フロイト全集 第8巻1905年


機知――その無意識との関係 
Der Witz und seine Beiehung zum Unbewußten(1905)
中岡成文・太寿堂真・多賀健太郎 訳(2008)

 「夢解釈」、「日常生活の精神病理学」につづいて1905年に単行本として出版されたのがこの「機知――その無意識との関係」である。
 機知という日常的な題材を扱った点で「日常生活」と似ているが、全体の構成はしっかりしていて後半の理論的部分が難解なところなどは「夢解釈」に似ている。笑いとは何か、言語とは何かという本質にせまっていく大変深い内容である。

 日本語の「機知」という言葉は少々硬い言葉であり、ドイツ語の"Witz"がより広い意味を持つのにはうまく対応していない。英訳では、最初のブリルの翻訳では"wit"を採用していたが、ストレイチーの標準版では、"joke"になった。
 今回の日本語版全集でも、「ジョーク」にするという案もあったそうである。私としては、これまで著作集で慣れた「機知」のままでよかったと思う。ドイツ語と一対一の訳語を選ぶことが出来ないのは当然だし、機知という語が日常会話などではあまり使われない語なので、却って誤解を招きにくくてよいだろう。

A部 分析部
Ⅰ節 緒言

 序盤のキーワード確認。

全集の訳語(原語) → 原語に対するクラウン独和辞典(電子辞書版)の訳語

機知(Witz)→ ジョーク、冗談、(短い)笑い話、機知、ウィット

滑稽(Komik)→ 滑稽、喜劇性
滑稽な(komisch)→ 滑稽な、おもしろい、喜劇的な、奇妙な
滑稽なもの(Komischen)

フモール(Humor)→ ユーモア、上機嫌

カリカチュア(Karikatur)→ カリカチュア、戯画、風刺漫画

 「滑稽な」ということが、「奇妙な」ということを含むというのは、日本語でも同じことであり、興味深い。本文にも、「滑稽の対象は、何らかなの形で現れている醜いものである(8-4)」とある。
 またTh・リップスの言葉を引き、機知とは、「考え方の滑稽であれ、状況の滑稽であれ、意識して巧みにある滑稽を引き出すことすべてて(8-4)」であるともいう。

 フモールは、ドイツ語でもやや特殊な美学用語だそうで、従来の「ユーモア」という訳語とは少しニュアンスが異なるという。(解題より)

 コミックもカリカチュアも、漫画であるということは面白い。

先人の知恵

 機知の研究をはじめるにあたって、まずは先行研究として、ジャン・パウル(J・P・F・リヒター、1763-1825)、フリードリヒ・テオドール・フィッシャー(1807-1887)、クーノ・フィッシャー(1824-1907)、テオドール・リップス(1851-1914)、エミール・クレペリン(1856-1924)らの業績をあげている。

諸家があげている機知の基準や性質を――活動性や思考内容への関係、遊戯的判断という性格、類似性のないものの結合、表象の対比、「無意味のなかの意味」、「意表を突かれて、納得する」という継起、隠されたものの引っ張り出し、機知の特殊な簡潔さなどを――以上にまとめてみた。(8-10)

 ここであげられている特徴も、ひとつひとつ含蓄の深いものである。
 遊戯的判断(das spielende Urteil)とは、通常の真面目で論理的な判断とは対照的な、自由で縛られない判断であり、それが一見関連のないものを結合させたり、無意味の中に意味を創造したり、隠されたものを引っ張り出したりする。
 機知では、簡潔な言葉の中に多くの意味が込められている。
 それは唐突にナンセンスなことをもちだして意表を突くが、よく考えてみると納得させられ、その際にニヤリとしてしまう。

 これらの相互に重なりをもつ特徴を、統合的な理論にまとめあげることが、フロイトが本論で試みようとしている意図である。

ユダヤの機知

この研究が進むにつれて明らかになるように、機知の問題について洞察を求めずにはいられない個人的な理由が私にはあるのだが、それは別にしても次の事実を引き合いに出すことができる。(8-11)

 ここでフロイトが言う「個人的な理由」というのは、もちろん彼がユダヤ系の出身であるということであろう。ユダヤ人のジョーク好きは有名だし、フロイト自身も日々の生活において好んで冗談をとばしていたとのことだ。

 ユダヤ人がジョークに長けていることについては、迫害と苦難の歴史を歩んできた彼らが身につけてきた人生の知恵であるなどと、もっともらしい理由も語られている。
 実際のところはどうなのか。本書での思考の歩みとともに、じっくり考えてみたい課題である。

 現時点で思いつくこと。ユダヤ人とは、理論的に思考して真理を追究することに熱心な民族であった。厳格な理論の対極として、機知を発達させることで、全体のバランスをとろうとしたのではあるまいか。

Ⅱ節 機知の技法

 この節でとり上げられる最初の技法は、縮合(Verdichtung)である。
 語呂合わせ的な合成語による機知であり、しくみとしてはわかるが、言語が違うと面白みは伝わってこない。だから冷静に分析できる、という利点はあるかもしれないが。

 機知としてあげられる例は、ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)の『バーニ・ディ・ルッカ』という作品に登場する、ヒルシュ=ヒアツィントという愛すべき人物のセリフである。彼は、裕福なロートシルト男爵とのつてを自慢して、こう言う。

「私はザーロモン・ロートシルトの横に座り、あの方は私をまったく自分と同等の人物として、まったく百万家族の一員のように(familionär)扱ってくれたんですよ」。(8-12)


 「百万家族の一員」などと訳しても、これだけでは何のことやらわからないし、当然何の機知にもなっていない。これはいたしかたないところだ。
 つまり、"familionär"というのは、家族的な(familiär)と百万長者(Millionär)の二つの語の縮合によって合成された、実際にはない語なのである。

 男爵が、ヒルシュ=ヒアツィントのことを「家族的に扱ってくれた」と、言いたいところだが、実際にはその態度には百万長者的な鼻につくところがあった。それで、"familiär"が"familionär"になってしまった。
 ヒルシュ=ヒアツィントが「百万長者的な」という考えを抑え込もうとして、思わず言い間違いをしてしまったケースと考えてみたら理解しやすいだろう。実際には、縮合の過程は、作者のハイネによって意図的になされたわけだが。

アキレス腱

 縮合の技法には、"familionär"の例のように、合成語形成を伴うものの他に、「変更を伴うもの」という少し機制の異なるものもある。
 そして、こちらの例として挙げられている機知の中には、語呂合わせではないために、翻訳してもかろうじておもしろさが分かるものもある。

対話の中でN氏は、ほめるべき点も少なくはないが、文句をつける余地の方が多いある人物に関して、「そう、うぬぼれは彼の四つあるアキレス腱の一つですな」と述べた。(8-24)

 ここで「N氏」とされているのは、本文では伏せられているが、法学教授で最高裁判所長官を務めたヨーゼフ・ウィンガー(1828-1913)であると推測されている。(解題)

 原文の"vier Achillesfersen"が、「四つあるアキレス腱」と少しもってまわった表現になっているので、機知の面白みは減じてしまうが、なんとか保たれている。つまり、アキレス腱が四つということで「四足=獣」ということを表している。

おーっ!何ぃー?

 縮合につづく機知の技法は、「同一素材の使用」というジャンルである。ひとつのフレーズが二重の意味をもつ。

若い患者に自慰をしたことがあるかと尋ねると、答えは決まって、「えっ、まあ、ぜんぜん(O na, nie)」。(8-32)

 これは当時の医者の間でみられた機知だそうである。"O na, nie"というフレーズが、3つの語に分解された状態の「えっ、まあ、ぜんぜん」という意味と、合成された"Onanie"と、二重の意味を作り出している。原語では、最初の自慰が"Masturbation"と、違う語になっているだけに、おもしろさも一層際立ったであろう。

 この機知は、単なる語呂合わせでは終わっていない。患者の否定の言葉が、「実はオナニーをしていますよ」という真実を暴き出しているという暗示があり、そこがおもしろいのであろう。

宿命的な裏切り

 同一素材の多重的使用の別の例。一つの言葉の音を少しだけ変えて、別の言葉として使用するという機知の技法である。

Traduttore - Traditore !  〔翻訳者―裏切り者!〕(8-34)

 このラテン語の機知は、翻訳者とは原著者を冒涜する者であるということを主張している。本書の翻訳者である中岡成文氏は、解題の冒頭でこの言葉をとりあげ、翻訳での苦労を振り返り、苦々しい気持ちでこの機知を想い起こしたことを告白している。

 たしかに本書は、翻訳をするのが難しい種類の文章であろう。最初の英訳を記したブリルは、読みやすさを優先して意訳をしたり、地名を入れ替えたりしたそうだ。
 日本語版全集では、カッコ付けや注釈で原語を示したりすることで正確さを期しているが、機知として原文が持っていたであろう面白みというものは、損なわれてしまっている。
 結局のところ、どちらの翻訳スタイルも裏切りであり、フロイトがこの機知を採用したことの裏には、そのあたりのことまで読んでの意図が込められていたのかもしれない。

不自由な翻訳

 二重の意味を持つフレーズのうち、ふだんはあまり意識しない字義通りの意味の方が意味をもってくる機知の例。ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク(1742-1799)今回はドイツ語と日本語訳と両方引用してみる。

"Wie geht's?" fragte der Blinde den Lahmen, "Wie Sie sehen", antworte der Lahme dem Blinden. (GW6-34)

「行けてるかい〔調子はどうだい〕?」と目の見えない人が足の不自由な人に訊いた。「見てのとおりさ」と足の不自由な人は目の見えない人に答えた。(8-366)

 こうして並べると、前の記事の「翻訳者=裏切り者」という事態が際立ってしまう。訳としては問題ないし、「行けてるかい」はかろうじて、「見てのとおりさ」は、そのままの形でなんとか二重の意味を表現できているのだが。
 ただ、「目の見えない人」、「足の不自由な人」がなあ‥‥。

