フロイト全集 第7巻

日常生活の精神病理学にむけて――度忘れ、言い違い、取りそこない、迷信、勘違いについて
Zur Psychopathologie des Alltagslebens (über Vergessen, Versprechen, Vergreifen, Aberglaube und Irrtum)(1901)
高田珠樹 訳

 初版は1901年すなわち「夢解釈」の翌年の出版であった。(正確に言うと「夢解釈」の真の出版は1899年だから翌々年。)初版から1924年の第10版までに増補改定を繰り返し、三倍ほどの分量に膨れ上がったという。そのいきさつについては解題に詳しく書かれている。

 この本では、さまざまな度忘れ、言い違い、勘違いなど、日常的な失策行為の例をたくさん集め、その成立のメカニズムについて分析している。「夢解釈」と同様、フロイト自身の体験した事例も多く、いろいろと想像させてくれておもしろい。こういった形での自己開示をすることは、大変勇気のあることであろう。当然のことながら、そこには個人的な事柄を伏せるための改変や省略が加えられているようであり、分析が不徹底であるといった批判もあるようだが、そこまで求めるのは酷というものだ。

 私もこのブログで自分の失策行為を披露したいような誘惑にもかられるが、やはりそれは非常に個人的な問題にからんできて、ちょっとできないなあとも思う。それでも、あまりさしさわりのないところで少しはやってみようかな。

H19.5.30

第一章 固有名詞の度忘れ

 第一章は、フロイト自身が体験した事例の紹介とその分析。オルヴィエトの大聖堂に「最後の審判」のフレスコ画を描いた巨匠の名前がどうしても思い出せなかったという。正解はシニョレッリなのだが、それが思い浮かばずに代わりにボティチェッリとボルトラッフィオの名がしつこく浮かんできたという。

 私自身にとっては、この手の度忘れは日常茶飯事で、別に不思議にも思わず、ますます老化する頭のせいにして過ぎ去ってしまう。フロイトは、若い頃には一回読んだだけで本の内容をすらすらと覚えてしまい、試験勉強も苦労しなかったような記憶力の持ち主だったそうだ(注)。だからこそ、自分が度忘れをすることが許されなかったのだろう。その原因を徹底的に追求して理論化しようとしたのではないか。

 確かに、人間の記憶というものは意外に自分の自由にならないものである。覚えたいことはなかなか覚えられず、忘れたいことはなかなか頭を去らない。
 特にこの「忘れたいけど忘れられない」というところがポイントだ。不快な観念を抑圧しようとする心の動きと、その観念自体の意識に上ろうとする傾向との葛藤が、音の類似によってつながった別の言葉の度忘れや、代わりの言葉の出現を招く。

 「抑圧」は精神分析理論の重要な概念だが、ここでは単に現在の思考から締め出すというくらいの緩い意味で使われているようだ。

H19.5.31

注)これを書いている時には、このことをフロイト自身がどこかで述べていたことは覚えていたが、どこかは忘れていた。読み進めて、それが本書第七章のものとわかった。(H19.6.9追記)

学童時代には、読んだばかりの本のページを諳んじるというのは朝飯前だったし、大学に入学する直前には、学問的な内容を一般向きに説く講演を聴くと、その後でほぼ一字一句忠実にそれを書き記すことができた。 (中略) 私は、(医学の博士号の口頭試問で)試験官に対して、自分がたった一度、大急ぎで目を通した教科書とまるっきり同じ文言を答えとして機械的に読み上げたからである。(7-166)

第二章 外国語の言葉の度忘れ

注:本書についての記事では、フロイトのあげた事例をそのまま要約して紹介するようなことはしないつもりです。それでも、その内容に触れるところはありますので、存分に楽しみたい方は先に本書を読まれてから記事を見ることをお勧めします。

 この章では、とあるユダヤ青年が体験した外国語の度忘れについて、フロイトが彼との対話による分析によって見事に解き明かしていくところが描写されている。分析治療そのものではないが、分析的な対話がそのまま紹介されており大変おもしろい。

 ところで、このエピソードについて、解題ではちょっと穏やかでない仮説を紹介している。それは、ピーター・J・スウェイルズの提唱している説で、このユダヤ青年が実はフロイト自身であり、彼が妊娠を心配している女性とは、フロイトの妻の妹であるミンナ・ベルナイスであろうというのだ。
 フロイトとミンナについては、そこに恋愛感情や肉体関係があったのではないかといろいろな憶測があるようだ。私は、この件について詳しく調べたわけではないのでなんとも言えないが、たとえ気持ちはあったとしても事実はなかったのではないかと推測する。しかし、実際がどうだったとしても、フロイトの著作のすばらしさをなんら減じるものではない。

 もっとも、もしスウェイルズの推測どおりであったとするならば、スキャンダルの部分よりもむしろ、自分の体験を他人との対話として歪曲して紹介していることの方に不誠実を感じるのであるが。

H19.6.1

第三章 名前と文言の度忘れ

 この章は初版にはなく、1907年以降の版で追加された、フロイト自身の体験したり集めた事例、そしてユングやフェレンツィなど他の研究者が集めた事例などから構成されている。

 名前の度忘れにおいては、「自己への関連付け」ということが重要な役割を演じるという。

このように私の思考の中を絶えず「自己への関連付け」の流れが走っており、そのことには普段は気づかないのだが、このような名前の度忘れという形で露呈してくる。それはまるで、私が他人について聞くことすべてを自分の身の上と比較し、他人について何か聞き知るたびに、私の個人的コンプレクスがうずき始めるかのようである。これは私個人の持ち前の性分であるなどということはありえない。ここにはむしろ、私たちがそもそもいかにして「他」というものを理解するのかについての示唆が含まれているに違いない。(7-32)

 「他人の身になって考える」でも「自分の身に置き換えて考える」でもいいが、とにかく他者と自己を関連付けて考えること。人間はそのようにしてしか、他人を理解することはできないのかも知れない。他人のことを、文字通りの意味で「他人事」と考えて平然としているわけにはいかないのであって、それが多くの度忘れの要因になっているということか。

H19.6.2

私のものだ!

