとされた。
理論的発展は、ナルシシズム概念の導入によってなされる。
ここでの図式は、ナルシシズム的リビードと対象リビードの対極である。
性欲動は本来自我に向いており、後になってから対象に向かう。
しかしそれでは欲動の種類は一種類になってしまい、それはまずい。
そこで後期理論では死の欲動という概念が導入された。
エロース(生の欲動)と死の欲動の対極である。
エロースは騒がしく目につき易いが、死の欲動は見えにくい。
死の欲動は、エロースとの混晶化(混じり合うこと)という過程によって、外に見える破壊性となるのである。
エロースと死の欲動の対極という観点から見ると、文化はエロースの働きを表現するものである。
今、これに加えて、文化とは、互いにばらばらだった複数の個人を、後には複数の家族を、さらには部族や民族、国をひとつの大きな単位へ、人類へと包括していこうとするエロースに従属する過程だ、と言っておこう。こうしたことがなぜ起こらなければならないかは、われわれには分からない。分かるのは、これがまさにエロースの働きだということである。(20-134)
ばらばらの個人を人類へのまとめあげていくこと、これが文化の目的である。
しかし、その過程は容易なものでない。
破壊の欲動がその邪魔をする。
文化とは、人間という種において演じられるエロースと死とのあいだ、生の欲動と破壊の欲動とのあいだの闘いをわれわれに示しているに違いない。この闘いは生一般の本質的内実であり、それゆえ文化の発展は、端的に、人間という種による生死の闘いと呼ぶことができる。(120-135)
文化によって示される生と死の闘い、それが文化闘争なのだ。
Ⅶ
文化闘争というのは人類に独特のもののようで、他の種の動物では事情が違っている。
どうやら、動物のうちでもいくつかの種、たとえばミツバチやアリ、シロアリなどは、何十万年にもわたる格闘のはてに、われわれが今日、思わず見とれる国家制度や分業、個の制限を実現してきたに違いない。われわれの感性からすれば、こうした動物国家のどの住民になろうと、あるいはまたそこで個体に割り振られる役割のうち何を割り当てられようとも、われわれは自分を幸福だとは感じまい。そこに現在のわれわれの状態の特徴がある。(20-135)
人類はもしかすると、こうした統合の過渡期にいるのかもしれない。
遠い将来、になると思うが、人類が文化によって完全に統合されたならば、個を捨てて全体のために働くことに誰も不満を抱かないようになるだろう。
そういう状態が、幸福かどうかはわからない。あるいはそういう問い立て自体、過渡期故のものなのかもしれない。
あまりに遠い話でピンとこない。
ともかくも現在に生きるわれわれ個人は、グローバルな文化に組込まれていくことに抵抗を感じがちである。こちらの方が実感としてよくわかる。
さて、文化が攻撃的な個人を統合する方法である。
ずばりそれは、個人から発した攻撃性を個人の元へと送り返すということなのだという。
攻撃性を内に取り込み、内面化するのだ。それは本来、攻撃性をそれが由来する元の場所に送り返すこと、要するに自らの自我に向けることである。帰ってきた攻撃性を自我の一部が引き受け、これが超自我となって自我の残りの部分と対峙し、さらに良心となって、ちょうど自我が疎遠な個人に向けて満足させたかったであろう同じ厳しい攻撃性を、自我に対して行使するのである。厳格な超自我とそれに服従する自我とのあいだの緊張は、罪の意識と呼ばれ、懲罰欲求として現れる。このように、文化は個人を弱体化、武装解除し、占領した町で占領軍にさせるように、内部のひとつの審級に監視させることによって、個人の危険な攻撃欲を取り押さえるのである。(20-136)
罪責感の成立には二段階の過程が想定されている。
最初の段階は、子供が両親からの懲罰や愛の喪失を恐れるように、外的権威に対する社会的不安から生じる。
第二段階は、この外的権威が内面化されて超自我になる過程である。
第一段階と第二段階の違いは大きい。
第一段階で問題になるのは外からの目だから、悪いことをしなければよかった。ところが第二段階では、悪いことを思うだけでも罪になるのだ。
邪なことなど思いもつかない程の善人などどこにもいないだろう。
欲するだけでも罪だとなれば、罪責感にはきりがないということになる。
この発達の第二段階で、良心は、第一段階にはおよそ認められなかったある特性を示すようになるが、これはもはや容易には説明がつかない。すなわち、有徳の人であればあるほど、良心はいよいよ厳格で疑い深くなり、挙句の果てには聖徳の極みに達した人に限って、自分のことを全く下劣な罪深い人間と責めさいなむことになる。(20-138)
現実の不遇によって不幸になった場合でも、それは自分の罪深いせい、ということになる。
人間はことがうまく行っているかぎり、その人の良心も穏やかであり、自我も大概のことは気に留めない。しかし、ひとたび不幸に見舞われると、自らの中に閉じこもり、自分が罪深いのを認め、自分の良心の要求を増大させ、自らに節制を課し、償いによって自らを罰する。(20-139)
逆説的のようだが、確かにこういったことはある。
民族全体として強い罪責感をいだいた例として、ユダヤ教を発展させたイスラエルの民のことがあげられている。
外的権威が超自我として内在化される過程について。
厳格な外的権威によって厳しい超自我がつくられる、ということがある。