 これらの機知を見ながら、日本語でも同じような冗談はないものかと、考えたり思い出そうとしたりしてみたが、どうも思いつかない。「目をみはる」、「耳にたこができる」、「鼻が高い」、「あいた口がふさがらない」、「首を長くする」など、比喩的な表現はたくさんあるのだが。それを使った冗談というのは思いつかない。
 ひとつには、これらの比喩的表現それ自体が、機知とまでいわないまでもちょっとしたユーモラスさを含んでいるので、それで冗談の材料になりにくいのかな。あるいは、字義的な意味の方が、まだそれ程後退していないからなのかな。

妻の具合

 言葉の言い回しの持つ二重の意味を利用した機知の例。

病床にある妻のもとを離れて、医師はついて来た夫に首を振ってこう告げた。「奥さんの様子は気に入りませんな(Die Frau gefällt mir nicht)」。夫はあわてて同意して、「様子が気に入らないというなら、私はずっと前からですよ(Mir gefällt sie schon lange nicht)」と言った。(8-39)

 ドイツ語の言い回しからすると、医師の言葉は「奥さんの具合はよくないようですな」という意味になる。これを字義通りにとると、「奥さんは、私の気に入りませんな」という意味になる。夫の方はその言葉を受けて、「私には(Mir)」という言葉を前に持ってきて強調し、「ずっと前から(shon lange)」を付け加えて応じることで、医師の言葉を字義通りの方の意味にとった、というわけである。

 この機知の出典は記されていないのだが、ユダヤのジョークには、この手の夫婦の不仲をネタにしたものが多い。こうやって笑い話にすることで、現実の夫婦関係の緊張を少しでも耐えやすいものにしようという工夫なのか。

教授の実態

 次にあげるのは、「誰知らぬ者のない、教授をねたにした機知」だそうである。出典が記されていないが、それほどよく知られたものだったのだろう。
 たしかに、独語原文では省略をうまく用いてコンパクトにまとまっているが、日本語訳にすると機知としてはやはり台無しになってしまうのはいたしかたない。

Der Unterschied zwischen ordentlichen und außerordentlichen Professoren besteht darin, daß die ordentlichen nichts außerordentliches und die außerordentlichen nichts ordentliches leisten. (GW6-39)
正教授と員外教授の違いは、正教授には並外れた業績はなく、員外教授には並みの業績もないという点にある。(8-42)

 ここでは、"ordentlich"という語の持つ、「正規の」という意味と、否定的なニュアンスを含んだ「並みの」という二重の意味が機知に利用されている。"ordentlich"が"außerordentlichen "でなく、"außerordentlichen "が"ordentlich"でない、という具合にうまく対応しており、結果としてできあがった文も、ひとつの真実をついている。

 ここで機知の題材にされているのが教授であるということも興味深い。日本でもそうだが、教授という身分は尊敬されながらも、なにか「世間知らず」といったような面が人々の笑いの種にもなりがちなところがある。嫉妬ということもあるかもしれないが。

機知の技法の分類

 機知の技法は、フロイトによって一覧表になして分類されている(8-44)。ここでは、本文で例としてあげられた機知を示し、記事で紹介したものにはリンクを張っておく。

Ⅰ 縮合
  a 合成語形成を伴う (例:familionär)
  b 変更を伴う (例:四つのアキレス腱)
Ⅱ 同一素材の使用
  c 全体と部分 (例:O na, nie)
  d 順序変え (例:etwas züruckgelegt haben)
  e わずかな変更 (例:Traduttore - Traditore !)
  f 同一語が十全な意味と形だけの意味で (例:"Wie geht's?","Wie Sie sehen",)
Ⅲ 二重意味
  g 名前と事物的意味 (例:Mehr Hof als Freiung)
  h 比喩的意味と事物的意味 (例:Spiegel)
  i 本来の二重意味(語呂合わせ) (例:ordentlichen und außerordentlichen Professoren)
  j 両義性 (例:Unschuld)
  k ほのめかしを含む二重意味 (例:C'est le premier vol de l'aigle.)

 このように示すと、実にきれいな分類のようだが、実際にはそれそれの例がどうしてその分類になるのか疑問に思えるところもある。あくまでも、これはひとつの暫定的な分類であって、ここから機知の本質は何かという問題を考察していくためのものである。

追記(H20.4.6)
 上にあげたのは、言語に依存した機知(語機知)の技法であるが、他に思想機知の技法というものもある。思想機知の技法は、論理的誤謬、一体化、間接的提示とまとめられる。

節約、節約だよ、ホレイショー!

 前の記事であげた機知の技法の分類。それは一つの作業仮説であって、そこから機知の本質を引き出すための暫定的なものであった。
 で、その本質とはなにかというと、節約、ということだ。言葉の数を節約し、同じ言葉の繰り返しの場合には、新しい語を用いることを節約する。

 ところで、この節約をするために、機知を作る側は、実は大変な思考の労力を費やしているのだ。うまい機知となるために、あの語がいいかこの語がいいかと、あれこれ思考をめぐらせて作られるものなのだ、機知は。

そういった節約は、主婦がよくやる節約の仕方、つまり野菜を数ヘラー〔昔のドイツの小額貨幣〕安く手に入れられる遠くの市場を探し求め、そこに行くために時間とお金を費やすというやり方を想い出させる。(8-49)

 フロイトの、この機知に富んだ比喩はなかなかおもしろい。当時も今も、あんまり変わってないんだね。などと言うと、「主婦への偏見だ」といった声もあがりそうだが。

 それで想い出したのだが、現代において叫ばれている、地球温暖化防止のための二酸化炭素排出削減などということも、下手をするとこの比喩のような節約にならないか、充分に考慮する必要があるなと。

 ちなみに、この記事の題は、フロイトが引用している『ハムレット』の中のハムレットのセリフである。続く言葉は、「葬式のパイが冷たくなって婚礼の食卓を飾ったってわけさ」とあり、確かに機知の本質に通じているかもしれない。

少年ギャグ

 機知の技法を一通り紹介し、そこから「節約」という本質らしきものを取り出した後も、さらに事例の収集は続く。
 次なるは、駄洒落(独Kalauer,仏Calembourgs)と呼ばれるグループである。これらは、単に音が似ている二つの語というだけで、機知の中では「「最も安直」で、いちばん労少なくして生まれる(8-50)」のだという。

 最近は日本でも「親父ギャグ」などと、再びはやってきている兆しがある。この場合、安直な駄洒落を言っては周囲の失笑を買うちょっと困ったオジサンという、マイナスのイメージがつきまとっているようだが。
 若い人たちとなんとかしてコミュニケーションをとりたい、オジサン達の涙ぐましい努力とも言えるか。

 以前別の記事にも書いたけど、小学生低学年くらいの特に男の子は、好んで駄洒落を連発するという時期がある。言葉の語彙を増やしていく時期には、ぜんぜん意味の違う言葉が似たような音を持つということだけでも、新鮮でおもしろいものなんだろう。
 語彙をおおむね獲得した年齢になると、駄洒落だけではさほどおもしろいと感じなくなってしまいがち。言葉の意味の方に染まりきってしまったためだろうか。

ユダヤのマヨラー

 いよいよここで、新しいジャンルの機知が登場する。それは、語自体のもつ音の類似とか、二重の意味とは無縁の機知である。したがって、翻訳によって面白さがそこなわれることはない。むしろ、その時代の風俗や常識的考え方といった背景には影響されるかもしれない。
 これは、ユダヤ人の機知である。そして、本書でたくさん紹介される機知の中でも、特に念入りに考察がなされている重要な事例である。

ある貧者が、さんざん窮状を訴えて、金持ちの知り合いから二十五フローリン借りた。金を貸した人物は、その同じ日、男がレストランでマヨネーズを添えた鮭料理を食べているのに出会って、難詰した。「何と、あなたは私から金を借りておいて、鮭のマヨネーズ添えを注文している。私が貸した金をそんなことのために使ったんですか。」責められた男は答えて言った。「おっしゃることがわかりませんな。金がなかったら鮭のマヨネーズ添えは食べることができないし、金があるときは食べてはならない。じゃあ、いったいいつ鮭のマヨネーズ添えを食べろと言うんですか。」(8-56)

 この機知の技法は、心的力点のずらし〔遷移〕と呼ばれる。金持ちの問いかけに対して、貧者は一見もっともそうだが本質をずらした答えをしており、それが面白いというわけだ。

 この機知は、著作集で読んだときから、大変印象に残っていた。ひとつには、フロイトが繰かえし念入りに考察をしていることもあるのだが。私としては、機知の面白さの本質からは少しずれたところの、「鮭のマヨネーズ添え」というところが妙に気になった。機知の中で何回も繰り返されているというのもあるし。

 西欧料理のご馳走ということなら、ビフテキとかフォアグラとかでもよさそうだが(こんな発想しかできないのは貧困?)、なぜ「鮭のマヨネーズ添え」なのか。マヨネーズって今では庶民的な調味料だけど、当時はハイカラなものだったのかな、とか。
 ともかく、マヨネーズを口のまわりにつけて鮭を頬張っている貧者を想像すると、なんだかもうそれだけでおかしい。なぜなんでしょうかね。

屁理屈の中にも真実

 前の記事で紹介した「鮭のマヨネーズ添え」の機知は、腹を抱えて笑うような面白さではないが、なかなか味わい深いものを持っている。噛めば噛むほど味わいが出るというか。このあたりが、ユダヤ人がジョークにこめた知恵といったものなのであろうか。

 前提となっている貧者の言う理屈は、それ自体は間違っていない。「鮭のマヨネーズ添えを食べる」ということを当然の前提としている所が、一般的な常識からはずれているのである。
 しかし、「貧乏人にだってたまにはご馳走を食べる権利がある」という主張を堂々としてるところが、実にあっぱれな姿勢である。

 それに、よく考えてみると貧者は借りた金を返さないと言っているわけではないのだ。この時点で金持ちが怒るのは、気持ちはわかるが、筋違いな話である。ご馳走で腹ごしらえをして、さあ働くぞ、というところなのかもしれない。借りた金を上手に使って、期限どおりに返済することができれば問題ないのだ。逆に、本当に極端な窮状で借りた金も諸々の必要なことに費やされてしまうような状況であれば、借金を返すことなどとてもできなくなるかもしれない。