他人において自分の名前と再会するとき、軽い不快感を禁じえない。私も先日、診察中に相手から自分はS・フロイトだと名乗られたときにこの不快感をかなりはっきりと覚えた。(7-33)

 この気持ちはなんとなくわかる。自分の名字は、自分の家族や親戚で独占したいというような感覚がどこかにある気がする。
 私の場合、「重元」という人にはまだ現実では会ったことがないが、本名の方はさほどめずらしくない姓なので、これまでの人生でかなりの数会っているはずだ。記憶をたどってみると何人かの顔が頭に浮かぶ。しかし、その中に親しく付き合いをした人はいなかった。単なる偶然なのか、それとも無意識的にさけているということが多少ともあるのか。高校までの学校では、同姓の人は紛らわしいので同じクラスになりにくいといった事情も関係しているのかもしれないが。
 そういうことはなかったから想像してみるのだが、親しい友人が自分と同じ名字だったらどうだろうか。やはり姓の方で呼びかけるのは、なんだか気持ち悪い気がする。名前とかニックネームで呼ぶようになるのかな。

H19.6.3

また間違えました

 名前の度忘れということで、少し自分のことを書いてみる。が、かなり歯切れの悪いものになりそうだ。
 私は、名前を覚えることに関してはかなり能力の低い方だと思う。いやこれは能力の問題というより、他人への関心とか心構えの問題かもしれないのだが。一時は、いろいろな工夫や努力をしてみたこともある。例えば大勢の人が初めて顔を合わせるような場で一人ひとりが自己紹介する時に「全部覚えてやるぞ」と集中してみる。「川中さん」だったら川の中にいるイメージを思い浮かべてみるとか。そういったことは、多少は効果があったかもしれないが目に見えて記憶が向上するということでもなかった。最近では、あきらめて開き直ってしまっている感じだ。

 全体的に名前を覚えにくいので個々の度忘れのこともあまり気にならない。(もしかすると、度忘れを自己分析して無意識が暴かれるのがいやなので、全体的に記憶力のせいにしているのかも。)
 しかし、そんな私でも問題にせざるを得ない程、同じ間違いを繰り返すということがあった。数年前のことになるが、その頃知り合うようになった幾つか年長にあたる男性で「福田さん(仮名)」という人がいたのだが、その名前を「福井さん」と間違えて呼んでしまうことが数回続いた。最後の方では「この方の名前はいつも間違えて『福田さん』と言ってしまうが本当は『福井さん』だったな」などとまた間違えてしまう有様だった。これは大変に失礼なことなのだが、福田さんは寛容な人で、かつフロイトや精神分析にも興味を持っておられたので、「どうしてこのような間違いが起こるのか考えてみよう」ということになった。

 その原因は問題意識を持っただけで簡単にわかってしまい、それまで思いつかなかったのが不思議なくらいだった。「福田」という姓の人物を私は確かに知っていて、それは自分の家族コンプレクスおよび職業コンプレクスにも深く関わり、相当に悪いイメージの結びついた、思い出したくない名前であったのだ。(これ以上の詳細を明らかにすることはごめんなさい。)
 新しく知り合ったその好人物を、そのような名前で呼びたくはないという思いが私の心中に働いていたのであろう。さらに言えば、私の無意識はこの新しい福田さんが失礼な間違いを笑って許してくれるであろうこと、私自身のコンプレクスに光を当てそれを克服するための協力者となりうる人物であることまでを、あらかじめ見抜いていたのかもしれない。

H19.6.4

第四章 幼年期想起と遮蔽想起について

 今回本書を読んでいて、いろいろと個人的な事柄を連想させられている。そういった事例をこのブログで紹介することも、思ったより多くなるかもしれない。

 この章では、幼少期の記憶の欠損や曖昧さ、不可思議な点について論じられている。フロイト自身の遮蔽想起(注)について、実母への聞き取り調査と自己分析をなしている。

 私自身の幼少期はまだ多くが闇に包まれており、それを真剣に自己分析する勇気はまだないのであるが、もう少し大きくなってからのことは「ああ、あの時はこういうことだたのだな」と、少し冷静に考えられるようになってきた。

 ある晩私はなかなか寝つかれずに、なんとなく高校時代のことをいろいろ振り返っているうちに、高校1年で行った林間合宿の場面が、視覚像を伴って非常にリアルに浮かんできた。確かに、それはとても楽しかったので印象に残って当然ではあるのだが、「こんなところまで覚えているのか」とびっくりする程細かいところまでそれは再現されたのであった。

 屋外でバーベキューをしている場面。数人のグループで鉄板の上で焼かれた肉や野菜を食べている。ふと見ると、一つのソーセージが鉄板から土の上に落ちている。私はそれを拾ってそばにある皿の上にのせた。そのことは忘れて楽しい食事に興じた後、ふとその皿を見るとソーセージがなくなっている。私は「誰かここにあったソーセージを食べなかったか」と尋ねようとしたが、思い直して黙っていることにした。さほど毒にもならないだろうし、食べたとわかった人は気分が悪いだろうから。

 以上が思い出された記憶内容で、その時の皿の上にのったソーセージが非常にリアルに思い出されたのであった。かれこれ20年以上も前の出来事のうち、こんな些細なことがどうしてはっきりと記憶に残っているのかが不思議に思えた。
 分析的なことに興味のある友人にこの話をしてみると、彼はこう言うのだ。「君がそのことをはっきり覚えていることは、ちっとも不思議なことではない。些細なことのようでも、それはある種の罪悪感を掻き立てたのだろう。誰にも言わなかったことで、却ってそのことは君の心にしっかりと刻みつけられたのに違いない。」

 前回紹介した事例でもそうだが、ほんの少しの示唆で答えを見つけることができたのは、私の中で真実への直面化まであと一歩のところまで準備ができていたからであろう。深く抑圧された観念については、こんなに簡単にいくまい。しかし「ほんの少し」であっても、それは外から見た他人だからこそ簡単に指摘できるのであって、それを与えてくれる人は貴重である。

 私は彼に言われてはじめてあることを思い出したのであった。ソーセージの紛失を発見した時、私は一人の人を思い浮かべ、彼こそがそれを食べたに違いないと直感したのだ。一緒に鉄板を囲んでいたグループの面々のうちで、なぜ彼がそれを食べたと言えるのか。

 実際に誰が食べたのかはわからない。あるいは誰も食べなかったのかもしれない。しかし、私は彼が食べたと思った。なぜか。それは、私がそれを望んでいたからだ。これは計画的犯行だったのだ。ソーセージを拾って皿に置いた時から、それは彼に食べさせるためだったのだ。だってそうでしょう。汚くて食べられないものなら、どこかに片付けるか、あるいはそのまま放っておく方がいい。