厳しい親に育てられたような場合である。
ただ、やさしい親に育てられても厳しい超自我を持つ人もいる。
この場合は、本人の元々持っている強い攻撃性が自らに向けられた結果厳しい超自我となった、と考えられる。
前者は外的な要因による過程であり、後者は内的要因による過程であるといえよう。
環境要因と遺伝要因という観点からとらえることもできる。超自我の基盤となるような攻撃性は受け継がれたものであり、そこに環境として外的権威の影響が加わることで個人における超自我がつくられる、というように。
人類が受け継いできた超自我は、太古における原父殺害の刻印であるという。
ではその最初の過程、基盤がないところに超自我がつくられるというのは、いかなるものだったのか。
父を殺した息子たちは、強い後悔の念にかられたのであった。
この後悔は、父に対する原初的な感情の両価性(アンビヴァレンツ)の結果であった。息子たちは父を憎んでいたが、また愛してもいた。憎しみが攻撃性によって満足されると、行為に対する後悔というかたちで愛が前面に現れ、この愛が父との同一化を通して超自我を樹立し、あたかも父に向けてなされた攻撃の行いに対する懲罰のためとでも言うように、超自我に父親の権力を与え、こうした行為がふたたび繰り返されるのを防ぐための制限を設けたのだった。(20-146)
後悔とは、実際に行われた行為についての罪の意識である。
取り返しのつかないことをしてしまった、というあの感覚。そうか、あれは愛の感覚なのだな。
憎しみの方は行為によってすっかり忘れ去られてしまい、「取り返したい」というかなわぬ思いが強くせまってくるのである。
以上は歴史的な再構成の話であるが、個人における超自我の形成にも同じような感情は働いているだろう。
つまり超自我は単に外から押し付けられるのではなく、そこには父への愛という要素が含まれているのではないか。
Ⅷ
文化がいかにして攻撃的な個人をまとめあげるか、という課題について考察してきた。
その答えは、個人の中に超自我を樹立することによって攻撃性を内に向かわせるというものだった。
考察の中では文化を擬人化して、あたかも独自の意志をもった存在であるかのように扱ってきた。
文化そのもには意志などなく、あくまでも個人の集合によって成立するものなのだが、それが多くの個人によって担われ受け継がれる中で、有機体としての一貫性をもちつつ発展しているようにみえる。
文化を、人類を統合するという目的にそった有機的な過程、と捉えるのもあながち見当外れではないように思われる。
文化の発展と、個人の発達を対比しつつ検討してみると、そこには共通点と相違点がある。
両者は、スケールは違うが共に人間の営みであり、対立や葛藤を原動力にして発展していく。
個人だけにみられる特徴としては、それが閉じられた系であり、最終的に利己的な存在であるということがある。
個人の利他的な振る舞いは、利己的な動機から生じているわけだが、そこにおける他者が集団となり抽象化したものが文化であり、つまり利他性という側面において個人は文化と対峙することになる。
一方文化の第一目的は人を集団として統合することであり、そこからみれば個人の幸福は二の次なのだが、文化を担っているのが人間である以上、彼らを満足させる手段を提供することも必要である。
文化が比較的小さい文化圏を形成している時には、個人における利己性と同じようなものが生じて、そこから文化圏どうしが対立することもある。しかし、対立の結果より大きな文化圏が生まれると、小さな文化圏の利己性は消えてしまう。そういう意味で、文化は最終的には利己的でない。
個人の発達と文化の発展を結ぶ共通項が、超自我である。
文化過程と個人の発達過程との類似には、さらにもうひとつ重要な一点が付け加わる。共同体もまたひとつの超自我を形成し、その影響下に文化が発展すると断じてよい、というものだ。(20-157)
文化の超自我とは、宗教に代表されるような倫理のことであり、個人の超自我を発達させるための外的権威として働く。
文化の発展過程において、例えばキリスト教のような強力な宗教が出てきて、人々をまとめ上げるのに需要な役割をはたすということがある。
しかし、個人において厳しすぎる超自我がしばしば精神疾患の原因になるように、文化の超自我も時には人々に多くの災いをもたらすかもしれない。
ここでフロイトは、文化を精神分析する試みを提案している。
いわく、文化の発展が個人の発達とかなりの点で類似していて、同じ手段を使って作業するのであれば、いくつかの文化ないしは文化時期が、あるいはことによると人類全体が、文化追及の影響下に「神経症」になっているという診断を下してよいのではないか。(20-160)
文化や人類を精神分析するといっても、個人と違って正常な比較対象がないとか、いろいろ難しいことではある。本論文でこの試みは暗示にとどめられ、具体的な分析はなされていない。
しかしこの流れから、後の著作『モーセという男と一神教』において、フロイトはユダヤ教やキリスト教の起源について分析をなしたのであった。
「あるいはことによると人類全体が」というところに、意味深い啓示を読み取りたくなる。
そもそも、文化をもつ人類というもの自体が根本的に病的な存在なのではあるまいか、というような。
人類はこの地球上で繁栄を誇っているけれども、自然のバランスという点からは異常な存在なのかもしれない。
また、文化による物事の追及ぶりが徹底的で強迫じみていると感じることもある。