酒好きの弁明

 「鮭のマヨネーズ添え」の機知と同じジャンルの、つまり遷移という技法を使った機知として、以下のものが紹介されている。今度は、鮭好きでなく酒好きの話だ。

酒に身を持ち崩している男が、ある小さな街で個人教授をして暮らしていた。ところが、彼の悪癖がしだいに知れ渡り、そのためにたいていの生徒はやめてしまった。男が立ち直るように一言いってやってくれと、ある友人が依頼された。「いいですか、あなたはお酒をやめたら、この街いちばんの個人教授ができる人なんですよ。だから、そうなさい」。――男は立腹して答えた。「何てこと言うんですか。私が個人教授をするのは酒代をかせぐためです。個人教授ができるように酒をやめろですって!」(8-58)

 これもまた、面白くて考えさせられる機知である。単なる機知でなく、実際にこういうやり取りはありそうだし、この個人教授は多くの酒好きの思いを代弁してくれているとも言えるのではないか。

 これが機知として成立するひとつの要因は、個人教授という一般的には高尚とみなされている職業と、酒好きということの対照であろう。そんな仕事をしている人が、酒に身を持ち崩してはならないという判断があるのだろう。実際には、そうでもないのだろうが。

たかり屋 Der Schnorrer

 遷移の技法を用いた機知の三番目。趣旨としても「鮭のマヨネーズ添え」の機知と似ている。

人にたかることの得意な男が、オストエンデに旅行する費用を出してもらいたいと、金持ちの男爵に頼んだ。健康回復のため医師たちに海水浴を勧められたというのである。「よろしい、いくらかご用立てしましょう」と金持ちは言った。「しかしながら、よりによってオストエンデに、海水浴場でもいちばん金のかかるところに行く必要はあるんですかな」。――とがめるような答えが返ってきた。「男爵、私は健康のためにはどんな金がかかることだってやりますよ」。(8-63)

 出典は明記されていないが、おそらくこれもユダヤの機知であろう。面白い話であるが、このような笑い話は日本ではできそうにないとも思う。
 こうやって金持ちにたかる人がいたり、金持ちの方もそれにある程度応じたりしていたというのは、当時の社会ではめずらしいことではなかったのかもしれない。そういった状況があってはじめて、その誇張としてのジョークが輝きをますというものだ。
 この機知を聴いて大笑いする人の頭には、おそらく似たようなことを言いそうな具体的な人物のことが連想されているのに違いない。

有意義な忠告

 次なる機知は、これまでのジャンルとはまた別の、「無意味のなかの意味」という技法を用いた機知である。

イツィヒは砲兵隊に入隊した。彼は明らかに賢い若者ではあったが、反抗的で服務意識に欠けていた。好意をもってくれる上官がわきへ連れ出し、こう言った。「イツィヒ、お前はここに向いてないよ。一つ忠告してやろう。大砲を買って、独立しろ」。(8-64)

 「大砲を買って、独立しろ」というところが、軍隊という前提のことを考えると無意味である。無意味な発言が、しかし意味のある忠告になる。しかも、それは「君のやり方では、軍隊ではだめだ」という正面からの忠告よりも、はるかに多くのことを語り、効果的な忠告になっている。
 人間というものは、自分のやっていることの愚かさにはなかなか気づかないものである。イツィヒは、自分のやり方で文句があるかという態度であったのだろう。それは確かに、独立して自営でやるのであれば文句のないやり方であったのだろう。しかし、ここは軍隊なのであって、自営業ではないのだよ、というのが上官のメッセージである。

誰がために毛皮はある?

 もうひとつ、不条理の機知。これも「無意味の中の意味」だとすると、「意味」は何なのだろうか。

リヒテンブルクが不思議がって言うには、「猫の毛皮には、ちょうど目がある位置に二つの穴が開いている」。(8-68)

 一見もっともらしい理屈に、「ふむ、たしかにうまいこと出来ているよな、あの穴がなかったら目が見えないところだった」などと納得しそうになる。しかし、これは当たり前のことをわざわざ不思議なことのように見せているだけなのだ。
 ポイントは、「猫の毛皮」というところにある。この言葉によって、あたかも裸の猫が毛皮をまとうことで猫という動物が完成するかのような錯覚に、一瞬陥ってしまうのである。そう考えれば、「確かにうまくできてる!」となろうが、何のことはない猫が先で、そこから剥いだ「猫の毛皮」なのである。

 一瞬「猫の毛皮」を先と考えるところに、人間中心の視点がある。そのことを、この機知は皮肉っているのであろう。

完全無欠じゃないと?

 ユダヤ人の機知でお決まりのテーマになっているものの一つに、取り持ち屋(Schadchen)という結婚仲介人についてのものがある。フロイトもこのテーマの小噺を幾つも紹介している。機知の技法でいうと、「詭弁的な論理的誤謬」と「自動的な論理的誤謬」という種類のものが多い。
 どれか一つここで紹介とも思ったのだが、大概のジョークが花嫁候補の身体的特徴を話題にしていて、現代的な視点からは不適切な表現も含んでいるとも感じられるのでやめておく。

 ただ、このような機知が多く生まれた背景というものを想像するとおもしろい。直接実情は知らないのだが、やはり取り持ち屋をめぐる笑い話のような、しかし当人たちは実に真剣なエピソードというものが多々あるのだろうなと。
 客の方は、紹介された候補者に対してなんだかんだと高望みな注文をつけるだろうし、取り持ち屋の方は詭弁を弄してでもうまく話をまとめてしまおうと、それぞれの思惑にそった取引が展開するのだろう。

経験とは

 以下の機知は、著作集で読んだ時から強く印象に残っていた。K・フィッシャーからの引用で、格言といってもよい程の含蓄をもつ。

"Die Erfahrung besteht darin, daß man erfährt, was man nicht zu erfahren wünscht". (GW6-70)
「経験とは、経験したくなかったことを経験することである」。(8-76)

 機知の技法としては、表象の相互定義であり、一体化(Unifizierung)としてまとめられたものに属する。ドイツ語の"Erfahrung"が「経験」とかなりうまく対応しているために、日本語訳がうまくはまっている。「経験」ということを、「経験する」という語によって定義しているわけだが、その際に動詞形はより一般的な意味をもち、名詞形は「価値ある経験」という狭い意味になっている。

 「経験は大事」とか「若い頃の苦労は買ってでもしろ」などと、人は言う。しかし、自分からすすんで経験するようなことは、得てしてたいした経験にはならない。「こんな経験はしたくなかった、二度と御免だ」と思うような、そんな経験こそが、われわれの血となり肉となるのである。

できますとも!

 「反対物による呈示」という技法を使った機知。K・フィッシャーの著作からの引用。

ヴェルテンベルクのカール大公は馬で遠乗りをしていて、仕事中の染物屋に行き合った。「わしの葦毛の馬を青く染められるかな」と大公が大声で問いかけると、返ってきた答えは、「できますとも、殿下、煮えたぎる染料につけても馬が平気ならね」。(8-80)

 通常なら「できません」と答えるべきところを、「できます」と答えておいて、しかしそれに条件をつけるというやり方である。
 この小噺で思い出すのは、一休さんについての有名な逸話。殿様に「屏風絵の虎を縛ってみよ」との難題を出された一休が、綱を持って構え、「さあ殿様、虎を追い出してください」とやる、あれである。

 難題を出す権力者に対する巧妙な返答、というところが共通している。私には、いちばん難しいところを殿様に委ねてしまった一休さんの方が、さらに上手だなあと感心する。「人にそんな難題を出すからには、当然そのくらいのことは出来ますよね」と、見事に権力者をやりこめている。

年に一度の‥‥

 ユダヤのジョークでよくテーマになることのひとつに、風呂嫌いということがあるらしい。

二人のユダヤ人が入浴について話していた。一人が言った。「おれは毎年一回は風呂に入るのさ、必要があろうがなかろうが」。(8-84)

さて、公衆浴場の前にいる二人のユダヤ人にまた登場願おう!
一人がため息をついて言った。「早くもまた一年が過ぎたか!」(8-92)

 実際にユダヤ人が風呂嫌いかどうかは知らないが、清潔好きとされる日本人に比べるとヨーロッパの人は意外にもあまり風呂には入らないという話は聞く。
 このへんの感覚はよくわからないが、気候とかも関係しているのだろう。日本のような高温多湿な風土では、やはり何日か風呂に入らなければ自分が気持ち悪くなる。私自身も、特に清潔好きな方ではないし、面倒くさがりの方だが、カラスの行水でも一応毎日入っている。乾燥した土地に住んだら、風呂嫌いになるクチかもしれないな。

真理の炬火

 リヒテンベルクの著作集から引用された、機智的な比喩。

"Es ist fast unmöglich, die Fackel der Wahrheit durch ein Gedränge zu tragen, ohne jemandem den Bart zu sengen."(GW6-89)
「真理の炬火を揚げ、誰のひげも焦がすことなく雑踏を通っていくことは、無理な相談だ」。(8-97)

 「真理の炬火」というのは、従来からある比喩である。それは、暗闇を照らし出すものである。しかし、ここではその比喩を逆手にとって、真理の別の側面を語っているところがおもしろい。
 それは、多くの人々の間にあっては、人を傷つけもし、実のところはた迷惑な代物ともなりえるのである。

 本書の引用箇所では、フロイトはもっぱら機知の技法的側面について分析をしており、内容については何も語っていない。しかし、そうすることで、却ってこれらの機知のメッセージがひきったっているところもある。もしかしたら、フロイトの頭の中では、精神分析を「真理の炬火」になぞらえているところがあるのかも知れない。

東と南は?