 つまりそれは、私の中にある彼に対する潜在的な敵意の表現であった。罪悪感のあるところには、攻撃的な衝動が潜んでいる。
 私が彼に対して敵意を抱いたのは、次のような理由だった。この林間合宿で行動を共にしていたグループの中には、私が秘かに好意をよせていた女の子がいた。そして、合宿中の観察から、その彼も彼女に好意を抱いていることがわかった。こういう場合に、私はあからさまな競争をすることを好まず、そういった敵対心を抑圧しがちである。その結果、押さえ込まれた衝動は歪んだ表現を求めたのであろう。

 以上の解釈がどこまであたっているのかはわからない。ソーセージを置いたことも無意識が計画した犯行だったというのは、少々いきすぎた解釈かもしれない。そもそも、この記憶イメージがどこまで事実に基づくのか、今では確かめる術もない。すべては作られた記憶であったということもありえる。しかし、抑圧された競争者への敵意、錯誤行為を通じての表現、それに対する罪悪感といった一連のテーマが、思い出された出来事から、さらに幼少期の体験へのつながるコンプレクスを形成しているという大筋に、大きな間違いはないだろうと思う。

注:Deckerinnerung 著作集などでは「隠蔽記憶」と訳された。抑圧された重要な記憶の代わりに想起された記憶のこと。

H19.6.6

第五章 言い違い

 この章では、メリンガーとマイヤーの先行研究を参考にしつつ、言い違いの事例をたくさん集めて分析がなされている。他の章の事例でもそうだが、言葉の錯誤行為では音の類似が重要な役割をはたすので、翻訳文ではその面白さが伝わりにくく残念である。

 言い違いというのは、われわれが日常でもっとも頻繁に経験する錯誤行為のひとつであろうが、通常はあまり問題にされない。大人同士の対話では言い違いがあっても注目されずに流れていくし、たとえそれが明らかにある種の意図から生じていたとしても、そのことを指摘しないのがマナーである。

 ところが子供というのは、まだそういうことがわからないこともあり、大人の言い違いをおもしろがって指摘してくる。特に、自分が明瞭な発音で話せるようになって間もない年頃の子にとっては、年少の子の舌足らずな発音も、大人でさえ言い間違いをするという事実も、おもしろくて仕方がないようだ。
 このようなことがおこるひとつの要因としては、子供が大人よりも言葉の発音の相違に注意をはらっているという事情があるだろう。子供は、「柿」と「牡蠣」、「鰈」と「カレー」といった同音異義語を不思議がる。また、駄洒落をやたらと面白がる年齢がある。(私自身は少々おくてだったので、高校くらいまで駄洒落を連発しては周囲の顰蹙を買っていたが、最近はさっぱり思いつかなくなってしまった。)
 言葉というものは、音の類似と、意味の連想と、二重の結びつきによって脳に記憶されているのであろう。大人になってからは、意味の方への注目が強くなり音の類似のことは、少なくとも意識してはあまり考えなくなる。が、依然としてそれは言葉と言葉を結びつける重要な通路である。
 言語性の錯誤行為においては、無意識的な衝動や思考内容を表現するために、音の類似が意表をつくかたちで利用されることが多い。それはあたかも意識的思考では使われなくなった通路が、無意識においては活発に利用されているかのようだ。

H19.6.7

書き違いました

 タイムリーなことに、本著作について書いているこのブログの中に書き違いを発見した。これまで細かい間違いは見つける度に訂正していたのだが、今回はしばらくそのままにしておく。
 すでに気づいた方もおられるかもしれないが、問題の記事は本著作につての最初の記事である「『日常生活の精神病理学』を読む」で、「失錯行為」と書くべきところを「失策行為」としている。さらに、「計画的犯行」(6月6日)と「『第五章 言い違い』を読む」(6月7日)で、おなじく「失錯行為」とするところを「錯誤行為」と書いている。
 後者の方は間違いではないのだが、このブログでは「フロイト全集」の訳語を使用する方針にしているので、それでいくと”Fehlleistung”は「失錯行為」になる。「錯誤行為」は、著作集などで採用されていた訳語だ。(ちなみに、他に「しくじり行為」といった訳もある。また、著作集では同じ巻に異なる訳者による「ある微妙な失錯行為」が収められている。)

 この失錯行為をもたらした心的要因は明らかで、つまり私が新しい訳語にずっと不満を感じていたということである。「快原理」、「欲望成就」、「リビード」、「超−自我」、「想い出−痕跡」、「遮蔽想起」などなど、使うたびに違和感を感じていた。今回の「失錯行為」は、その中では違和感の少ない方なのだが、それゆえに抑えられていた不満が噴出してしまった。「著作集の方が良かったよー」というわけだ。あるいは「そりゃ失策だよー」と言いたいのかも。まさに「失錯行為」という言葉においてこのような失錯行為が生じたのは傑作である。(無意識によるヤラセかな?)

 今後の失錯行為を防ぐためにも、ここで言いたいことを言っておこう。統一された訳語を使うことは結構だが、すでに定着した術語まで変えてしまうのはどうなのか。わざわざ変えないでいいようなところまで変えているようにも見える。「子供がぶたれる」?「叩かれる」でいいじゃないか!「著作集」への反発なのか?

 ついでに言うと本書の題名は正確には「日常生活の精神病理学にむけて」であるのに、ブログの記事では「にむけて」を省略して書いていた。こちらは、箱に記載されている題名が省略された形になっていることもあるが、省略すると著作集と同じになる。

 もうひとつ、今回のことで思い出したことがある。以前の著作集を、私は読みながら一巻ずつ別々に購入していたのであるが、「日常生活の精神病理学」を収録している第4巻については、すでに購入してあるのを忘れてもう一冊買ってしまった。この著作には、失錯行為を惹き起こすような、なにか不思議な力があるのか。などと神秘的な言い方をするとフロイトに怒られそうなので、‥‥われわれの無意識には、このような著作によって失錯行為を誘発されるような不思議な力があるのか。

H19.6.7

フロイト応援団

 訳者の高田珠樹氏が解題で指摘していることだが、この本では初版以降にフロイトの弟子や賛同者から寄せられた錯誤行為の事例が多く追加され、そのために最終的な版ではボリュームは膨れ上がり内容は粗雑な印象を与えるものになってしまった。
 第五章では、特にその観が強い。他の著者による文章がそのままの形で次々に引用され、中には数ページにわたるものもある。さながらフロイト応援団の大合唱といった風である。