人間の共同生活は、人間自身の攻撃欲動や自己破壊欲動によって攪乱されている。人類は、これを自らの文化の発展によって抑制できるのか。どの程度までそれが可能なのか。私には、その成否が人間という種の運命を左右する懸案ではないかと思われる。この点で、まさに現代という時代は、特段の関心を向けられてしかるべき時代と言えるかもしれない。人間は今や、こと自然の諸力の支配に関しては目覚しい進歩を遂げ、それを援用すれば人類自身が最後のひとりに至るまでたやすく根絶しあえるまでになった。人々にはそれが分かっており、現代人をさいなむ焦燥や不幸、不安の少なからぬ部分は、これが分かっているという事実に起因する。「天上の力」のもう一方、永遠のエロースには、ひとつ奮起して意地を見せてくれることを期待しようではないか。だが、その成否や結末はいったい誰に予見できよう。(20-160)
本論文が書かれたのが1930年、最後の一文は1931年に追加された。
ドイツではヒトラーが力を持ち、戦争への暗雲がたれこめていた時期である。
著作から80年が経ち、現在の世の中はどうなったか。
フロイトが「現代」について述べたことは、さらに徹底的に進んでいるように思われる。
第二次世界大戦という危機は大きな犠牲のもとでようやく乗り越えたものの、今でも世界中で局地的な戦争が続いている。
たしかに、人間にとって自らの攻撃性を抑制するのは容易なことではないようだ。
現代にうずまく様々な不満、焦燥、不安などの不幸はそのことからきているのだろう。
それでも、文化による統合という過程は着実に進んでおり、世の中は全体的に良い方向に向かっているようだ。
最後に愛は勝つ、ということを期待したい。
2014.11.26
テオドール・ライク宛書簡抜粋
Auszug eines Briefs an Theodor Reik (1929
秀樹 訳(2011)
フロイトの著作『ドストエフスキーと父親殺し』(1928)についてテオドール・ライクがなした批評記事に対して、書簡でコメントした文章の一部である。
おそらくライクの批評はドストエフスキー贔屓の立場からのものだったようだが、フロイトも好みの問題を素直に認めている。
あなたはまた、私がドストエフスキーの徹底性や卓越性を称賛してはいても、本来あまり好きではないと推定されていますが、お察しのとおりです。これは、病的な性情の人々に対する私の忍耐力が分析活動の中で尽き果てているためです。(20-166)
いつものフロイト流ユーモアにはにやりとさせれらる。
私も大学生の頃にドストエフスキーを読んだ時期があったが、中年になってからはトルストイの方が好きになった。
時代の矛盾を映し出した精神的葛藤を原動力として著作に表現した、という点では共通しているが、トルストイの方が真摯であると感じる。
ドストエフスキーは開き直っているような感じがして、そこがなんだかいやだ。あくまで好みの問題ですが。
2014.11.26
アーネスト・ジョーンズ五十歳の誕生日に寄せて
Ernest Jones zum 50. Geburtstag (1929)
嶺秀樹 訳(2011)
アーネスト・ジョーンズの五十歳を記念した冊子にに寄せられた小文である。短い文章の中にも形式的でない心のこもった賛辞がこめられている。
2014.11.27
マクシム・ルロワ宛書簡――デカルトの夢について
Brief an Maxim Leroy über einenTraum des Cartesius (1929)
高田珠樹 訳(2011)
マクシス・ルロワの著書『デカルト――仮面の哲学者』に寄せられたフロイトによるコメントである。
全集の編注にはルロワの著作に掲載されたデカルトの夢が引用されていて興味深い。
通常、夢の分析はそれを見た人との対話を通じてなされるものなので、このような歴史的な夢の分析は限定される。
今回のデカルトの夢は、「上からの夢」と呼ばれ覚醒時の思考に近い観念形成であるため、その点については容易であったという。
つまり、夢についてのデカルト自身の解釈をそのまま受け入れればよい。
以下はルロワの著作からの引用。
はなはだ愉快で、実に快適というほかにこの最後の夢は、彼によれば未来を指しており、自分の残りの人生の中で身に起こるはずのものを表しているに違いなかった。しかし、それに先立つ二つの夢を、デカルトは、神の御前であれ人前であれおよそ穢れなきものとは断じえない自らのこれまでの人生に対する戒めである、と見なした。(20-編注314)
ただしデカルトによる解釈にもおかしなところが少しある。そしてその部分こそが、深い無意識につながる重要なところなのかも知れない。
夢の中に出てくる「異国のメロン」という表象について、デカルトは「純粋に人間的な誘惑によって呈示されているとはいえ、孤独の魅力」と解釈している。
フロイトは「孤独な若者の想像力を虜にしたひとつの性的な表象を表すものかもしれません」と推測を述べている。
2014.12.2
一九三〇年ゲーテ賞
Goethe-Preis 1930 (1930)
嶺秀樹 訳(2011)
ゲーテ賞は1927年にフランクフルト・アム・マイン市が創設した文化賞で、フロイトはその第4回の受賞者になった。
↓Wikipediaの解説。現在でも3年ごとに選ばれているんだね。
ゲーテ賞
本文章は授賞式でなされた挨拶である。フロイト自身は病気で出席できなかったので娘のアンナ・フロイトが代読した。