 リヒテンベルクの機智的な比喩をもうひとつ。

「ひとが何かをする運動根拠は、三十二の風向きのように分類し、名前も同じように付けることができる。たとえば、〔北・北・西などに合わせて〕パン・パン・名誉とか、名誉・名誉・パンのように」。(8-101)

 おもしろい機知である。ところで、東西南北四つの基本的な方角に喩えられるものの二つがパンと名誉であるすると、残る二つは何であろうか。
 一つはおそらく性愛ということだろうが、もう一つがわからない。権力かな、しかしこれだと名誉に近いし。虚栄、おしゃれ、趣味、どれも他とかぶってしまう。あるいは、苦痛からの逃避といった消極的動機をいれてみるか。v  リヒテンベルクの原典には、そのあたりの言及があるのかどうか。

機知と夢

 「Ⅱ節 機知の技法」では、豊富な実例を挙げながら機知の技法が分類されていく。しかし、読んでいると、そこには分類すること自体よりも、なにかもっと大きな目的があるかのように感じられてしまう。あえて言えば、それらの分類自体はあまり整然としているとも言えず、ところどころこじつけ的に思えたりもするのであった。
 その、大きな目的というものが、節の最後になってようやく明らかになる。なる程、そういうことだったのかと。それは、機知と夢との類似性である。

 "familionar"の機知で分析された「代替形成を伴う縮合」という技法は、夢形成との類似性を示唆していた。さらに、思想機知における、遷移、論理的誤謬、不条理、間接的提示、反対物による提示といった技法は、潜在夢思想から顕在夢内容が作られる際の変化にそっくりだという。

 機知工作(Witzarbeit)夢工作(Traumarbeit)の媒体(手段)にみられる大幅な一致ということこそ、フロイトが示そうとしていることのようだ。

Ⅲ節 機知の諸傾向

 フロイトが多くの機知を引用したゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク(1742-1799)は、ドイツの数学者、科学者、著述家だそうである。本書で引用されている機知を見るだけでも、とても深い思想を持った人であったことがうかがえる。

 その彼の機知を、もう一つ引用。

「彼は幽霊を信じなかっただけではなく、それを恐れさえしなかった」。(8-108)

 この機知についてのフロイトの説明は、いまひとつわかりにくいのだが、機知そのもののおもしろさと思想内容は充分伝わってくる。
 論理的に言えば、幽霊を信じない人は幽霊を恐れるはずはないから、このようなことを言う必要はないのである。しかし、実際には「幽霊を信じない」と言っている人の多くが、内心は幽霊の存在を恐れているのだ。だからこそ、幽霊を信じないだけでなく、それを恐れない人というのが、特筆すべきことになるわけだ。

二つの傾向

 第Ⅲ節では、機知をその技法とはまた別の観点、すなわち「傾向」という観点から分類し、考察する。
 傾向的な機知とは、それが一部の人々には快をもたらすが、別の人々には不快をもたらすような機知である。例としてあげられている機知では、カトリックの神父とプロテスタントの牧師をやり方の違う商売人に喩えている。これは、キリスト教の信者には不愉快な機知であろう。
 一方、聞く人を選ばない機知は、抽象的な、あるいは無害な機知と呼ばれる。

 傾向的な機知は、無害な機知よりも、より大きな快をもたらす可能性がありそうである。そして、傾向的な機知には、たった二種類の傾向しかない。それは、敵対的な機知(攻撃、皮肉、防衛に用いられる)と、わいせつな機知(露出に役立つ)である。

 いよいよ、核心に近づいてきたかな。

下の話

 二種類の傾向的機知のうち、わいせつな機知の方が先に考察の対象となる。そして、それを考察するにあたって、いわば補助線となるのが「猥談(Zote)」である。

猥談の内容となる性的なものは、両性によって異なっている点を含むだけではなく、それ以上に両性に共通して羞恥の対象となる点、つまり排泄物の全領域を含んでいる。(8-115)

 日本語で「下ネタ」と言ったときにも、狭義の性的な内容の他に、糞便についての下品な内容も含んでいる。特に子供は「おしっこ」とか「うんち」の方の下ネタが好きだ。まさに、それこそが猥談の原点なのかも知れないね。

猥談の三人称

 機知の前段階が猥談であり、猥談は性的な誘いかけである。私(男)が、あなた(女)を誘い、言葉によって興奮させようとするのである。誘いが成功してしまえば、それは単なる誘いにすぎない。しかし、それが拒絶されると(注)、言葉による誘いは自己目的化し、それ自体が快をもたらすものへと向かう。これが猥談である。

 そこで、もう一人の人物、彼(男)が登場する。猥談の向かう方向は、あなたから彼へと逸らされ、彼に快をもたらす(笑わせる)ことが目的となる。言葉によって、あなたを興奮させ、彼に対して露出させ、はずかしめ、それによって彼に満足させることが目的となる。

 猥談を高尚にした機知も、これと同じ構造をもっている。機知は、笑いのネタにしようとしている対象(あなた)についての何かを、笑わせようとしている人(彼)に対して暴露しようとする試みなのである。

 機知とは節約であるという話があった。その節約をするために機知の作者はとても苦労をするのである。なぜそこまでして他人を笑わせようとするのか。その答えが、上の比喩的な説明に含まれている。

注:「拒絶」は強すぎる表現だったかもしれない。フロイトの表現は「女性の手ごわさ」であり、「その場ですぐには応じられないものの」という含みを持たせている。そのことが、一層「私」をその気にさせるのであろう。

賛同される方は哄笑を!

 傾向的な機知において、作者の意図は、対象への禁じられた欲動を迂回路から満足させることである。聞き手は、その意図に巻き込まれ、労なくして快を得る(笑わされる)ことで、機知作者の共謀者となるのである。

 攻撃的な機知の場合には、例えば権力者が攻撃の対象となり、ほのめかしによる批判が聞き手を笑わせる。作者は、その笑いを聞いて、自分の攻撃が達成された満足を得るのである。

 権威に対抗する機知に似たものに、カリカチュアがある。現代の新聞に掲載される政治的な風刺漫画も、これと似たようなものであろう。

われわれはカリカチュアを聞いて、その出来が悪いときでさえ笑うが、それは権威への抵抗をカリカチュアの功績に数えているからに他ならない。(8-124)

 聞き手は、何を笑っているのか、実はつきつめて考えてはいない。カリカチュアの技法が見事なので笑っているのか。案外そうではなくて、作者の攻撃的な意図に、喝采を送るために笑っているのである。

結婚の真実

というのも、結ばれた婚姻の神聖さは、婚姻締結時の経緯を云々すれば手ひどく打撃を受けることを、民衆の精神は知っているからである。(8-126)

 機知が攻撃し、その真実を暴き立てる対象は、権力者であったり、制度であったりする。それらによって、人々は窮屈な思いをしているが、面と向かっては異を唱えることはできない。機知が、その憂さを晴らしてくれるのである。

 そのような制度のひとつに、結婚がある。先にも紹介した、ユダヤ機知でお決まりの題材になっているもののひとつに取り持ち屋の話があった。それらの機知が秘かに攻撃しているのは、実は結婚制度そのものであったのだ。
 結婚において、新郎と新婦が、そして両家の両親が、それぞれに抱く貪欲な思いの数々。そういった本音と、婚姻とは神聖なものなりとしている建前のギャップのばかばかしさ。そういったものこそ、取り持ち屋の機知が暴きたてようとしていることなのだ。

この日を?め

 攻撃的な傾向機知は、権力者や制度を攻撃する。フロイトお気に入りの「鮭のマヨネーズ添え」の機知で槍玉にあげられているのは、禁欲の道徳である。人生は不確かであり、明日のこともわからない。禁欲はやめて、今日を楽しもうということである。"carpe diem"(この日を?め)というホラティウス(B.C.65-B.C.8)というローマ詩人の句が引用されている。

これらの機知がささやいていることを大きな声で言うと、要求が多く容赦のない道徳だけではなく、人間の欲望や慾にも語る権利があるということである。それに今日では、この道徳なるものは、少数の富者・権力者が下す利己的な指令に過ぎず、この者たちはいつでも遅滞なく自分の欲望を充足することができるということが、心を捉える強い調子の文章で述べられている。(8-131)

 ユダヤ人の機知に同様の趣旨のものが多いのは、やはり彼らが禁欲的な生活を送っているからであろうか。そして、禁欲の要求の向こうには、富者や権力者の姿がある。他民族から虐げられ続けたユダヤの歴史から滲み出る、彼らの思いがこめられているのかも知れない。

嘘の嘘は真?

 傾向的な機知の種類を、フロイトは最終的に4つに分けている。露出的もしくはわいせつな機知攻撃的(敵対的)な機知シニカルな(批判的な、涜神的な)機知、そして懐疑的な機知である。

 懐疑的な機知の例としては、ひとつだけ以下のものがあげられている。

あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(8-137)

 これは私には単なる笑い話に思えた。いつも嘘ばかりついている人物が本当のことを言えば、それは嘘のような効果を与えるというわけだ。
 フロイトの解釈では、この機知は「本当のことを語っているつもりでも聞き手の受けとめ方次第では嘘になりえる」という主張をなしており、全体として真実に関するわれわれの認識に疑問を呈しているというのだ。そこまで汲み取ることが一般的かどうかはわからない。ただ、こういった機知には、聞き手を笑わせた上で「まてよ」と考えさせるものがあるのも確かだ。

B部 総合部
Ⅳ節 快機制と機知の心因

 いよいよ後半の総合部に入り、これまで多くの例を分類した成果を統合し、そこから機知の本質にせまっていくことになる。
 傾向的な機知において生み出される快の大半は、ある傾向の充足である。それは、わいせつな、あるいは攻撃的な意図であり、ある障害のために通常の方法では充足されえない。
 目上の者を批判することが社会的に容認されないといった外的な障害、あるいは、おおっぴらに他者を非難することへの羞恥心といった内的な障害が、その充足を阻んでいる。機知こそが、それらを乗り越え、快をもたらしてくれるのである。

 ここで、再び節約ということが出てくる。語機知の特徴のひとつは、言葉の節約であった。今回問題になっているのは、心的消費の節約である。
 さまざまな外的および内的障害によって、われわれに欲求は自由には充足できない。それを制止したり抑え込んだりするために、常に心的消費を要する。機知は、その心的消費を節約してくれるのである。

響きと意味

 心的消費の節約ということは、傾向的な機知だけでなく、無害な機知においても快を生み出す要因となる。例えば、語呂合わせの機知である。

このような機知に属するあるグループ(言葉遊び)の場合、どこに技法があるかというと、われわれの心的焦点を語の意味ではなく語の響き(音)に対して向けさせ、事物表象への関連によって語表象に与えられる意味の代わりに(聴覚的な)語表象そのものを立てるところにある。(8-143)