 大変興味深い例も多いのだが、ただ上記のようなことだから「都合のよい事例ばかり集めたのではないか」とか「フロイトの気に入るように歪曲されているのではないか」といった批判もまぬがれないであろう。私自身も自分の事例を紹介してみてわかったことだが、事実をそのままに提示するのはむずかしい、というかほとんど不可能である。自己開示を制限するための省略や歪曲の他に、フロイト理論に当てはまるような事例にしたいとか、皆さんに興味深く読んでもらいたいといった不純な動機がどうしても働いてしまうのである。

 この著作については、別に初版を再現する形での翻訳を作って付録にでもしてくれないかなあ。

H19.6.8

第六章 読み違いと書き違い

 この章では、フロイト自身の体験した事例の二番目、「ヨーロッパ中を徒歩で旅」を「樽で旅」と読んでしまったという事例が大変おもしろかった。この読み違いの解明にはフロイトもかなり苦労したようだが、最終的に弟アレキサンダーにまつわる不愉快な想いが要因だっとわかった。この解釈自体もおもしろいのだが、一層興味深いことはそのことが解明された経緯である。すなわち、外的現実の変化によって「不愉快な想い」が薄まったと同時に、読み違いの意味が明らかになったのだという。
 少々意地悪な見方をすると、もし現実の状況が不都合なままであったなら、フロイトといえども失錯行為の意味を理解できず、したがって弟に関する葛藤に直面化することができなかったかもしれない。これは、自己分析ということの難しさを示す例と言えるであろう。

 私自身のことを振り返っても、現在巻き込まれている悩みや葛藤のことはなかなか正視することができない。ごく幼い頃に生じたさまざまなコンプレクスも、あまりに自分の深いところに根を張っていてなかなか近づきがたい。何年か経って、当時関わっていた人と遠ざかったような出来事が、自己分析の題材にするにはちょうどよいようだ。

H19.6.9

読み違いの読み違い

 この章を読んでいて、私はある事例の意味がなかなか飲み込めなかった。これは、読み違いというより意味のとり違いによるものだが興味深いので紹介しておく。まず、下の引用を読んでいただきたい。もし皆さんもこの意味がなかなかわからなかったら、私だけの問題ではないことになるのだが。

初めて町を散策しているひとりの男は、治療処置によって生じる腸の蠕動が始まることになっている時間に、高層の百貨店の二階で大きな看板に「手洗い(クロゼット)コーナー」と書いてあるのを読む。ほっとしたのも束の間、商いに直結しないこの種の設備がこのようなところにあるのは変だとの想いがかすめ、次の瞬間、安堵感は消え去った。看板の文字は、「コルセット・コーナー」と書いてあったのである。(7-140)

 どうだろうか。私はこの文章の「手洗いコーナー」(原文ではカッコ内の「クロゼット」はルビになっている)を取り違えたために全体の意味がわからず、それが「トイレ」のことと思い至るまで随分時間がかかっていしまった。
 この読み違いがなぜ生じたのか考えてみると、二つの要因が浮かんだ。

 第一に、私自身腸が敏感な方で、デパートなどでトイレを探し回るといった経験をときどきする。この文章の描写は他人事とは思えない身につまされるものである。
 第二に、「手洗いコーナー」という言葉を見て、私は「衣服類を手洗いする場所」ということを思い浮かべていたのだ。これを読んだ日の朝、私は家族の者とクリーニングのことでちょっとした言い争いをして出てきた。そのことが私の心のどこかでくすぶって正しい読解を妨害したものと思われる。

 失錯行為が幾つかの要因によって多重に規定されることはむしろ普通のことである。要因の影響の大きさという点からは、二番目に浮かんだものの方が大きいように感じた。さらに、先の「書き違いました」の記事で紹介した「訳語への不満」といった第三の要因も影響していた可能性はある。

H19.6.10

第七章 印象や企図の度忘れ

いわく、あらゆる事例において、忘却は、不快という動機に根差すものであることが分かる。(7-168)

 フロイトは記憶力の優れた人だったようで、若い頃の試験勉強のエピソードやら、分析治療においてもそれが発揮されていることが、少し自慢げに書かれている。しかし、これは考えようによっては大変にしんどい生き方とも言える。その上に、度忘れをした場合にはその心的原因を自分で徹底的に追究しているのだから。

 私なぞは忘却を最大限に利用して不快なことから逃げ回っているような部類の人間ということになろう。経験したことや聞いた話しもよく忘れるし、物はよく失くすし、予定もうっかり忘れて行けなかったといったことが時々ある。その忘れ方や、思い出し方がまた絶妙なのだ。義理で参加する予定にしていた食事会のことなども、それが過ぎ去った直後に「あっ」と思い出すのだね。これはもう、われながら確信犯としか思えない。

H19.6.11

ひ孫引き

「《長年にわたって、私は、ひとつの黄金律を守ってきた。すなわち、私が全般的に従っている結論に反する何か新しい事実が発表されたり、新たな観察や考え方が私の前に立ち現れたなら、必ずただちにメモを取ることにしている。とうのは、このような事実や考え方は、自分にとって都合のよいものよりはるかにたやすく記憶から消失しやすいことを、私は経験から学んだからである》」(7-183)

 ダーウィンの自伝からアーネスト・ジョーンズが引用したものを、フロイトが孫引きしたもの。

 フロイトはダーウィンを尊敬し、著作の中でも何度も引用したり言及したりしている。ダーウィンといえば進化論だが、彼が心理学的なことにも興味を持って研究を進め、洞察を深めていたことは、フロイトもよく知っていた。
 ただ、この件に関しては以前から疑問に思っていることがある。

 フロイト理論においてダーウィンからのもっとも直接的な影響から成り立っているところは、エディプスコンプレクスの歴史的解釈における、原始群族(ホルド)仮説の採用であろう。これについては、「トーテムとタブー」(1912-13)で最初に言及され、「集団心理学と自我分析」(1921)や「モーセという男と一神教」(1934-8)でさらに発展的に論じられている。
 この原始群族仮説の引用元となる論文は、ダーウィンの「人間の由来」(1871)という著作なのであるが、この本の原題はもっと長くて”The descent of man and selection in relation to sex”(邦訳「人間の進化と性淘汰」文一総合出版より)というのだ。

 私としては、フロイトがダーウィンの性淘汰理論をどのように捉え、そこから影響されたのかどうか、という点にもっとも興味があるのである。しかし、それについてのフロイトの言及は、私の探した範囲では見出せなかった。性ということを重視した彼が、性淘汰という重要かつ興味深い現象に興味を持たなかったはずはないと思うのであるが。