フロイトにとって受賞は相当に嬉しかったようで、率直に思いを表現している。
講演の前半では、人間の心の本質をずばり言い当てるものとしてゲーテの言葉がいくつか引用されている。
さらにゲーテが精神分析にも通ずるような心理学的な行為をしていたことが紹介されている。
後半部分では、そのような偉人ゲーテを分析的研究の対象にすることへの弁明めいたことが述べられている。
ゲーテについての小論としては「『詩と真実』の中の幼年期の思い出」(1917)がある。こちらはあくまでも部分的な分析であったが、フロイトとしてはより本格的な分析を試みたかったのかも知れない。
それが進まなかった理由のひとつは、ゲーテが偉大な告白者であったと同時に「自らを丹念にベールで覆う人でもあった」からだという。
芸術家やその作品を精神分析の対象にすることについては、当時から、また現在でもいろいろ批判がある。
芸術を貶める行為だ、作品そのものを評価すればよい、など。
似たような行為であっても、伝記作家のそれは世間に容認されている。
しかしそこにだって、芸術家を称賛すると同時に、それを身近な存在として描き出すことによって結果的に価値下げをしようという意図があるのだという。
父親たちや教師たちに対して私たちが取る態度は、所詮、両価的(アンビヴァレント)です。というのも、私たちが彼らに向ける尊敬の念の下には、ふつう、敵対的な反抗の要素が覆い隠されているからです。これはひとつの心理学的な宿命であって、真実を力ずくで抑え込まないかぎり変えることができません。そして、私たちが生涯の歴史を探ろうとする偉人たちと私たちとの関係にも、これが累を及ぼさずにはおれないのです。(20-182)
分析することが対象を貶めることではないと言いながら、やはりそこには反抗的な気持ちが隠れていると告白しているようで少々矛盾しているようでもある。そこが両価的ということなのか。
現代の私がこれを読むと、フロイトがゲーテに投げかけたような気持ちを、フロイトに対して向けてしまうような気になるのであるが。
2014.12.10
ジュリエット・ブトニエ宛書簡
Brief an Juliette Boutonier
嶺秀樹 訳(2011)
ジュリエット・ブトニエはフランスの女子高校の哲学の教師で、フロイトに手紙でスピノザの哲学に関する質問をした。それに対する短い返事の文章である。
ここはひとまず、自分は、心的世界と並んで物的世界が存在し、心的世界が物的世界の部分領域であることを認めるのになんら困難を見出さない、と言うだけにとどめておきます。物的なものと心的なものとの関係の問題は、もっぱら後者(心的なもの)にとってのみ考慮に値します。(20-185)
物的なものが「心的なものは果たして存在するのか」と考えたりすることはないって、そりゃそうだ。
「確実に存在するのは心的なものだけではないか」などと屁理屈をこねる哲学者を皮肉っているわけだね。
2014.12.11
S・フロイト/W・C・ブリット共著『トーマス・ウッドロー・ウィルソン』への諸言
>Einleitung zu S. Freud und W. C. Bullitt, Thomas Woodrow Wilson (1966(1931))
嶺秀樹 訳(2011)
フロイトの死後1966年に発表された共著書、第28代合衆国大統領トーマス・ウッドロー・ウィルソンの伝記である。
本著作は共著の体裁はとっているものの、フロイトが実際にどこまで関与したかは疑問であるという。諸言の部分についてはドイツ語の原稿が残っておりフロイトが書いたことが確実なため全集に掲載されている。
独語版と英語版があり、アマゾンの中古で手に入るようだ。↓
Thomas Woodrow Wilson - Der 28. Praesident der Vereinigten Staaten von Amerika (1913–1921): Eine psychoanalytische Studie(独語版)
Thomas Woodrow Wilson, twenty-eighth President of the United States: A psychological study,(英語版)
関与が少なかったにしても、このような政治家を対象とした研究にフロイトが取り組んだということは興味深い。
著作の本文は確認していないが、諸言によれば伝記は公平な立場からのものでなく、対象であるウィルソンを精神病理的な人物として描き出しているようである。
大きな業績を残した人物の精神病理的側面について研究する学問を病蹟学という。この著作もそのはしりといえるものかもしれない。
彼らは、一面ではその人格の無傷な部分が関与したおかげで、つまり病的であるにもかかわらずこうした業績を残せたのだが、他方で、他の人々をも巻き込んで外部世界の抵抗を乗り越えるだけの力を彼らに与えたのは、しばしばまさに彼らの病的な特質、たとえば発達の一面的な偏りや、欲望の蠢きのうち特定のものの異常な肥大化、唯一の意図への無批判で制止の効かない献身などであったことは否定できない。(20-194)
政治家が人を動かし世の中を変えていくためには、病的ともいえる程の偏ったエネルギーというものも必要なのかもしれない。
2014.12.16
エドアルト・ヴァイス著『精神分析要綱』へのはしがき