 われわれ、特に大人は、言葉を聞けば即座にその意味を連想してしまうので、その語がどのような音で構成されているか、ということには通常あまり注意を払わなくなっているのである。言葉遊びの技法は、本来意味に向けられるべきわれわれの注意を、語の響きの方に移すというところにある。
 つまり、われわれの頭の中では、言語を使う限り常に、語表象(Wortvorstellung)から事物表象(Dingsvorstellung)への翻訳がなされているのである。この仕事に伴う心的消費が、言葉遊びの機知では節約されるというわけだ。

教養の強要

 前の記事でも述べたように、大人では言葉の響きから意味への連想は、ほとんど瞬時になされている。しかし、子供では事情が異なる。彼らはまだ、言葉の響きの方に大きな注意を向けているのだ。だから、駄洒落のような言葉遊びを喜ぶ。無意味な言葉をもて遊ぶ。

私が思うに、こういった遊びを始めたとき子供がどんな動機に従っていたにせよ、それがもっと発展した段階では、遊びは無意味(ナンセンス)だという意識をもちつつそれに没頭するのであり、理性の禁じるものが与えるこうした刺激に満足を見いだしているのだ。こうなると遊びは、批判的理性の圧力を逃れるために利用されている。しかしながら、正しく思考し、現実において真偽をより分けるための教育で幅を利かせることになる諸制限は、はるかに強力なものである。したがって、思考と現実の強迫に対する反抗は根が深く、息長く続く。(8-150)

 子供は教育によって、語の意味に注意を向け、論理的に組み立て、現実に適応することを、強要されていやいや身につけていく。無意味さによる遊びは、教育に対する反抗なのである。思考と現実の強迫と、それに対する遊びによる反抗というせめぎ合いは、大人になるまで持ち越される。  理性によって常に強いられる思考のための心的消費が、ナンセンスから快を生み出すための基礎条件を作る。機知によって論理的な思考がはずされた時、そこからは大きな解放の喜びがおこるのである。

酒のこうよう

 人は大人になると、子供の時のように自由にナンセンスの喜びを得ることができなくなってしまう。しかし、これを一時的に容易にしてくれるのが、アルコールである。

アルコールの影響で成人は子供に返る。子供は、論理的強迫に従わずに好きなように想念を展開し、そこから快を得るのだ。(8-152)

 フロイトのタバコ好きは有名だが、アルコールの方はどうだったのだろう。このような記述からは、酒のもたらす気分高揚のことはよくわかっていたようだが。
 本文では、さらに「ビール演説(Bierschwefel)」や「酒場新聞(Kneipzeitung)」といった言葉も登場する。酒場でなされる、ナンセンスな演説や覚え書きのことのようだ。

笑いの三段変化

 機知の前段階のものとして、二つがあげられている。最初のものは、遊戯(Spiel)。これは、子供のするナンセンスな言葉遊びである。そこでは、類似のものの反復、既知のものの再発見、音合わせなどが、子供に快をもたらしてくれる。
 子供の遊戯は、大きくなるにしたがって、その無意味さゆえに批判され、断念させられることになる。そこで、その発展型としての冗談(Scherz)が登場する。冗談(語呂合わせ)は、一応意味を持っている。しかし、その意味は文脈にそったり、ある種の主張をしている必要はなくて、単に無意味ではないということで許される。つまり、断念されたナンセンスの快が、形ばかりの意味によって批判をかわしながら、再登場したというわけだ。

 冗談がさらに発展して、ひとつの意味深い主張を持つようになれば機知(Witz)になる。ところで、この節ではなぜか「機知」という語に「ジョーク」というふりがながふってある。「ジョーク」と読めということなのか。元の語は"Witz"で変わらないのであるが、翻訳の担当者がこれまでの中岡成文氏から大寿堂真氏になっているのと関係があるのか。解説には、"Witz"の訳語として「ジョーク」も検討されたとのことだから、その名残なのかもしれないが、節ごとに変わるのも妙だ。

思想を語れ

 単なる冗談と機知の違いは何か。ここは結構微妙なところで、判断する人によって冗談と判定したり機知と判定したりされるような、境界的な例もあるだろう。

 その違いとは、ずばり「機知は思想をもつ」ということである。前節で、機知の傾向を論じ、それを「傾向的な機知」と「無害な機知」に分類したわけだが、実は完全に傾向のないのは冗談だけであるという。無害であっても、機知には思想がある。傾向的な機知の思想の方が、毒を含んでいて特定の人には大きな快をもたらしてくれるのだが。

機知は、拡張によって思想を支援し、批判から守ろうとする第二の意図に従っているのである。(8-158)

 機知を笑う者は、その技法によるおかしさを笑っているのか、その思想を賞賛するために笑っているのか、曖昧なところがある。笑う人が、自分の快がどこからきているか意識していない。そこがポイントである。

 一歩一歩本質に近づいてきている感じだ。私としては、ここで本文の進行に先走るかたちでいろいろ考えてしまう。機知の重要な目的が、思想を語ることだとすれば、機知の作者が苦労して他人の喜びのために奉仕する理由がわかる。それは、思想を広めるためであり、その思想に同意させるためである。
 日本ではそうでもないが、アメリカでは政治家の演説にジョークは欠かすことができず、そのできばえが人気を左右する大きな要因になるほどであると聞く。そのことは、機知の本質にかかわることなのかもしれない。

解き放て!

すなわち、傾向的機知は諸傾向に寄与するものであり、予快としての機知の快を介して抑え込みと抑圧を解除することで、新たな快を生み出そうとする、と。(8-164)

 結局のところ、機知とはその技巧的面白さという快を呼び水(予快Vorlust)として、さらに大きな快を解き放とうとする試みである。その大きな快は、外的障害や内的制止、なかでも抑圧によって実現をはばまれている、いわば「禁じられた快」なのである。

 われわれの生活には、さまざまな事情から実現できない快というものが、あっちにもこっちにもころがっている。しかし、そういう窮屈さを、ときどき機知が吹き飛ばしてくれる。それは、禁じられた快が、笑いに乗じて解き放たれる喜びなのであろう。

第Ⅴ節 機知の動機

 機知の動機(Motiv)を問う、というのはいかにもフロイトらしい問題の立て方である。なぜ、人は機知を作るのか。以前の記事でも指摘したが、一見すると機知を笑い、その恩恵にあずかるのは聞き手なのである。作る方は苦労して考えるけれど、自分ではおかしくもない。もちろん、聞き手が笑うのを見る満足感というのはあるだろうが。それにしても、なぜそこまで苦労して機知をひねり出し、人を笑わせようとするのか。

 ここで注目すべきは、誰もが機知を作るわけではないということ。好んで機知を作る人物がいる。それは、どのような性質をもった人なのか。
 まず考察の対象となったのは、本書における最初の事例「百万家族の一員のように(famillionär)」の機知を作ったハイネである。ハイネはヒルシュ=ヒアツィントという滑稽な人物にこの機知を語らせているのだが、フロイトの分析によれば、このヒアツィントはハイネ自身の分身なのだという。ハイネは実際に、金持ちの親戚からまともに相手にされず随分とつらい思いをしたことがあったのだそうだ。そのような、悔しくてつらい体験が、彼にこの機知を作らせる動機になったというのである。

機知の骨折り損

 フロイトのシェイクスピア好きは有名で、全集の中でもどれだけの引用がなされていることか。今回は、機知についての句を『恋の骨折り損』第五幕、第二場からの引用。

A jest's prosperity lies in the ear
of him that hears it, never in the tongue
of him that makes it...

冗談が受けるのは、聞く人の
耳のせいであって、決して言う人の
舌のせいではありません‥‥‥ (8-172)

 機知や冗談が完結するのは、聞き手がそれを笑った時である。話者はそれを固唾を呑んで見守り、笑いを聞いてようやくほっとする。
 聞き手が笑うかどうかは、ひとつには機知そのものの出来のよさにかかっているのだが、それだけではない。特に傾向的な機知の場合には、その思想内容に聞き手が賛同してくれることが必須である。例えば、ある人物をこき下ろす冗談を、彼の熱烈な支持者の前で言ったとしたら、笑いどころか猛然たる反発を受けるだけだ。

笑顔の原理

 フロイトの著作では、著者による注釈の中に重要な所見がさらりと述べられていることが結構よくある。機知の動機を考察するにあたっても、「そもそも笑いとは何か」という重大問題について脚注の中で触れている。そこでは、笑いが特徴的な顔面筋の収縮と結びついていることに注目して、興味深い考察が述べられている。
 笑いには、可笑しい笑い(哄笑)とうれしい笑い(微笑)がある。より根本的なのは、つまり両方の笑いの元となったのは、二者のうち「微笑」の方であろうとフロイトは推測している。

微笑に特徴的な口元をしかめる動きが最初に見られるのは、私の考えでは、満ち足り、飽き足りて寝入り、乳房を放すときの赤ん坊である。この場合、顔をしかめるのはいかなる栄養もこれ以上は受つけまいという決心に対応しており、「充分」というより「十二分」の状態を示しているのであるから、本来の表情の動きと言える。微笑――それは笑いの根本となる現象であり続ける――にはこのようにもともと快に満ちた飽食の意味があって、後にそこから快に満ちた放散過程との関係が出てきたのではないだろうか。(8-175)

 笑いの根本は、おなかいっぱいという飽食であり、その際の口元は「もういらない」という拒否の形をしている。おもしろい仮説だ。たしかに、「にっ」と笑った口元はそんな風に見える。
 微笑みが表現する「満足」ということは、心理的には「うれしさ」とか「安心」といったことと結びつくのであろう。しかし、そういった充足状態は常に得られるわけではない。むしろ、われわれの生活は欠乏と緊張とに満ちている。それらが一瞬解消されて、急速に緊張が緩む時、「おかしさ」というもう一つの笑いが生まれるのであろう。

気の緩み?