H19.6.12

忘れることの傲慢

 私のように自分の忘れっぽさについて開き直った態度をとることに対しての、フロイト先生の厳しいお言葉。

近視の人が通りで会って挨拶しなくても許されるのと同様に、日頃から何かにつけて忘れっぽいと見なされ、そのために勘弁してもらえる人がいる。(中略)こういった度忘れには、本人も気づいていない、他者に対する異常に大きな軽侮の念が動機としてあり、この動機が体質的な要因を自分の目的に都合よく利用しているのだ、との憶測を禁じえない。(7-191)

 たしかに、忘れっぽいといっても、自分にとって本当に重要なことは忘れないし、自分にとって大事な人物からの頼みなども忘れることはない。よく忘れるのは、どちらかというとさほど重要でないとみなされている事柄なのは明らかである。じゃあ、最初からそんなものはやらないと宣言したり、頼まれた時点で引き受けなければよい。のであるが、そこには諸々の事情があり、なかなかはっきりした態度をとる勇気がない。こういうとなにか気の弱い人のようだが、実はそこには大変傲慢な気持ちと、現実の関係に対するおおいなる不服が潜んでいそうだ。「お前なんぞの言うことを、どうしてこの私が聞かねばならないのだ」という風にね。

H19.6.13

第八章 取りそこない

 まず「取りそこない」という用語について。原文では“das Vergreifen”になっている。手持ちの「クラウン独和辞典(電子辞書版)」には名詞型は載っておらず、“vergreifen”は「つかみ損なう」という意味の動詞である。Googleで検索してみると、やはり動詞型が主にヒットし、名詞型で出てくる記事はフロイト著作関連のものだったりする。もしかすると、この用語はフロイトによる造語なのかもしれない。
 一般的に使われている語ではないから、訳すのもむずかしかっただろうが、それにしても「取りそこない」だとフロイトが意図したもの(言語以外の一般的動作における失錯)とは違うものを思い浮かべてしまいそうだ。
 ちなみに著作集では「為損い(しそこない)」という訳になっていた。「為」って「し」と読むのですね。漢字のままで検索してみると、6件しかヒットせず、うち3件がフロイトの本著作関連記事(ということは、この記事が公開されれば4件めになる?)。2件が語の辞書的説明。普通の文脈で使用されたのはただ1件であった。「為損う」という動詞でも1件しかヒットしない。広辞苑(電子辞書版)にも掲載されている正しい表記なのだが。たくさん使用して普及に努めようかな。

 独語の“Vergreifen”にしても「為損い」にしても、精神分析の用語としてもあまり定着している様子ではないのは、上位概念の「失錯行為」が主に動作の間違いを表す意味で用いられるからであろう。

H19.6.14

見事な失敗

そのような動作には痙攣や失調性の運動のように、いかにもぎこちなく唐突なところが目につくのは事実だが、調べてみると、大概、ある意図に支配され、必ずしもすべての意識的な随意動作に認められるわけではないほどの確かさでその目標に的中していることが分かる。(7-206)

 数年前のことであるが、買ったばかりの新車の鍵をいつも停めている機械式駐車場の隙間に落としたことがある。車から降りて、なぜか、手から離れてしまった鍵は、すーっとその狭い隙間に吸い込まれていった。そんなところで鍵を落とすこと自体がなかったし、仮に狙ったとしても、不器用な私がその狭い隙間に的中させるのはなかなか難しかったに違いない。

 駐車場の管理者に言って機械の下を探してもらったが出てこなかった。さらに、車の購入時にもらったはずのスペア・キーも紛失しており、家中探しても見つからなかった。こうして私はかなりの期間車が使えない不便と、鍵を作りなおす出費を強いられることになったのである。

 この出来事に関する連想。最後の停車の直前に、私はガソリンスタンドで給油をした。その際に給油をしてくれる若い男性が、しきりに「いやー、いい車ですね」と褒めていたのであるが、私はなんだか居心地が悪く感じて無愛想に対応していた。
 ここから、鍵の紛失には、私自身が新車購入に関して抱いていた「身分不相応に立派なものを手に入れてしまった」という気持ちが関与していたことが伺える。

 さらに、関連したテーマの夢が想起される。上記の数ヶ月前、まだ小型の車に乗っていた時のもの。
 「私は朝、自分の車にのっていつもどおり職場に向かっている。ふとオイル・メーターを見るとガソリンが残り少なくなっていることがわかる。「おかしいな、昨日給油したばかりなのに。」と不審に思う。」
 連想。この2日前に、私はある年上の男性から超高級車のカタログを見せられていた。私はそのすばらしさにため息をつきながら、「でも、こういう車は燃費が悪いでしょうね。」と負け惜しみのように言う。
 夢の解釈。「給油したばかりなのに残り少なくなったガソリン」は「燃費の悪い高級車」をさす。高級車を所有して乗りたいという欲望が表現されているが、それが直接的な表現にならなかったのは、「お前はそれに値しない」という別の命令に配慮したためであろう。

 鍵を紛失したことは手痛い出費ではあったが、この犠牲によって、私は自分の身に余ると感じられた所有にまつわる罪悪感をある程度清算することができた。この罪悪感が私の中の父親コンプレクスにつながることは、出来事のいろいろな細部からも明らかなことであった。

H19.6.15

第九章 症状行為と偶発行為

 症状行為とは、何の気なしになされ目的がないように見えながら、実は秘められた意図が込められているような行為を指す。一般に「癖」と認識されている動作の多くは、習慣的になされる症状行為であるという。

 「なくて七癖」と言われるように、ほとんどの人が独自の癖をもっている。当の本人は気にしないが、周囲から見ると結構目につき、そこに込められたメッセージも案外簡単に読み取れることが多い。つまり、無意識というものは自分ではわからないが、他者に対してはだだ漏れだったりするのだな。