Geleitwort zu "Elementi di Psicoanalisi" von Edoardo Weiss. Milano, Ulrico Hoepli 1931 (1931)
嶺秀樹 訳(2011)
フロイトの弟子であったエドアルド・ヴァイスの著作『精神分析要綱』への推薦文。1931年の出版だけど1995年にペーパーバックで再版され現在ではKindle版でも読めるようだ。推薦文のとおりよほどの名著なのだろう。
Elementi di Psicoanalisi (Italian Edition)
Elementi di Psicoanalisi Edoardo Weiss
2014.12.17
ハルスマン裁判における医学部鑑定
Das Fakultätsgutachten im Prozeß Halsmann (1930)
高田珠樹 訳(2011)
ハルスマン裁判については全集解題に詳細がある。1928年9月にユダヤ人の歯科医マードック・ハルスマンが息子と休暇先のオーストリ・アチロル地方で登山中に死亡した事件があった。当時22歳で留学中であった息子のフィリップ・ハルスマンが父親を殺害したものとして起訴され有罪判決がでた。
これに対して、反ユダヤ主義的な偏見に基づく冤罪事件ではないかと、ユダヤ人グループの中で支援と判決の取り消しを求める運動がおこった。本文章はこのような運動の中で、ウィーン大学のヨーゼフ・フプカ教授の要請に答えて執筆されたものである。
フロイトは、裁判におけるインスブルック大学医学部の鑑定がエディプスコンプレクスを恣意的に用いているものとして批判している。
エディプスコンプレクスは、まさにどこにでもあるがゆえに、犯人であるとの結論を引き出す理由としてはふさわしくない。(20-198)
有罪判決は覆らなかったが、ハルスマンは2年の拘束の後ミクラス大統領の恩赦によって出獄し、パリに移住して写真家を志し、その後アメリカにわたって肖像写真家として大成功した。
Philippe Halsman Wikipedia
Philippe Halsman Amazon
フィリップ・ハルスマンが撮影した、20世紀の超大物たち【アート】(画像83枚)
誰もがどこかで見たことあるような有名な写真もある。
また、最近もはやっているジャンプして撮影するのの元祖はこちらだったんだね。
2014.12.21
ヘブライ語版『精神分析入門講義』への序文
Vorrede zur hebräischen Ausgabe von "Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse". Jerusalem, Verlag Stybel, 1934 (1930)
嶺秀樹 訳(2011)
ヘブライ語は、一旦古語になりながら日常語として復活した言語として唯一の例なのだそうだ。(Wikipediaより)
ユダヤ人の情熱恐るべし。フロイトがユダヤ系ということもあってか、本書と『トーテムとタブー』のヘブライ語訳が出版され、独自の序文が残されている。
『精神分析講義』は言わずと知れたフロイトの代表作であり、もっとも広く読まれているものかもしれない。その後の分析理論の発展によって時代遅れになったところもあるが、単なる入門でない本格的な著作であることは著者も認めるところである。
2014.12.22
ヘブライ語版『トーテムとタブー』への序文
Vorrede zur hebräishcen Ausgabe von "Totem und Tabu". Jerusalem, verlag Stybel, im Ershceinen (1930)
嶺秀樹 訳(2011)
数あるフロイトの著作の中から、『精神分析入門講義』と共に『トーテムとタブー』がヘブライ語訳の対象として選ばれたことは興味深い。著者自身の意向もあったのだろうか。
著者は聖なる言語を理解せず、父祖の宗教にも――他のあらゆる宗教に対してと同様に――全く疎遠になっており、民族主義の理想に与しえず、それでもなお、自らの民族への帰属性を否認したことはついぞなく、また自分の特性はユダヤ的であると感じており、これを違ったふうに感じたいと願うこともない。(20-203)
ここで言う「ユダヤ的」なるもの何なのかを明確に述べることはできないようである。
ヒントは著作自体にあるのかもしれない。宗教や道徳の起源を論じる本書は、反宗教的な内容ともいえるだろう。宗教をも相対化して真理を追究する情熱的な姿勢というところに、ユダヤ的なるものが関係しているのかもしれない。
2014.12.22
小冊子『ベルリン精神分析研究所の十年』への序言
Vorwort zur Broschüre "Zehn Jahre Berliner Psychoanalytisches Institut". Wien, Internationaler Psychoanalytischer Verlag, 1930
嶺秀樹 訳(2011)
ベルリン精神分析研究所設立10周年を記念して作られた小冊子への序言。自らの私財を投じて設立と運営に尽力したマックス・アイティゴンへの感謝が述べられている。
2014.12.24
『メディカル・レヴュー・オヴ・レヴューズ』第三十六巻へのはしがき
Geleitwort zu "Medical Review of Reviews", Vol. XXXVI, 1930
嶺秀樹 訳(2011)