 笑いの本質について、デュガの『笑いの心理学』(1902)やH・スペンサーの論文「笑いの生理学」からの引用文がある。どちらもフランス語であるが、フロイトの原文ではそのまま訳もつけずに引用されている。これまでも、本書では英語、フランス語、ラテン語については、そのまま引用されている。そのくらいは、読めて当然ということなのか。日本語版の全集では、ちゃんと邦訳されているのでありがたい。

 ところで、英語の引用であるA・ベインの「《笑いは拘束からの安心》」(8-174)という言葉については、全集を含めすべての版で間違えて引用されているそうだ。

フロイトの引用: "Laughter a relief from restraint"

ベインの原文: "Laughter a release from constraint"

 興味深い間違いだ。短い句なので、原文を確認せずにフロイトの記憶から引用されたのであろう。2つもの単語が違っていて、全体としては似たような意味ではあるが、やはり微妙に異なる。"release"と"relief"とでは音は似ているが意味の違いが大きく、"constraint"と"restraint"では音の違いの方が大きいというのも、なんだかおもしろい。
 おそらく、フロイトの考えにより近い形に変形されたものと思われる。ベインの原文では、せき止められていたものが解き放たれるというイメージ、フロイトによる修正版は、緊張がふっと緩んでほっとしたような感じになる。

節約の結果

 笑いの本質は、フロイト流に表現すると次のようになる。

われわれは、笑いは次のような場合に成立すると言うであろう。すなわち、以前はある心的通路の備給に使われていた心的エネルギーの量が使えなくなり、その量が自由に放散できることになった場合である。(8-174)

 すぐ後で、このような表現は「悪しき外見」を抱え込むのだと自分で書いている。すでに『夢解釈』でも使われたモデルであり、後に「経済論的」な観点として、局所論的観点と力動論的観点と共にメタサイコロジーの三本柱となる考え方である。

 大前提として、心的エネルギーというものが仮定される。これは物理的エネルギーの比喩であるが、脳内のニューロンにおける電位といったこととはとりあえず切り離して仮定されている。エネルギーだから量が重要で、質は問わない。ある仕事に使われていたエネルギーは、そのまま別の仕事に使うことができる。

 例えば、各家庭に配給されている電気エネルギーは、明かりをつけたり、温度を調節したり、調理をしたり、テレビやパソコンを動かしたりと、違った種類の仕事に使うことができる。明かりにまわすエネルギーを節約して、その分を調理にまわすといったことが可能になる。そんなようなものだ。

 「備給(Besetzung)」とは、その心的エネルギーをある心的過程なり心的通路なりに振り分けることである。引用文の「ある心的通路の備給に使われていた心的エネルギー」とは、例えば「こんな悪いことは考えちゃいけない」と我慢するのに要するエネルギーである。
 笑いの瞬間には、このような我慢のエネルギーごときものが、突然不要となってしまう。そこで自由になったエネルギーは、哄笑という別の行為を通じて放散されることになる。

ただ笑え

 機知を作る人が笑えないのは、備給から解放された心的エネルギーが機知を作るために使われるからである。そして、聞き手の側も、どんな場合にも笑えるわけではない。笑える条件の一つとして、解放された心的エネルギーが別の思考過程にまわされたりしないということがある。これが実は意外にむずかしいことのようだ。

不必要になった備給の心理内的な使用を避けるということは、少しも容易ではないように思える。というのも、われわれの思考過程では、放散によってエネルギーを少しも失うことなくこのような備給を一つの通路から他の通路へと遷移させることを、つねに修練しているのだから。(8-180)

 われわれの心というのは、どうも律儀にできているようだ。あるエネルギーが節約できれば、それを別の思考過程などで有効利用しようとする。そういうことをさせないように、機知は巧みに技巧を用い、簡潔な表現によって不意打ちをする。こうした工夫によってはじめて、解消されたエネルギーは、笑いという無駄な運動によって、まさにばかばかしく消費されることになるのだ。

ほんとは笑わせて欲しい

 自分で作った機知では笑えない。にもかかわらず、人はなぜ苦労して機知を作り、それを他人に語りたがるのか。
 フロイトの答えは、単純でありながら含蓄が深い。すなわち、「自分の機知を他人に伝えずにはいられないそのわけはまさに、自分ではその機知で笑うことができないから(8-185)」だというのだ。

 つまり、機知を作りたがる人は、本当は自分こそがそういった類の笑いを求めているのである。だから、自分の作りそうな機知を他人が聞かせてくれたなら、それが最高に幸せなことであろう。だけど、多くの場合それはかなわない。それで、仕方なしに自分で苦労して作り、それで他人を笑わせることで多少ともその相伴に与ろうとするのである。

 ジョークというものは、奇抜さが売りであって平凡なものはつまらない。すぐれて個性的なコメディアンというものは、これまでに聞いたこともないような笑い話を聞かせてくれるが、それは作り手自身が本当に聞きたいものをひねり出した結果なのだろう。

 同じようなことは、他の芸術作品にも言えそうだ。作家は自分が一番読みたいものを創作するし、作曲家は自分が一番聴きたい曲を作ろうとするし、画家は自分が一番見たい絵を描こうとする。

 さらに、同様のことは人間関係においても言えるかもしれない。自分が寂しくて慰めてもらいたい人は、人を慰めようとする、といった具合に。

C部 理論部
Ⅵ節 機知と夢、および無意識との関係

 いよいよ理論部に入り、機知の本質を夢の場合と比較しつつ論じていく。すでにこれまでのところでも、夢工作(Traumarbeit)と機知工作(Witzarbeit)という対照的な語によって、その類似性を指摘していた。本章では、さらにその道筋を本格的にたどっていくことになる。前提となるのは、もちろん『夢解釈』(1900)で展開された夢工作についての理論である。

一九〇〇年に公刊した拙著『夢解釈』は、同僚の専門家たちを「納得させた」というよりはむしろ、「意表を突いた〔唖然とさせた〕」という印象を私は受けている。(8-188)

 周知のとおり、『夢解釈』はフロイトの最大の著作であり、実質的な処女作であり、著者自身がもっとも愛した著作であろう。しかし、それについての世間からの評判はかならずしも芳しくなく、「意表を突いた」どころか、当初はほとんど無視されていたといってよい状況だったようだ。そのためか、フロイトはますますこの本の重要性について多くの著作の中で弁護しているように見える。

ようやく夢理論

 本書では機知の本質を夢と比較検討するために、『夢解釈』で展開されたフロイトの夢理論が要約されて示されている。それを、さらに要約してみた。

●夢を見た人が想い出す内容のことを「顕在的夢内容(manifesten Trauminhalt)」という。
●顕在的夢内容は大抵不可解なものであるが、それはある思考の改定であると理解できる。この思考を「潜在的夢思考(latente Traumgedanken)」と呼ぶ。
●潜在的夢思考は、夢工作(Traumarbeit)によって顕在的夢内容になる。
●日中の間に処理し切れなかった思想、日中残渣(Tagesrest)は、以前からの抑圧された欲望によって補強され、欲望成就(Wunscherfüllung)としての夢が作られる。
●夢工作は、無意識的な過程である。
●呈示可能性への転換、縮合、遷移は、夢工作に帰すことのできる三大機能である。
呈示可能性への転換(Umwandlung zur Darstellungsfähigkeit)とは、欲望が、成就した状態の知覚像として表現されることである。この過程は、夢工作の退行(Regression)によって可能となる。
縮合(Verdichtung)とは、多くの素材が顕在夢内容においては一つの要素に凝縮して表現されることである。
遷移(Verschiebung)とは、中心的な内容が辺縁的な要素と表現されるなどの力点の移動のことである。

機知は突然に

 夢工作と機知工作の共通性ということを分析していくと、以下の結論にいたる。

前意識的な思考が一時、無意識的な加工に委ねられ、その成果がただちに意識的な知覚によって捉えられるのである。(8-196)

 夢が、無意識のうちに加工され、突然われわれの意識に立ち現れてくるように、機知というものも突然われわれの頭にひらめくのである。突然ひらめくといっても、何もないところに生じるわけはないのであって、なんらかの思考の結果生まれてくるに違いない。しかし、その過程というものがわれわれの意識にはのぼらないわけだから、それは無意識的な加工に委ねられた結果なのだと想定されるのである。

閃き

 われわれの思考は、とりわけ何か創造的なものを生み出そうとしている時の思考は、そのすべての過程が意識されているということはめったにない。むしろそのもっとも重要なところは、無意識的な加工に委ねられ、そこから突然意識の中に閃いて来る。機知を思いつく時というのが、その典型なわけであるが。これは、一体どういうわけなのだろうか。

 無意識的なものとは、幼児的なもののことである。われわれの意識的な思考は、論理といった堅苦しい制約に縛られざるを得ない。無意識的で幼児的な思考過程というものは、そういったものから自由なのであり、それ故にそれ自体が大きな快を生み出す可能性を秘めている。論理的思考ではあり得ないような、縮合や遷移という加工がなされた産物が、意識に浮かび上がる時、それは可笑しさという喜びと共に知覚されるのである。

縮合、縮合でーす!