 私自身の癖のひとつ。人と話したり、ちょっとした考え事をしていて、なんとなく手持ち無沙汰な時に、周囲にあるどうでもいい紙切れをもてあそぶ。まずそれをくしゃくしゃにやわらかくして、細いこよりを作る。さらにそれを端から少しずつちぎって、丸めて小さな粒にする。それを机の上に並べて、円とか格子とかの幾何学模様を作る。
 話し相手が目の前でこんな動作をしていたら、あんまり感じがよくないだろうな。そう思って、最近はなるべく人と話す時にはしないようにしている。きっかけになったのは、例の分析的なことに興味をもった友人がこの癖を観察して指摘してくれたことだ。
 彼によると、紙をこよりにして引きちぎり粒を作る様子には、普段抑制されている私の攻撃性が込められているように見えるという。そして、それをきれいな形に並べるところは、その破壊を償おうとしているかのようだという。この一連の動作には、破壊と償いというテーマが表現されているというのだ。ちょいとクライン的な解釈かな。
 フロイトであれば、こういった手遊びは、マスターベーションや去勢コンプレクスとの関連で解釈しそうな気もする。そういえば、小学校低学年くらいまでの男の子は、手持ち無沙汰な時によくおちんちんの辺りをまさぐったりするものだ。そして、そのことは親や大人にたしなめられ、やがてしなくなる。私自身には、そういった記憶はないのであるが、紙をもてあそぶ癖はずいぶん小さい頃からあった。そして、それを指摘していたのはいつも父親であった。「お前のいた場所は、ちり紙で作ったこよりがあるからわかる」と、からかうような口調で言われていたのを思い出す。

H19.6.16

喧嘩の理由

実際、人は誰しも自分のまわりの他人に対して始終、精神分析を行っており、そのため自分のことより他人のことのほうがよく分かっている。(7-259)

 他人のこと、とくにその欠点やネガティブな感情は、外から見ているとよくわかるものである。その人のちょっとした癖やしぐさ、度忘れや失策行為がそれを語ってくれる。とりわけ、それが自分に近しい人であり、生活を共にする人であればなおのことだろう。
 痴話喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、親子喧嘩などを眺めてみれば、当事者双方が相手の無意識に蠢くネガティブな感情を指摘し、自分が指摘されたことは否定する、ということを延々繰り返しているっていうことが多いのではないか。こういう構造は、端から見たら明らかなのだろうが、当事者はなかなか気づかないし、気づいたとしても抜け出せない。審判が欲しくなることもあるよね。

H19.6.17

第十章 勘違い

総じて、人間の中にある、真実を通すべきだとの圧迫は、通常、考えられているよりもはるかに強い。まさかこれほどまでに強いとは、と驚かされる。(7-271)

 この章の冒頭では、「夢解釈」(1900)の中に見られたフロイト自身の勘違いによる間違いについて分析され、その原因が著作執筆においてやむを得ずなされた素材の歪曲や隠蔽にあるという解釈がなされた。
 嘘をついたり、真実を隠したりしても、そのことはさまざまな失錯行為を通じて表現されてしまう。意識がそれを明かさないと決めても、無意識がそれを明かしてしまう。

 嘘をつくのが上手かどうかということには個人差があると思うが、私自身はこの件に関してはフロイトに似てかなり苦手な方だと思う。嘘をつかないなどというと、いかにも正直で良心的なようだが、実は嘘を矛盾なく維持し後ろめたさを持ちこたえる強さが不足しているからかもしれない。

H19.6.18

乗り違い

 この章では、汽車にまつわる失錯行為の例がいくつか挙げられている。
 私自身のことを振り返ると、間違えた電車に乗ってしまうことはめったにないが、降りるべき駅で降りそこねるということは時々ある。はじめて行くような所であればよく注意しているので間違えないが、慣れている場所の場合にむしろうっかり乗り過ごすことがある。ただ、毎日の通勤路ということになれば通常なにも考えずとも自動的に足が動いて目的地にたどり着けるようなものなのだ。にもかかわらず、いつも降りる駅で降りそこねたという経験が何度かあり、そこに込められた意図が目的地に行きたくないというものであることは明らかである。

 男性の私が、間違えて女性専用車両に乗ってしまったことがある。発車間際に飛び込んだというわけでもなく、普通に乗って走り出してしばらくしてから、何かおかしいと周囲を見てはじめて気がついた。まことにきまり悪く、そそくさと隣の車両に移っていったものだ。こういう勘違いも「女性専用車両に乗ってみたい」という無意識的な欲望から生じたことは明らかである。余程図々しい人でもなければ勘違い以外の方法でこの願望を満たすことはできないことを考えると、まさに絶妙な失錯行為といえよう。フロイトも指摘しているが、こういった出来事では隠された意図が実現するまではその間違いに気づかせないような工夫が巧妙になされているようである。

 二人で電車を使って移動する時には、違ったホームに上がったり乗り過ごしたりといった間違いが多いように思う。この場合には正しい道を進んでいる友人について行っているつもりでいると、実は相手も同じつもりであったりする。親しい間柄で、話に熱中しているとこんなことになり易く、もっと話をしていたいという気持ちが失錯行為に関与しているものと思われる。

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別の判断

私がここで説明する勘違いの類いはそれほどよくあることでもないとか、特に重要ではないと考える向きもあるかもしれない。しかし、同様の観点は、ことによるとはるかに重要な現象、すなわち人間が生活や学問の中で犯す判断の誤りを吟味することにも適用できるのではないか、一度、考えていただきたい。(7-280)

 勘違いという問題をさらに広げていくと、判断の誤りということに行き着く。ある事柄についての自分の判断が、後から考えると間違っていた、といったような場合であろう。
 あの時どうして別の道を選ばなかったのか、いつもの自分とは違う決定をしてしまった、魔がさしたのだろうか、悔やんでも悔やみくれない、といった体験は誰にもあるだろう。しかし、判断が正しかったか誤っていたかなんて、所詮は結果論である。別の判断もできたはずと思うから、「しまった間違えた」と悔しくなるのであるが、本当に別の判断をすることはできたのか?
 意識という心の狭い範囲だけを見ていると、そんな気もする。しかし、無意識的な動機ということにまで広げて、ある決定の要因を調べれば、おそらくそれはそういう決定しかなしえなかったということがわかるだろう。

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第十一章 複合的な失錯行為

 この章では、遂行しようとする行動が、異なる種類の失錯行為によって繰り返し阻まれるような例があげられている。単独の失錯行為と本質的なところは変わらないが、是が非でも目的を果たそうとするかのような無意識の強い意図が印象的である。