表題雑誌の「精神病理学特集号」のために、編集者のファイゲンバウム博士から依頼されて書かれた一文。
当時のアメリカでの精神分析の広がりについて、ヨーロッパでのように頑迷な抵抗にあってはいないが、正しく理解されぬままに安直な形で広がっていることに苦言を呈し、雑誌の仕事が正しい関心を促進することを願っている。
2014.12.24
リビード的な類型について
Über libidinöse Typen (1931)
高田珠樹 訳(2011)
フロイトによる性格類型について、簡潔にまとめた論文である。
心的装置を構成する3つの審級である、エス、自我、超自我のどれが優勢であるかという観点からタイプ分けしている。
エロース的な類型: エスの根源的な欲求を代表。愛すること、愛されることを重視して生活する。愛の対象である他者に依存しがちな傾向あり。
強迫類型: 超自我の優勢を特徴とする。良心の不安に支配され、外界には独立、社会的には文化の保守的な担い手になるタイプ。
ナルシシズム的な類型: 自我を押し出すタイプ。自我の攻撃性は能動的な行動として発揮される。他の人々に「人物」としての強い印象を与え、指導者として、文化の発展のために既存のものを破壊するのに適している。
以上の純粋な類型に加え、混合型があり、むしろそちらの方が頻度が多い。これらは二つの傾向の葛藤として表現される。
エロース的-強迫的な類型: 欲動生活の優勢が超自我の影響によって制限される。他者への依存と同時に内的な規範への依存がみられる。
エロース的-ナルシシズム的な類型: もっとも頻繁にみられるタイプ。愛することと愛されることといった対立が行動の中でうまく解消されることもある。
ナルシシズム的な強迫類型: 良心の要請を尊重しつつ力強く実行する能力を備えていて、文化的に最も価値ある様態。
たしかに我々の多くは、対立する傾向の葛藤に悩みつつ生活しているのであり、一つの傾向を単純に追及しているような人はある意味羨ましいとも思える。
さて、以上に加えて「エロース的-強迫的-ナルシシズム的な類型」というものは存在しないのか、という問いに対してフロイトは以下の様に答えている。
いわく、なぜならそのような類型は、もはや類型ではなく、絶対的な規範、理想的な調和を意味することになるだろうから、というのがその答えである。ここで今さらながらわれわれは、類型という現象が、まさに心的な経済におけるリビードの三つの主要な用途のうち一つないしは二つが他を犠牲にして優遇されることによって成立するのだということに気づかされる。(20-212)
すべてにおいてバランスのとれている人とか、きわめて平均的で凡庸な人というのはいるかもしれないが、そこでは性格云々ということは問題にならない。
実際には多少とも偏りがあるのが普通なので、その部分を特徴としてとらえるのであろう。
本類型は、正常と呼ばれる人をも含む対象を分類する試みであって、病理学との関係は単純ではない。つまりどの類型がどの精神疾患になりやすいなどと単純に言えるわけではない。
現実世界で生きていくのはなかなか大変なもので、そのために素質に根差してたてる適応戦略が性格を形成するのであろう。いわば生き方のタイプであって、それぞれのタイプがうまく成功すれば適応できるし、うまくいかなければ病気になることもある、ということなのであろう。
2014.12.24
女性の性について
Über die weibliche Sexualität (1931)
高田珠樹 訳(2011)
『解剖学的な性差の若干の心的帰結』(1925)に引き続き、女性のエディプスコンプレクスを扱った論文である。
この間に多くの分析家による議論があったようで、ジャンヌ・ランプル=ド・グロー、ヘレーネ・ドイチェ、ルース・マック・ブランスウィック、カール・アブラハム、オットー・フェニヘル、メラニー・クラインらの意見が紹介され、この時点でのフロイトの見解が示されている。
女性の発達は複雑である。
女はむずかしい、と男から見えがちなのも、この辺の事情によるのかもしれない。
このむずかしさは、女の子の発達における二つの関連し合う課題によっていると思われる。
女性の性の発達は、最初主導的である性器領域、つまりクリトリスがヴァギナという新しい性器領域に座を明け渡すという課題があるために複雑になるということは、かなり以前からわれわれも理解していた。これと似たもうひとつの、対象を最初の母親から父親へと取り換える転換も、同様に女性の発達を特徴づけるものであり、第一の転換に劣らず大きな意味を持つと思われる。(20-215)
男の子でも女の子でも、最初に情愛をもって拘束される対象は母親である。
男の子ではそこから自然にエディプス期へと移行する。
女の子では、エディプスコンプレクスに行く前に、対象の転換という課題を乗り越えなくてはならない。
そこで俄然注目されてくるのが、エディプス期以前の時期である。
女性のエディプス期以前の時期には、神経症の発症原因と考えられるあらゆる固着や抑圧の余地がある。(20-216)
神経症のことだけでなく、「女性であることの特有の特徴」の起源がここにあるという。
女性であることの特徴ってなんだろう。
まず明白なのは、人間の自然資質と主張される両性性が、女性では、男性より遥かに鮮明に出てくることである。(20-218)
人間というものは、男であっても女であっても、男らしさと女らしさの両方の特徴を持っている。