 無意識的な加工の中でも重要なものが、縮合である。意識的な思考においては区別されていた幾つかの概念が、一つのものにまとめられることである。縮合ということは、われわれにとってはなはだ奇異なものに見える。しかし、むしろ常識的思考があまりに多くのものを区別しているというのが真実なのかもしれない。

 例えば、個人の膨大な体験の記憶は、どのようにして脳の中に記録されているのか考えてみる。記憶そのものは無意識的な過程である。それは、諸概念の連想という形で、しかも概念自体も連想によって記録されているものと想定される。
 体験の記憶をホームビデオに喩えよう。通常新しい映像を撮る時には新しいビデオテープを用意するわけだが、脳の中には新しいテープに相当するものなどありそうにない。新しい記録は、古い記録に重ね撮りされていくのであろう。連想の法則にしたがって縮合されながら。それでも再生する時に別々に取り出すことができるのは、意識的な思考が時間という区別によって体験を再構成する術を心得ているからであろう。

 いろいろな事柄を区別して考えるのは、しんどいこと。あれもこれも一緒くたにしてしまう方が楽しいし、そういう方向を求めるのが心の根源的な傾向なのかもしれない。

可笑しな洞察

 本書は、精神分析そのものとは直接関係のない題材を論じているので、臨床的な話題にはところどころで触れられるだけである。が、そのところどころでは、結構重要なことを述べているようにも見える。
 無意識的なものが暴露される時、われわれはそれを「滑稽である」と感じがちである。そのようなこととの関連で、本文に以下のような脚注がつけられている。

私の精神分析の治療を受けている神経症患者の多くは、彼らの意識的知覚に対して隠された無意識をうまくありのままに示せたとき、決まって笑いによってそのことを表明する。暴露されたことの内容からして笑うのがまったくお門違いであるときでも、笑うのである。それにはもちろん、医師がこの無意識を察知し、患者に対して示したとき、彼らがそれを理解できるほどに無意識に近づいている、ということが条件となる。(8-201)

 私自身は分析の経験がないのでわからないが、なんとなくそんなものかと納得できるものがある。その笑いとは、どんなものなのだろう。やはり、抑圧から解放された快なのでしょうか。

違うような似ているような

 夢と機知の比較をして類似点をあげてきたが、しかし相違点もある。根本的な違いは、両者の社会的な(社交的な)役割である。
 機知は社交的であり、夢は非社交的である。夢が個人の内面的なものであることは、それが睡眠中におこることからも当然のことである。しかも、夢は見ている本人にもその意味が判然としないというのだから、超個人的なものだ。

 覚醒時の生活は、他者との交流に必要な現実的制約に縛られている。つまり、意識的な思考ということ自体がそもそも社交的にならざるを得ないのである。そのような思考活動に矛盾するような欲望は、昼間の生活においては満たすことが出来ず、抑圧されざるを得ない。それは、夜間に、本人にとっても意味不明に歪曲されて、はじめて夢という表現を得るのである。

 一方、機知の方は昼間の生活に順応している点で社交的であるが、実は社会においては本来受け入れがたいものを上手に表現する手段なのである。つまりそれは、個人と他者の葛藤をうまく回避しつつ、個人の欲望を充足させる方法なのである。

夢は主として不快の節約に貢献し、機知は快の獲得に寄与する。しかるに、われわれの心の活動はすべて、この二つの目標において重なり合うのである。(8-212)

 結局のところ、快をめざすという人間の根源的な傾向のために、夢も機知も有力な手段を提供してくれる点が似ているということなのであろう。

Ⅶ節 機知および諸種の滑稽なもの

 最後の節では、これまで考察してきた機知に似た、諸種の滑稽なものについて論じている。まずは、「無邪気なもの(das Naive)」について。

 この語の元になった形容詞の"naiv"は、「素朴な、自然な、無邪気な、うぶな、単純な、幼稚な、おめでたい」といった意味である。「ナイーブ」というのは日本語にもなっているが、「神経質で繊細な」というニュアンスがある。

 無邪気なものと、機知や冗談との違いは、それが意図して作られたものではなく、対象の無知によって偶然生じた可笑しさであるという点である。「天然ボケ」というのがあるが、あれが近い。

 無邪気なものの例としては、子供の言動というものがやはりあげられている。子供が無知ゆえに大真面目にしてしまう間違いというものは、大人から見るとおもしろい。もっとも、そうした間違いのすべてが可笑しさをもたらすわけではないのだから、そこには何か法則性があるのであろうか。

無邪気の原理

 日本語の「無邪気」という語もおもしろい。「邪気」とは悪い気、悪意のことだから、それがないのが無邪気。「悪気がない」というのは、それを見る人が判定する。でも、本当に悪意がないかどうかは、ちょっと怪しい。

 例えば小さな子供が、相手に面と向かって失礼なことを言っても、悪気ではないと笑って許される。しかしこれは、悪気がないというよりも、その言葉を悪いとは思っていないということだ。相手にそれを言いたいという気持ちは、大人も子供も変わらない。ただ大人になると、いろいろなことを「悪いこと」として抑え込むようになる。それを平気で言ってしまうのが子供なのだ。
 だから無邪気というよりも「無節制」なのだが、「悪いと知らずにやったことなら悪くない」というのは、もしかすると日本的な考え方なのかも知れない。

知らぬが仏?

 子供の無邪気な発言が滑稽をかもしだす例が、3つあげられている。第一例は男女差に関連した勘違いによるもの、第二第三の事例は共に性に関する無知に基づく滑稽になっている。すなわち、どれも性にまつわる話なのである。さすがフロイト。

 子供の無邪気で滑稽な言動がすべて性にまつわるものというわけではないだろうが、それが多いのもたしかだ。なにしろ、性については大人が子供にはっきりした口調で説明しないですましがちなのだから、子供が間違えるのも当然と言える。

 しかし、本当に子供がそれについて無知なのかといえば、少々怪しい感じもする。第二例は大変おもしろい事例なのだが、この点についてはかなり怪しい。子供の方も薄々は気づいていて、それでいて大人が妙な反応をするものだから余計にその手の話をしたがるということもあるかもしれない。

節約の方法

 機知と無邪気の共通点は、それが制止を解除し節約となることで快をもたらすということだ。しかし、制止の解除がいかにしてなされるか、というところが異なっている。
 機知の場合は、作り手によって巧みにしくまれることで制止がはずされ、節約がなされる。しかし、無邪気の場合には作り手には何の作為もなく、むしろ無知であることが聞き手に節約をもたらすのである。

 二種類の説明がなされる。ひとつは、相手の身になるということ。子供の無邪気な間違いであれば、その子供の気持ちになってみる。そうすれば、「ああ大人のように七面倒なことを考えなくてもいいんだ!」と気持ちが楽になる。
 別の説明であれば、相手の間違いに対して「なに」と身構えておいて、そしてそれが無知による間違いだとわかると、憤慨のためのエネルギーが節約されるというわけだ。

他者理解への消費削減

要するに、無邪気なものが滑稽なものの一種であるのは、他者を理解しようとする際に生じる心的消費の差分から快が生じているかぎりのことなのであろう。(8-222)

 われわれは、他者を見るとき常にその心を読もうとしている。つまり彼の立場に身をおいて考えてみている。そうやって、複雑な人間関係を考慮し対処していくのであって、そのために相当の心的エネルギーを消費しているわけだ。

 無邪気な子供を見ていて笑えるのは、相手が大人であれば想定せねばならないような心的制止や論理的思考への配慮が不要になるからである。相手の立場になって考える際の心的消費が節約された分だけ、笑いによって放出されるのである。

そんな大げさな

 無邪気の次は、滑稽な動作の考察である。過剰に見える運動は、滑稽な動作とうつるという。いくつかの例があげられている。

この種の滑稽のきわめて純粋な事例としては、たとえばボーリングの球を投げた人が、まるで投げたあとでもまだ軌道修正できるとでもいわんばかりに、その進路を見守っているあいだの一連の動作がある。また、舞踏病(Chorea St. Viti)患者におけるように不随意に生じてしまう場合を含め、通常の感情表現を逸脱するような渋面はすべて滑稽である。さらに、今日のある指揮者の情熱的な指揮ぶりは、その動作の必然性を理解することができない音楽とは無縁の門外漢には、滑稽なものに映ることだろう。(8-225)

 フロイトも、転がりゆくボウリングの球を見つめて身体をひねりながら「右ーっ」とか叫んだのでしょうか。その姿、見たかったなあ。
 当時の指揮者で、情熱的な指揮をした人ってどなたでしょうね。そしてフロイトはその音楽を理解していた方なのだろうか。この例は、同じ動作が見る人によって滑稽に見えたり見えなかったりする理由を明らかにしている。観察者がその動作を「無駄なもの」と思うか「必要なもの」と捉えるかによって違いが生じるのだ。

模倣が原点

 過剰と見える動作が滑稽とうつるのはどうしてか。「他者に看取される動作と自分自身がその人の立場になったら行ったであろう動作とを比較することによって、笑いが生じる(8-226)」のだという。

 このような仮説の前提として、次のような考え方がある。すなわち、他人の動作を知覚するということは、その動作を頭の中で真似していることなのだ。身体を動かしてはいないが、頭の中で模倣している。いや、かつては身体も動かして真似ていたのである。

ある一定の大きさをもつ動作の表象を私が獲得したのは、自分でこの動作を実際に行ったりそれを真似したりすることによってである。(8-227)

 動作を認識することの原点は真似ることである、というのは『失語論』以来の考え方である。そこでは、言語を聞いて理解することの原点は言語を模倣することにある、という仮説が展開されていた。

おーきなくりの

 人は、大小とか高低といった量的なことを伝えたい時に、よく身振りを交えるものである。「大きい」と言いながら手を大きく広げたり、「高い」と言いながら手を高くさしのべたり。

ところで、こうした擬態への欲求は、伝達への要請によってはじめて惹起されているとみなされるべきだろうか。(8-229)

 ここでも常識的な考えに疑問が呈される。普通に考えると、擬態はよりよく物事を伝えるためになされる。しかし、フロイトは擬態の方が伝達よりも根源的な行為であるという仮説を立ててみた。

つまり、表象されたものの内容に合致しようとする身体の神経支配こそが、伝達目的の擬態の発端であり起源だった、と。(8-229)

 擬態は物事を理解するための行為であって、それが後になってから伝達のために利用されるようになったというのだ。たしかにそうかもしれない。

んなわきゃない!