 私自身の経験として紹介した、鍵の紛失の事例も、鍵を落としだだけでなくスペアキーの方も同時になくなっていたということで、複合的な失錯行為といってよかろう。
 複合的とはいえないが、失錯行為の繰り返しということでは、揃い物の食器が次々に壊れていくといった経験がある。祝い事の引き出物としていただいた、6個セットで違う模様のついたコップがあり、しばらくは便利に使っていたのであるが、ある時その一つをうっかり壊してしまった。すると、もう一つ、そしてもう一つと壊れ、比較的短い期間にすべてのコップがなくなってしまった。揃い物でなくなって価値の減った残りを、家族でよってたかって処分してしまったのだという感じがする。もちろん、いただいた人への個人的感情といったことなども影響していたとは思うが。

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第十二章 決定論、偶然を信じること、迷信、様々な観点

 いよいよ最終章だ。これまで話題に上ったこと以外の興味深い事柄、すなわち、なにげなく思いついた数字や文句、迷信、既視感(デジャ・ビュ)について考察される。また、「日常生活の精神病理」というテーマからは少しはずれるのだが、パラノイアについての興味深い観点が示されている。そして総括。
 この本はあくまでも一般向けであるということと、無意識の世界を本格的に探求するためには神経症研究の方が向いているということで、理論的考察はごく大まかな概要にとどまっている。渾身の力を込めて著した「夢解釈」の後であったということもあるのだろう、肩肘の張らない気楽な著作に仕上がっている。

 もっとも、素人相手だからといっていいかげんにお茶を濁すようなことをするフロイトではない。何気ないように語られている言葉に、深い含蓄がある。
 と、こう書いて気づいたのだが、何気ない表現に深い意味があるということそのものが、本書の追求しているテーマであった。そう考えると、やはりこれはフロイトの大事な著作である。

H19.6.22

数列の意味

 なんとなしに思いついた数字の列も、実は無意識のいろいろな意図によって規定されていることを示すための実例があげられている。これについてルードルフ・シュナイダーによってなされた異論が、1920年に追加された脚注の中でとりあげられている(7-307)。これはかなり本質を突いたするどい批判であり、数字の連想のみならず失錯行為の解釈や、さらには精神分析への批判にもつながりそうだ。

 シュナイダー氏は実験で、本人が思いついた数字ではなく、他者から与えられた数字であっても、その数字にぴったりくるような豊かな連想が浮かんだこと示した。こうなると、なにげなしに思いついた数字について、後から浮かんだ連想内容が本当に最初に数字を思い浮かばせた原因であったのかどうか疑わしくなってくる。同じような目で見れば、失錯行為についての事後的な説明も、分析治療における症状の解釈も、本当に当たっているのか、単なるこじつけじゃないのか、という疑問があがってくることだろう。

 これについては、最終的に本当のところは証明しようがないとしか言いようがない。解釈が見当はずれなこともあろうし、一部の要因のみを言い当てて不十分なこともあろう。その妥当性を判断できるのは、本人しかいない。しかも、その本人に準備ができていないうちには真実が否認されてしまうこもあるだろう。
 大事なことは、その解釈によって本人の洞察がどのように深まったかということだ。極論すれば、失錯行為の原因としての解釈は間違っていても、それが自己についての洞察を深めてくれたならそれもよし、とも言えるだろう。
 分析治療であれば、症状が改善するかどうかが問題になる。ここでも、分析によって病気が良くなったからといってその解釈が正しかったという証拠にはならない、と懐疑的に述べることもできる。しかし、過去についての絶対的な真実はそもそも不可知であり、後から再構築されたものが、当人にとってどれだけ価値をもつかが重要なのだと思う。

H19.6.23

自由意志

何事につけ心的決定論が成り立つという想定を否定するものとして、多くの人が、自由意志が存在するという特別な確信感を引き合いに出す。このような確信感があることは確かであり、決定論を信じるからといって、それが屈するわけではない。すべての通常の感情と同様に、この感情にもそれを正当たらしめる何らかの理由があるに違いない。しかし、私が観察しうるかぎりでは、この感情は、重大な意志決定に際しては現れてこない。そういった機会には、むしろ心的な強迫感を感じるもので、またそれらが引き合いに出されがちである(「私はここに立っている。私はこうするよりほかにない」)。逆に、どうということのない、瑣末なことを決める場合に限って、自分は違ったふうに行動することも同様にできたはずだ、自分が行動したのは自由な意志によるものであって、何らかの動機によって決定されている意志によってではない、と断言したがる。(7-309)

 心的決定論というのは、本著作の根底にある重要な考え方であるばかりでなく、生涯変遷を続けたフロイト理論において常に変わらない根本原理のひとつであった。
 われわれの心の出来事はすべて一義的に決定され、そこに選択の余地はないということに対しては、誰しも異を唱えたくなるものだろう。そしてその際に持ち出すのが、この「自由意志」という言葉だ。
 自由意志は、必ずしも心的決定論と矛盾するわけではない。それは、「自由意志」ということをどう定義づけるかということにもよるわけだが。上の引用で、フロイトは「自由意志が存在するという特別な確信感」という、もってまわった言い方をしている。この表現自体が、「自由意志自体は幻想であるが、それがあたかもあるかのような確信感を人は抱くものだ」といった考え方を前提にしているようでもある。

 ここで私の考えを述べてみよう。人が「自由意志」という言葉をもちだす際に、最初からその想定するものは曖昧である。なぜかといえば、そもそも「自由」という言葉が歴史的に「不自由」の反対概念として生まれたからである。つまり、人はまず不自由なことの苦痛を強く意識し、それがない状態にあこがれ、目指してきたのだ。その目指す先にあるものが自由である。いまだ完全な自由に到達した人はおらず、それがあるかどうかもわからない。
 人を不自由にした原因は、まず自然の力である。厳しい気候、食物の不足、外敵や病気などによって、人は不自由で苦痛な生活を余儀なくされた。次に、社会ができて不平等が生まれると、多くの人は他人からの強制によって不自由にさせられた。文明と社会の発展によって、これらの不自由にまつわる状況はかなり変わってきたといえるが、それは自分の自由を拡大するためになされた個々人の努力の集積によるものだろう。
 現代において、全体から見ればまだほんの一部の「文明化された社会」では、自然や他人によって強制される、つまり外的な力による不自由は、完全ではないもののかなり解消された。では、その状況において人々は自由を満喫しているかといえば、あまりそのような実感はない。そこでは、「内的な自由」が問題になってくる。
 食欲や性欲といった身体的欲求や、金銭欲や名誉欲や虚栄心といった社会的欲求に駆られて一心不乱に行動する人間、これがはたして自由な状態かという疑問だ。このような欲望への隷属状態は、本能のままにしか行動できない他の動物と同じであり、決して自由な状態とは言えない、という考え方がある。あるいはまた正反対の態度ではあるが、内的な道徳心に忠実に従おうとする強迫のために自らの欲求を押さえ込むような生き方。これもとても不自由なように見える。

 いろいろな議論がありそうだが、省略して私の結論を言おう。自由というものは、とりわけ「内的な自由」というものは、最初からないものねだりの幻想である。そういうものがある、ということを人間は欲しており、とりわけ自己愛的欲求の強い、若い頃にはそれを強く欲する傾向がある。私自身は、フロイトが「夢解釈」を著した年齢に近づいているが、自分の判断や行動が内外の諸要素によって「これ以外にない」という具合に決められているということを、年々強く実感するようになってきている。

H19.6.24

信じますか?