ここでいう男らしさ、女らしさ、とは生物学的な基盤を持ち、また文化的にも規定される役割的な特徴のことだ。
この両性性は、女性においてより鮮明に表現されるという。
ひとつには、女性がクリトリスという男性的な性器と、ヴァギナという女性的な性器と二つの性領域を持っていることと関連している。
しかも二つのうちで最初に活性化されるのは男性的な性器の方で、後になってようやく女性固有の性生活がもたらされるというのだからややこしい。
男らしさから女らしさへの転換の契機となるのが去勢コンプレクスである。
去勢コンプレクスは、もともと男の子が父親によって去勢されることへの不安のことである。
男の子では、去勢コンプレクスがエディプスコンプレクスを克服していくための契機となる。
女性における去勢コンプレクスは、自分がペニスを持っていないことの気づきであり、つまりすでに去勢されてしまっていることへの不満である。
女の子では、去勢コンプレクスがエディプス期以前の時期からエディプス期へと移行するための契機となる。男の子とは順番が違っているのだ。
しかしこの去勢コンプレクスからはじまる道のりは、一筋縄ではいかない。
ここで女の子は、およそ三通りの発達経路をたどるという。
1.性ということからの全面的な離反。
2.頑なに男らしさに固執する。
3.正常とされる、女らしさへの道。
三番目の発達経路が、父親を対象とする女の子のエディプスコンプレクスである。一応これが正常とされるのだが、いろいろなバリエーションがありえる。
性からの離反や男らしさへの固執で終わってしまう例も多いし、それが異常であるともいえない。
また、エディプスコンプレクスまで到達しても、男の子と違ってそれをを克服する契機が少ないので、父親への感情的拘束のところで留まってしまう女性も多い。
いわゆる「ファザコン」というやつだ。フロイトの表現ではないけれど。
いずれにせよ、女の子にとって決定的に重要なのはエディプス期以前の時期における母親との関係なのであって、その後の関係においても常に根っこにはそれがある。
フロイトはわかりやすい例として、父親を模範とするようなタイプの女性の結婚について述べている。
たとえばわれわれが以前から気づいていたことだが、父親を模範として夫を選択したり、あるいは夫を父親代わりにする女性の多くは、結婚生活で夫を相手に自分の母親との悪い関係を反復している。(20-222)
エディプス期以前の時期における女の子と母親の関係は、とてもむずかしい。
女の子の去勢コンプレクスは、ペニスを与えてくれなかった母への不満と敵意、という形をとりがちである。
この不満の前提には、そもそも子供が親に対して抱く欲望の強さということがある。
子供のリビードはこれほどにも強欲なのだ。精神分析が母親からの離反に関して暴露してくる動機には、母が女の子に文句なしにまともな性器を持たせてくれるのを怠ったとか、母が十分な期間、母乳で養ってくれはしなかった、母の愛を誰かと分かち合うように強いた、母は愛の期待のすべてを満たしてくれることはついぞなかった、そしてしまいには、母が自分に性的活動をまず目覚めさせておきながら、後になってそれを禁じた、といった言い分があるが、こうした一連の動機付けをすべて概観しても、いずれも最終的な敵意を正当化するには不十分であると思われる。(20-227)
もちろん女の子が母親を憎んでばかりいるわけではない。強く愛しているからこそ不満と敵意も高まるという、両価的な感情を向けているわけである。
愛情生活の最初期の段階では両価性があきらかにごく普通にみられる。(20-227)
ところでこういったこと、母親に両価的な感情を抱いて格闘するというのは、男の子でもあり得るのではないか。
そのとおりで、男の子にとってもエディプス期以前の時期はむずかしく、かつ重要である。
ただ男の子では、憎しみを父親に向けることでエディプス期に移行し、母との良い関係は当面温存されることになる。
問題を先送りしたわけで、エディプスコンプレクスの克服という重要な課題の背後には、以前に母親との関係で生じた葛藤が潜んでいる。
例えば父への攻撃性や、その見返りとして懲罰されることへの不安は、元来母親に向けられていたものなのだ。
女性の場合には、最初の母子関係が生涯にわたる対人葛藤のテーマとなっていることが、比較的見えやすいともいえるだろう。
男らしさと女らしさの両性性、愛と憎しみの両価性という2つの対比に加え、ここで受動性と能動性という観点が導入される。
性の領域に限らず心的な体験のどの領域でも、受動的に得られる印象が子供の中に能動的な反応への傾向を呼び起こすのは容易に観察される。(20-229)
子供にとっての最初の体験は、母親に哺乳されたり、排泄の世話をされたりするという受動的なものである。
子供はこれを性的体験としてとらえ、それを楽しんだりもする。
一方で子供は、それらの体験を能動的に、自らが主体となって再現しようとしたがる。
典型例が、子供の遊びである。
お医者さんごっこにみるように、不快な体験すら遊びのモデルとなる。いやむしろ、不快な体験こそ遊びによってそれを止揚する必要があるともいえる。
女の子が好むのは人形を使ったままごと遊びである。
そこには、母との体験を能動的に再現しようという意図があり、またその関係の排他性、父親すら入り込む余地のない間柄であることを表現するものでもあるという。
遊びの領域における能動性は間接的なものだが、もっと直接に女の子が自らの能動性と攻撃性を母親に向けるということがある。