 パントマイムのように過剰な動作は、それを頭の中で模倣して理解する際に過大な心的消費を強いられる。そのことをシュミレーションしながら、「まてよしかし目的を達するためにはもっと少ない動作でこと足りるはずだ」と気づいた瞬間、その心的消費に費やされていた過剰な部分が解放され、笑いとなるのである。「そんなわけないだろ!」「そりゃ余分だよ!」という笑いなのだ。

 動作の滑稽と比較して、精神的な働きの滑稽が検討される。例えば、「不勉強な受験生が試験でしでかしてしまうようなナンセンスな滑稽(8-231)」といったものである。
 この場合は、過剰な動作における滑稽と逆で、滑稽な対象は精神的な働きを省いているのである。本来の目的のためには、もっと多くの心的消費が必要なはずなのだ。

 いずれの場合でも、二通りの心的消費の差から滑稽の快が生じるということになる。

いま論じた滑稽の快の起源、すなわち他者と自我との比較――感情移入の消費と自己の消費とのあいだの差分――から快が生じる場合が、発生論的にみておそらく最も重要なものだろう。(8-232)


ずっこけ

 「状況の滑稽」と呼ばれる例としては、「ある人が神経を遣う仕事をしている最中に、苦痛や排泄欲求のために突然妨害される場合(8-233)」といったものがある。

 また、期待が失望に終わった場合の滑稽というものもあって、例えば受け止めたボールが予想よりもはるかに軽くかったりとか、重そうな荷物を持ち上げたら軽いハリボテでずっこけたという場合である。

 両方のケースとも、可笑しいのはもちろん見ている人だけで、当事者はそれどころではない。当事者においては、空振りに終わったエネルギーはバランスを崩して転倒するときのエネルギーなど、笑いとは別のところで消費されてしまう。それを見ている者だけが、感情移入により心的消費の節約分を笑いにまわすことができるのである。

 ここであげられている滑稽の諸例は、昔のチャップリンの映画とか、主に動きで笑わせる作品の中にふんだんに盛り込まれている種類のものだろう。

物真似の秘密

 滑稽なものの可笑しさを研究する有力な方法として、作られた滑稽というものについて考察するということがある。

 滑稽なものを作り出す技法にもいくつかある。ひとつは、自分が不器用なふりや愚かなふりを演じてみせること。次には、いたずらを仕掛けて、ある人物を滑稽な状況においこむこと。

 そして、よく用いられるやり方に、物真似ということがある。身をもって演じるのでもいいし、似顔絵のようなものでもよいが、ともかく模倣というものはお笑いの一大ジャンルになっている。
 有名人であっても、身近な人物でも、その真似をするということは手っ取り早く他人を笑わせる方法である。

 ここでの笑いの原理は、偉大なものを引きずり下ろすということである。対象を尊敬しようとするような心的消費が、そこでがくっと節約され笑いとなって解放されるわけだ。
 物真似や似顔絵に対象になりがちなのは、偉い人である。そして、そのような行為は、対象となった人物に対してはやはり失礼なことでもある。

 物真似は、似ていれば似ている程おもしろい。その人だけが持っていると思われた独特の表情や喋り方が、別の人物によってそっくりに再現される時、そこに込められていた威厳や個性は崩れ去ってしまう。

カリカチュアとパロディ

 模倣による滑稽に含まれるものとして、カリカチュアがある。こちらは、そっくりに似せるというよりむしろ特徴的な部分を誇張して呈示することで一層の可笑しさを作り出す。

 もうひとつ、パロディがある。こちらは、オリジナルとは別のものという体裁をもちながら、模倣をとりいれることで滑稽を作り出す。オリジナルが真面目に追求しているところを、茶化しながら取り入れることで笑いを誘うのである。

 カリカチュアもパロディも、崇高なものを貶めるという点が共通しており、それこそが笑いを生み出す原理となっているのである。

 フロイト自体も、これまで随分と多くのカリカチュアやパロディの対象となってきたことであろう。例えば、ホームページの方でも紹介した以下の本など。

フロイトの料理読本 J・ヒルマン C・ボーア 著
木村定 池村義明 訳
フロイトが晩年に英語で書いた料理レシピという体裁をとっているが、もちろん著者らによって創作されたパロディ。注意しないといけないのは、翻訳者の解説から帯広告まであたかもフロイトの著作であるかのように書かれていること。おもしろいが、フロイトの生涯や精神分析についてある程度の知識がないとわからない。逆にこのようなパロディが成立するということは、欧米での精神分析に関する知識の普及をあらわしているのか。

その、正体は‥‥

 滑稽のジャンルのひとつに、「正体の暴露(Entlarvung)」と呼ばれるものがある。このような呼び方からは、「一体どんな正体なのだろう、宇宙人か?悪魔か?」と期待が高まってしまう。しかしなんのことはない、正体は単なる人間なのだ。
v  ここでは偉大な人物もやはり人間なのだということを知らしめる滑稽をいっているのである。例えば偉人の精神的に崇高な所作も、肉体的欲求によって影響を受けざるをえないといったことの暴露である。

つまり、半神のごとく崇拝されるこの人やあの人だって、実は私や君と同じ一介の人間にすぎないのだという戒めなのである。(8-240)

 当たり前であるはずのことが当たり前でなくなっているということがポイントである。そのような常識を打ち破るところに、滑稽の快が生じるのでだ。

笑えない話

 滑稽と機知の境界事例としてあげられている小噺。

さるハンガリーの村で鍛冶屋が死刑に相当するほどの罪を犯した。しかし、そこの村長は、罪滅ぼしとして、その鍛冶屋の代わりに、ある仕立屋を絞首刑にするという決定を下した。そのわけは、村には二人の仕立屋が暮らしているが、鍛冶屋は彼以外の代わりがいなかったからであり、しかも、犯した罪は償われなければならなかったからである。(8-245)

 フロイトはこの話が余程お気に入りらしく、『精神分析入門講義』と『自我とエス』でも引用している。
 かなりブラックでちょっと笑う気になれなかった。しかしその点にこそ、フロイトがこれを単なる滑稽でなく、思想を含む機知とみなした所以があるのかもしれない。
 たとえ人違いであろうと、「犯した罪は償われなければならない」としてしまうところに、刑罰の孕む恐ろしさがある。現実の冤罪事件の本質ともつながってくるような、リアリティーを感じる。

 そしてまた、これは人間の思考法のある側面を皮肉っぽくあばき出しているようだ。まずは結論ありき。そして、理由はご都合でこじつけられる。

笑うな!

恐らくこういうことは妥当だろう。すなわち、さまざまな状況下で子供は純粋な快から笑うが、そうした状況を大人は「滑稽」だと感じるものの、その動機を挙げることができないのに対して、子供の動機は明確に提示できるということである。たとえば誰かが路上で足を滑らせ転んだとすると、その印象が――なぜだかよくわからないが――滑稽であるがゆえに、われわれは笑ってしまう。これと同様の状況で子供は、優越感や他人の不幸を悦ぶ性根(Schadenfreude)から笑う。「君は転んだけど、ぼくは転んでないよ」というわけである。われわれ大人は、子どもの快のある種の動機を失ってしまったようである。それとひきかえに、われわれは、同じ条件のもとで、失われたものの代替として「滑稽」を味わうのである。(8-269)

 笑いというものは、本来攻撃的なものなのかも知れない。そこには、優越性の誇示、もっと言えば軽蔑に満ちた攻撃性tといったものが潜んでいる。

 他人の不幸を笑ったりすれば、「そんな時に笑ってはいけませんよ」と注意される。大人は、そういうことを自制するようになっている。
 しかし、そうやって笑いを制限していけば堅苦しくなるだけだから、あからさまにならないよう適当に誤魔化しているだけだ。
 この点で、子供は正直だ。軽蔑して笑う方も正直だし、笑われた方も憤然と抗議する。

 大人に笑われて、「笑うな!」と抗議する少年。「楽しいから笑っただけなのよ」と、大人が誤魔化そうとしても、子供には本当の意味がわかっているのだ。

総括

 この本の終盤は、かなり難解でわかりにくかった。ひとつの要因は、フロイトが単なる滑稽と機知の違いといったことを厳密に区別して論じようとしていることだろう。ところが、原語のWitz、Komik、Humorといった概念が邦訳の語と一対一対応していないという事情がある。笑いそのものは万国共通で人間に普遍的なもののようだが、具体的に何を笑うかとかそのジャンルということとなると、背景とする言語や文化によって異なるということなのだろう。

 フモールというのも、かつては「ユーモア」という訳語が与えられていた語であるが、日本語のユーモアとは一致しないということから本全集ではそのままカタカナ書きで表されることになった。ドイツ語のHumorのニュアンスがわからないので詳しい評価はしかねるが、本著作を読む限りでは「ユーモア」に置き換えてもあまり違和感はないように思えた。
 つまり、ユーモアとは本来苦痛な感情として表現されるようなものを笑いに置き換えてしまうという、かなり意図的な防衛的営みのようだ。苦痛を笑いに置き換えるなんて、そんなことできるのか。できればいいなあ。
 例えば、ジェームス・ボンドやインディー・ジョーンズが、絶体絶命の窮地に追い込まれて、それでもニヤリとジョークをつぶやきながら見事に切り抜けてしまうといった場面。それは、渾身の力をふりしぼって真剣な表情でなしとげるのよりも、かっこよく見える。v  しかし、これはフィクションであって、現実世界ではなかなかそうはいかないものだ。

 本著作の最後には、フロイトにはめずらしく全体を要約する段落がつけられている。

フモールの快の機制を滑稽の快や機知に対する定式と類比的な定式へと還元したいま、われわれの課題は決着した。機知の快は制止の消費の節約から、滑稽の快は表象(備給)の消費の節約から、フモールの快は感情の消費の節約から生じてくるように思われた。われわれの心の装置の三通りの作業様式のいずれにあっても、快は節約に基づいている。この三者は、心の発達を通じて本来ならひとまず失われてしまう快を、まさしくその活動から取り戻すための方法を示しているという点で合致している。なぜなら、これらの道のりを経て到達するべくわれわれが目指している高揚感とは、心的作業を概してわずかな消費で賄っていた人生のある時期の気分、すなわち滑稽なものを知らず、機知の能力もなく、フモールを必要としなくても、生きていて幸福だと感じることのできた、われわれの子供時代の気分にほかならないからである。(8-245)

 こんなにきれいにまとまるものでもないとは思うが、最後の一文にはぐっときた。
 連想したのは、S・スピルバーグが製作した「A.I.」という映画。S・キューブリックの企画とかで前評判の割には‥‥だったようだが、私はビデオで観て感動した。捨てられた人工知能の少年が、最後に幸せだった頃の家族とのごく普通の一日を体験するというシーン。スピルバーグは、このシーンを撮りたくてこの映画を製作したのではないか、と思った。
 幼い日への憧憬は、後から美しく飾り立てられた部分もあるだろう。実際には子供は子供で、大変な思いをしながら生きているに違いない。それでも、フロイトの言葉やスピルバーグが描いたシーンには、強く心を動かされる私であった。
2008.10.16