迷信深い人は、自分の偶然的な行為には動機のあることをつゆ知らないが、この動機の事実のほうは本人によって然るべき形で認知してほしいと迫るものだから、その人は、この動機を遷移させて外界の中に収容することを強いられる。こういった筋道があるとするなら、それは何もこの迷信という事例に限ったことではあるまい。実際、私は、最近の宗教の中にまで及んでいる神話的な世界観の相当部分は、心理が外界に投射されたものにほかならないと考えている。(7-314)

 迷信や宗教を、無意識の動機の外界への投射と見るフロイトの視点。
 私自身は、迷信とか占いとか、そういった神秘的な事柄をほとんど信じない類の人間なのだが、こういう態度は案外と評判がよくないようだ。身近な人には、「潤いも情緒もない人」のように言われている。信じないことでそんな風に言われるのははなはだ心外だが、もしかすると私の態度に「くだらぬことを信じているのか」と見下したところがあるのかもしれない。
 フロイトの言うように迷信が無意識的な意図の外界の事物への投射であるとすると、それはお互いに共有して支えあうことが大切なのだろう。「そんなことは信じませんよ」ときっぱり言われたら、それは気分を害することなのだろう。

H19.6.25

いつか来た道

 既視感(デジャ・ビュ déjà vu)というのは多くの人が体験したことがあるかと思うが、実に不思議な感覚である。
 「この場面、確かに以前どこかで見たことがあるが、想い出せない」という確信感がある。しかし、実際にはどう考えてもそこは初めての場所であり、以前に見たことはあり得ないはずなのだ。
 若い頃にはこういう体験をよくして、不気味に感じたり不思議に思ったりしたものだ。ところが最近は、待ち構えているのにとんと遭遇しなくなってしまった。
 ひとつには、全般的な記憶力の衰えによるものかもしれない。「確かに見た」と感じるためには、自分の記憶が信用できるという前提がなくてはならないからだ。

 今から2年ほど前のことだが、たまたま用事である町を通りかかった。そこは、十数年前におよそ1年間住んでいた場所だった。少し時間があったので、以前の住居とその近辺を散策してやろうと、駅からぶらぶら歩き出した。ところが、1年間毎日のように歩いたはずの道なのに、店屋などかなり変わってしまったにしても、さっぱり覚えていないのだ。道に迷った挙句に、ようやく目的の住宅にたどり着いた。さすがに自分の住んでいた建物自体は認識できたが、周囲の様子は頭の中に描いていたものとはおよそ違うものであった。懐かしい感慨に浸るつもりだったのに当てが外れ、自分の記憶の当てにならなさを思い知らさるショッキングな出来事となった。

 既視感の話に戻ろう。フロイトはこの事柄についても大変彼らしい考察をしている。「確かに体験した、けど想い出せない」を何かの錯誤としてではなく、正当な感覚として捉えるのだ。ただしそれは、前世での体験を仮定することではなく、その感覚は今結びついている場面とは別の観念と本来結びついていたのだと考える。抑圧されて想い出されることを迫ってくる観念があり、それに付着した感覚が連想をたどってある場面に転移され、「俺を想い出してくれ」と主張しているということだね。
 今度既視感に遭遇したら、フロイトの主張を確かめてみたいのだが、そう思っているとなかなかないものだな。

H19.6.26

夢、失錯行為、神経症

しかし、ごく軽症から極めて重症の事例にまで共通している性格で、失錯行為や偶発行為にも認められるのは、それらの現象は、心的な素材が完全には抑え込まれなかったこと、つまりその素材が意識によって追い払われながら、表に出てくる能力をすべて奪い去られたわけではないことに起因する、という点である。(7-339)

 ある不愉快な観念を意識から追い出そうとする、すなわち抑圧しようとする意図と、その観念自体の自らを認めさせようとする意図との葛藤、これが奇妙な失錯行為や不可解な夢を生み出す契機となる。
 ここには、ひとつの妥協がある。二つの対立する意図はどちらも不完全にしか遂行されないところで、いわば「手打ち」をするのである。
 夢と失錯行為においては、「正常の生活を大きくは妨害しない」という条件内にこの妥協点が落ち着く。夢はそれが眠っている間のことだから、支離滅裂であっても害がない。失錯行為も、通常は現実生活に大きな支障をきたさない範囲のものである。(もっとも、まれに起こる大事故の原因になるような失錯行為については、詳細な検討が必要だ。そして、その一部は精神病理学的な範疇の現象になってくるだろう。)

 精神神経症も、夢や失錯行為と同様のメカニズムによって生じる、とフロイトは考えている。ただ、葛藤の結果としての妥協点が、正常の生活の範囲を超えてしてしまうというところに違いがある。もっとも、これは精神障害を適応的な生活からの逸脱と定義づけることから生じる違いであって、本質的なものではない。

H19.6.27

「日常生活の精神病理学」を読んで――全体の感想

 予定通りのペースで読解を終えて、めでたしめでたし。
 今回の再読では、以前に読んだ時よりも、はるかに面白く感じた。ブログでも紹介したように、読みながら自分の失錯行為が次々連想されたし、いろいろさしさわりがあり紹介できなかったが、読解中にも新たな失錯行為を経験した。まことに恐るべき本でもあり、面白かったが読み終わってほっとしたところもある。

 前にも書いたが、同じ本でもそれを読む時期によって感受性がかわるものだ。この本に関しては、私にとって今がぴったりの時だったのだろう。機が熟したとも言える。
 フロイトや失錯行為や自己分析に興味のある人にはお勧めの本だ。コンパクトな初版の翻訳を文庫本で出してくれるたら、初学者にも最適な一冊になるのだろうに。

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