女の子に見られる意外な性的能動性は母親を得ようとする追及として現れるが、時期的な順序としては、まず口唇的、次いでサディズム的、そして最終的にファルス的でさえある追及というかたちで出てくる。(20-230)
母親を得ようとする、とはおこがましいが、子供にとっては本気である。
よく、「食べちゃいたいほど可愛い」などと言うが、子供の方でも母親を食べちゃいたいと思っているのである。
そういった感情は早期に抑圧され、母親に殺されるのではないかという不安になってあらわれる。
ファルス期以降においては、母との一対一の関係が明瞭になってくる。
女の子は、母親が自分を性的に誘惑したといって責める。
クリトリスによるマスターベーションでは、母親のことが空想される。
下の子の誕生に際しては、自分が子供を作ってやったという解釈がなされるが、これは男の子と共通の反応である。
女の子はその時々、いろいろなかたちで母親に挑んでくるわけだが、結果としては、相手がとてもかなわない圧倒的な存在であることを身に染みて知らされざるを得ず、最終的に離れていくことになる。
母親からの離反は、女の子の発達の行程において極めて重要な一歩であり、単に対象の変更に尽きるものではない。その経緯についても、またその動機を説明すると称して積み重ねられてきた数多くの説明の試みについても、われわれはすでに述べたが、今それらに加えてもうひとつ、母親からの離反と手を携えて、能動的な性的蠢きの著しい低下と受動的な性的蠢きの高まりとが観られることを指摘しておこう。(20-232)
母親から離れた女の子は父親へと向かう。
しかしこの対象の変更はそう簡単ではなく、さまざまな奮闘や紆余曲折の後にようやくなされたり、最終的にうまくいかなかったりすることもある。
つまるところ女の子にとって父親というのは、離れざるを得なかった母親の代理に過ぎないということなのかもしれない。
母親からの離反と並行し、能動的な性的蠢きの低下と受動的な性的蠢きの高まりがおこる。
この過程を導いていく要因としては、何らかの生物学的な過程が想定されている。
2015.7.29
火の獲得について
Zur Gewinnung des Feuers (1932)
高田珠樹 訳(2011)
本巻収録の「文化における居心地悪さ」の脚注にある、原始人が火を獲得した経緯の推測について、その後の批判と議論を踏まえてフロイト自身の考えを補足的に述べたものである。
文化文明の発展において、火の獲得と利用は大きな出来事であったに違いない。前提としてフロイトが仮定するのは、原始人は最初自然において生じた火を持ち帰って維持し利用したのであって、自分で火を起こす技術を得たのは後になってからだろうということだ。
この「自然の火を持ち帰る」という出来事について、ギリシャ神話のプロメテウスの逸話を分析し再構成している。
神話はもちろん作り話であるが、そこには実際の出来事や人々の願望が投影され、込められているものと想像される。
プロメテウスは神々から火を盗み出して人間にもたらすのだが、その際に火を巨茴香(おおういきょう)の茎に隠すのである。
「巨茴香の茎」はペニスを象徴するものと解釈される。ペニスの中にあるものは尿=水である。そこで、火と水という対立がテーマとして出てくる。
燃え上がる炎は、屹立するファルスや性的な興奮をあらわす。それを鎮めるのが水である。性的に興奮したペニスと排尿とは相いれない、ということもこの対比と並行している。
自然に見つけた火を自らの小水で消そうとすることは、原始人にとって同性愛的な快に満ちた行為だった。この快を断念した時にはじめて火を持ち帰って利用するという道が開けた、というのがフロイトの推測である。
人間に火をもたらしたプロメテウスは、その罪により鎖につながれハゲワシによって毎日肝臓を食われる刑にあう。この罰にも性的な意味合いが込められている。と同時に、食われた肝臓がその都度再生されるとういうところに情欲の不壊が表現されており、欲動を断念した原始人にとっての慰めとなったのであろう。
2018.2.28
英語版『夢解釈』第三版(改訂版)へのまえがき
Vorwort zur dritten (revidierten) Auflage der englischen Ausgabe der Traumdeutung (1931)
高田珠樹 訳(2011)
翻訳者であるブリル博士への謝辞と、フロイトにとってこの著作が特別なものであったことが述べられている。
2018.2.28
ヘルマン・ヌンベルク著『精神分析的な基盤に基づく神経症総論』へのはしがき
Geleitwort zu "Allgemeine Neurosenlehre auf psychoanalytischer Grundlage" von Hermann Nunberg. bern, Verlag Hans Huber, 1932
高田珠樹 訳(2011)
脚注によると、初出で内容に関わる誤植があり、それが独語版全集にもそのまま引き継がれてしまっていると。当該の巻が手元にあったので確認してみると確かにそのとおりだった。どのような経緯での失錯行為なのか、気になるところ。
2018.2.28
火
(1932)
訳(2011)
2018.2.28
火
(1932)
訳(2011)
2018.2.28
火
(1932)
訳(2011)
2018.2.28